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私を捨てて侯爵令嬢に乗り換えた元婚約者へ。彼女の家、破産しているそうですよ

作者: 夜明け前
掲載日:2026/03/24

夜会の一角で、婚約者であるヴィクトル・ハーゼ様は私にこう言った。


「セリア。お前は冷たい女だ」 


開口一番それか、と思ったが、黙って続きを待つ。


「笑ってばかりで何を考えているかわからない。俺はそういう女は苦手なんだ」


ヴィクトル様の隣には、見慣れない令嬢が立っていた。侯爵家の令嬢だと、見ればわかる。立ち居振る舞いも、纏うドレスも、宝飾品の一粒一粒に至るまで、すべてが格上を主張していた。


「紹介しよう、ミレーナ・ソーラ嬢だ。俺が本当に求めていた女性はこちらだった。だから婚約は破棄させてもらう」


驚かなかった、と言えば嘘になる。

だが、こうなる予感はずっとあった。ヴィクトル様の目が私を映すとき、どこか面倒そうな色があることに、気づいていたから。私はなるべく丁寧に、一礼した。


「お幸せに」


それだけ言って、背を向けた。

その瞬間、背後でミレーナ嬢の声がした。


「……可哀想に。悔しくもないの? 泣きもしないなんて、最初から愛していなかったんじゃないかしら」


足が、一歩だけ止まった。

泣きもしない。そう、私は泣けない。


「泣いてほしかったのですか」


振り向かずに、私は言った。


「それは……申し訳なかったですね」


笑顔のまま、今度こそ歩き出した。


*** 


夜会の帰り道、馬車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。

泣けない。泣きたいのかどうかも、よくわからない。ただ胸の奥が重くて、それをどこにも出せないまま、流れていく街灯の光だけ眺めていた。


思い出すのは、決まって父の顔だ。

七つの頃、飼っていた猫が死んだ。庭の隅に埋めて、夕飯の席で泣いた。父はひと言だけ言った。


——みっともない。ランフォードの女は人前で泣くな。


九つの頃、仲の良かった友人が遠くへ引っ越した。別れ際に泣きそうになって、こらえた。こらえながら笑った。帰り道に父が言った。


——それでいい。


褒められたのかどうか確かめる前に、馬車の扉が閉まった。


それからだと思う。

泣きたいときに笑う癖がついたのは。笑っていれば叱られない。笑っていればランフォードの女として正しい。そうして気づいたら、泣き方がわからなくなっていた。 


今夜も、泣けなかった。


*** 


翌日、私は王都外れの小さな公園にいた。

人気のない石造りのベンチに腰かけて、ただ空を見上げていた。公園の端に、白い花が咲いていた。名前は知らない。小さくて、目立たない花だった。風に吹かれてかすかに揺れているそれを、何となく眺めていたら。


「……随分、空が好きなんですね」


声をかけられた。


見上げると、男が立っていた。砂色の髪に、少し眠そうな金茶の瞳。服装は上質だが飾り気がない。年は私と同じくらいか、少し上か。ひと目見て貴族だとわかる立ち姿だったが、貴族らしい取り繕いがまるで感じられなかった。


