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BABEL  作者: 詩之葉
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序章    記憶

 序章 


     記憶



 一体、何時間経ったのだろう。

 暗く、深い水の中に引きずり込まれていくように、体は常闇のなかを落ちていく。

 …いや、昇っているのかもしれない。どこかへ向かって身体が漂っているのは確かだが、自分の意志ではどうにもならない。

 もう、随分時間が過ぎた気がする。ふと、自分の掌を見る。右手の平には、赤い血糊がべとりとついていた。


 …誰の血だ?


 目をみはり、瞼の中で目を凝らす。血の持ち主を思い出そうと、脳の神経細胞のなかを電気信号が飛び交うのが見える。電気の流れは目に見えるほどの輝きを放っている。しばらくすると、視界はモザイクで満たされ、眼が熱を帯び、痛みを伴い始めた。痛みに耐えられず、ゆっくりと瞼を開ける。


 …俺は、何を忘れたのだ?


 唇を動かさず、喉の奥で呟く。もし、口を開けてしまったら、黒い水に侵され、魂を喰われると感じたのだ。冷たさも熱もなく、漠然と広がる、黒。宇宙になら星の瞬きがある。海の中になら、天より降り注ぐ陽の光の槍がある。ここには、静寂という魔物しかいない。さしずめ、自分の体は魔物の餌というところか。口を開け、息を吐いてしまったならば、命の息吹を求めて奴らは群がってくるに違いない。何故かは分からないが、この闇の正体を知っている気がしてならない。

 もう一度、赤黒く染まった手の平を見つめた。痛みはない。不自然極まりないが、どうやら自分の怪我ではないようだ。ならば、誰が血を流した? 誰が、誰に、何のために血を流させたのだ? 脳みそが頭蓋の中で回転を始めた。眼のなかを電気の粒子が暴れ回る。


 …止まれ! 答えなんて出ない。出るわけがない。頼む、止まってくれ! 今は何も考えたくない。


 そう呟き、喉を鳴らしてみたものの、血を見て何の感情も起こらない自分に腹が立った。俺は冷酷な人間なのか? 人が傷を負ったというのに、何も感じないというのか? 心の中でため息が漏れるのを感じる。


 …俺は、何だ?


 脳の回転が止まる。今まで息をひそめていた漆黒の世界が、微かにさざめいたの感じた。一瞬の沈黙の間、心臓の拍動さえも聞こえなかった。不意に、自分の右手の異変に気がついた。…皮が剥がれかけているではないか。手首に環状の切れ込みが入り、そこから指先にかけてすべての上皮が浮き上がっている。


 …壊死、か?


 それにしてはおかしい。ならば、暗闇の捕食が始まったのだろうか。右手を顔の前へ持ってくる。


 …皮膚に、切れ込み?


 疑問が芽生えた瞬間、自分の左手は右手の剥がれかけた上皮をひっつかみ、乱暴に取り去っていた。

右手のあった場所に、再び右手が現れた。しかし、血はついてはいなかった。剥がされてしまった皮膚が目の前に浮かんでいる。目を凝らし、正体を確認する。

 …上皮だと思って剥いだ血まみれの皮は、極薄の手袋だった。無重力に似た空間の中でそれは浮かんでいた。よく見ると手袋の内側に、血以外のものを見つけた。どうやら文字のようだ。意味も何とか理解できる。その文字は、こう示していた。


 『最愛の人のために』


 目で読み上げ、意味を理解した瞬間、再び脳が回転を始めた。頭蓋骨が燃えるように熱い。髪の毛が溶け頭皮が火膨れになったような心地がする。そのあまりの激痛に両手で頭を抱え、呻き声を上げそうになる。痛みを堪え、歯が砕けてしまいそうになるほど強く食いしばる。しかし決して口を開けてはならない。この世界に打ち勝つためには、闇に魂を差し出してはいけない。燃え盛る痛みの中でも、その信念は力強く輝いていた。体が空間のなかで何度も捻じれ回転する。もう、上下の見当がつかない。しかしどこを向こうとも、そこは闇だった。目の前を漂う闇は、俺の魂を喰らう気だ。静かだが、殺気が蠢いているのを感じる。真夜中の密林の爪牙。炎の飛び交う戦場の照準。どれとも似つかない、生無き殺気。しかしこんな得体のしれないところで、意識のあるヒトの身体を失うわけにはいかない。下唇を強く噛み締めて、今にも融解を起こしそうな頭を抱え、必死に頭痛に耐えた。

