5)現状維持か、古巣へ戻るか
ベンチャー企業で営業部長を務める四方田研人は3カ月前に採用した部下・柴崎から退職の意向を聞かされた。理由は先輩社員・吉川との確執であり、学歴コンプレックスが原因であるという。採用もマネジメントも「学歴不問」の姿勢で進めてきたが、顛末の経緯を確認し、社内外の様々な人々との対話を通じて、それは「余裕の産物」であり自身の独り善がりであったことに気づかされていく。そして社内で最も学歴の高い四方田に対し、吉川を始め、四方田を採用した實松など古参の創業メンバーの多くは、複雑な感情を抱いていることを知る。
2年後、会社の成長速度の鈍化に対し、四方田は思案を巡らす中、思わぬ方向から思わぬ話が舞い込んできた
あれから2年後、四方田の会社は少しずつ成長が鈍化していた。決して落ち込んでいるわけではない。良く言えば安定しているとはいえるのだが、売り上げも頭打ちになり、停滞のフェーズに入っている感もあった。創業して15年程を迎え、会社としてどのような路線に舵を切るべきか、社内でも色々な考え方があった。創業メンバーの約半数はさらなる発展を目指すべきだという意見だったが、残りの半数は「よくここまでやってきたじゃないか」と自分達を、自分達自身でねぎらうかのように現状の規模でやっていければ十分ではないかという考えであった。
四方田の頭の中には「現状維持」という四字熟語は無かった。ベンチャー企業でしか得られない経験をしたいからわざわざここにいるのだ。会社がもう一段上のステージへ行くには資本の増強が必要だと考えていた。つまり、より資金を集め、会社として動かすお金の規模を大きくしていきたかった。株式上場できればよいのだが、さすがに時期尚早であった。
この状況で仮に資本を増強するとしたら、ベンチャーキャピタルのような第三者にビジネスモデルをプレゼンし、出資してもらうのが早いと四方田は考えていたが、経営陣は躊躇する可能性が高かった。出資をしてもらうということは、その見返りに一定の権限を握られる可能性があるということだ。金を出してもらえるとはいえ、どこの馬の骨かもわからない輩達に口を出されるのは嫌なのである。現在の資本金は創業社長の徳永が個人的に集めて用意したものであり、縁者や親しい取引先など、狭い範囲で気心が知れている人たちから出資してもらったお金だった。これまでは何とかそれでやってこられたが、さらに資本金を拡大するとなると、気心の知れた出資者だけでは到底足りない。対象範囲を広げて、不特定多数の人々に、正々堂々と会社の将来性をアピールして出資を募るというオープンなやり方が必要な段階に来ていると四方田は考えていた。将来株式上場をしたら、当たり前にやらなくてはならない状況に置かれるのだから。
しかし一方で、四方田は経営陣がそのようなオープンな方法を避けようとするだろうと読んでいた。創業メンバーの大半は何事にも内向きで、自社のビジネスモデルを世に問うなどという、蛮勇な行為に立ち向かえる度胸を持っている者は一人もいないであろう。「もしも恥をかいたらどうしよう」と傷つくことを恐れる気持ちが先に出てしまうのだ。従い、新たな資金調達も「知り合いの知り合いを紹介してもらう」といった極めてクローズドなやり方を取らざるを得ないのである。このような、「一見さんはお断り」というような、老舗料亭が好むような古いやり方は、確かに変な「馬の骨」を掴むリスクこそ減らせるが、新たな出資者の獲得に時間がかかりすぎるという点と会社の客観的な評価がわかりにくいという点がマイナスであった。実際、これまでもこのやり方で少しずつ資本を増強してきたのであるが、それが会社の成長スピードとは合わなくなってきていた。
実際、四方田が率いる営業部の現場でも影響が出てきていた。