「人の顔を見るより楽ですから」

「なるほど」 


彼は特に驚く様子もなく、少し離れたベンチの端に腰を下ろした。断りもなく、かといって馴れ馴れしくもなく、ただ自然に。まるで昔からそこにいたかのように。


「昨夜の夜会にいましたね」


私は少しだけ警戒した。


「見ていたのですか」

「見ていました。ひとつ聞いていいですか」 


間があった。風が木の葉を揺らす音だけが続いて、それから彼は言った。


「あの笑顔は、強がりですか。それとも本物ですか」 


答えられなかった。自分でも、わからないから。


「……どちらでもいいです」

「どちらでもいいと思いますよ、俺も」


あっさりと言うので、少し毒気が抜けた。


「申し遅れました。カイエン・ドレストといいます。よかったら、また」


それだけ言って、彼は立ち上がった。

名前も聞かずに行くのかと思ったら、数歩歩いたところで振り返った。


「名前、聞いてもいいですか」

「……セリアです。セリア・ランフォード」


彼はそれを聞いて、小さく笑った。何がおかしいのかわからなかったが、悪い笑い方ではなかった。


*** 


それから、私はちょくちょくカイエン様と顔を合わせた。


最初は偶然だと思っていた。

二度目も偶然かと思った。

三度目に同じ公園で鉢合わせたとき、私は言った。


「……待っていましたか」

「はい」


即答だった。

もう少し誤魔化すかと思っていたので、こちらが面食らった。


「なぜですか」

「あなたが気になるので」

「それは理由になっていません」

「なっていないですね」


彼は全然悪びれなかった。

市の立つ広場で、焼き菓子を食べ歩いた。

午後の光が石畳に温かく降り注いでいた。


「これ、すごく美味しいですよ」

「……本当だ」


カイエン様は一口食べて、しばらく黙った。それから露店の方をじっと見た。


「何を考えているんですか」

「どうやって作っているのか気になって」

「食べながら考えることですか、それは」

「美味しいものには理由があります。理由を知りたい」


その真剣な顔がおかしくて、私は少し笑った。

古書店で、背表紙だけ見て中身を当てる遊びをした。

棚と棚の間の狭い通路に並んで立って、交互に本を指さして。


「これは恋愛もの」

「はずれ。戦記です」

「……この表紙のどこに戦が」

「だから面白いんですよ」


カイエン様はその本を手に取って、ぱらぱらとめくった。


「……本当だ。第二章で主人公が死んでいる」

「ええ、びっくりしますよね」

「あなたはなぜそれを知っているんですか」

「読んだことがあるので」

「なぜ読もうと思ったんですか」

「表紙が花模様だったので」


彼は少し考えてから、「なるほど」と言って本を買った。

川沿いの遊歩道を、目的もなく歩いた。夕方で、水面がオレンジ色に染まっていた。


「どこか行きたいところはありますか」

「特に」

「では、ないところへ行きましょう」

「それはどこですか」

「歩けばわかります」


結局二時間歩いて、知らない菓子屋を見つけて、二人で黙々と食べた。

帰り道、カイエン様は言った。


「楽しかったですか」

「……なぜ今それを聞くんですか」

「あなたが笑っていたので。本物かどうか気になって」


私は少し考えた。


「……楽しかったと思います」

「よかった」


それだけだった。それだけなのに、それで十分だった気がした。


そしてある日の帰り道、川沿いを並んで歩きながら、私はふと言った。


「カイエン様は、泣いたことがありますか」

「ありますよ。子どもの頃は」

「今は?」

「今は……あまり。なぜですか」


少し迷って、言ってみた。


「私は泣けないんです。泣き方を、忘れました」


カイエン様は歩きながら、少し考えるような間を置いた。

川の音がその沈黙を静かに満たしていた。


「忘れたんですか。最初からないわけじゃなく」

「ええ。昔は泣いていたと思います。ただ……泣くたびに叱られていたので」

「誰に」

「父に」 


また間があった。水鳥が一羽、川面を横切っていった。


「それは」


カイエン様がようやく言った。


「つらかったですね」


同情でも分析でもなく、ただそれだけ。なのに、それが一番胸に刺さった。


「……そうだったかもしれません」

 

自分で言って、少し驚いた。つらかった、と思ったことが、なかったから。

カイエン様はそれ以上何も言わなかった。


ただ歩き続けた。

その沈黙が責めでも憐れみでもなかったから、私は黙って歩き続けることができた。


*** 


ある夕方、カイエン様から呼び出しがあった。

大事な話がある、とだけ書いてあった。


指定された場所は、王都を見下ろせる小高い丘だった。日が沈みかけていて、空の端が橙と紫に染まっていた。礼装のカイエン様は、普段と少し雰囲気が違った。飄々とした気安さが鳴りを潜めて、どこか真剣な目をしていた。


