(十二) 再起
(十二) 再起
瞼を開ければ、そこには見慣れた天井がぶら下がっていた。
視界はぼやけており、記憶の片隅にあるイメージでそれを見つめる。
あの蒼い石を敷き詰めた天井は、いつぞや対立した改革派のレジスタ達が放った錬金術の産物だ。
…生きてるのか。
ただの消耗とは言え、それは少なからず身体に影響を及ぼすはずだ。
それがこの程度の気絶で済むとは。
精神は生命に全く干渉していないとは言えない。
むしろその逆だ。
血流の如く身体を巡り、生命を形作っているのが精神なのだ。血が生命の活動そのものの源なら、精神はその器と言えよう。
精神が瓦解すればその生物を形作る生命エネルギーは脱兎の如く宙に霧散し、生物は躯を残してその活動を止める。
但し、死骸になるのではない。
血の通った身体は温かく、肺呼吸の様子も見て取れる。
言うなれば、恒常性をもち、種々の遺伝情報や酵素を抱えた有機物の「塊」だ。
美しき生命活動は、その主人を失ってもなお続けられるのだ。
しかし一般に、通念や法律はそれを「死」と扱う。
…当然だ。
元の精神がない、つまり個を失ったただの塊なのだから。個性を敬い貴ぶ人々にとっては、それは死以外の何物でもない。
そして自分自身も、そうなる虞があった。
いや、どこかでそれを望んでいたのかもしれない。
救いようのない現実から逃れるために、死という平安を望んでいたのかもしれない。
だからこそ、万が一の死を覚悟していたのだが、生憎どうやら耐え抜いてしまったようだ。
視線を横にずらす。その瞬間、鼻腔を臭気が刺激した。そのあまりの不快感に顔をしかめる。
床には夥しい数の瘤ができ、それは白い布を被せられていた。
思わず戦慄する。
そして脳は徐々にその真実を受け止め始め、やがてやり場のない悔恨に締め付けられた。
守れなかった。
俺の…。
「残月。起きたね」
穏やかだが少しピッチの高い声が頭の向こうから呼びかけた。
体を台から起こし振り返れば、そこには見慣れた紺碧のローブに身を包んだ見慣れない男が立っていた。視界は相変わらず悪く、輪郭はぼやけ、それが誰なのか見当がつかない。
「連れの人と心配していたよ。機嫌はどうだい?」
「…誰ですか」
ローブの男は大げさに腕を広げると細やかに笑った。
「なんだ、冗談まで言えるまで回復してるなら、申し分ないね。…いや、むしろ驚愕に値する」
「誰ですか」
「淡雪だよ」
ローブの男はご冗談を、とばかりに肩をすくめた。
「アワ、ユキ…?」
名を聞き返せば、淡雪は怪訝そうに腕を組んだ。
「…おいおい、まさか本当に―」
「…冗談です」
未だしかめ面を解かない淡雪を見ながら苦笑する。
忘れられるわけがないだろう。
しかしそんな言葉を口にした暁には、淡雪に冷やかしを食らうことは明白だ。端的に、状況を伝えてもらうことにする。
「その後はどうなりました?」
「壊滅さ。肝心の壱薙も行方知れずだ」
「…そのようですね」
お互いの間に沈黙が満ちる。
…何もかも灰塵に帰してしまった。
たった一度の襲来で、これほどまでの被害が生じるとは。
「他の者達は?」
「…本部内は生存者ゼロ。居住区、区画外の管理及び遠方任務に就いている者以外は全員殉死だ。だがしかし、生存者達との交信は無理だ。原石が沈黙したからな。…通達通りなら、今ごろみな嶺雁の所へ向かっているだろう」
「…ということは、準備が整ったのですか」
「いや、そうじゃない。攻め入る好機を伺うと言った方がいいかな」
「それでは…」
「情報元が潰れた以上、今まで以上に諜報力が必要とされている。そう、まだ振り出しに戻ったわけじゃない。これは好機だ」
「根拠は?」
「ない」
「ないのになぜ―」
「それはこれから証明する」
自信に満ち満ちた口調だが、その信頼性は現時点では皆無だ。
…科学者はまず事象を全否定する事から検証していくという。そしてその否定的仮説が棄却されるような結論を導いていき、自分が真に実証したかった仮説を認めさせるという天の邪鬼的論理方法をとっている。
初めて直面する事象には仮説、つまり推測でしかものが言えないのは確かだが、それでも根拠や理屈は少しは存在しているものだろう。
「…根拠はない。だが、変わった状況を肯定的に捉えることはできる」
淡雪は懐から筆記具を取り出し、戦死者名簿を裏返して走り書きした。
「今までは保守的にならざるを得なかった。だがこれからは違う。直接顔を突き合わせなければいけない一方で、手には入る情報も圧倒的に増える。さらにいえばその情報は、かなりの信頼性を望める筈だ」
走り書きの内容は何かの地図のようだ。そして、そのうちの幾つかの地点やそれを繋ぐ通路には思い当たる地形があった。
「これは…、嶺雁の隠れ家への道程ですか」
「隠れ家とは失敬な。我等が嶺雁将軍の最重要拠点、だろう」
「…僕はあまりあの方が好きではありません」
