1、聖騎士団長、部下に休憩を勧められる
前作「聖騎士団員、帰郷するなり魔物に呑まれる」で、モリーが家もどきに呑まれた翌日の聖騎士団本部でのお話です。
――聖騎士団員ヴィーナス・モリー・ターナーが、故郷で魔物に呑まれた。
エズメ・ロイド教授からそう報せがあったのは、昨夜のことだった。
教授はモリーを救出するため昨夜の内に出発し、夜行特急列車で彼の地に向かっている。秘書のローラ・ホプキンス嬢、それから「黒き森の大聖女」ベッキーとその使い魔のシェーンを連れて。現場最寄りの駅に到着するのは今日の夕方四時頃になるだろう。
モリーの危機を教授に知らせたのは、モリーの実家のブラウニーだった。衰弱により充分な説明が出来る状態ではなかったが、ローラ・ホプキンス嬢の「補足」の魔法によって、大体の事情は判明している。
それを受けて、聖騎士団の各部門も既に動いている。
一級守護者のメグはモリーが家もどきに呑まれたと知ると、青ざめた顔で硬直した。けれどもベッキーからコマドリ型の使い魔ロビンを通じて「護り指輪を所持しており、呑まれた本人も強い破魔の力を持っているのなら、望みはある」と伝えられると、飛ぶように礼拝室に駆けて行った。
モリーの護り指輪にはメグの魔力と祈りが込もっている。遠くからではあるが、祈ることでモリーの護り指輪を更に強化するつもりなのだろう。
現時点では聖騎士団長ハワード・キャンベル卿は、本部の対策室でどっしり構えているべきなのだ。――本来ならば。
しかし、彼は年上の部下から休憩を取ることを強く勧められた。何かあればすぐに伝えますから、と。
ハワード卿は勧めに従い対策室を出た。
聖騎士団本部には、魔法玄関と呼ばれる場所がある。
移動魔法陣や妖精の輪を用いて移動する者のために用意された空間だが、現在はそれほど使われない。
何故なら、その手の魔法を使えるほどの魔力の持ち主が、今や片手で数えるほどしかいないからだ。
だから、ハワード卿は、一人になりたい時は此処に足を運ぶことが多かった。
昼の間は灯すことを禁じられたシャンデリアと、明かり取りの天窓一つが遥か高い所にあるきり、四方の壁も床も滑らかな白い大理石で作られたその部屋にいると、いつも不思議と心が休まるのだった。
魔法玄関に来たハワード卿は、南側の壁に彫られた、大きな扉の形のレリーフを見つめた。今でこそ単なる装飾と化してはいるが、百五十年前、この扉は半エルフの侯爵ラウル・イドロメルが長距離移動に使っていた本物の魔法扉だった。
元々、この聖騎士団の建物は、未来の花嫁のためにラウルが建てたものだ。
しかし婚礼間近となった頃、旧大陸の神聖帝国で皇位継承争いが起こり、その混乱に乗じて神聖帝国東部の属国で半エルフ大虐殺が始まった。そして、同胞を救おうと彼の地に赴いたラウルも消息不明となった。最愛の女性をこの北部連邦に残して。
その女性こそエズメ・ロイド教授やハワード・キャンベル卿の名付け親、「黒き森の大聖女」とも称されるベッキーだ。
ラウルはベッキーが旧大陸まで自分を追って来ないよう彼女の移動魔法を封じ、しかも足留めの魔法をかけた。だから、ベッキーは今でも移動魔法を使えず、この北部連邦の国境を越えることも出来ない。
ベッキーはラウルの出発後、自らにかけられた封印と魔法を解こうとした。普段は眠りに就いている太古の精霊と高位の魔物の意識体を全て召喚して誓いを立て、それを達成することで、太古の精霊や高位の魔物の意識体から助力を得るという形で。
ベッキーは儀式の場で、人間の子ども百人の名付け親となって彼らを護ると誓った。だが、ベッキーを育てたオーガの女王の意識体が制約をつけた。名付け子とするのは強い魔力と気高い魂を持つ赤ん坊だけ。必ずその親の許可を得なければならない、と。
ハワード卿は九十七番目の名付け子にあたるが、彼の後にベッキーの名付け子になった者はない。
何故なら、封印と魔法を解いてもベッキーはラウルと再会出来ないことが分かってしまったからだ。
