(四) 地下 -Ⅱ-
(四) 地下 -Ⅱ-
立ち込める臭気、覆い尽くす闇、逃げ場を失い何度も跳ね返る足音。延々と伸びる地下通路は、分岐することなくただ一直線に続いていた。足元を等間隔で照らす橙色の誘導灯が、俺と残月の影を不気味に作り出している。残月のそれは線が細く、躯の繊細な動きを忠実に模倣している。光を受けた残月を蔑むかのように。主君を虚仮にする家臣のように。躯にはソフィアが宿るが、光により生み出された影には宿らない。しかし、まるで鏡像の如く正確にそれは蠢く。ソフィアを与えられることなく生み出された単なる『物質』に過ぎないのに、それは躍動し、地を、壁を、天井を這う。光というモノが現れることで、必然として生まれる闇。それが影。光が点れば、そこには影が生まれる。巨大な存在であればあるほど、影は延び、深くなる。しかし闇から光が生まれることはない。闇に溺れれば、光を与えられるまで二度と抜け出すことはできない。この不可逆を打ち破るのに、俺らはどれだけの犠牲を伴うのだろうか。どれだけの闇を越えればたどり着けるのだろうか。一度光を奪われ、絶望の闇に苦しんだ時代を越え、人々は再び光を取り戻した。願わくは、それが万人に降り注ぐ陽光でありますようにと。しかし、やはり影は生まれてしまった。平和の意味を歪ませ、地下世界には偏光が満ちた。俺らは、正さなくてはいけない。人が人たる存在で、平和の中を過ごせるように。
◇
電力供給範囲が限界なのか、それとも既に供給を絶たれているのか、進むにつれて誘導灯の明かりが微かになってゆく。この通路は、一体何が目的なのだろう。居住区跡というには聊か不気味すぎではないか。地上を追われ満身創痍の人々が、心身を預けられるような場所とは思えない。バベルを中心に居住区は八方位に築かれている。ここは真南区。文字通り真南に位置する居住区である。記憶の限りでは、この状況は他の居住区には見受けられない異常なものであることは間違いない。
「この通路、何処へ繋がってるんだ?」
「レジスタンス本部です。お招きするのは初めてですね」
「そうだな」
「おそらく、レジスタンスが本格的に活動してから部外者が訪れるのはこれが初めてです。情報漏洩を防ぐのが目的ですが、まあ、あなたなら心配は無用でしょう」
「そりゃどうも」
レジスタンス本部…。地下都市の暗部、そして真の姿の根源。人が人らしく暮らすには、人ならざる人から逃げ隠れて身を寄せ合うしかない。八つに分散した居住区に彼らは集約され、バベルの監視の目から隠れ忍んでいる。力の無い女子供や老人、その他の甲斐性なしは残存している居住区で息を潜めているが、理想を掲げバベルと戦う意志を示す者達は、『反乱者』として活動している。
「…真南区のレジスタンス本部は、バベルに取り残され隠れて暮らす人々の郷里です」
お互い表情が読み取れないほどの暗闇のなか残月の呟いた言葉には、普段備わっている警戒心や、緊張感はなかった。静かな笑みを浮かべているかのようにさえ思えた。
本当に『感情』がなければ、そんな表情は表れない。考えてみれば、こいつもソフィアを奪われることに抗った一人なのだ。ソフィアが通っていなければ、それは人ではない。指示、命令、合理的判断による簡潔な目的…、それらに左右されて生きるヒトは、人ではない。不器用なりに、レジスタンスを想いやっているのだろう。淡白で無味乾燥な付き合いだが、随所に表れる他人の人らしさが、自分の心の慰めになっていた。
「食糧監査で低ランクに指定された物資が廃棄される場所にそれはあります」
「…となると、食糧についての心配はなさそうだな」
「ええ。しかし、来るべき人口増加を考えれば問題は深刻です」
食糧監査で低ランクに指定された食料品は、バベルのひざ元には送られず、地中の廃棄物となる。その量は見れたものじゃない。おそらく残月の言うように、居住区一つを賄える程度の量が、毎日『ゴミ』として捨てられているのだ。限りある食糧を廃棄するという、食糧飽和の感覚による産物。技術があるのなら、それらを再利用することも可能であろう。疫病や栄養失調等を過度に恐れて生み出された、潔癖なる食料品の選別が幾十年も続いている。合理に適う手段が、全て正しい道を行くとは限らない。
