記憶の蓋
――。
――――。
――――――――。
「は」
理解できない。
否、根本的な問題として、目下の現象の意味を噛み砕くような、ある種の自殺行為を魂が拒絶したのだ。
わなわなと震えるリーニャへ、ようやく弟が追いつく。
「っ……」
神様、否、もういっそ誰でもいい。
なんでもするから、どうか眼前の情景が下らぬ冗句の類で、それで済んでくれと、そう心の奥底から祈った。
だが、現実は無情。
「っ」
恐る恐る、リーニャは深紅の液体がぶちまけられた胸部へ、耳を澄ませ――ただただ空虚さが支配していることだけを理解した。
鼓動は、とっくの昔に停止していた。
指先は、さながら永久凍土のよう。
――死んでいる。
息をしなければ、もうこの人は笑わない。
そう、否応なしに理解した瞬間、瞳から溢れ出したのは、一滴の雫であった。
それは、理性なき獣が、今この瞬間を以て確かに自信の確固たる意志を保有する「人」になった証。
横たわる少女ならば、それを見てどう思うのだろうか。
きっと、それももう聞けない。
「――――」
ただ、虚しさだけが飽和した。
それは、依存だ。
「――――」
姉と、そう慕っていた少女があれほどまでに無惨な臓腑を晒していた光景を視認した瞬間、リーニャの中の何かが完膚無きままに砕け散ったのだ。
その弊害として、唯一無二の家族たる弟に対する思入れもより強靭化された。
――この子のためなら死んでもいいと、そう思えてしまう程度には。
駆け抜けるような二十年が過ぎ去った。
もはや、二人に日時の枠組みなんて存在しない。
あの日以降、リーニャはその悪夢が目に焼き付いて離れず、真面に寝付くことができなくなってしまっていた。
そんな彼女が快眠できるのは、決まった弟の膝の上。
弟だけが、信頼できた。
逆説的に、あの日以降貧民街に存在する生物一切合切へ、堪えようもない敵愾心が出現してしまったのだ。
リーニャにとっての境界線は余りにも明瞭としている。
弟か、否か。
後者の場合、リーニャの瞳はすぐさま冷酷な、殺人鬼のそれとなり、弟を死守するためならば殺人という禁忌を侵すという仄かな決意の色で揺らめかせる。
対し、弟に対して、猫でも撫でるかのような、そんな慈愛に満ちた眼差しを向けるような、そんな性格だったのだ。
もはや、それはある種の二重人格。
だが、リーニャはそんなことには頓着しやしない。
弟が息をしていれば、それで十二分だったのだ。
過ぎ去った二十年の間、リーニャと弟はほとんど老いることもなく、幾多もの人々の屍の上で穏やかな日々を謳歌していた。
幸い、リーニャは魔術において天賦の才を持ち合わせている。
それに身体能力の側面で相当な火力となる弟が合わさった時、正に鬼に金棒と言える状態に達するのだ。
故に、離れ離れになることなく、ずっとずっと一緒に過ごせた。
二人一緒なら、どこまでも幸せだったのだ。
だが、そんな日々にも終焉が訪れる。
それは――少年だった。
「――――」
真っ白な、装いだけに着目するのならば清楚な印象を受け取るであろうが、実際に感じ取ったリーニャの感慨は真逆だ。
――怖い
さながら、地獄の悪鬼羅刹が更によせ集まって、殊更におぞましい存在へと化したような、そんな印象を受ける。
禍々しい気配に心臓が凍った錯覚に陥った。
それは、きっと弟も同様だろう。
見なくても、分かる。
「――――」
その怜悧な瞳がリーニャを射抜いた。
冷徹なそれは、さながらリーニャという矮小な存在を蟻でも見下ろすかのような眼差しを向けていた。
「警戒すんじゃねぇ……っていっても無駄かあ。お前ら貧民ってのは、そういう存在だからな。――なら、武力行使と洒落込もうか」
刹那、白い少年から無地増に鬼気が溢れ出す。
吐息が掌握され、下手をすればそれだけで四肢が折れ曲がってしまいそうな感覚さえもしてしまった。
その瞳は――まるで、狩人のよう。
「くっ……」
五指が、小刻みに震える。
本能的に、理解してしまっているのだ。
目下の存在に牙を剥いてしまえば、それこそ赤子の手をひねるかのように容易く弾け飛んでしまう。
――姉と慕った少女のように、なってしまう。
嫌だ。
絶対に、それだけは。
だが、そう打ち震える一方で、冷静な心の部分はそんな軟弱な精神ではいけないと、そうどこか前向きに叱咤もしていた。
