(二) 逃避
(二) 逃避
人の流れの中を掻き分けつつ、前へ進む。次第に流れが穏やかになり、視界が開けてくる。濁流でもがいたあとの身体は疲労困憊していたが、歩を止めることはできなかった。
…追っ手とはな。俺も、有名になったもんだ。
人の奔流の対岸から、一人流れに逆らって向かってくる姿を視認したのだ。この町で不合理、非効率な行動をとるやつは、俺か、さては同志か、またはバベルか、しかない。バベルの敷く感情の掌握による人の統制には、昔は賛否両論あった。今となっては無感情統制が成立しているが、実際には抵抗し続けている人々もいる。俗に、彼らを『反乱因子』と呼んでバベルは彼らを懐柔、または駆逐しようと躍起になっている。俺も当然、その対象のうちの一人となる。
襤褸になりつつあるコートを気遣う余裕もなく、いよいよ人通りのなくなった狭い路地を全力疾走する。バベルの城下町というだけあって、暗く陰気な路地にも衛生管理が行き届いていて、清潔感さえ感じられる。颯爽と走りぬけるどの路地でも、砂塵が舞い上がるだの、異臭がたちこめるなどの不快がない。猥雑や低俗といったものが入り浸っているような路地である筈が、寧ろ啓蒙的な雰囲気を醸し出している。…逆に言えば、あの巨塔の眼がこんな微部にまで及んでいるということだ。
追っ手はどうやら一人のようだ。奴が人気のない路地で、疾駆しながら気配を消すなどという芸当さえ持ち合わせていなければ、そう考えても間違いないだろう。葉脈のように散在する路地を縫うように走り抜け、目的地へ急ぐ。追っ手との距離は幸い縮んではいないが、開いてもいない。視界に入らない距離で路地に入っているつもりだが、行動を予測できるのか、どう複雑なルートを選択しても追っ手の追従から逃れることができない。
…機械人間風情が。
思わず舌打ちする。今俺を追っている人間も、バベルの齎した疑似平和に勾引かされた一人なのだろうか。惑わされたのが最期、自己を抜き取られ、機械仕掛けの塔の一部品と化した哀れ達の一人。日常を継続している人もいれば、奴のように配下の手先として扱われる人も存在するのか。さしずめ平和維持活動という名の闖入者駆除というところだろう。平和を乱そうとする者はどの世界でも疎とまれるのが一般常識の一条だ。だが、どんな敵対勢力を相手にする時でも、武力行使は最終手段と相場は決まっている。どうやら、奴らは想像以上に短気であるようだ。
入り組んだ路地を蛇行し、迂回しながらも、目的地へとたどり着く。そこは純白の壁を大仰に設えた建物の裏口だった。追っ手を横目で気にしながら、手指をコートの袖口で拭い、扉の個人認証システムに親指を押しつける。途端、システム音が薄暗い路地の静寂を乱す。
『接触反応アリ。個人認証開始。指紋照合開始。……ERROR。静脈認証システムヘト移行。静脈照合開始。……オールブルー。認証完了』
扉のロックが外れたのを確認し、滑るように建物の中へ。
駆逐対象という身分のため、バベルを詮索するためには安全な拠点が不可欠だった。ここはその内の一つだ。『食糧監査選別施設』。それがここの名称だ。民に供給される食用品の全てが、生産された後に一度ここへと集約される。その後安全性、栄養価値、嗜好性など様々なソースによる検査にかけられ、基準段階的にランク付けされる。時期、地域、文化圏ごとに変動する需要レートに合わせて、それぞれに対応したランクの食糧が選別、供給される。この施設は、その食糧供給システムの中枢であった。民の生命の源を管理する施設だけに、ここの守殻は堅牢だ。扉は一つしかなく、指紋、静脈、網膜等の個人照合システムが扉と建物内のあちこちに配置されているため、一般市民の侵入はおろか、バベルの重役でさえ承認されなければ門前払いとなる。さらに建物自体も強力な防御壁を備えており、銃火器類を用いても侵入は不可能だ。人々は、万が一にも明日の食の有無で心配をする事はない。この城塞の内側にさえいれば、まず安否は保障されている。それはしがない反乱者にも同じ事だった。…しかしもう、ここでの長居は無用だ。他の場所に拠点を構えるほかない。
