闇夜で
「――『浄罪』」
静やかな声音。
だというのに、この戦乱の最中でもレギウルスがその澄みわたった声色を、不思議なことに聞き逃すことはなかった。
それは、少女が持ち合わせる生来の存在感故か。
そして、躍動する魔力に呼応し、それが行使される。
――『浄罪』。
ヴァン家相伝魔術とは似て非なる魔術だ。
溢れ出すのは、治癒魔術特有の陽光――の、内に思わず怖気が走ってしまうような、激烈なおぞましいモノが蠢いている。
決して、それは相容れることはない。
特段、レギウルスならば殊更。
「――――」
付加。
強制的に付与されたその魔術は、容易く異形の強靭な身体に浸透していく。
躍動する魔術に込められた魔術の練度は相当なモノで、それだけにアリシアの執念を理解できてしまう。
一瞬、異形の肩が未知の感覚に震える。
「……うん?」
――唯、それだけだった。
吐血も、不調らしき様子もない。
どこまでも、健在な偉業の様子に怪訝な眼差しを向け、レギウルスがちらっとアリシアを一瞥した。
アリシアは、すっと目を逸らした。
「おい」
「……戦いに、集中しましょう」
アリシアは、心底気まずそうに目線を明後日の方角へ傾けながら、一旦レイピアを納刀し、居合の構えを取る。
どうやらレギウルスの疑念は徹底的に無視するようだ。
そんなにべもない態度に盛大に頬が引き攣る。
それに呼応し、異形が唐突にその顎門を開いた。
「……ヤベぇ」
「流石に、これは死ぬわね」
なんてことはない。
原理としては起点となるエネルギー源こそ異なっているものの、本質的な意味合いでは龍種の十八番である『ブレス』と同義だ。
口内へ魔力を極限にまで圧縮させ、それを吐き出す。
ただそれだけだ。
だが、極端に増幅されたその魔力を凝縮されるとなると、場合にもよるが最悪核爆弾が炸裂したかのような惨状が展開されるだろう。
しかも――よりにもよって、その矛先は避難所。
「クソッ!」
「……拙いわね」
莫大な魔力の奔流が一点に収束し、今まさに吐き出されようとしている。
仮にそれを見過ごしてしまえばまず間違いなくこの下町は滅亡に追い込まれてしまうだろうという予測は容易くできた。
無論、折角命拾いした人々も。
それは、果たして許されることだろうか。
それを許容してしまった男を、果たして万人は『英雄』だと、そう褒め称え万雷の拍手で迎え入れるだろうか。
「んなわけ、ねえだろ」
「――――」
レギウルス・メイカは『英雄』でなければ、ならない。
咎人のままであることなど、到底この『傲慢』な魂を許諾するような機会なんて、断じてないのだ。
『英雄』になれば、あるいはメイルとまた対面できる資格は再発行されるかもしれない。
そんな淡い期待が飽和する。
――そんな、矮小な男を果たして『英雄』だなんて高尚な呼び名で呼称するのか、という至極当然の疑念にさえ抱かないままに。
それは、ある種の自己暗示だ。
まだ、平素なら救いはあった。
事あるごとに自己本位な解釈を意識せずともしてしまうレギウルスをメイルが咎め、その愚昧な考えを正していれば、それでよかったのだ。
だが、今は?
もう、その傍らに無愛想な幼馴染がいやしない、今は?