三十年前、ラウルの最期を知るシェーンが、ラウルの遺骨を携えて現れたことによって。
どれほど愛しても恋焦がれても報われないことがある。この魔法玄関は、その現実を思い出させる場所でもある。
ハワード卿はこう思った。聖騎士団長でありながら自分は無力だ。出来たことは、各部門に指示を出し、通信用として分身させたロビンを関係者に一羽ずつ付けたくらいではないか、と。
今、モリーが囚われているのはスカーレットウッズという森だ。そこは自然の魔力が湧き出す真なる聖域の一つであり、その魔力に惹かれて多くの妖精たちが隠れ棲み、森を守っている。
そこに邪悪な魔物が入り込んだということは、森を守る妖精たちの情緒も不安定になっているということ。その状態の森に立ち入ることが出来るのは、妖精の魔法への耐性が強い人間か、或いは人ならぬ者のみ。
ハワード卿は人間で、妖精の魔法に対する耐性はやや強い程度。無理をして森に入れば妖精たちや魔物を刺激して事態を悪化させるとわかっていた。
知らず、彼は膝をついて祈っていた。
モリーの金褐色の髪も青い瞳も、朗らかな笑顔も、彼にとっては光なのだ。モリー本人はそのことを知らなくとも。
――どうか、無事で。
彼はしばらくそうしていた。
「ハワード卿、どうしたのだね」
威厳と知性を感じさせるバリトンの声に、ハワード卿は目を開けた。
そこには大きな猫が立っていた。頭から尾の先まで漆黒の長毛に覆われているが、胸から腹にかけての毛は純白。逆三角形の輪郭の中に高い鼻とペリドットの瞳がバランス良くおさまった美しい猫が。
「……これは、オシアン殿。今、おいででしたか」
ハワード卿は立ち上がって敬礼した。この大きな猫はヒルダ・フォスター第三隊長の使い魔。その正体は猫型妖精の王だ。
オシアンが溜め息混じりに言った。
「我が最愛をエリザベスタウンに留めておくために、一人で此処に来たのだよ。我が側にいなければ、彼女も待機命令を守るほかないのでね」
ヒルダにとって、ヴィーナス・モリー・ターナーは最愛の妹が遺した唯一の肉親だ。
ヒルダの妹が息を引き取った時、ヒルダは任地で暴れていた人狼を辛くも倒したところだった。戦いの日々を送る身では赤ん坊を引き取って育てることなど不可能で、已む無く妹の夫の両親に生まれたばかりの姪を託した。
休暇が取れた時には必ず沢山の贈り物を抱えて、妹の夫の両親の家にいる姪を訪ねた。ヒルダが抱えきれなかった分の贈り物はいつもオシアンが転送したものだ。
そして、姪が成長して聖騎士団員を目指すと、ヒルダは姪をなるべく危険から遠ざけようと、前衛ではなく守護者になるように強く説得した。
それほど愛している姪の安否を、ヒルダが案じていないはずがないのだ。
「我ならば、スカーレットウッズに入るのは容易い。しかし残念なことに、我の火魔法は加減が出来ない」
猫型妖精の王オシアンが使える火魔法は「煉獄の炎」のみ。家もどきどころか、その体内にいるモリーも周囲の森も諸共に焼き尽くす危険がある。
「それに、ヒルダは今でも、あの邪悪な女が妹君に手を下したと考えている。しかも今回モリー嬢が魔物に呑まれた件も、どうやらあの女が仕向けたという話ではないか。もしヒルダの手の届く範囲にあの女がいたならば、どうなるか。あの邪悪な女の流す血が我が最愛の魂に罅を入れるようなことなど、あってはならぬ。だから我は、あえて今は彼女から離れるのだ」
「オシアン殿はそのようにして、愛する女性を守っておいでなのですね」
ハワード卿はオシアンと自身を引き比べた。
「私は情けない身です。愛する女性を助けに行くことも出来ず」
コマドリ型の使い魔ロビンは、使役しようとすると、何故か大量に魔力を持って行きます。しかもロビンを分身させれば分身一体につき、きっちり一体分ずつ魔力を取られます。
ハワード卿に自覚はありませんが、その状態で動き回れる(戦闘も出来る)人間は、他にいません。