「ここに限らず、他の居住区も移住時代に建設された住居跡をそのまま利用していますが、真南区のいくつかの地域は既に崩壊しています。技術者の生き残りを集めて、何とか現在は住居区としての体裁を保っています」
「…いくつかの地域? 本部はそんなに巨大な規模なのか」
「はい。機能している住居区は五区画あります。各区画に区画長を一人ずつ据えて、住人の管理と統制を行っています。私のいる総本部がそれらを統括しています」
「統括…。それじゃあの塔とやってる事と大差ないじゃないか」
そう言うと、残月は目の色を変え睨みつけてきた。…もっとも、暗闇の中で黒光りする瞳がそう思わせただけだが。
「あんな悪魔の巣窟と同等にしないで下さい。然るべき人心の疎通が図られた上での理想的な協力体制です。蹂躙政策や圧力は存在しません。あるとしたら私が赦しません」
「分かった分かった! そう怒るな、からかっただけだ」
「…人の心は繊細で複雑です。それを承知の上で、住人達と接してください」
「ああ…」
残月に気圧され、言葉を濁す。本部の人々は想像以上にその結束が固いようだ。もしそこに、本当に弾圧や差別、偏見が存在しないのだとしたら、かつてない理想郷だろう。平和を謳った者に抗った者達が、新たな平穏の一端を掴んだのだ。
「そこは、平和か…?」
「どういう意味です?」
「そのままの意味だ」
唐突に漠然とした質問を投げかける。柄ではないとは思うが、聞かずにはいられなかった。
「…そうですね。少なくとも他区よりは」
残月が肩を落とすのが暗闇でも感じられた。
「他は荒れてんのか」
「荒れている…。そうですね。居住施設そのものが荒れているだけならいいのですが、人間自体も荒み始めています。レジスタンスの存在を知ってもなお、我利を欲した人々が大半です」
急に、まるで人を突き放すかのような言葉に、違和感を覚える。バベルに抗った者たちはみな、どんな事情を抱えていようとも『同志』ではないのか? 先刻の優しい呟きはただの聞き間違いだったのか?
「お前らはそれをどうにかしようとは思わないのか」
返答までに少しの間が空く。
「…それ以前の問題です」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です」
詳細は言うに及ばす。そんな胸中が、切り返された言葉に宿っているようだった。
バベルが生み出した『無感情者』。ソフィアを束縛され、理性のみで日々を全うする人々。争いの源となる欲情が無く、無精神無感情という平行線のうえで平等とされている。アイデンティティも大衆文化も同時に失われた彼らは、ヒトという歯車となって機械仕掛けの魔塔を動かしているのだ。レジスタンス達は自らを守るべく新たな社会を拒んだ、いわば自我主義者だ。両者の軋轢に耐えられず、ジレンマに押しつぶされた者たちがあふれ出しているのだろう。何をもって『平和』なのかと、天秤を前に頭を抱える人々に、誰が答えを示すのか。
残月は分かっているのだろうか。それとも暗中模索で駆けずり回っているのか。抑揚のない声と情の無い瞳で、一体どれだけの人々を束ね、巨塔に立ち向かっているのだろうか。前へと踏み出す足は華奢で、肉弾戦の経験などは見てとれない。滑らかで艶やかな肌は傷一つなく、諍い事の渦中にいるとは到底思えない。こんな軟な男が、ただの自我に唆されて堕落しただけではないと主張する、確固たる意志を紡いでいる。…俺には理解できない。自分に主は要らない、感情のないヒトは人じゃない、と真正面から挑んだ俺と違い、残月はただ冷静だった。
バベルの外壁が、その中身を隠蔽するかのように無垢な純白であるように、残月の肌色もまた暗闇の中でも僅かな光を受けて淡白い光を放っていた。
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