施設の中心へと続く長い通路を駆け抜けながら、背後の気配を探る。人の気配は既に消えていた。扉のセキュリティーに阻まれ、見失ったのだろう。
しかし、扉の入出記録と認証盤に残った痕跡で、今ここにいることを直に知られてしまうことは確実だ。ならば姿を眩ます他ない。
人二人がすれ違えるかどうかという狭い通路を、誘導灯を頼りに突き進む。何度か右へ左へと向きを替えたものの、基本は一本道だった。搬送作業が昼夜絶えず続けられているにも関わらず、施設内は不気味な静寂が漂っていた。暫くして道が一気に広がり、施設内の人為管理室へと隣接する踊場へと足を踏み入れる。人為管理室は、広大な施設の中で唯一人が自ら行動し、管理を行う箇所だ。いくら最先端の機械と超機能演算機に任せた全自動式のシステムと言えども、不祥事は起こる。人による監視の目も時に必要だ。―例えば、幾重にも張り巡らされたセキュリティーをものともしない侵入者が出現した時、というような。
管理室のロックを外し、室内へ滑り込む。無音が満ちる空間で唯一人、荒くなった息でそれをうち破る。部屋の中央には、操作盤とモニターに囲まれたデスクと座席。そこに白衣を羽織った男が、気怠そうにモニターを仰ぎ見ながら座っていた。
「残月。ここはもう危ない。移ろう」
男に向かって勧告する。残月は座席からこちらを振り返った。頭を包み込むような艶のある黒髪、鼻が高く整った顔立ちをしている彼は、土臭い風貌の俺からしてみれば名のない美術品のような美しさを備えていた。
「…一体何やらかしたんですか」
残月は表情一つ変えずに問うてきた。躊躇いもなくものを言うやつは、俺の周りでは後にも先にもこいつだけだ。
「バベルに見つかった」
「…。それで、『石』は?」
懐をまさぐり、こいつが意図する物を突き出す。
「盗ってきた」
「それを見られたんですか?」
「いや、その時はいつも通りだ」
「そうですか…」
残月は乳白色半透明の丸石を受け取り懐に収めると、顎を掻き始めた。コイツが思案する時にする癖だ。
バベルに抗うことを決心し集った同志たち―――『反乱因子』。こいつもまたその一人だ。バベルとレジスタンスの抗争は今に始まったことではない。俺が知り得る限りでは、バベルが建設された当初からその諍いは続いていると言われている。バベルの敷く無感情統制は今でこそ非人道的だが、昔はまだ緩やかな統制組織であったという。しかし『ある日』を境に、バベルは変貌した。まるで内側から悪魔が湧いたようだったと、年のいった婆さんが言っていたのを思い出す。人々は掻き乱され、蹂躙され、掌握された。幸運を掴み取った俺らには、平和を歪ませた原因であるバベルに巣食う悪魔を探し出し、取り除く義務がある。…それは、再び自由を得ることへの抱負でもあった。
顔を上げ管理室内を一瞥した残月が、口を開いた。
「…此処はもう駄目ですね」
「それは先刻言っただろ」
「そういう意味じゃありません」
「は? じゃどういう…」
「時間がありません。次の拠点まで案内します」
モニターを自動へ切り替えた残月は、脇をすり抜けて管理室を出て行った。珍しく判然としない態度が腹立たしい。…いや、常に癪に障る言い方はするが、この状況で焦らされる羽目になるとは思いもしなかった。殴りつけたい衝動を抑え、その後を追った。