(十三) 西区へ‐Ⅰ‐
(十三)西区へ‐Ⅰ‐
真南区を守ってきた擬態壁が解除され、再びどこまでも無機質な通路が目の前に現れた。
気配はない。匂いも音も、眩い光もない。緩やかに弧を描く通路は視界を限定し、当たり前のように蔓延る暗闇がそれを助長する。自分自身も栄養不足が祟ってか、ひどい鳥目状態に陥っている。
「二つ連絡塔を越えた先に第四西区がある。この場所には2人の駐在が居るはずだ。…生きていれば合流しよう」
壁伝いに先を歩く淡雪は、石を使わず灯りをつけないまま進んでいた。残月と俺は淡雪を目視で確認できる限界の距離をあけながら後に続き、後ろからは空鐘が大股で追いかけていた。
この通路は気味が悪い。
優良な衛生状態ではないにしろ、不衛生でもない。心地良い気分を誘う環境でもなければ、酷い不快を感じさせる環境でもない。それは人が生活する公共の場所ではごく当たり前の感覚なのだろうが、ここには公共性のもつ限られた地平線上での自由というささやかな解放感がないのだ。見通せない通路が心理的な緊張を生んでいるのかもしれない。
「第四西区といえば、陽楽さん御用達の喫茶があるところではなかったですか?」
残月が唐突にそんなことを口にした。だが生憎、レジスタンスの使う区画の呼称など知る由もない。
「喫茶…。あの銀髪の紳士がいるところかい?」
「知っているのか」
「知っているもなにも。彼もレジスタ、錬金術師さ」
残月が片眉を吊り上げた。どうやら初耳だったらしい。
「あの方、同志だったのですか」
「ああ。だが少し、彼には難点があってね」
淡雪が歩みを止めた。先を窺うと、道が5、6本交わる場所に突き当たっていた。所詮はただの通用路である上、そもそも人間が直に通うことを目的としていないため、目印や標識はない。淡雪は懐から丸められた地図を引っ張り出し確認を始めた。
「君らはもちろん知っているだろうが、石を使った交信法には少々弱点がある。目的の人物の記憶が曖昧だと、届く内容も曖昧なものになるというのがそれだ。ひどい場合だと届きさえしない。だから記憶力に乏しいとこの通信手段の使い勝手は非常に悪くなる」
淡雪は地図を懐にしまい、壁伝いに広場へと歩み入った。残月と俺もそれに追従する。
「彼は記憶力そのものは良いんだが、どうやら人の顔を覚えるのがとても苦手らしくてね。こちらから情報を伝えることはあっても向こうから伝わってくることがないんだ。前線付近の貴重な情報源になるんだが、如何せんこれではしようがない。かと言って他に回すことも考えられなかったし…」
「妙ですね」
再び曲線を描く通路へと戻り、進みかけたときに残月が呟いた。
「陽楽さんの顔は、どうやら覚えられていたようですけれど」
確かに、言われてみればそうだ。
「陽楽はそこの常連だったんだろ? おまけに繁盛していないのが見て取るように判る店だ。そんなところでご贔屓の客を忘れろという方が難しいだろう」
「自分の所属する秘密組織の幹部の顔を差し置いて、それでもですか?」
「顔を合わせる機会はほとんどない。当然だろう」
「それでもあなたは覚えているではないですか」
「仕事だからね」
「では彼も同じように記憶するよう努めるべきではないですか? あまりにも無責任です」
「…やけに噛みつくね、残月」
淡雪が苦笑を漏らすのを聞いた。
だが俺は少々笑えない気分だ。
「人の姿や顔といったものは、その人間の背景次第でいかようにも人の心に出入りできるものです。身を脅かす惧れがある対象なら尚更、反射的に優先されて記憶されるものです。仮にあの方が記憶能力に難があるとしても、学習障害の類が関与しない限り覚えていないということはあり得ません」
「…人の思考や行動を推察するときに、あり得ない、は存在しない」
淡雪がそういうと、残月は黙り込んだ。
「人の心ほど科学するのに魅力的で、定義に難儀なものはない。精神分析、行動学、臨床心理学、ひいては統計学や経済学などの分野が、今日まで体系づけるために苦心してきた。数ある思考や行動のひとつひとつが異なる以上、平均化したデータからの推測はできるものの、個人の未来の行動の推測なんてものはあくまでも憶測の域を出ない距離内でしか議論はできない」