率直な感情を伝えると、淡雪がそれに卑しいにやけ笑いで応えた。
「おや、意外だね。道行く誰もが振り向くようなお方であるのに」
淡雪は背を向け、あらぬ方向へ向かって喋りだした。
「そう、世間はこう囃し立てているだろう…。歴戦を経た剛勇無双の兵士でありながら、才色兼備、ひと度戦場を離れれば、それは立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿はー」
「…歩く姿は蠅取草」
不意を突かれた淡雪が振り返る。
「どんな男も絡めとるってことかい? うん、確かにそれもありだな。ということはなんだ、君もその蠅取草の甘美な香りに誘われ、挙句とって喰われた哀れな小蠅だったのかい?」
「…とにかく、何を目論んでいるのかは知りませんが、僕は彼女の指揮下には入りませんから」
この男の挑発癖はどうにかしなければならない。人の心の琴線を弄ぶなど、錬金術師として非礼極まりない。
淡雪が再び嶺雁の話を切り出し、世辞なのか本音なのかという境を彷徨いながらも、その言葉の端々からは嫌でも容易く彼女の姿が想像できた。
「進路は君の勝手だが、嶺雁に会うところまでは付き合ってくれるよな?」
「少なくとも、レジスタンスの現状を把握するところまではご一緒しましょう」
「決まりだな」
ふと気付けば、陽楽が側に立ってしかめ面をしていた。彼は走り書きを一瞥した後、口を開いた。
「誰なんだ、そのレイガンてのは」
「彼女は僕らレジスタンスの高嶺の花であり頼もしい首領でもあらせられる素晴らしい将軍さ」
「女性なのか」
「不満かい? まあそう思うのも無理はないが、女性が頭になるというのは実に理に適っている戦略なんだよ」
陽楽はそれでも不満そうだ。
無理もない。重量のある武器や兵器を扱う戦場ばかりを渡り歩いてきたのだから、どうしても非力がちな女性が兵を束ねているという事実を聞けば、違和感が生じるのは明白だ。
「錬金術が戦場の優位を占めている以上、精神力が物を言うのが現状だ。そして言わずもがな、その源はソフィアだ」
「そこで何故女性なんだ」
「単純だよ。女性は男性よりも心理性に長けているんだ。一部を除いて、古くから女性はスピリチュアルで謎に包まれた存在として敬われていたし、その体内には神を宿しているとさえ言われていた。この例は明らかに非科学的ではあるが、事実、女性のソフィアが周囲に与える影響は男性のそれよりも強く、多種多様だ。…なに、錬金術の実用化に成功したのも、ほかならぬ一人の女性科学者によるものだというのは有名な話じゃないか」
「蘊蓄なんかどうでもいい。統率がとれているなら、俺は文句は言わない」
「いずれにせよ、会えばわかるさ」
淡雪はそう言って笑い、書類を手際よくまとめていた空鐘を呼び寄せた。
「さ、出発だ。白装束が残兵狩りを始めないうちにとっとと出よう」
白い瘤を跨ぎ越しながら、淡雪の背を追ってホールの入口へとむかう。
恐らく、もうここへ戻るのはずっと後のことになるのだろう。
未練がましく喚くつもりはないが、それでもこの奇襲はあまりにも非情だ、残酷だ。
住民たちが君らに何をした?
心行くままに日々を過ごし、平穏無事に暮らしていただけなのに。
バベルは、心があるという、たったそれだけの理由で命を狩っていった。
何故。
何故そこまでする必要がある。
俺には、知る権利がある。
そのための回復を急がねばならない。
戦うことは避けられないのだから。
…だが、陽楽はどうだ。
真南区、もとい本部を失った以上、陽楽の僕らに追従する義理はなくなった。事実上のレジスタンス解体を目の当たりにしているのだから、彼は実際、再び流浪の民に戻ろうと思えば出来てしまうのだ。
「陽楽さん」
ゲートが開かれ、未だに灼熱の籠もってしる真南区から膨張した空気がなだれ込んで来ている。巨躯の空鐘を盾にするように進んでいた陽楽が振り返った。
「なんだ」
「まだ、僕らと共に戦ってくれるのですか」
「当たり前だ。他にどうしろと」
陽楽はバベルの深層を知りたいのだと壱薙に言っていたが、そもそもの理由は何なのだろう。
今ここに来て漸くそんな疑問が湧くとはあまりにも気が抜けている。今思えば、陽楽を本部に連れ込んだ際、素性の知らない暴漢を組織に引き入れるようなもののように壱薙には映っていたのかもしれない。
「…こんな事に巻き込んでしまって、申し訳ありません」
陽楽の顔が少しばかり引きつったのが見て取れた。
機嫌を損ねたのだろうか。
「何を今更しれっと謝ってやがる。そんな風に思っていたらハナからお前と連れ立ってこんな所まで来ちゃいねえだろが」
ふっと溜め息とともにきびすを返し陽楽はホールから出ていった。
試験期間中の投稿です。…なにやってんだか(笑
次話は実家に帰省中に書き上げようと思うので、8/15くらいになると思います。
相も変わらず不定期投稿ですいませんorz