端的に言うと、営業が売りたい分だけ在庫を持てないのである。例えば顧客から注文が100入っても、会社の資金で常時用意できる在庫は70から80程度で、足りない分は次回入荷まで待ってもらう。このような形で騙し騙しやってきたのであるが、待たせる回数が増えたり、待たせる期間が長くなっていた。売りたいときに売れるものが無い。当然ながら営業マンのストレスは溜まる。顧客からも「また欠品か」という声が多くなってきていた。現在の資本規模では顧客の需要を満足させられなくなってきていたのだ。四方田はこれまでも實松をはじめ経営陣に増資を訴えてきたが、事態はなかなか前に進まなかった。何もやっていなかったわけではない。「古いやり方」に固執するあまり、顧客の需要が拡大するスピードに追い付かなくなっていたのだ。
四方田は解決方法について、社内の誰よりも明確にイメージできていたが、増資や資金調達といった会社の根幹に関わる事項については、営業部長の権限ではさすがに如何ともすることができなかった。一方で、現場からは悲鳴にも似た陳情が増えていた。「売るのが仕事なのに、売るものが無い」と。取締役の實松も問題は十二分に把握していたし、これまでとは違う規模で資金調達を行うべきだという考えを持っていたが、社長の徳永を始め、他の経営陣から賛同を得ることはできないでいた。四方田は實松に対し、徳永と直談判させてほしいとお願いしたが、まだ実現していなかった。
社長の徳永は普段ほとんど会社には顔を出さず、経営者というよりはオーナーという立ち位置であった。大半のことは實松を始めとする取締役達に任せきりにしており、経営会議や決算などどうしても必要な時のみ出社していた。「カネは出すが、口は出さない」というスタンスである。客観的には耳障りのいい言葉ではあるが、四方田は正直なところ、このやり方が気に入らなかった。「放任」というよりは「無責任」の度合いを強く感じていたからだ。
一般的に、ベンチャー企業は大企業と違って、社長と社員の距離が近く、フランクにコミュニケーションを取れるのが利点だし、その利点を活かすべきだと考えていた。これに対し、徳永の言い分は「自分が社内にいると、社員は自分の顔色ばかりを窺って自分のアタマで考えなくなるので」というものだったが、会社の実態は経営者の想い通りには進んでいなかった。野球で言えば、監督がサインを一切出さずに「自分たちで考えろ」と言っているようなもので、選手一人一人が相当に高いレベルにいないと到底成り立つ話ではなかった。結局、それぞれが勝手な解釈と判断を繰り返して、まともなチームになれていない状況であった。指揮者のいないオーケストラは、調和のとれたハーモニーを奏でることはできないのである。自律的かつ自発的に、正しく動ける社員は残念ながら多くなかった。だからこそ、社員との密なコミュニケーションや経営者のリーダーシップが必要であり、四方田は徳永には何度か考え方を改めてほしいとお願いしていた。
創業メンバーの中でも、とりわけ實松は徳永に可愛がられていた。實松が徳永の提案に対して、ノーを言うことはほとんどないくらいだった。しかし増資についてだけは別だった。實松経由四方田の陳情に対し、一定の理解を示しながらも、結論としてはノーであった。従来通り「一見さんお断り」方式で進めろという指示だった。實松も四方田と同様に成長のスピードを上げていきたかったので、四方田とは別に何度か許可を求めたが、結果は同じであった。会社を発展させていきたい想いは同じはずなのに、徳永が決して首を縦に振ることは無かった。
片野からメールが届いていた。飲みの誘いかと思ったら、キャリアアドバイザーとしてのメールであった。以前に何となく送っておいた履歴書と職務経歴書をデータベースに登録しておいてくれたおかげで、興味を示した会社があるとのことだった。そしてそこには2つの求人が添付されていた。一つは、3Dプリンターという、製造業における新技術を売りにしているベンチャー企業で、現職と同様に営業部隊の責任者を、というものだった。もう一つの方を見て、四方田は我が目を疑った。新卒で就職した大手電機メーカからのものだったのだ。そして採用担当者の名前を見て、さらに驚いた。
