氷華の誓いと黒鉄の騎士
ルシア・エーヴェルトは、薄く張った氷のような微笑を浮かべて王宮の門をくぐった。
陽の光は高く、まるで祝福するかのように白銀のドレスを照らしている。だが、ルシアの胸の奥は、冷たい風が吹き抜けるように空虚だった。
これは結婚ではない。
これは処刑だ。
「陛下はお待ちでございます。ご案内いたします、側仕えとして配属された者たちでございます」
淡々とした侍女の声が耳に入る。三人の侍女たちは皆、緊張に肩をこわばらせていた。
ルシアは頷き、無言で歩き出した。
彼女が嫁がされたのは、隣国ガルディア帝国の“黒鉄の獣”と呼ばれる皇帝カイル・レオグラン。
かの男は、政敵の粛清を笑顔で行い、捕虜をその手で斬り捨てるという噂で名高い。
父王は言った。「戦争を避けるためには仕方ないのだ」と。
兄は目を背け、母は泣いた。
そしてルシアは、何も言わずに頷いた。
「こちらが御寝所でございます」
装飾のない黒い木の扉。その向こうにいるのが彼女の“夫”。
薄紅の唇を噛み、ルシアはわずかに震えた指でペンダントを握る。
それは、彼女の幼馴染であり、婚約者であったラルフから贈られたもの。
銀の鎖に、ひとひらの青い氷のような宝石が揺れている。
「絶対に、君を迎えに行く。例え地獄の底であっても」
別れの日、彼はそう言ってくれた。今でもその言葉を信じている。
けれど、その希望さえ、今日という日に押し潰されようとしている。
「入れ」
低くくぐもった声が響いた。
扉が開かれる。中にいたのは、黒髪に深紅の瞳を持つ男。冷え切った空気を纏いながら、彼はルシアを見据えた。
「貴様が、エーヴェルトの令嬢か。随分と華奢だな」
「……ご挨拶、申し上げます。ルシア・エーヴェルトでございます」
「今宵、お前がこの帝に相応しいか、確かめてやる」
ゾクリと背筋を走る冷たい感覚。恐怖が血を凍らせる。
逃げ出したい、けれど逃げられない。
後ずさろうとした瞬間、侍女が小声で耳打ちした。
「どうか……皇帝陛下を怒らせないで下さい……私たちが殺されてしまいます……」
その言葉に、ルシアの膝が震えた。
「……承知しました」
ベッドの上で、彼女はただ耐えた。心を、魂を、遠くに飛ばして。
ラルフの笑顔を思い出しながら。
終わった後、部屋に戻される。痛む体を侍女たちが優しく拭い、薬草の湯で洗ってくれる。
「ありがとうございます……」
「あなた様が無事でよかった……」
ルシアは唇を噛み、ただ頷いた。
死にたい——そう思う夜が続いた。
何度もバルコニーから風を感じた。三階。飛べば、終わるかもしれない。
だが、飛び降りるたびに、どこからか現れるのだ。
筋骨隆々とした謎の男が、彼女を支え受け止める。
「……またあんたか」
「またって言うな。癖になってるのか、飛ぶの」
「……どうして、そんなところにいるのよ……」
「んー、任務中? 内緒だ」
冗談のように笑って、彼は姿を消す。そしてその数日後、帝国を騒がせる事件が起きた。
皇太子の失踪、側近の謀反、そして——
“黒鉄の皇帝、謎の急死”。
死因は不明とされたが、帝国の民はその日、祝福のように酒を飲み、喜んだ。
そして、ルシアは元の王国へ帰された。
祖国の門で、彼女を迎えたのは、ラルフだった。
