あの日が遠のいていく
あの日に、喰い殺されるようだ。
あの日が飽和してしまうようだ。
あの日が、遠のいているようだ。
「――――」
青年は、怜悧な瞳で、四人の男女がそれぞれ満面の笑みで移りこんでいるその斜視を、静やかな眼差しで一瞥した。
――『羅針盤』。
そのアーティファクトはかつてルシファルス家三代目当主が直々に幾多もの魔術を付与することにより制作したモノだ。
その、最もたる特徴は『万物の座標を指し示す』こと。
無論、有効範囲を増大すれば相応に魔力は喰うが、それでも対象がその範囲内に滞在していれば、補足に例外は存在しない。
そしてそれは、アリシアがさる人物により下賜されたモノである。
――今、それはこれ以上なく猛威を振るっている。
否。
いたと、そう過去形で表記すべきか。
なにせ――既に、『羅針盤』は役目を果たしているだから。
「……それで、図々しくも私のところに来たんですか」
「……火急の用なんなんだ」
レギウ薄が苦々しい顔色でそう嘆息する。
それに対し、長髪の青年――『賢者』ことメイセは、さながらゴミでも見下ろすかのような冷徹な眼差しでレギウルスを睥睨する。
「――で?」
「でって……」
「勘違いしないでください」
「――――」
メイセは、眼鏡をクイッとしながら冷淡に告げる。
「そもそも、ですよ。私はあくまでも人族。わざわざ敵国に肩入れする由縁なんて、どこにもありませんよ」
「――――」
突き放すような声音に、レギウルスは頬を強張らせる。
アリシアが提案したモノ。
つまること、それはメイセに魔人族に滞在するメイセの協力を仰ぎ、空間魔術により下町の人員を一斉に避難させるというモノ。
アリシアの判断では、メイセはそれができるだけの人材だという。
それにはレギウルスも納得だ。
メイセは自他共に認める正真正銘の『英雄』。
その気になれば、まるで天上の神々が如く救いを乞う人々の命運を好き放題にしてしまえるような存在なのだ。
ただ、見掛け倒しなレギウルスとは、違う。
だからこそ、こうして無様にも頭を下げているわけで。
「……お前だって、苦しむ心は」
「ありませんよ。勝手に滅んでしまえばいいんじゃないんでしょうか」
「――――」
頑固なメイセの態度に、レギウルスも沸々にこんな事態の中で何をと怒りが沸き出てくるが、今はそれを必死に抑える。
あくまでも、レギウルスは頭を下げるべき立場なのだ。
ここでそれを激発されては、アリシアの奸計も水の泡だ。
それだけは、避けなければ――。
「ああ、そう。魔人族と言えば、メイルさんですよね」
「――。何が言いたい」
そう、思っていた。
だが、どこかこちらを嘲弄するかのような口調のメイセに、声が低くなってしまうのはある種の必然であった。
メイセは、それさえも見透かしているのか、淡々とその事実を語る。
「――あれから、一歩も外に彼女、出てません」
「――――」
「はて、誰のせいでこうなったのやら」
絶句するレギウルスを、メイルはどこか叱責するかのように、その度し難い事実をこれでもかと叩きつける。
「『レギが私を捨てた』、――『また、居なくなった』。そういえば、そんな言葉を吐いていましたねえ」
「――ッッ」
また、居なくなった。
悲しいかな、メイルが吐露したその声音に宿った真意が看破できない程に、レギウルスは愚昧ではなかった。
だからこそ、身勝手な自分に対する自責の念がその身を苛む。
「食も碌にろとっていません。私の魔術でなんとか栄養分の摂取は叶いましたが、それでもみるみる痩せ細っていますよ」
「……何が、言いたいんだよ」
「会話も真面に成立しない始末、今度は妄想までまくしたてる様には、いい加減私も怖気が走りましたねえ」
「何が、言いてえんだよ!」