専務取締役 土橋正幸―かつて新卒の四方田の教育係だった人物だ。
四方田の頭の中はまさにタイムマシンに乗って、時を遡っている状態であった。大学院を卒業して、右も左もわからなかった自分に、社会人としての基礎を叩きこんでくれた。仕事の後は新橋の駅前の居酒屋によく飲みに連れて行ってもらった。そういえば、焼酎を蕎麦湯で割って飲むのが好きだったな。飛びぬけて優秀だった印象は無かったが、誠実で、少しおっちょこちょいなキャラクターが周囲に愛されていた。最後に会ったのは10年以上前だ。なぜ今になって自分を中途採用の候補者として声をかけてきたのだろう。気にするなという方が無理な話であった。片野には、なるべく早く面談を設定してもらうように返信した。四方田はすぐに転職するつもりは無かったが、土橋の話は是非とも聞いてみたいと思った。いや、聞かずにいられなかったという方が正確であろう。
片野から連絡があり、四方田はかつての古巣の敷居を、中途採用候補者としてまたぐことになった。新橋駅から汐留方面に向かって歩を進めるたび、頭の中のタイムマシンはさらに忙しくなっていった。土橋との思い出のみならず、親しかった先輩や後輩、新卒入社同期達の顔も浮かんできた。皆、元気にやっているのかな。10年以上の月日が流れており、出くわす可能性は限りなくゼロに近いはずなのに、四方田は知っている顔を探してしまっていた。
10分ほど歩いてかつての古巣にたどり着いた。所在地は同じだが、建物は一新されており、昔の面影はどこにもなかった。オフィスに入り、会議室に通された。革張りの椅子の感じから見て、普通の会議室ではない雰囲気だった。程なくドアが開いた。
「おお、四方田!やっぱり四方田だな!」
身長160センチと少しの小太りな男が笑顔で握手を求めてきた。
四方田に社会人の基礎を叩きこんだ、土橋であった。
「ご無沙汰してます!いやぁ、ほんとに懐かしいですね。懐かしすぎますね!」
「懐かしすぎるな!元気そうじゃないか!」
握手をした後、思わずハグしあった。二人ともハグしながら、経過した時間の長さに思いをはせた。採用面接の雰囲気など微塵もなかった。
二人が昔話に花を咲かせていると、遅れて人事部の採用担当も入ってきた。四方田の知らない顔だった。
「土橋さん、求人票を見て二度驚いちゃいましたよ。一度目は会社名。二度目は土橋さんのお名前に」
「私もだよ。四方田君。こんなことってあるんだなぁ。すごい偶然だ。四方田の履歴書をこんな風に眺めることになるなんてなぁ」
「これ専務取締役による採用面接ですもんね?ガチの」
「そうそう。ガチだよ。ガチ」
二人とも昔話をもっと続けたかったが、人事部もいる手前、切り上げて本題に入った。
土橋が切り出した。
「四方田君、今回来てもらったのは、近々新設される営業企画室という部署の責任者の候補としてだ。ウチからのスカウトだと考えてもらっていい」
そして、人事部の担当が続けた。
「営業企画室室長というポジションです。土橋専務の直下に新設されるポストでして、各営業部の取りまとめをして頂きます」
「新設される背景をお伺いしてもいいですか?」
「四方田さんが在籍されていた頃とは違って、近年弊社はいくつかの会社を買収したり、事業構造の再編を行っており、様々な事業領域があり、その数だけ営業部があります。それぞれが好きなことをやっているわけで、良い面もあるのですが、縦割りになりすぎるというデメリットもあります」
続けて、土橋がフォローした。
「そこで、私の直下に部門横断して、管理統括できる部署を作るというわけだよ」
「ほう、なるほど」
「そして、当然将来の幹部候補だ」
「でも、それをなぜ私に?一度辞めた人間が幹部候補っていうのも、社内の反対とか大丈夫ですか?」