「ルシア……!」
「ラルフ……!」
再会の抱擁は、涙とともにあった。
「私は……私は……もう、汚れているのよ……」
「関係ない。君が生きていてくれた、それだけでいい。君は、俺の誇りだ」
両親も涙を流し、娘を抱きしめた。
そして月日が流れ、ルシアはラルフと結婚した。
今、彼女の腕の中には新たな命がある。
「少し重くなってきたな。無理するなよ」
「ええ、あなたが傍にいるから、わたしは幸せよ」
氷のようだった心が、今では春の陽光のように温かい。
もう二度と、あの日のような夜は来ない。
それが、ルシアの新しい誓いだった。
それは、皇帝カイルが死んだ翌日のことだった。
ルシアのいる離宮の前に、見知らぬ騎士たちが立ち並んだ。全員、銀の紋章を肩に掲げている。ガルディア帝国の帝国騎士団本隊——皇帝直属の精鋭であった。
「ルシア・エーヴェルト殿。皇帝陛下が崩御された今、そなたには調査の必要がある」
「……調査?」
その言葉に、侍女たちが怯えて後ずさる。
「まさか、陛下の死にわたくしが関係していると……?」
「その可能性も含め、公式な尋問の場にて問う。同行願う」
拒否権などなかった。連れていかれたのは、皇城の地下深くにある密室——“氷華の牢獄”と呼ばれる場所だった。
冷たい石壁と薄暗い明かり。床には苔すら生えていた。
連れてこられたルシアは、白い礼装のまま、粗末な木椅子に座らされた。
数時間も、何も起きなかった。
監視の目だけが、鋭く光っている。
そして、その夜、扉が開いた。
「ようやく、会えたな。皇帝の花嫁殿」
現れたのは、ガルディア帝国の第二皇子にして、新たに皇位を継承することとなったセイル・レオグラン。
父の死によって即位が決まりながら、まだ“皇太子”という立場で彼は現れた。
彼はルシアの前に立ち、薄く笑った。
「君を尋問する役は、僕が買って出た」
「……光栄ですわ」
「皮肉を言う余裕があるとは。だが安心してほしい。僕は兄上ほど無慈悲ではない」
その瞳は、兄の深紅とは違い、琥珀色に近い光を宿していた。
「兄の死因は確かに不審だ。侍医は“突然死”と結論付けたが、それが本当に自然死か、我々の中には疑問視する声もある」
「わたくしは、ただの駒です。王命により嫁がされたに過ぎません。陛下の死に、わたくしが関わる理由がありませんわ」
「だろうな。だが、世の中には理屈だけで通らぬものもある」
セイルは近付き、ルシアの前に膝をつくようにして顔を覗き込んだ。
「君は……何かを隠していないか?」
「……」
ルシアは、幼馴染ラルフと交わした約束を思い出す。
あの夜、皇帝の寝所で冷たい視線を向けられた日々。
苦痛、屈辱、恐怖。それら全てを心の奥に押し込んできた。
「申し訳ありませんが、わたくしに語れることはありません」
「……そうか。ならば、ここにしばらく留まってもらおう」
ルシアは牢獄に残された。食事は粗末なパンとスープ。体調が崩れぬよう侍医が訪れるが、それだけ。
時間だけが、冷たい壁と共に過ぎていった。
ある日、差し入れの中に小さな紙片が紛れ込んでいた。
《第三の柱の裏に、風が通る穴あり。脱出口——》
目を疑った。文字は……ラルフの筆跡だった。
彼はこの帝国の奥深くまで、潜り込んでいる……?