守らなければ、どうするのだ、
あれだけのおびただしいほどの屍が、今更になって不毛なモノと化してしまうとなれば、リーニャにとってそれは耐えられない。
故に――。
「お姉ちゃん……!」
「――――」
弟が、縋るようにこちらを見つめる。
(……卑怯だな)
そんな目をされて、一体全体どこの鬼畜外道が無視できようか。
あれだけ他者を忌み嫌っていた自分にも、これほどまでの激情を抱けるのだと、半ばリーニャは感心してしまう。
それを自覚した途端、四肢へ際限なく活力が行き渡った。
認めよう。
リーニャという少女は、この超常の存在と比較してしまえば、余りにも惰弱で、取るに足らない存在だと。
逃げ出したい。
だが、背後には最愛の弟が居る。
ならば――きっと、リーニャはこの時のために四肢が存在するのだ。
「――ッッ!!」
理性は、忘れ去ってしまおう。
舞い上がった窮屈なそれから目を逸らし、今はただこの滾る破壊衝動に身を委ねてみようではないか。
それで、弟を死守することができたのならば万々歳だ。
「お姉ちゃん!」
「――――」
振り返らない。
振り返っては、きっと瞳から雫が零れ落ちてしまうから。
だから――。
「――はあ」
難儀な生き方をする自分自身へ、そう深々と嘆息。
――腹が裂けた。
痛■、否、そのよ■な些■にかまけ■■いる■ではな■■■ある■。立■。た■■て。■■■■■、し■■■のだ■、■■■■■■■■■あ■■■■■■■■ちが■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「――――」
際限ない空白。
それを認識し、ようやく今になってリーニャは覚醒する。
「っ」
目を閉じれば、昨日のことのように在りし日の光景が浮かび上がっていた。
だが、悪夢から醒め、本能的にその可愛らしくあどけない容貌を探してしまうが――それは、どこにもありやしなかった。
「ここは……」
憔悴し、それから即座に立ち直る。
リーニャは、未だ微睡む意識の最中、覚束ない脚をなんとか奮い立たせ、起き上がる。
見渡すと、そこにはぼさぼさの頭髪の少女が描かれた絵画が一面中に張り付けられている、異空間であった。
「……どうしてこんなところにっ」
つい先程まで、リーニャは『祠』に滞在していた筈だ。
ようやく『祠』の深淵的な部分へ足を踏み入れ、『聖女』と化する――弟を再誕させる手段を整えた。
そして――唐突に、『儀式』は始動した。
龍の一声に泡沫のような不確かな意識は瞬く間に掻き消え、そして夢の中――否、飽和する記憶の中に居たのだ。
「――――」
リーニャという少女の記憶は、二十歳から後が存在しない。
その由縁は依然不明慮だ。
だが、こうして徹底的に自分自身を振り返った今なら、その際限のない空白というベールに包まれた真実を看破できるのではないだろうか。
根拠は、無い。
だが、不可思議なことに魂は沸いていた。
そして――、
『――――』
嘶きのような、あるいはそれは囁くような。
そんな声音が脳裏を支配した瞬間――転倒。
それと同時に、『龍』が『儀式』をいざ遂行させようと、プログラム通りの行動を果敢に実施する。
魂魄へ、干渉。
それにより、今の今まで封じられていた記憶の蓋を――今、高らかに投げ捨てていった。
補足・2
その実、この少女って結構敏腕なんですよね。故に、その手の業界ではそこそこ知名度あったり。ですから、そんな彼女が路地裏なんていうもってこいの環境に足を運んでいるとなるとそれなりのニュースです。少女は暗殺屋ですから、彼女から顧客リストを聞き出すことができたのならばそれこそ一騎当千です。そういった事情で少女は不埒な輩に狙われ、んで某日計画がついに指導。その実結構な実力者に奇襲させ昏倒してしまい、監禁されてしまったワケです。……ここら辺は色々生々しくなりそうでノクターン認定されたら困るので黙秘しますが、だいたいご察しの通りのことが起こりました。男の性欲っておぞましいよねって話です。実は、これに……正確にはこれと似たような事件でグリューセルさんとアンセルさんとの間に確執ができたり。結局情報を吐露してしまった少女は、それこそゴミのように捨てられます。
マジで魔人族治安クソだよねって話です!




