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BABEL  作者: 詩之葉
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第一章 (一) 繋縛

 

  第一章   

 

 (一)  繋縛   


 一人の男が溜め息をついた。そこは人の行き交う大通りを少し外れた、涼しげな影に満ちた路地にある小さな喫茶店だった。寂れたというよりはむしろ小綺麗な店内は、細い脚をした机と椅子が無造作に並べられていて、どの机の上にも小さな花瓶と小さな白い花がこれに差してあった。店内の壁には撥条(ぜんまい)式のアナログ時計が掛けられており、殺風景な壁を唯一彩るものとしての存在感があった。溜め息男はカウンターに座っていた。肩を落とし、見るからに意気消沈している彼を気にかけてか、店の主人が優しく笑みを浮かべながら声をかけた。


「アイスコーヒー、もう一杯いかがですか?」


 店の主人はそういうと、空のグラスに冷たいアイスコーヒーを注ぎ、カウンターに突っ伏している男の横に置いた。疲れを見せながらも彼は穏やかに微笑んだ。


「ありがとう」

「お代は要りません。贔屓にしてもらっているお礼です」


 店主は笑顔でそう言うと、別のグラスと布を手にとり、慣れた手つきでグラスを磨き始めた。男は恵まれた黒褐色の水で喉を潤すと、独り言のように呟いた。


「…ここは平和だな」


 男は手に持ったグラスを置いた。中に積まれた氷が滑らかな音をたてる。少しの間をおいて、男の独り言に店主が言葉を返した。


「あなたがそう仰るのなら、多分そうなのかもしれませんな」

「…相変わらず食えない言い方するな、あんた」

「あなたもお変わりないようですね」


 店主は手を止め、男を見やった。

 痩せて弱々しい印象の輪郭。白に黒が混じったような長い頭髪。凝った装飾が施された勲章だか紋章だかを偉そうに付けた上着は、擦れて皺が目立っていて品位を失っていた。歳若いはずだが、その肌色もどこか褪せており、年季さえ感じられた。しかし、そんな男に有無を言わせない威圧感を与えているのは、その隻眼の顔だろう。左眼に縦に入った生々しい裂傷の跡が、男の過去を謎めいたものにさせるには丁度いい風格を醸していた。その上男は片目を失っているとしても、開かれた鋭い漆黒の瞳に込められた光は生気に満ちていた。

 男は店主の視線を受け流すかのように、自分の視線を店の外に泳がせた。


「最近暑くてね。しばらくだったもんで用事のついでに寄ったんだ」


 聞かれてもいない問いに応えた隻眼の男は、視線を窓の外から店内に移して言った。


「あんたも…、変わらず陰気臭いね」

「なにぶん陽が当たらないもんで」


 店主の応えに、男は顔を振り向けた。黒い瞳の焦点は店主の顔、そして磨かれたグラスへと移った。


「“陽”、か…」


 男は溜め息を殺すかのようにそう呟いた。こざっぱりした店内に静寂が満ちる。グラスの氷がたてる涼やかな音が、一層静けさを際立たせていた。男はおもむろに上着の内ポケットから銀製の懐中時計を取り出し、時間を確かめるような所作をした。


「お戻りになられなくても宜しいのですか」

「…言っただろう。用事は済んだって」


 店主が言うと、男は然も当然といったように返答した。男が再びカウンターに突っ伏して寝に入るのを見届けながら、店主は肩を(すく)めた。


「しかし、あなたが居ないとなると、あそこは今頃天国でしょうな」

 

 店主の言葉に、男は口の端を僅かに釣り上げてにやけた。


「…そうでもないさ。今頃は鼠の駆除で生き地獄だろう」

「鼠、ですか」

「そう、鼠」


 アナログの時計の時を刻む音が規則的に響いている店内に、微かな空気の揺らぎが生じた。溜め息男が席から立ち上がったのだ。


「ごちそうさん。また来るよ」

「毎度ありがとうございます」


 店のドアが閉まり、また少し静寂の濃くなった店内で、店主は男の姿を目で追っていた。そして静かに懐から何かを取り出し、それを握りしめながら彼は小さく呟いた。


「目標、移動(ムーヴ)