ルシアは夜、三つある柱のうち、中央に近い一本の裏へまわり、小さな換気口のような隙間を見つけた。
けれど、人が通れるほどの広さはない。
無理だと諦めかけた時だった。
「お嬢、手を出して」
ひょいと顔を覗かせたのは、あの筋肉質の男——以前、彼女を何度も受け止めたあの“大男”。
「あなた……また……」
「任務続行中だっつってんだろ。今度は正式依頼ってやつよ。俺は“辺境騎士団”のゴラン。あんたの恋人が、泣きついて来たわけさ。……抜け出すか?」
「……抜け出したら、また王国に戻れるの?」
「たぶんな。じゃなきゃ、命張る意味ねーし」
ルシアは迷わず頷いた。
その夜、ルシアは牢を抜け出した。
風穴を抜けた先には、小舟が待っていた。
「ラルフ……?」
船の影から、懐かしい顔が現れる。
「迎えに来た。やっと、やっと君を連れ出せる」
ルシアはその場で涙を零した。
この数日間の恐怖も、疑念も、全てがその一言で吹き飛んでいく。
「……ごめんなさい、わたし、もう……」
「構わない。君が生きているなら、それでいい」
ラルフは手を差し出した。
ルシアはその手を取り、決して離すまいと誓いながら、小舟に乗り込んだ。
夜の川を抜けて、星の瞬く空の下、彼らは再び自由の世界へと踏み出していった。
脱出から三日。
小舟で王国境を越え、さらに馬車を乗り継ぎながら、ルシアとラルフは身を潜めていた。
辺境にあるラルフの母方の実家、エルマー侯爵領。その離れに設けられた古い狩猟小屋へと身を寄せた。
木の壁は軋み、窓から差し込む風は冷たい。それでも、宮殿の牢よりはずっとあたたかい。
「ここにいれば、しばらくは見つからない。父上には連絡してある。騎士団も動いてくれるはずだ」
「……ありがとう、ラルフ」
「謝る必要はない。君はただ、戻って来てくれればそれで良かった」
ルシアは暖炉の前で、ゆっくりと湯気を立てるティーカップを手にした。肩を覆うショールの下、体のあちこちにまだ痛みが残っている。けれど、その痛みも今は、確かに生きている証のように思えた。
「わたし……ずっと夢に見ていたの。こうして、また貴方と話せる日を」
「俺もだ。何度も騎士団に掛け合って、国王陛下にも直訴して、だけどどうしても通らなかった。だから、自分で動くしかなかったんだ」
ラルフの手が、ルシアの肩をやさしく包む。
震えていた心が、少しずつ溶けていくようだった。
その夜、二人は久しぶりに長く眠った。
翌朝、騎士団の密使が狩猟小屋を訪れる。
「お嬢様、旦那様。帝国から追手が動き出したとの報せがありました」
「……やはり来たか」
ラルフは静かに頷く。
帝国ではカイルの死後、第二皇子セイルが即位を宣言しており、国境への軍の動きも徐々に強まりつつあるという。
目的は一つ——“皇妃ルシアの身柄奪還”。
「帝国があくまで“正当な妃”として引き渡しを求めるなら、我が国も拒否しきれない。だが……」
「だが?」
「お嬢様が“亡命者”になれば話は別です。強制的に嫁がされた政略結婚だった。人道上の理由により保護する、という建前が立てられます」
「そんな理屈で、わたしは助かるの?」
「助けます。どんなことがあっても。今度は国王陛下も我々を支持してくださるでしょう」
ルシアは迷った。
心が震えていた。
けれど、逃げるのではなく、立ち向かう時だと、どこかで感じていた。
「……解りました。わたし、戦います。もう、あの頃のように黙って従っているだけの女ではいられない」
「ルシア……」
「この命、あなたと出会えた奇跡の証。無駄にはしません」
その言葉に、ラルフは剣を取り、騎士としての礼をもって頭を垂れる。
「では、誓いましょう。この命に代えても、貴女を守ると」
「ありがとう、ラルフ。……ありがとう」
その後、ルシアは王国に正式に“帰属”を願い出た。
謁見の場。国王陛下の前で、彼女は膝をつき、言葉を発した。
「わたくしは、祖国を離れたのではなく、奪われただけです。今、改めて、我が国バルデリアに身も心も帰属いたします」
静まり返る大広間。
