諸行無常の響きありて、
数十分後。
お節介らしいアリシアの手によりそれまでこびりついていた汚泥やらの汚れの一切が除去され、ようやく本来の肌のハリを取り戻したらしい少女は、心なしか満足そうにコーヒー牛乳なる液体を口にする。
ちなみに、言うに及ばずコーヒー牛乳という文化の発祥地は魔人国ではない。
もちろん、日本だ。
さる『プレイヤー』が齎した文化らしい。
無論、レギウルスにとっては心底どうでもいい情報だが。
「似合ってるわよ、あなた」
「一々嫁みたいに振る舞うなよ。鏡みたらどうア――!?」
「あら、御免なさいねあなた。ついつい手が滑ってしまって」
手が滑って橋が眼球を刺し貫くのとか、そういう細かいことを追求してしまったら負けなのである。
そう、少女は鋼鉄が如き精神で飛散する鮮血をスルー。
無視こそ、最善策である。
「夫が阿呆で御免なさいね、リーニャちゃん」
「ちゃんづけは要らない。あんまり、馴れ馴れしく話しかけないで」
「……これは筋金入りだわ」
「いや、これが平時だぞ」
「……マジ?」
「マジマジ」
騙し騙される下町では肩を預け合うなど言語道断。
他者の背中は、刺し貫くモノであり断じて寄り添うような、そんな高尚な目的のために運用されないのだ。
それが下町の共通認識である。
「……世知辛いわね」
「温室育ちのお嬢さんがいいよな。こういう環境には見慣れなくて」
「――。ええ、そうね」
「…………」
微かな間に少女――リーニャは、胡乱気に目を細める。
だが、悲しいかな。薄く微笑む彼女からは一切本心をくみ取るばかりで、ただただ当惑するだけであった。
疑念は沸く程存在する。
だが、それでもこうして大人しくしているのは、この大人たちに逆らっては殺されると、そう認識しているが故だろう。
弱者は強者に屈する他ない。
それが下町の真理である。
それを薄々察しているレギウルスは苦笑いを浮かべる。
「おい、餓鬼」
「――。なに」
何気ない一声に、リーニャは露骨に敵愾心を剥き出しにしながら親の仇とばかりに睨みつけてきた。
波風を立てないようにしていながらも、こうして敵対意志をあらわにするあたり、まだまだ子供である。
そう内心で評し、レギウルスは目を細める。
「別に、信頼しろとは言わない」
「――。なら、どうしろと」
「んなの俺に聞かれても困惑するしかないのだが……強いて言うのなら、お前が信頼すべきは、この世界だ」
「――――」
婉曲な発言にリーニャは怪訝な眼差しをする。
が、レギウルスはそれを意に介した様子もない。
「知っての通り、この世界では一度結んだ約束の死守は絶対だ」
「……反故したら、死ぬしね」
「ああ。そしてお前と俺たちは、『誓約』を結んだ。これ以降、お前へ危害を一切加えないことをな」
「――――」
身の安全の保障は必然だ。
だからこそ、レギウルスも精一杯譲歩して、さりげなく結んだ『誓約』にそんな項目も混ぜ込んでいたのだ。
レギウルスは、少女の警戒心をこの上なく理解できる。
下町はレギウルスの根城だ。
同時に、戦場でもある。
あの薄暗い街角ではありとあらゆるモノに正当性が付与され、一切合切の暴虐が平然と認可されてしまう。
あの時は周囲の一挙手一投足に目を光らせていたなあと、どこか懐古するようにレギウルスは遠い目をした。
「この場に、『誓約』が存在する限りそれ関連の欺瞞は存在しない」
「――――」
「無論、それはお前にも適用されること。仮にこの場でお前が虚言の類を口にすれば、文字通り弾け飛ぶからな」
「……そうだね」
「お互いの利害は一致している。信憑性も『誓約』により保証されてるんだ。――なら、もう少し肩の力を抜いてみるといいんじゃないか?」
「……篭絡でもする気?」
「おいおい、冗談言うなよ」
「餓鬼の冗談ってのは、基本荒唐無稽で面白ぇが、お前が仰った冗句は心底つまらんな」とぼやく。