 …記憶の目覚めは、まるで星が生まれる時のような、まばゆい輝きの中で始まった。感情が息を吹き返し、身体が震える。怒りや悲しみ、すべての感情が光の中心からほとばしり、煌めきながら漆黒の中を吹き荒れた。噴き出した感情と記憶の光の奔流が、身体の中へと次々に入り込む。心臓の拍動が勢いを増し、破裂寸前の状態だ。喉の奥から叫びが込み上がってくるのを感じる。


 駄目だ…! 口を開けるな…!


 咽喉を焼きながら叫びを飲み込むと、途端に目から涙が零れ落ちた。それは、激痛や込み上がる吐き気のせいではなかった。胸の中心の辺りから、何か強い意志が眼を刺激してくるのだ。涙は止まらなかった。辛い訳ではない。痛みが苦しい訳でも、自分のこの境遇に悲しんでいる訳でもなかった。ただ、その想いはなだれ込む感情の奔流よりも、強い意志を持っていた。

 そしてついに、口を開いてしまった。


「…。恵亜エア


 その刹那、強力な引力に捕縛されたかのように、身体が空間を切り裂きながら急降下を始めた。落下速度はみるみるうちに増していく。自分の身体を取り巻いていた光の輝きが強くなる。光速に追いついたのか、ついに光が帯をなすような速度に達した。その速さに耐えきれなくなったのだろう。身体が粒子化を始めた。指先が溶けるように消えていく。痛みもなければ出血もなく、無音の空間へと、身体の端から消え溶けていく。疲弊しきった右手を鞭打って、身体とともに急降下してきた血まみれの手袋を確りと握らせた。どこからともなく溢れてくる、離してはいけないという意志がそうさせた。そしてそのまま、闇の中を零れ落ちる光の流れに飲み込まれ、やがて溶けて同化してしまった。


     


 パズルのピースを嵌めるように、記憶の断片が一つ、また一つと繋がっていく。

 繋げ、紡ぎ、追憶する。

 人の脳は必ずしも、生きて死ぬまでを全て記憶しているわけではない。

 また、今ここで思い返すことは、事実であり真実ではないかもしれない。

 もしかすると事実ではなく、単に想像かもしれない。

 そして自分が『誰』なのかすらわからない今、それが『誰』の記憶なのかすらわからない。

 

 だが間違いなく、これは『俺』の記憶だった。

 

 ―バベル


 音の響き、文字、感覚…。記憶として刻印された、最も強い言葉。

 この言葉は、まるで鍵のように、散らばり閉じきった記憶の断片を解錠していく。

 解錠され自由となった記憶の断片が、再び元の形を取り戻す。

 

 俺は手を伸ばし、それに触れた。

 有形無形にかかわらず、俺はそれに触れたかった。

 

 俺が『俺』である証。『俺』の記憶。


 触れると、それは俺の身体へと入っていった。

 …そして思い出す。


 ―全てを。


     ◇


「恵亜」

 

 名を呼ばれる。返事をする気もなければ、声の主の方を向く気もなかった。

 

「君のやりたいことは分かっている。でも、何度も言った筈だ。…後悔は免れないよ」

 

 背の高い建造物に囲まれ、周囲は陰り薄暗かった。しかし、日差しの照りつける大通りから少し外れたこの広場は、涼を求めるには格好の場所だ。広場の真ん中には大きな樹が立っていた。衛生管理上、舗装整備され、地肌を露出させる場所が何処にもない現在、この樹の存在は人々にとって特別だった。

 …そして、他ならぬこの私にとってもかけがえのない存在だ。


「君にとって彼が特別なのは分かる。でも、だからこそ…」

 