国王は重々しく頷いた。
「……よくぞ帰った、ルシア。お前のことは決して見捨てたわけではない。今後は我が直臣として、国のために力を尽くしてくれ」
それは事実上、彼女を“守る”という宣言だった。
同時に、彼女を取り戻しに来るであろう帝国への、静かな挑発でもあった。
ラルフとルシアは、改めて婚約を再認められ、騎士団と共に新しい生活を始めることとなった。
まだ完全な平穏は得られていない。
だが、確かに未来が拓け始めている。
あの牢獄の冷たさが、少しずつ春の温もりに変わっていく。
ラルフの隣で微笑むルシア。
彼女の眼差しは、恐れを越えた先にある希望を映していた。
国王からの保護を受けて以降、ルシアとラルフは王都の外れにある騎士団詰所の離れに身を置いていた。城下とは思えぬほど静かで、風の通るその場所で、ようやくルシアの心も落ち着きを取り戻しつつあった。
「ルシア、散歩に出ないか? 今日は陽が暖かい」
「ええ、行きましょう。……こうして一緒に歩ける日々がまた来るなんて、夢のよう」
木漏れ日の差す小道。ラルフの横を歩くその姿は、かつての傷を一つ一つ乗り越えてきた証そのものだった。
しかし、束の間の安寧は長くは続かなかった。
「帝国からの正式な使者が到着しました」
騎士団長自らが伝えに来た報せ。帝国セイル皇帝直筆の書状が王宮に届けられ、内容は一言、「皇妃ルシアの返還を求む」と記されていたという。
「……やはり来たのですね」
「ええ、予想より早かった。だが、このまま交渉の場に立てば、王国は圧力を受ける形となるでしょう」
ルシアは唇を噛んだ。
また誰かが、わたしのせいで犠牲になるかもしれない。
そんな思いが胸を締めつける。
「ですが陛下はご安心をと仰せです。王国の立場を示すため、外交使節としてお嬢様自ら会談の場に出ることを望んでおられます」
「わたくしが……?」
「これは“亡命者”としての存在を公に認めさせる機会でもあります。今やルシア様は、王国の象徴になりつつある。過去の犠牲を超えて未来を掴む、その証明を」
それは恐ろしくも、逃げられぬ責務だった。
ルシアはラルフと二人きりになった部屋で、静かに尋ねた。
「……貴方は、怖くないの? 帝国に目をつけられること、戦になるかもしれないこと」
ラルフは少しだけ目を伏せた後、真っすぐに彼女を見つめて言った。
「怖くないはずがないさ。けれど、君を失う方が何倍も怖い。俺は剣を持って君を守ると誓った。今さら、その誓いを捨てたりしない」
「……ありがとう。わたしも、守られるばかりではなく、前に出たいの」
「わかった。じゃあ、一緒に進もう。君となら、どんな困難も超えていける」
数日後、国境近くの中立都市ギルザルにて、帝国と王国の正式会談が開かれた。
帝国からは皇帝セイルと腹心の大臣、王国からは国王陛下と筆頭貴族、そしてルシアとラルフが参加する。
対面の場。
セイルは相変わらず琥珀の瞳で人の心を見透かすように笑った。
「ルシア。君がこのような形で再会の場に現れるとは……実に、意外だったよ」
「お久しゅうございます。皇帝陛下。わたくしは、もう帝国の人間ではありません」
「随分と強くなったな。あの牢獄にいた君とは別人のようだ」
「……牢の中で、わたくしは大切なものを知りました。心は誰にも縛れないということを」
「ふっ。ならば問おう。帝国に戻る気は一切ないと?」
「ありません。貴国の皇帝だったカイル陛下から受けた仕打ち、帝都での日々、わたくしはそのすべてを、赦しはしません。これは個人の感情ではなく、正当な主張です」
会場が静まりかえる。
国王が言葉を継いだ。
「よって、王国としては、ルシア・エーヴェルト殿を我が民として保護し続ける。返還の意志はない」
「……そうか」
セイルは一瞬だけ目を伏せた。
そして、ほんのわずかに笑みを浮かべる。
「了解した。ならば、我が帝国もこの件にこれ以上干渉はしない。ただし……」
「?」
「君がどこにいようと、君が自由を望んで得たその命に、相応しい未来があるよう祈っているよ」