 言い終えるのとほぼ同時に、握りしめた指の間から僅かな光が漏れた。彼はそれを確認すると、握っていたものを懐に戻し、再びグラスを磨き始めた。


     ◇


 強く光の射さない涼しげな路地を抜け、再び大通りに戻ってきた。全方位から反射熱を浴び、突然の刺激で汗腺が一気に開くのを感じる。リクルートスーツに身を包んだ人々がお互いに身体を擦り合わせながら道の上を流れ歩いている。その流れに、自分も身を投じた。(からだ)の五感が、氾濫する情報を手当たり次第に捉え始める。鳴り響くクラクション、内容の掴めない会話の雑多、冷淡で光のない双眸を運ぶ人々の足音…。ありとあらゆる音源が乱れ合い、喧騒となって人々の間を縫うように蔓延(はびこ)っている。さながら水の分子の(せめ)ぎ合いに巻き込まれているようだ。ただでさえ摩耗の激しい上物である筈の上着に、さらなる摩擦が加わる。そのうち火でも起こるのではないだろうか。誰かに足を踏まれた。怒鳴る気持ちさえも起きず、そもそも後ろから押し寄せる人の流れの所為でそんな余裕もなかった。

 

 人混みの中に『表情』は無かった。

 喜び、怒り、憂い、笑い、…疲労さえも。

 人々がお互いに交わす言葉は二言三言。無駄な台詞はひとつとて無い。無駄のない行動の数々が、恐ろしく奇妙に思える。しかし、そういう思いに駆られるのは恐らく、この界隈では俺だけだろう。人のような行動をし、人のそれのような言語を操り、日々を闊歩する彼らは、もはや『人』ではなかった。

 …日常としてありふれている喧騒の中で人々はただひたすらに寡黙であり、無感情であり、冷徹であった。機械のように手足を動かし、合理的かつ簡潔な言葉を喋り、人にとって理想的な活動のできる時間配分の中で課せられた事柄を規則的に遂行する。いかなることにも感情を用いない。いかなることにも私利私欲は認められない。自我(エゴ)欲求(エス)を完全無力化した超自我の領域の中だけが、生きる人に赦された唯一の居場所。それがこの町…、いや、世界の秩序と化していた。

 

 人の流れの中から顔を上げ、遥か先の方へと目を向けた。幾重にも重なる階層道路の間から、天空を突き抜けるように聳える巨塔が見える。地上付近は塔にしがみつくように密集している建物で一つの岳と化しているが、その頂きからは蒼い空に向かってただ真っ直ぐにそれは延びていた。人々はその巨塔を、畏敬の念を込めて「天地の穴蔵(バベル)」と呼ぶ。同一言語が生み出す(ヒト)の強力な結束と能力を恐れた神が、言葉を攪乱させることによって阻止したと謂われる「バベルの塔」。嘗ては神と等しくなろうとする人間の罪を戒めた物語であった。今、遥か先で陽炎となっている巨塔は、ただの蜃気楼ではなく嘘偽りのない実体である。 

 バベルは人間の誇る知識、思想、技術、歴史、全てを賭して生み出された、一つの終着点であり、総本山である。学術機関、政治機能、経済市場、通信・メディア、保健衛生機関、福祉厚生機関、食糧管理機能、教育機関、住居機能…。一つの国が抱える組織の全てを内蔵し、絶対的な統率性を有しているという事実が、あの巨塔が世界の中心とまで言われる由縁だ。ありとあらゆる事象を律し、秩序と平和をもたらす組織を内包したあの塔は、今となっては神をも凌駕する存在なのかも知れない。

 

 そして、人が人である証を全て奪い去ったのも、あの塔であった。


 感情、自己(エゴ)、人が人である以上抱き続ける欲情でさえも、バベルは奪い取り掌握している。万人の思考判断を管理するという、神懸りな技術をあの巨塔は秘めているというのだ。人を掌管できる以上、理想を具現化させることは容易だ。バベルはその術を持っている。…俺はそれを知りたかった。一つ芽生えただけだった小さな好奇心と疑問が、いつしか疑心暗鬼を生み、今となっては全てを疑いだしている。一体誰がこの秩序を創造したのか。その術は一体何なのか。人を人でないものにした原因は何にあるのか。全てを封縛し操ることを可能にする技術は存在するのか。


 人は神に到達し得るのか。


 絶対で恒久的な平和は、誰しもが望む理想だ。だからこそ人は団結し、祈り、想像し、創造する。しかしそれは単なる「理想」に過ぎないのであって、現実には存在しない。永遠なる平和が約束されたとき、果たしてそれを信じることが出来ようか? 謀略や詐欺が潜んでいないと、誰が断言できようか? 

 だが現に今、そのひとつの答えを見せつけられている。縋るように人々は集い、バベルの手中へと収まった。猜疑心を抑えきれなかった俺は、そう、取り残されたのだ。社会に、人に、バベルに、除外されてしまった。…もう後戻りはできない。疑うことでしかあの巨塔に対峙することができないという悔恨に苛まれようとも、立ち続けなければいけない。人が人でない世界で、果たして人は平和か。それがまやかしだと証明するために、この町の真実を知るために。


 言語を乱された人間は世界に散った。 そして人はまた、統一されつつあった。

 ―――「無感情」という言語で。

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