「確かに人の行動は断言できるものではありません。ですが話を逸らさないでください。僕は疑う余地のあるものがあるのに何故それを避けるのかを聞いているんです」
「なぜそこまで突っかかる? 彼は今僕らの行動に関係ないだろう。僕らは嶺雁将軍と接触を図るために第二西区へと向かっている。それだけだ」
通路の端を生温かい風が通り抜けている。熱源があるということは、もうそろそろだろう。
淡雪は銀髪の紳士、あの寂れた店の主人に、どの程度の信頼を置いているのだろう。一方通行な情報交換ほど不利益で奇妙なものはないと言うのに。これではただの情報の垂れ流しだ。そしてそこに群がるのは画策のための材料に飢えている反乱因子達やバベルそのものだ。
「彼のことは疑わないのですね」
残月は淡雪にさらに詰め寄った。
「彼は関係ない」
「何故言い切れるのですか」
「言っただろう、記憶力に乏しいと。いいか、おそらく君はこんな邪推に囚われている。…彼はスパイなのではないか、と。違うかい?」
淡雪の言葉にハッとする。
そう、それだ。
バベルとそれに対抗する組織のお互いの監視が入り乱れる城下町ならば、両者の動向は目と鼻の先だ。探りを入れることは容易く、手に入る情報には労力に見合うどころか余りある位の価値がある。そして、冷戦状態であるあの地域で見事に中立的立場を作り出しているあの店が、両者の情報を手元に揃えることができるおそらく唯一の場所であろう。
密偵として雇われていた可能性は十二分にある。
「もし彼が二重、いや、それ以上の組織と共謀していた場合、真南区の場所が割れた原因として真っ先に疑われるのは間違いなく彼だろう」
「じゃ、あの店の主人が他組織と連む可能性はハナから考えていたって事か」
「ああ」
淡雪は何ともなしに即答する。
「それでも、僕には彼を疑う理由はない」
「何故です」
「彼に情報を与える役目を負うのもまた、僕だからさ。彼の知りうる僕らの情報は全て僕が操作している。そして僕は僕らに関する情報の一切を彼に与えてはいない」
「では一体何を、教えていたんですか」
「それは…、君が知ることではない」
淡雪が返事をすると、残月はまた口を開いた。
が、その先は空鐘が前に躍り出たことにより遮られた。空鐘は手に石を持ち通路の中央に仁王立ちした。
「…静かに」
淡雪が壁を背に張り付き、体を縮めた。反射的にそれに倣い、耳をそば立てた。
足音が聞こえる。そしてどうやら、これはひとりふたりという単位ではないようだ。
「狭いうえに一本道。迂回できるルートもない。…正面突破しかないな」
淡雪はそういうと懐に地図をしまい、代わりに乳白色卵型の石、精錬石をとりだした。残月は既に石を取り出し、床に片膝を立てて構えている。
自分も自然と身体が動き、腰にある銃に手をかけていた。しかし、残月は俺に待機を命じたのだった。
「陽楽さんは下がっていてください」
「なんだと?」
「錬金術の戦いにおいて拳銃はおろか銃火器全般は役立たずだ。というより、クーデターの残党ならそんなこと百も承知だろう」
「淡雪!」
残月が小さく怒鳴ると、淡雪は、失敬失敬と薄ら笑いをして黙り込んだ。
第三期クーデター戦争は蹂躙政策に反発した一般人と理想郷を唱えた錬金術師達の圧倒的戦力差が際立った戦争だったことは確かだ。反乱軍が一国の軍隊にも劣らない武器や兵器を携え戦ったにもかかわらず、錬金術に対し全く歯が立たないまま一方的な敗戦を期したのだ。
淡雪の挑発とも嘲りともとれるその言葉は、戦力として数に入らない自分の情けなさを抉り出した。
「伏せて!」
残月が叫ぶと、視界奥の闇の中から轟音と共に勢いよく突風が吹き荒れた。身をかがめてやり過ごしていると、周囲の壁に夥しい数の罅や亀裂が入っていくのが見えた。通路の床も鋼鉄の剣で斬りつけたような痕が無数に刻まれ砕けていくが、屈みこんだ残月と空鐘を先頭に淡雪と俺を囲むような楕円形の範囲内には少しも被害は及んでいなかった。
「残月、そのまま頼むぞ」
淡雪はそう言うと残月の背後に立ち、石を握りしめたまま大きく振りかぶった。