孤独。
それだけがレギウルスの心を強く苛み、これ以上なく蔓延っていく。
物事を都合よく本能的に解釈するその悪癖は、これだけ精神的に追い詰められているからこそこれ以上なく猛威を振るった。
「……とんだエゴイストね」
レギウルス・メイカの唯一無二の理解者たるアリシアは、そんな醜悪な面を目の当たりにし、だからこそ唇で円弧を描く。
そうだ、それでいい。
精一杯堕落してくれればいいのだ。
散々甘ったるしい蜜を惨めったらしく舐め、そしてその末路をアリシアは満面の笑みで爆笑しながら眺めればいい。
ただ、それだけだった。
故に、レギウルスの醜悪な側面とて、本能も理性も新たなるレギウルスの急所を看破でいたことに歓喜していた。
「やるぞ、アリシア」
「ええ、勿論よ。さあ、行きましょう」
――あんたの、破滅へと。
堕落し、腐敗し、精一杯嘔吐しろ。
それこそが、アリシアという幼気ない少女の飢えた心を満たす、最高峰のスパイスであるのだから。
「――――」
魔力の収束作業は、既に五割程度が完了している。
『龍』の場合、保有するその頭脳を用いることにより愚昧な動植物には到底不可能な技巧を行使し、それを刹那で済ませるだろう。
だが、異形は違った。
確かに、異形は理性を持ち合わせている。
否、持っていたのだ。
とっくの昔に強引にはめ込まれた魔晶石は崩壊の兆しを見せ、それにともない理性だなんてそれこそ泡沫のように掻き消えてしまっている。
故に、その技量は酷く稚拙だ。
龍ならばものの数秒で成し遂げてしまえることを、これ程までに大仰な隙を露呈しながら五分以上も要するだなんて。
だが、この屈辱も今この瞬間だけが。
これさえ完成してしまえば、愚昧なる人族なんて刹那で消し飛ばせてしまえるのだから、屈辱だなんてあってないようなモノだ。
「――――」
残り、四分。
と、その時――足音が、奏でられた。
「ッ!」
この体制にはいると繊細な魔力操作が不可能となり、濁流が如く飛翔するその触手の精度は酷く拙いモノだ。
だが、それでも無抵抗よりは、まだマシだ。
「軽りぃな」
「――――」
が、肉薄する大柄な体躯の青年――レギウルス・メイカは口元に凄惨な笑みを浮かべながら、迫りくる凶器の一切を切り伏せる。
その姿は、どことなく戦場で舞い踊る戦神を彷彿とさせた。
そして、異形も、そしてレギウルスでさえ思わず浮かべてしまったその笑みの意味なんて、知り得ない。
その狂笑は、ある種の癖だ。
段々と強者の会談を上り詰めていくにつれ、体の奥底が渇望するモノ――弱者を踏み躙ることにより生じる悦楽への固執が、このような形となった。
それだけなのだ。
そこに、他者の存在など介入しない。
誰かを――メイルをずっと見ているようで、結局のところレギウルス・メイカは自分しか眺めることしかできないのだ。
だが、本人はそれに気づかない。
否、きっと本能的にその情動は理解しているのだ。
だが、それでも魂がそれを我武者羅に否定し、それ故に理性が余すことなく醜悪な側面を許容しない。
ああ、その姿はいっそおぞましい程に――。
「――実に、『傲慢』だわ」
精神状態が不安定になることにより浮き彫りになったレギウルスの内面に、アリシアは舌なめずりする。
そして、そのまま一切の無駄を削ぎ落した洗練された動作で、さも当然とばかりに無音で異形の頭部へ着地する。
だが、異形はそれを看破することはない。
アリシアは剣士、また魔術師であると同時に、暗殺屋なんていう本来の役柄に反して物騒な適性を持ち合わせている。
否。
厳密に言うと、それはアリシアの有り余るほどの才能故に叶った偉業――などではなく、純然な努力の賜物だ。
理論上、魔術師はありとあらゆる魔術を会得できる。
無論、それは空想のお話。
実際の話、この世に存在する魔術には適正という概念が存在し、それは人によって相当に変動しているのだ。
そして、アリシアには断じて暗殺関連の魔術への天賦の才なんてない――無能と、そういうべきモノだった。
だが、アリシアはそれを理解していながら、血の滲む修練により、本職さえも顔負けな力量にまで到達しているのだ。
それもこれも、レギウルスのため。
『浄罪』を行使するのも当初思案したのだが、レギウルスの場合山勘で反応するだろうから結果阻止される。
魔術の類は、レギウルスの研ぎ澄まされた五感の前には無力なのだ
真っ向勝負ではそもそも勝利は有り得ないので、アリシアは観点を変え、奇襲を前提にプランを組み立てた。
そうして編み出されたのだ、暗殺という指針だ。
極限まで気配を掻き消せば、あるいはレギウルスでさえ見逃す。
そうした淡い期待を抱き、直後に幾千回もの挫折と苦悩を味わい、そして今に至り――。
「――『閃夜』」
それは、咲けば散りゆく桜のように。
鮮やかな鮮血が周囲に飛散し――そして、異形の首筋が割断された。




