序章:一冊の恋、二つの世界
カフェのテーブルに置いたスマホが震える。また友達からの「飲み会どう?」っていうLINEだ。
「ごめん、今日はバイトで……」
嘘だ。本当は、早く家に帰りたい。
私、桜井陽菜は、今年で大学三年生。ごく普通の文学部生で、ごく普通の友達がいて、ごく普通の毎日を過ごしている。
でも、一つだけ。
誰にも言えない秘密がある。
バッグの中で、いつものように『暁の騎士団』の文庫本が私を待っている。表紙は何度も触ったせいで少しすり減って、栞代わりの付箋がたくさん挟まっている。
この本の世界に、私の初恋がいる。
リアム・フォン・アーデルハイド。
魔王討伐を目指す騎士団の副団長で、銀の髪と蒼い瞳を持つ、完璧な騎士。でも、物語の中盤で致命傷を負って、仲間を庇って死んでしまう。
私がこの本を初めて読んだのは高校二年生の夏。図書館で何気なく手に取った一冊が、私の世界を変えた。
最初はただの推しキャラだった。
かっこいいな、って。守りたいものがある人って素敵だな、って。
でも、ある日、夢の中で彼に会ったんだ。
それは、まるで本当にそこにいるみたいだった。焚き火の匂い、風の音、彼の声。全部、リアルだった。
「君は……誰だ?」
彼が私を見つめて、そう言った。
夢なのに、挿絵よりもずっと格好良くて、驚くほど優しい目をしていた。
それから何度も、夢の中で彼に会いに行くようになった。
でも、問題がある。
リアムは、死ぬ運命にある。
作者が決めた結末は、変わらない。どれだけ読み返しても、彼はあの場面で倒れて、仲間に看取られて、静かに息を引き取る。
「リアム様……」
ベッドに入って、本を抱きしめる。今夜も、また会えるだろうか。
目を閉じると、いつもの感覚が訪れる。体が軽くなって、意識が沈んでいく。
そして――。
「また来たのか」
焚き火の前で剣を研いでいる彼が、顔を上げて微笑む。
「……はい」
私は頷いて、彼の隣に座る。
これが、私の秘密。
本の中の推しが、私の初恋でした。
「陽菜、最近ちゃんと寝てる?」
翌朝、大学の講義の合間に、親友の美咲がジト目で私を見てくる。
「寝てるよ?」
「嘘。クマ出来てるし、ぼーっとしてる時間多いよ」
美咲は心配そうに眉を寄せる。優しい子だ。だからこそ、言えない。
夢の中で、本の世界の騎士に会ってるなんて。
「大丈夫だって。ちょっと読書にハマっちゃって、夜更かししただけ」
「またその本?」
美咲が私のバッグから顔を覗かせている文庫本を指す。
「うん。何回読んでも面白いんだよね」
「でもさ、その推しキャラ、死んじゃうんでしょ? つらくない?」
美咲の言葉が胸に刺さる。
つらい。
とてもつらい。
でも、夢の中で会える今は、まだ彼は生きてる。笑ってる。私と話してくれる。
「……大丈夫。慣れたから」
嘘だ。
慣れるわけがない。
物語はもう終盤に差し掛かっている。魔王との決戦まで、あと数章。
リアムの死まで、時間がない。
「ねえ、陽菜」
美咲が真剣な顔で私を見る。
「もし、その推しを助けられる方法があったら、どうする?」
「……え?」
「だって、陽菜、本気で悲しそうだもん。架空のキャラだって分かってるけど、大切なんでしょ?」
美咲の言葉に、胸が熱くなる。
もし、助けられるなら。
もし、運命を変えられるなら。
「……助けたい」
小さく呟いた私の声を、美咲は優しく受け止めてくれた。
「じゃあ、頑張って。陽菜の恋、応援してるから」
恋。
そうだ。これは、恋なんだ。
本の中の人を好きになるなんて、おかしいかもしれない。
でも、この気持ちは本物だ。
だから今夜も、私は夢の中で彼に会いに行く。
刻一刻と迫る、彼の最期を止めるために。