 私は振り返り、優しく諭してくれる彼の言葉を制し、はっきりと言った。


「知りたいんです。彼が何を思い、何をしたのかを、全部」


 これは懇願ではなく、『意志』だった。そして、今度こそ懇願する。


淡雪アワユキさん。お願いします。会わせてください」


 心の底から、その想いは全身を駆け巡り、自分の行動を支配していた。

 知りたい。

 何より、会いたい。

 頭を下げていると、ふと淡雪の影が動くのが見えた。顔を上げると、彼は笑っていた。


「…判ったよ。きっとこうなるんだろうと思ってたさ」


 淡雪はそういうと、広場の中央の樹に向かって歩き出した。承諾が下りたことに安堵し、自分も広場の樹を振り仰ぐ。再び此処を仰いだ時、私は何を思い、何を感じているのだろう。少し未来(さき)の自分に思いを馳せながら、淡雪の後を追う。

 

「樹に両手を当てるんだ」


 樹の傍に着くと、淡雪はそう指示した。言われた通りにすると、彼は懐から乳白色半透明で卵にも似た『石』を取り出し、私と樹の間に置いた。


「『精錬石アルケミア』を媒体にして、彼と君の『ソフィア』を混同する。…もう一度言うけど、この方法で帰着した精神記憶は、多くの場合元の人間に悪影響をもたらす。例えば、片方の『ソフィア』が不完全である場合だ。彼の『ソフィア』の再構築が不完全だった時、彼の精神空間を垣間見ることはできても、自分自身の『ソフィア』が飽和して精神障害を引き起こす。そうなってしまったら、君は今までどおりに物事を考えられなくなってしまうだろう」


 淡雪はここで言葉を切り、私を見上げた。彼の目は慈愛の色をしていたが、その顔はどこか寂しげだった。『ソフィア』…。(かつ)ては『知の集合』といわれていた。知識、技術、記憶、性格、そして感情。人の『精神』と呼ばれるものが分析可能となって久しく、それはいつしか『ソフィア』という名を冠して人々に認知されていた。色のスペクトルも波長ももたない『ソフィア』は、身体を流れる血流と同じように、身体を廻っている。四肢・五臓六腑から、神経伝達物質、血液、細胞の構成物に至るまで、あらゆる箇所に潜在し、生命が尽きるまで『ソフィア』は人の身体を廻っている。私にも。淡雪さんにも。…彼にも。


「…感情だって、変わるかもしれない。そして、今回はその可能性を十分に有している。…本当に、いいんだね?」


 『ソフィア』はその人そのもの。それ以上でも以下でもない。私のソフィアが乱れれば、私は『私』ではなくなる。完全なものと不完全なものの融合は、原型をとどめず不完全な混同物となるだろう。


「私は…、知ることさえできればそれでいいんです。…お気遣いありがとうございます」


 本心からのお礼にもかかわらず、淡雪の表情は依然として固いままだ。


「…言ったよね。これは彼の本望じゃないんだ。…僕は、忠告したからね」


 淡雪は本気で、私を気遣ってくれている。そして何より、彼の本意を汲んでくれている事が嬉しかった。それだけに申し訳ない気持ちで胸が苦しいが、可能性がなくなってしまう前に、それに賭けてみたいという気持ちのほうが勝っていた。

 淡雪の親切に首肯で応えると、彼も心を決めたのか、両手を『石』の上に重ねて載せた。


「じゃあ、始めるよ。彼の事を一心に想うんだ。君がすべき事はそれだけ。いいね?」


 二度目の首肯。

 私が集中するのと同時に、足もとで淡雪の手が仄かに白く明るくなった。

 感じる。

 手の平、腕、肩、首、そして胸、腹…と、何かが流れ込んでくるのがわかる。

 そして気づく。

 言葉では言い表せない温もりが、全身を走っている。

 

 これは、彼だ。『彼』なんだ。


 全身を廻る速度が速くなり、『ソフィア』の流動は熱を帯びた。

 次第に視界が白け、何も見えなくなる。

 意識が遠くなるのを感じる。

 しかし、意志だけは保ち続けていた。


 知りたい。

 あなたの見たもの。聞いたもの。感じたもの。

 会いたい。

 あなたの記憶に。想いに。あなた自身に。

 会える。

 きっと会える。


 …会ってみせる。


 必ず。

私の処女作となる作品です。描写、語彙、センスもろもろ未熟なところではありますが、どうか末永く(?)お付き合い戴けたら幸いです。また、投稿ペースは徐々に遅くなることが予想されますのでご了承くださいorz

それでは引き続き『BABEL』をお楽しみください!


また、この物語はフィクションですので、実在の人物・団体・事件・その他物語とは一切関係ありませんよ。

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