「昔と違って、中途採用者も増えているから大丈夫だ。買収した会社出身の人も多くいるし、君が居た頃よりもかなり柔軟で、多様性が増しているよ」
そして土橋は、四方田に声を掛けた理由について語り始めた。
「そうなんだよ。違う会社を買収した弊害として、君が言うように『生え抜きだ』とか『外様だ』とか、つまらん背番号の話をする社員が増えてしまった」
「まあ気にするなという方が無理かなという気もしますが」
「仕事の進め方や方針もまだまだバラバラなんだよ。経営陣も色々考えて、少しでも一つの会社になろうとしているんだけど、みんなタコツボ化してしまって、なかなか上手くいかないんだ。だからそれぞれの事業部から人を連れてきて、統括できる部署を作るんだ」
「それこそ、現在在籍している人から責任者を選べばいいんじゃないですか?」
「それも考えた。でも新しい風が欲しいと思ったんだ。背番号のことなんか気にせず仕事をできる人が欲しかった。だから中途採用することにした。そしたらエージェントのデータベースに四方田君の名前があった。ウチでの勤務経験もあり、他の会社も経験している。今はベンチャーに勤めているんだろ?その経験にも大いに興味があるし」
「なるほど」
「最後は何といっても、気心がしれているからだ。私の手足とまでは言わないが、遠慮せずに何でも言いあえるのは有難い」
「いやいや、こちらは土橋さん、じゃなくて専務に対して最低限の遠慮はしますよ」
「遠慮というか、お互い気を使わなくて済むって意味だよ」
土橋の表情はまるで青年のような凛々しさにあふれていた。10数年ぶりに部下に会えた喜びと、自分の想像もしなかったキャリアを通じて確実に成長した部下を、自身の直下に置いて新たな改革を進めることができる喜びにあふれていた。土橋はポジションについて一通り説明した後、付け加えた。
「私もこの会社に勤めて30年近くになる。幸か不幸か、この会社一筋で来た。四方田君の職務経歴書を読んでいると、オレも違う会社で働いてみたかったなっていう思いもあって羨ましい。他の会社を見てきた四方田君から刺激をもらえると思っているんだ。これはあくまで個人的な思いだけど」
四方田は即答でこのスカウトを受けそうになった。良縁というか、僥倖というか、タイミングとしてはこれ以上ない完璧さだと思ったからだ。片野から事前に聞いている待遇面も申し分ない。夢見心地な四方田に対し、土橋はさらに畳みかけた。
「古巣から『他の会社で働いた経験を買う』と言われて、新設部署の責任者として、また幹部候補として誘いを受けるなんて、これ以上ないドラマチックな話と思わないか?駆け出しの頃に世話になった会社に恩返しをするつもりで帰ってこないか?」
「殺し文句」という言葉がこれほどふさわしい状況は無いであろう。四方田はまさに「殺される」寸前だった。いや「殺されても本望」と言える心境であった。これまでの人生でも、そしてこれからの人生でも、これ以上の殺し文句を聞くことはもう無いであろう。
「土橋さん、嬉しいフレーズばっかりで有難うございます。もう、感無量です。まさか古巣からこんな有難いお誘いを受けるなんて、夢みたいです。でも少しだけ考える時間をください」
「なんだよ。まだ何か不満なのか?」
「いや。そういうわけではないです。現職にもそれなりに愛着ありますんで、じっくり考えさせてください」
面接は終わった。四方田の胸中はまさに沸騰していた。鎮めようとしてもなかなか鎮められない沸騰であった。その夜はなかなか寝付けなかった。何としてでも眠ろうと、冷蔵庫に冷やしていたズブロッカを二杯、ロックで引っ掛けたが、それでも寝付けなかった。この日の四方田の味覚は、バイソングラスが醸し出す桜餅のようなフレーバーを感じることができなかった。「沸騰」がアルコールの旨味を、四方田の脳に正確に伝えることを許さなかった。