そして勢いよくその腕が振り下ろされると、手が辿った軌跡の形で金属とも氷とも似つかない刃が生まれ、音もなく闇に向かって噴き出していった。数秒後、何かが倒れる音が谺し、突風が凪いだ。
「今だ、進め!」
残月が飛び出し、遅れて後に続く。
衝撃を受けて砕けた壁や天井から零れ落ちた破片が床に散らばり、駆ける足に蹴飛ばされて耳障りな音を立てた。
「来ます!」
残月が叫び、立ち止まると両手を前に突き出した。それとほぼ同時に地面から氷柱が突き出し、間もなく真っ赤な炎が氷柱に直撃した。氷柱は衝撃で震動しつつも全く崩壊する気配がなく、見事に炎を食い止めている。しかし熱は氷柱を回り込み、辺りの温度は急激に上昇した。
炎が止むと同時に空鐘が氷柱の先へ駆けて行った。残月、淡雪もそれに倣う。
後を追えば、白装束を纏った人間が二人、空鐘の鉄拳により壁に叩き付けられる瞬間を目の当たりにした。見渡せば、腹部を切り裂かれ真っ赤に染まった白装束が何人も床に倒れ伏している。
壁に叩き付けられ床に臥した白装束二人は、残月と淡雪に石を向けられると制止し、沈黙した。どうやら、心は無くとも、勝敗の区別はつくようだ。
淡雪はうずくまる白装束を見つめると、眉間に皺を寄せた。
「君ら、バベルの手駒じゃないな? 一体何者だ?」
どういうことだ。
白装束を纏った錬金術師はバベルの放つ手先ではないのか。
白装束二人はそれには答えず、懐からナイフを取り出すと止める間もなく自ら首元を切りつけて自害した。
残月がそれを苦々しい面持ちで見届け、すぐに目を背けた。
「死人に口なし、か。…全く、こりゃいったいどうなってるんだ」
淡雪が吐き捨てるようにつぶやいた。知性に溢れた穏やかな顔からは想像もできない闘争心が彼からは滲み出ている。その表情は殊更に憎々しげだ。
「淡雪、バベルの手駒ではないという根拠はどこからきてるんだ」
尋ねると、淡雪は目の前で死んだばかりの白装束を指差して答えた。
「見てみろ。こいつら、石を持っていない」
それを目で確認し、再度周りを見渡してみる。空鐘が何体か遺体をまさぐっていたが、結果は同じようだった。
「石を使わず錬金術を起こす技術、ですか。そんなもの、聞いたことがない」
「同感だ。これは、バベルが新たに開発した戦闘技術なのか、それとも全く別の錬金術師団が組織されたかのどちらかとしか考えられないな」
「別の錬金術師団? レジスタンス以外にも塔から降りた錬金術師が?」
「居ると仮定すれば、の話だけどね」
二人の考察に耳を傾けながら辺りを眺めていると、ふと目にひとつの遺体が入り込んだ。
その遺体の手には極薄の手袋が嵌められていた。
よく見れば、その他の遺体も同じような手袋を嵌めている。
「おい、二人とも。錬金術とやらは手袋を嵌めても起こるものなのか」
「手袋?」
「…見てみよう」
淡雪が足元の遺体の傍に屈みこみ、手から手袋を抜き取った。
素手と同系色の極薄の手袋で、遠目からでは手袋を嵌めているとはとてもわからない。さらに、淡雪が手袋を裏返した途端、全員が目を見張った。
手袋の内側に、一枚のポラロイド写真が貼ってあったのだ。
「…男性と女性のツーショットですね」
「ポラロイドなんて今じゃ化石のようなものだ。それだけで驚きなのに…」
空鐘が白装束のフードを外すと、そこに年若い青年の顔が現れた。眠るような顔をして息を引き取っている。
「後味悪いなあ…」
「その割には全く困った顔していないようですけど」
「その台詞、そっくりそのままお返しするよ」
そんな二人の会話を耳にしつつ、写真の貼り付けられた手袋を手に取った。
青年と女性が肩を組み、笑顔でこちらを向いている。実にほほえましい瞬間だ。
戦いに赴く愛する人に、せめてもの心の逃げ場をと、この女性のささやかな配慮であったのだろう。
正当防衛とはいえ、偽善染みてはいるが心が痛むのは避けられなかった。
そして、こんな人情に溢れたことは、バベルにはできない筈だ。
この地下世界には、レジスタンス以外にもバベルに刃向う錬金術師が存在する。そう確信した。
「陽楽さん、先を急ぎましょう」
「あ、ああ」
手袋を懐に潜り込ませると、二人の後を追った。