「改めて自己紹介をさせてください」 


彼は静かに言った。


「カイエン・ドレスト。ドレスト公爵家の次男です」


息を呑んだ。


「あなたのことも調べました。セリア・ランフォード、子爵令嬢。ヴィクトル・ハーゼに婚約を破棄された」

「はい」

「一つだけ確認させてください」


カイエン様は私を真っすぐに見た。


「婚約破棄の夜、笑って帰れましたか」


思いがけない問いだった。笑えたか、ではなく——笑って、帰れたか。


「……廊下に出るまでは」


正直に言った。カイエン様は少しだけ目を細めた。


「セリア嬢、あなたに婚約を申し込みたい」

「え」

「同情でも哀れみでもありません。あなたと真剣に向き合いたいと思っている。ランフォード家の帳簿を見ました。代々、一点の誤魔化しもない。ドレスト家が進めている新事業の相手として、これほど信頼できる家はない。だから申し込む」


誠実な言い方だった。飾らず、しかし軽くもない。


「……なぜ、私に」

「三年前、ある夜会の帰りに馬が暴走したことがあります」


私は記憶を探った。


「……あの、御者が振り落とされて、周りが誰も動かなかった」

「そうです。あのとき一人だけ、笑いながら駆け寄ってきた令嬢がいた」


あ、と思った。あれは私だった。

怖くなかったのかと後で父に叱られたけど、なぜか笑って近づいていた。

笑っていないと体が動かなかったから。


「あの笑顔が本物の強さだと思った。だから覚えていた。婚約破棄の話を聞いて、あの公園へ行ったんです」 


だから、あの日。

私が空を見上げていたとき、彼は来てくれた。


「いかがですか」


私はしばらく、沈む夕日を見ていた。

カイエン様と並んで歩く自分を、想像してみた。


その顔が——笑っていた。


今度は、笑うしかないからじゃなく。


「……喜んで」


カイエン様が、初めて見るような顔で笑った。


「よかった」


それだけ言って、彼は続けた。


「ところで、やり残したことがある」

「なんですか」

「ヴィクトル・ハーゼのことです。このままにしておくつもりはない」 


私も、同じ気持ちだった。


「私も、同じです」


夕焼けが橙から赤へと深まり、王都の尖塔の影を長く伸ばしていた。


***


一週間後、ソーラ侯爵家主催の夜会が開かれた。ヴィクトル様とミレーナ嬢の婚約発表の席だ。

シャンデリアの光が磨かれた床に反射して、どこを見ても光と笑顔に満ちている。その中心で、久しぶりに見るヴィクトル様は晴れやかな顔で賓客に宣言していた。


「このたび、ミレーナ・ソーラ嬢と正式に婚約いたしました。末永くよろしくお願いいたします」


ミレーナ嬢がヴィクトル様に寄り添う。


「嬉しいわ。これでヴィクトル様とずっと一緒にいられますもの」

「ついでに発表がございます。ドレスト公爵家が主導される新たな事業に、ハーゼ家も加えていただけることになりました。カイエン様のお引き立てに、深く感謝申し上げます」


招待客席のカイエン様が静かに頷く。その場の空気が成功と祝福で満ちた。

そこへ私は進み出た。できるだけ静かに、丁寧に、カーテシーをした。


「お久しぶりです、ヴィクトル様」

「……っ。セリア、なぜここに」

「カイエン・ドレスト様のお付き添いで参りました。ご婚約、おめでとうございます」


ヴィクトル様の顔が、みるみる強張った。隣でミレーナ嬢が目を細める。


「あら、あの夜の方ね。泣きもしなかった」

「ええ」

「今日はどういうご用件かしら。みっともなく追いすがりに?」


会場の視線が集まった。

私は笑顔をひとつ、外した。

笑顔でも強がりでもなく。ただ真っすぐに。


「一つだけ、訂正させてください」

「何を」

「私が泣かなかったのは、冷たいからではありません」


シャンデリアの光だけが、変わらず煌めいていた。


「幼い頃から、父に言われ続けました。ランフォードの女は人前で泣くな、みっともない、と。泣くたびに叱られて、泣くたびに恥だと言われて——気づいたら、泣き方を忘れていました。だから泣けなかった。泣かなかったのではなく、泣けなかった。それだけのことです」


