第二章:虚構と現実の境界線
「陽菜、ちょっといい?」
講義が終わった後、美咲が真剣な顔で私を呼び止めた。
「どうしたの?」
「今日さ、うち来ない? 話したいことがあるんだ」
美咲の部屋は、私の住むアパートから歩いて十分ほどの距離にある。ピンクを基調とした可愛らしい部屋で、何度も遊びに来たことがある。
「はい、紅茶」
マグカップを受け取って、ソファに座る。美咲は向かいの椅子に腰を下ろして、じっと私を見つめた。
「ねえ、陽菜。正直に聞くけど」
「うん」
「その本の世界、夢で見てるんでしょ?」
心臓が跳ねた。
「……なんで」
「だって、おかしいもん。最近の陽菜、ずっとぼーっとしてるし、夜もちゃんと寝てないでしょ。で、起きた時、すごく悲しそうな顔してる」
美咲は優しく、でもはっきりと言った。
「夢の中で、その推しに会ってるんでしょ?」
否定できなかった。
美咲の洞察力は、昔から鋭い。嘘をついても、すぐにバレる。
「……うん」
小さく頷くと、美咲は深くため息をついた。
「やっぱり。でもさ、陽菜。それ、大丈夫?」
「大丈夫って?」
「だって、夢と現実の区別、ついてる?」
美咲の言葉が、胸に突き刺さる。
「区別って……」
「陽菜は今、架空のキャラを好きになってる。しかも、夢の中でしか会えない相手だよ。それって、現実から逃げてるだけじゃないの?」
違う。
そう言いかけて、言葉が出てこなかった。
本当に、違うのだろうか。
「私は、ただ――」
「ただ?」
「……リアム様に、会いたいだけなんだ」
声が震える。
美咲は困ったように眉を寄せた。
「陽菜。私は陽菜のこと心配してるの。だって、このままじゃ――」
「このままじゃ、何?」
「陽菜が、壊れちゃいそうで怖いんだよ」
美咲の目が潤んでいる。
「好きになるのは自由だよ。二次元だろうと三次元だろうと、それは否定しない。でも、陽菜は今、現実を疎かにしてる。授業も上の空、友達との約束もドタキャンばっかり。全部、その夢のせいでしょ?」
言い返せなかった。
確かに、最近の私は夢のことばかり考えていた。リアムに会いたくて、早く眠りたくて、現実のことがどうでもよくなっていた。
「ごめん、美咲……」
「謝らなくていいよ。ただ、聞きたいんだ」
美咲は真っ直ぐ私を見つめる。
「陽菜は、その人を本当に愛してるの? それとも、現実が辛いから逃げてるだけなの?」
部屋に帰ってから、ずっと美咲の言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
ベッドに座って、『暁の騎士団』を手に取る。
表紙のリアムが、こちらを見ている気がした。
愛してる。
その気持ちは、本物だ。
でも、美咲の言う通り、私は現実から逃げていたのかもしれない。
大学生活は、思ったより孤独だった。高校までと違って、クラスという枠組みがない。友達を作るのも、自分から動かなきゃいけない。
美咲は最初から仲良くしてくれたけど、他の人とはうまく距離を詰められなくて。サークルに入っても、なんとなく馴染めなくて、すぐに辞めてしまった。
バイトも、接客が苦手で長続きしない。
そんな時、図書館で出会ったのが『暁の騎士団』だった。
ページをめくるたび、私は物語の世界に没入していった。そして、リアムに出会った。
彼は優しくて、強くて、誰よりも真っ直ぐで。
私が現実で出会えなかった、理想の人だった。
「……逃げてた、のかな」
呟いた声が、静かな部屋に響く。
でも、たとえ逃げていたとしても。
この気持ちは、嘘じゃない。
「リアム様……」
今夜も、会いに行きたい。
でも、怖い。
美咲の言葉が正しかったら。私は、ただの現実逃避をしているだけだったら。
それでも――。
「会いたいよ」
目を閉じる。
意識が沈んでいく。
夢の世界へ。
目を開けると、そこは城の中庭だった。
噴水の音が静かに響き、月明かりが石畳を照らしている。穏やかな夜だ。
「陽菜」
振り向くと、リアムが立っていた。
右肩の傷は、包帯で覆われている。昼間の戦闘の痕だ。
「リアム様。怪我、大丈夫ですか?」
「ああ。もう痛みはない」