「俺はな、平然と魔人国の衆愚たちを洗脳したり、所属している筈の王国の象徴たる往生を破壊するような、あんな妹大好きのロリコンじゃねえんだよ」
「悪意を感じる物言いね」
「お前は黙ってろ」
今、蓬髪の灰色コートの少年が盛大なくしゃみをしたような気もするが……きっと、気のせいだろう。
「まあ、そもそもだ。――お前に、利用価値なんてねえよ」
「――――」
「せいぜいどうして魔晶石が埋め込まれているのだとか、その程度の疑念を解消する程度しなない。それ以上も、以下もないんだ」
「……っ」
「だから、勘違いするなよ。誰だって、猫相手に詐欺を仕向けようだなんて思いもしないんだ。それと同じだ」
「……そう」
安堵したような、それでもこうも真向からお前は無能だと、そう辛辣に断じられ、やや悄然とするリーニャ。
だが、それでも多少なりとも疑念が抜け落ちた。
完全ではない。
だが、それで十二分。
本懐を果たせるのなら、それでいい。
「――さて。そろそろ本題に入るぞ」
「……ん」
そう、リーニャは小さくうなずいたのだった。
――際限ない空白。
それだけが、リーニャという少女を埋め尽くす一切合切だった。
一言でいえば記憶喪失だ。
だが、あくまでも、消失してしまった記憶のピースは、ここ数年程度の、比較的最近のモノである。
故に、人々の悪辣さは嫌と言う程に脳裏にこびりついていた。
レギウルスたちへの警戒心の起因がそれだ。
リーニャ曰く、失っていない記憶も特段斬新なモノは存在せず、埋め込まれた魔晶石にも心当たりがないという。
通常ならば一蹴して然るべき内容。
だが、それでもリーニャは依然五体満足。
つまり、放った言葉には、なんら虚言の類が折り重なっていなかったということの証明なのである。
「……信じがたいが、事実だな」
「ええ。『誓約』が改変された痕跡も皆無だわ」
「そうか……」
記憶喪失なんて、そうそうあるモノじゃない。
あるいは、頭を打ったショックで、それを引き起こしてしまったという可能性も、一理あるだろう。
だが――少女の心臓部には、魔晶石が埋め込まれているのだ。
それは、紛れもない異常。
全うに生きていたのならば、確実に起こり得ない現象だ。
ならば、考えられるのは一つだけ。
「……空白の数年に、なんらかのアクションが起こったってか」
「多分、記憶喪失も人為的なモノでしょうね。世の中には私のように異形化を解除できるような芸達者も多いから、たとえ今回のように解除されても機密事項が漏洩しないようにするべく成された対策だと思うわ」
「成程な」
確かに、それならばある程度は辻褄があう。
レギウルスはアリシアの冷静な考察に首肯しつつも、さりげなく彼女へ耳打ちする。
「――なあ、あの事は言うべきか?」
「あの事? それって何かしら」
「とぼけんな。――この餓鬼の寿命についてだよ」
「――――」
途端、沈黙するアリシア。
それもそう――なにせ、この少女はもう一年さえ生きられないのだから。
理由は単純。
異形と化し、それを長時間持続させてしまったので副作用でその心臓に宿った魔晶石が既に崩壊直前なのだ。
もはや少女の命運は風前の灯。
だが、一縷の望みは存在する。
アリシアという少女は自信を『聖女』と自称し、実際その治癒魔術は素人目から見ても卓越しているようである。
あるいは、彼女なら――。
「理由がないわ」
「……何?」
唐突な人弧に、レギウルスは険しく目をほめる。
それに対し、アリシアは特段慌てることもなく、淡々と持論を言い放った。
「そもそも、『誓約』には魔晶石の治癒だなんていう親切な項目なんて存在しない。このまま、無情に捨て去るべきよ」
「…………」
他者への過度な肩入れは、破滅を招く。
それを経験則で悟ったレギウルスは、後気味の悪い現実に鬱屈とし――ふいに、自慢げな笑みを浮かべるアリシアと目が合った。
「――でもね、それはこのままだったらの話だわ」
そう、『聖女』は小悪魔的な笑みを湛えた。