誰も何も言わなかった。

そこへカイエン様が隣に立った。

静かな声が、広間によく通った。


「付け加えさせてください、ハーゼ卿」

「か、カイエン様……?」

「三年前、暴走する馬に誰も近づけなかった夜、笑いながら駆け寄ってきた令嬢がいた。セリア嬢です。笑っていたのは強がりではない。怖くても体を動かすために、笑うしかなかったからだ。それがこの人の強さです。その強さを、泣かないことを冷たいと切り捨てた。それがあなた方だ」


ミレーナ嬢の顔が青ざめた。ヴィクトル様は口を開いたが、言葉が出なかった。


「もう一つ。ハーゼ卿、先ほどの事業の件ですが——婚約者を裏切り、夜会の場で辱めるような方と、公爵家の名をかけた事業を共にすることはできません。ドレスト家としても、ハーゼ家との提携は白紙に戻させていただきます」


会場がざわめいた。ヴィクトル様の顔から、みるみる血の気が引いた。


「もう一点。ソーラ侯爵、少々よろしいですか」


ミレーナ嬢の父が前に出た。困惑の顔だった。


「ドレスト家の顧問が先週より調査しておりました件、この場でご報告いたします。ソーラ侯爵家の財政状況について、開示いただいていた数字と実態に、相当の乖離があることが確認されました。詳細は後ほど正式に」 


ミレーナ嬢の顔が、青を通り越して白くなった。ヴィクトル様はミレーナ嬢を見た。


ミレーナ嬢は視線を逸らした。その一瞬で、全部わかってしまったのだろう。格上の家を選んだはずだった。財のある家と組むはずだった。そのために、私を捨てた。

そのすべてが砂の上に建てた塔だったと——今夜、公の場で暴かれた。


「セリア嬢は私の婚約者です。彼女を傷つけたことへの個人的な怒りも、含まれていると申し上げておきます」


しん、と広間が静まった。


「さて」 


カイエン様が私に手を差し出した。


「行きましょう」

「はい」


私はその手を取った。背後に視線を感じたが、もう振り返らなかった。

後に聞いた話では、ソーラ侯爵家の財政難は本当だったらしい。格上の婚約者を得たヴィクトル様は気づいたときには身動きが取れなくなっていた。公爵家の事業からは外れ、家中の信頼も失い、ミレーナ嬢にも程なく手切れを告げられた。泣きもしない冷たい女を捨てた男の末路には、笑えるものは何もなかった。


*** 


私とカイエン様は結婚した。

ドレスト家が主導する新事業には、ランフォード家が加わった。華やかさはないが一点の誤魔化しもない帳簿管理と、実直な交渉姿勢が評判を呼んだ。地味だが着実な仕事ぶりで、両家はともに地盤を固めていった。


ある夜、邸宅の窓辺で星を見ていたら、カイエン様が隣に腰を下ろした。書き物を終えたらしく、少し疲れた顔をしていた。窓の外、庭の隅に白い小花が植えてある。あの公園の花に似ていると思って、いつか植えた。


「カイエン様」

「何ですか」

「最初に聞かれましたね。あの笑顔は強がりか本物か、と」

「聞きましたね」

「今なら答えられます」


 彼が私を見た。


「どちらでもありました。強がりだったけれど——あなたと過ごすうちに、少しずつ、本物になっていきました」


カイエン様はしばらく黙っていた。

星の光が窓ガラスに滲んでいた。それから、静かに言った。


「泣けない分だけ、あなたの笑顔には値段がついている。私はそれを高く買っています」


胸の奥が、じわりと熱くなった。目の奥が、じんとした。

泣けないはずなのに。泣き方を知らないはずなのに。 


今は、泣いてもいいような気がした。

私は笑った。今度は、本当に嬉しくて。

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― 新着の感想 ―
素晴らしい名作ですね。 最後のシーンのカイエン様の「私はそれを高く買っています」の言葉が好きです。 二人のデートのシーンもとても微笑ましいです。 セリアが本当の気持ちで笑っているか常に気にかけているカ…
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