第一話 葉の速度
森の光は、遅い。まるで時間の表面を撫でる液体のように、葉の上に沈み、幹の影へと吸い込まれていく。私はいつも、それを目で追いきれずにいる。ひとつの葉が揺れるあいだに、十度ほど呼吸を数える。風の重さが変わる。音が届くのも遅い。鳥の羽ばたきが、瞬きののちようやく耳に届く。世界全体が、少しずつ古くなりながら続いている。
銀樹の聖域。その中心にあるこの森は、五百年前と同じ姿で沈黙を続ける。より正確に言えば、沈黙そのものが肥大している。枝に積もる光の層は厚く、葉ごとに時の粒が堆積する。触れると、冷たさの奥で微かな震えが立つ。風ではない。時間の震え――硬化の音。回廊の共鳴壺もまた、波紋が七つで消えていたものが、近ごろは三つで凍る。
かつて、私はこの森を守る者だった。人間たちはまだ短い時間しか持たず、デーモンの脅威に怯えていた。彼らの時間は速かった。燃えるように。私はその速度を恐れ、同時に憧れていた。速さは力であり、衰えの兆しでもある。彼らは燃え尽きることで歴史を作った。私は永く生きただけで、記憶を重ねることもやめていた。いまではその記憶すら、手触りを失っている。
朝の光が、銀樹の幹を斜めに滑る。木肌は灰のように乾いており、触れると粉の感触を残す。かつて樹皮の下を流れていた聖なる樹液は、いまは凝固し、薄い硝子膜となって反射している。そこに映るのは、老いた私の影。髪は白く、瞳の色も褪せた。精霊が宿ると信じた頃の私はもういない。だが、その亡骸のような私を、森はいまだ私を観測対象として識別している。
風が渡る。葉の擦れる音が、ゆっくりと、まるで遠くの鐘の音のように遅れて届く。私は歩みを止め、耳を傾ける。かつてはここで、精霊たちの囁きが重なり、森そのものが言語で満ちていた。いまはただ、湿った空気が葉の間を滑っていくだけだ。だが、ときおりその沈黙の中に、意味の残響のようなものが浮かび上がる。音ではなく、形のない文。たとえば「まだ」とか、「見ている」とか。
私は足元の苔を踏む。冷たさが脛を上る。苔は灰色がかっており、まるで古い記録紙のようだ。触れるたびに、その上に刻まれていたかつての声が消えていくように感じる。森は記録を遅らせはじめた。精霊は沈黙を選び、言葉のかわりに「硬さ」を遺した。私たちは、その硬さの中で呼吸している。
銀樹の根の下に封印の空洞がある。そこでは時間がさらに遅い。私はときおり降りる。音は消え、鼓動も聞こえない。かわりに、世界の揺らぎが層を成して見える。石壁の内側を光が移る。遅く、しかし確実に。私はそこで知る。
――時間は流れない。薄く、擦り切れていく。
私はよくチェス盤を広げる。盤上には、古い英雄たちの名を刻んだ駒が並ぶ。デーモンを倒したときの記憶が、唯一この手の中に残っている。駒の角を指で撫でるたび、あの戦場の冷気が蘇る。血と灰、魔力の焦げた匂い、そして仲間の声。彼らはすべて死んだ。私は生き延びた。均衡を保つために。だが、均衡とは何だったのか。――記すたび、過去の一部が燃焼する。
私は人間を助け、そして彼らを抑えた。善も悪も、時間の速度にすぎない。速すぎる者は燃え尽き、遅すぎる者は化石になる。私はその中間で立ち止まり、ただ観測してきた。だが、観測者はいつか、世界の速度に追いつけなくなる。私の視界は、すでに光に追いつけない。
昼が来る。森の色がわずかに変わる。葉の裏に光が入り込み、緑が銀に変わる。鳥は鳴かず、虫は鳴かない。風が止まる。すべてが一つの呼吸に収束する。私はその瞬間、世界が停止しているように感じる。だが、静止は死ではない。沈黙は終わりではない。むしろ、この遅さの奥底に、まだかすかな鼓動が潜んでいる。それは、世界の残響。老いの音。硬化した時間の摩擦音。
足元で、一枚の葉が落ちた。地面に触れるまで、永遠にも似た時間がかかる。葉脈の一本一本が光を抱え、空気の層を滑り降りていく。その軌跡を目で追ううちに、私は思う。この森の遅さは、私自身の速度だ。世界は止まってはいない。止まっているのは、私の感覚だけだ。
私は葉を拾う。手の中でそれは微かに温かく、かつての風をまだ記憶している。その温度が、私の掌から腕へ、胸へと伝わる。私はそのまま息を吐く。吐いた空気が葉の上で震え、光を揺らす。
――まだ、世界は動いている。
その思いだけが、まだ私をこの世界に留めている。葉を置く。指先に残る粉が淡く光る。私はそれを見つめ、遠い風の気配を待つ。風はまだ来ない。森は静かだ。沈黙の奥で、遅い構文がゆっくりと寝返りを打つ。――観測を保ち、いずれ調律へ。




