飛行船の幻想
――夢を見た
――幸せな夢だ
――泣きたくなるような夢だ
「――大丈夫か、メイル」
「う、うぅん。 大丈夫なのだ」
そう気丈に振る舞う少女の体には無数の傷跡が浮かんでいた。
それは黒髪の少年――若かりし頃の『傲慢の英雄』レギウルス。
舞台は薄汚い路地裏である。
幼馴染を心配するレギウルスの額にも血筋が浮かんでいた。
それは彼の誇りであり、屈辱であり、証明であった。
「御免……俺が弱いから」
「……違うのだ。 弱いのはメイルなのだ。 メイルがもっと強ければ、レギがこんなに傷つかずにすんだのに……」
両者に浮かぶ感情は「後悔」。
あの時ああしていれば、あの時こう言っていれば。
そんなどうしようもない感情に苛まれ続ける。
だって、許せるのだろうか。
互いの大事な人が傷つけられる光景を、誰が許容できるというのだ。
許せない、絶対に。
「――俺がお前を守って、お前は俺を守る。 約束だ」
「――うんっ」
二人はそれから互いに身を寄せ続けた。
だって、同じ人間をたった一人しか知らないから。
自分と、彼以外は全員的。
事実その認識は左程間違っていない。
この貧民街で奪い奪われるのは日常茶判事。
奪われる前に、奪う。
此処はそんなつまらない世界である。
二人はそれが心から許せなかった。
自分が考えうる限りの不幸を永遠に近い途方もない時間の間味わい続けたからではない。
逆だ。
自分の大切な人を苛むこの世界が許せない。
だから力を求めた。
だから誰も信じなかった。
だから二人を傍に寄り添った。
だから二人は共に戦った。
二人は、それが正しいと信じて疑うことはなかったという。
でも――何時からだったからだろう。
最初は拮抗していた二人の実力は、その血筋故かみるみる少女――メィリを追い抜き、やがて隔絶した存在となっていた。
これではメィリ如きでは守るどころか目で追うことすらできない。
それが、余りに歯痒い。
自分はこのまま、彼に守られるだけの存在でいいのか。
誰かを――彼を守ることはできないのだろうか。
嫌だ。
そんな未来、死んでも嫌だ。
許されない、許してはいけない、許すものか、許さない、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
でも、どんなに渇望しても届かない。
改めて、彼は自分のような存在では決して届かない、彼岸の存在であることを狂ってしまうほど思い知ってしまった。
でも、諦めることはできない。
やがて、広がっていた光景が霧のように霞んでは消える。
そして――、
「――夢、か」
空の上。
圧倒的な速度で空を飛び舞い、それでもこうして自分たちを安定して送り届けている龍の背中に建設された簡易部屋に、二人の声が響いた。
「やれやれ。 少しは休ませて欲しいモンだな、オイ」
「我儘言わないのだ。 もうちょっと軍事規律をだな……」
「知らんし。 俺は殴る蹴るしか能のない脳筋なんですぅ。 だから別にそんな面倒な軍事なんとかなんて必要ねぇだろ」
「はぁ……」
重苦しい溜息を思わず吐いてしまった。
あの時では想像すらできなかったが、メィリは当時の何倍――否、比較することすらもおこがましい。
それ故に増えてしまった気苦労も存在してしまうが。
彼の扱いもその一環である。
――『傲慢の英雄』
その名は今や魔人族人族問わず誰もが一度は耳にしたことがある名である。
彼が挙げた武功は数知れず。
それこそ、かつての生ける伝説『英雄』すらも超えてしまう程に。
しかし、問題が無いわけではない。
彼は酷く気分屋であった。
堂々と不愉快ならば不愉快と言い、普通は答えるのも憚れるようなことをデリカシーという概念を忘れ去ったように言い放ってしまう性だ。
それをメィリは他の誰よりも理解していると、自他共に認めている。
(……そろそろ胃が破裂しかねないのだ)
別に、レギウルスと接すること自体が苦となるわけではない。
否、逆だ。
本人の目の前では決して言えないのだが、彼といると退屈な日常が鮮やかに彩られる。
だが、問題がないわけではない。
かつて孤児だった二人も今や重鎮。
それなりに責務を負わされている立場だ。
だからこそ、一人の部下としてレギウルスのやけに尊大な態度は少々目に余る。
まだ二人ぼっちの時なら許された。
でも、今は駄目だ。
その態度が他者との関係に亀裂を生んでしまう。
なんせ、幹部連中はレギウルスとメィリ以外、全員が大手貴族出身のお坊ちゃまお嬢様なのである。
当然、それなりにマナーを弁えているのだ。
故にレギウルスの傍若無人な態度は悪目立ちしてしまう。
今はまだいい。
この圧倒的な功績が存在する以上、そんなくだらない理由で彼を始末するような愚か者はないだろう。
というかそもそも彼を暗殺とか不可能だ。
だが、数十年後、それこそ百年後はどうだろうか。
レギウルスは特異体質である。
それ故に、これまで獅子奮迅の活躍を遂げることを可能としたのだ。
しかし、その体質故に老いれば能力も自然と衰えていく。
というかなにより貴族たちからの無言の圧が本当に怖い。
昨晩は夢にまで出てしまった有様だ。
もうそろそろ胃が決壊する日もそう遠くはないだろう。
だからそうなる前に最低限の警護は取得して欲しかった。
まぁ、もうほとんど諦めてしまっているが。
「はぁ。 難儀なものなのだ」
「ん? おいおい、溜息ばっかり吐いてると無駄に老いるぞ」
「どの口で言うのだ」
そして、竜船は空を泳ぎ渡っていく。