彼は微笑んで、私の隣に座った。
「それより、君の方こそ大丈夫か?」
「え?」
「今日は、いつもより元気がないように見える」
リアムの言葉に、驚いた。
夢の中の彼が、私の様子に気づくなんて。
「……ちょっと、色々考えてて」
「何を?」
「私のこととか、リアム様のこととか」
曖昧に答えると、彼は首を傾げた。
「私のこと?」
「はい」
どこまで言っていいのか、分からない。
でも、このまま黙っているのも辛い。
「あの、リアム様」
「何だ」
「私、リアム様のこと――」
言いかけて、言葉が詰まった。
好き。
その一言が、どうしても出てこない。
「私のこと?」
リアムが優しく促す。
「……とても、大切だと思ってます」
精一杯の言葉だった。
リアムは少し驚いたように目を見開いて、それから柔らかく笑った。
「私もだ、陽菜」
「え……?」
「君は不思議な人だ。突然現れて、私のことを心配してくれて。まるで、昔からの友人のように」
リアムは夜空を見上げる。
「騎士という立場上、弱音を吐くことは許されない。常に強くあらねばならない。でも、君の前では、少しだけ肩の力を抜ける気がするんだ」
彼の横顔が、月光に照らされている。
こんなにも近くにいるのに、手を伸ばしても届かない気がした。
「リアム様は、孤独なんですか?」
「孤独、か」
リアムは少し考えてから、答えた。
「そうかもしれないな。副団長という立場は、部下と団長の間にある。誰にも本音を言えない」
「辛くないんですか?」
「慣れた。それが、私の務めだから」
彼の声が、少しだけ寂しそうに聞こえた。
ああ、そうか。
この人も、孤独だったんだ。
強くあろうとして、誰にも弱さを見せられなくて。
「陽菜」
「はい」
「君は、なぜ私に優しくしてくれるんだ?」
リアムが真っ直ぐ私を見つめる。
「私は、君に何もしてあげられていない。それなのに、君はいつも私を心配してくれる」
彼の言葉に、胸が痛んだ。
何もしてくれていない、なんてことはない。
リアムは、私に生きる理由をくれた。
寂しかった現実の中で、唯一の光だった。
「それは――」
告白しよう。
今、この瞬間に。
でも、美咲の言葉が頭をよぎる。
『現実から逃げてるだけじゃないの?』
もし、そうだったら。
私のこの気持ちは、ただの依存でしかないんじゃないか。
「陽菜?」
リアムが心配そうに私の顔を覗き込む。
「……ごめんなさい。なんでもないです」
結局、言えなかった。
リアムは少し寂しそうに微笑んだ。
「そうか。なら、いい」
沈黙が降りる。
噴水の音だけが、静かに響いていた。
目が覚めたのは、朝だった。
また、涙が出ていた。
「……ダメだ」
自分が情けなくて、枕に顔を埋める。
好きだって、伝えたかった。
でも、怖かった。
この気持ちが、ただの逃避だったらって。
スマホを手に取ると、美咲からLINEが来ていた。
『昨日はごめんね。でも、陽菜のこと心配だから、言わせてもらった。応援してるからね』
美咲の優しさが、胸に染みる。
『ありがとう。大丈夫だから』
返信を送って、ベッドから起き上がる。
鏡に映った自分の顔は、やつれていた。
このままじゃ、ダメだ。
美咲の言う通り、私は現実から逃げてる。
でも、リアムへの気持ちは本物だ。
なら、ちゃんと向き合わなきゃ。
現実とも、夢とも。
「……頑張ろう」
小さく呟いて、制服に着替える。
今日から、ちゃんとしよう。
授業にも真面目に出て、友達とも約束を守る。
そして、夢の中では――。
ちゃんと、伝えよう。
私の気持ちを。
たとえ、それが叶わない恋だとしても。
「陽菜、今日元気じゃん!」
大学で会った美咲が、嬉しそうに笑った。
「うん。ちゃんと、考えたから」
「そっか。よかった」
美咲は私の肩を叩く。
「で、今夜も会いに行くの?」
「うん。でも、今度こそちゃんと伝える」
「おお、頑張れ!」
美咲の応援に、少しだけ勇気が湧いた。
そうだ。
虚構と現実、どっちが大切かなんて、決める必要はない。
どっちも、私の人生だ。
どっちも、大切にしていい。
そして、リアムへの気持ちは――。
絶対に、伝える。
次に会った時、必ず。