セイルはそのまま立ち去った。
騒乱の火種となるかと思われた会談は、思いがけず、静かに幕を下ろした。
王国に戻ったルシアは、国中の注目を集める存在となった。
帝国に嫁ぎ、脱出し、命をかけて自由を掴んだ令嬢として。
そして彼女の傍には、常にラルフがいた。
「……まさか、穏便に終わるとは」
「セイル様なりの、騎士道だったのかもしれないわね」
「皮肉なものだ。あの男が“帝王”として君を尊重する形で解決するなんて」
「でも、これで……ようやく終わったのね」
夕暮れの中庭で、手を繋ぎながら見上げる空。
雲は緩やかに流れ、優しい風が通り抜けていく。
自由とは、手にするのが難しいものだった。
けれど、それでも信じて進んだからこそ、今ここに居られる。
ルシアは心の底からそう思えた。
季節はめぐり、雪解けの春が訪れた。
ルシアとラルフの婚礼の知らせが国中に広まると、城下町は祝いの雰囲気に包まれた。過酷な運命を乗り越えた二人の結婚は、民にとっても希望の象徴となったのだ。
挙式は王都北部にある聖フェルナ大聖堂で行われることになった。白亜の石造りに光が反射し、神聖な雰囲気が満ちている。
結婚式の朝。
ルシアは、真新しい純白のドレスを身に纏い、鏡の前に立っていた。
手にはラルフから贈られた、新しい首飾りが光っている。
青い宝石が揺れ、まるで過去の苦しみさえ吸い込んでしまいそうな静けさを湛えていた。
「……あのとき、死ぬことばかり考えていたわたしが、今こうして生きてるなんて」
後ろから侍女が微笑んだ。
「本当に、お美しいですよ、ルシア様」
「ありがとう。……でも、今日だけは“ただのルシア”でいたいわ」
聖堂の扉が開かれると、そこには民衆の笑顔と、赤絨毯の先に立つラルフの姿があった。
騎士の礼装に身を包んだ彼は、誰よりもまっすぐな目でルシアを見つめていた。
歩み寄るたびに、過去が浄化されていくようだった。
隣に立った瞬間、ラルフは優しく手を差し出す。
「ようやく、約束を果たせるな」
「ええ、随分遠回りしたけれど……でも、貴方が待っていてくれたから、わたしはここまで来られた」
神父が誓いの言葉を告げ、二人はそれに答えた。
「永遠に、喜びも悲しみも分かち合うことを誓いますか?」
「誓います」
その声は、静かに、けれど確かに響いた。
外では鐘が鳴り、王都中に祝福の音が広がっていく。
その後、披露の宴が王宮で開かれた。
国王陛下は笑みを浮かべ、ふたりに杯を差し出す。
「これより先、二人が歩む人生に幸あれ。国にとっても、これほど喜ばしいことはない」
「ありがとうございます、陛下」
「……よくぞ、帰ってきてくれたな、ルシア」
その言葉に、ルシアは胸が熱くなるのを感じた。
あの夜の涙も、痛みも、全てが今へと繋がっている。
披露宴の最後、ラルフがそっと耳打ちした。
「少し、散歩しようか」
「ええ」
ふたりは庭園へと出た。
夜風は優しく、草花は春の香りを運んでいた。
ラルフが立ち止まり、ルシアの手を握る。
「……君を守れて、本当によかった。君が生きてくれて、本当によかった」
「わたしの方こそ、貴方がいたから生き延びられたの。ありがとう、ラルフ」
ルシアはそっとラルフの胸に額を預けた。
「この子にも、教えてあげたいわね。どんなに辛いときも、希望さえあれば未来は変えられるって」
「……子?」
驚いたように顔を上げたラルフに、ルシアは微笑む。
「そう。今、お腹に……あなたの子がいるの」
その瞬間、ラルフの表情がくしゃりと崩れた。
「……ありがとう。ありがとう……本当に、君と結ばれてよかった」
「ふふ、泣かないで。これから、幸せになるのよ、三人で」
ふたりはしっかりと抱き合い、夜空を見上げた。
過去は終わった。
もう、あの冷たい牢獄のような日々はない。
この手にあるのは、確かに触れられる幸せだった。
こうして、悲劇の姫君は真実の愛を掴み、未来へと歩き出した。
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