メイセの、神経を逆撫でするその声音に、案の定激昂するレギウルスであったが、結局硬く握りしめられたその鉄拳が猛威を振るうことはなかった。
なにせ――。
「自覚してます? ――これ、全部あんたがやったんですよ?」
「――――」
激発し、抗弁しようと――するが、それが正論だと、残留した理性がこれ以上なくレギウルスを説き伏せる。
そう、その叱責は事実的を射ている。
レギウルスが正常であれば。
レギウルスが、『英雄』であれば。
レギウルスが、あの日背を向けなければ。
「――こんなことには、ならなかったんですよ!」
「お前……」
「正直、メイルさんには同情しますね。こうも悪辣な幼馴染に純情な恋心が弄ばれて、さぞ悲観しているでしょう」
「…………」
反論は、無かった。
それは、レギウルス自身、自分が侵してしまったその罪を、もはや魂レベルで理解できてしまっているからだ。
沈静するレギウルスへ、メイセの厳しい視線が突き刺さる。
「何、黙ってるんですか」
「――――」
「否定、してくださいよ、『英雄』。それは違うと。その実、あなたのその暴虐の裏には、神々でさえ驚嘆するような、そんな高尚な真意があったと! そう、言ってくださいよ! ――『英雄』ッ!」
「なっ……」
何故、目下の男はこうも取り乱している。
普段、あれほど悠々とした皮肉屋の、あまりにもらしくないその熱情に、レギウルスは目を白黒させる。
だが、とめどなく激情が噴出するのも数瞬だけ。
後は、淡々とメイセの強かな理性により、それには蓋をされてしまった。
「……何も、言わないんですね」
「――――」
「いえ、言えないんでしょう。考えたくもないんでしょう。ならば、私――僕も、貴方の自由意思に付き従いません」
「っ」
「後は、勝手にしてください。私にとって魔人族なんて、いずれ唾棄せねばならない害虫程度の存在でしかありません。どうぞ、お仲間と一緒に野垂れ死んでください」
――交渉は、決裂。
レギウルス・メイカはそんな自明の理さえも判別できない程におめでたい性格をしているワケではない。
そしてメイセは、もはや視線を傾ける価値さえもないとばかりに、踵を返そうと――。
「――なあ、なんでなんだ?」
「……何が」
もう耳朶を打たないと、そう断じていた筈なのに、唐突に背後から震える、懐かしい声音が響き渡る。
それに対し、メイセは振り向かない。
まるで、自分の表情をレギウルスに隠匿するように。
「お前は、どうしてそんなにメイルに肩入れしてるんだ……?」
「――――」
「お前は、魔人族のことなんて心底どうでもいいと、そういった。そして、メイルとてれっきとした魔人族。……なのに、どうしてお前は忌み嫌っていた筈の魔人族に対して、そんなに激情をあらわにしてんだよ」
「はあ……やはり、疑問に思いますか」
「――――」
微かな苦笑の気配。
そして、メイセはレギウルスへ振り返り――そして、晴れやかな微笑を浮かべた。
「――友達だからですよ」
「――――」
友達。
メイセの――否、人族の総意を考慮すると、それはあまりにも荒唐無稽な発言に、思わず目を剥いてしまう。
「友人が貶められたら、見捨てられない。それが、友達っていうモンなんじゃありません?」
「――――」
「まあ、もはやそんな存在とは、余りにも無縁な貴方にはそれほどまでに関係のないお話でしょうが」
そんな皮肉を置き去りにし、今度こそレギウルスへ背を向けるメイセに、もう一言、声音を投げかけた。
「――アリシア」
その一言がメイセの鼓膜を震わせ、そして彼はその糸目をばっと物凄い勢いで見開き、驚嘆をあらわにする。
そんなメイセへ、レギウルスは実に複雑な心境で、それでも気丈な笑みを浮かべ、一言。
「この名に、心当たりは……ああ、その様子じゃあ、聞くまでもねえよな」
そう、言った。




