声が、木霊した
灰色の外套がつむじ風に翻される。
舞い踊る自身の黒髪を無感動な眼差しで眺める小柄な少年――スズシロ・アキラはふと背後の気配を看破する。
「……はあ」
「――――」
刹那――妖魔が湧きだす。
虚空より際限なく出現したのは、本能的な嫌悪感を抱かずにはいられない形容のおぞましい存在たちだ。
異形……ではない。
異形は、あれでも生命体として成立していた。
だが――目下の存在たちは、その最低限の法則さえも適用されない。
「……相も変わらず気色悪い魔術で」
「――ッッ!!」
急迫する妖魔は明らかに白目を剥き、その目元からも濁流のように鮮血が溢れ出し、静謐な床を穢す。
「ライムちゃん、出なくていいから」
「了解よ」
ライムをけしかければ、かえって逆効果。
故に、今回はアキラが直々に相手取ることにした。
「――――」
もはや『天衣無縫』を併用するまでもない。
低い姿勢で踏み込み、虚空に鮮烈な軌跡が描かれる。
無論、その鋭利な刀身に一度撫でられてしまえば、たとえ幽鬼が如き存在であろうとも例外なく死に果てる。
「――――」
一閃でアキラへと急迫していた異形の類はそもそも存在さえしていなかったとでも主張するように、塵芥さえ残さず死滅する。
否。
そもそも、彼らに『生』という概念が存在しないのだからそれも必然か。
「……そろそろ、その悪癖を矯正したらどうです?」
「勘違いするな。オレは依然貴様を憎悪している」
「でしょうね」
同意するかのようにアキラが微笑む。
それを一瞥し、初老の男は「ハッ!」と盛大にアキラの声音を鼻で嗤いながら、展開していた術式を解除する。
「ご理解、感謝します」
「……何故に貴様はそんなに残念そうなのだ?」
「さあ。ご想像にお任せします」
「そうか」
不可解な表情をするアキラであったが、彼は初老の男の追及をおざなりに返答し――直後、その華奢な細身が猛然と吹き飛んだ。
「――言葉遣いには気を付けよ、餓鬼」
「お兄ちゃん!?」
跳躍。
次の瞬間神速が如き速力でアキラの認識を搔い潜って初老の男はその細身へと鮮烈な一撃を叩き込んだのだ。
その暴力性に露骨にライムは敵愾心を剥き出しにする。
が、当の被害者本人であるアキラはそのぼさぼさの黒髪を描きながら、そっと目を細める。
「大丈夫です、ライムちゃん。水流をクッション代わりにしましたので」
「……敬語」
「気にしないでください。癖です」
「……そう」
冷淡に心の距離を取ろうとするアキラに、瞼を閉じるライム。
それに対し、重傷――まではいかずとも、気絶程度のダメージは付加できたと確信していた初老の男は「チッ!」と目を細め
「アキラ様におかれましては随分と用意周到なことだ。なんならそのか弱い水球の耐久値測定に協力しようか?」
「遠慮しておきますよ、老猿さん」
「――――」
アキラは空虚な眼差しで初老の男――老猿をではなく、虚空をただ漠然にぼーと眺めながらそう返答する。
無論、その態度は老猿の矜持を土足で踏み入れるだけでしかない。
老猿はアキラがしでかした不敬に対し、幽鬼を用い制裁しようと――。
「――動かないで。生かす自身がないから」
「……天下の老猿も舐められたモノだな」
「あなたの全盛期はかの『聖戦』で過ぎ去ってる。もう、かつてほどの力量もないんでしょ? ――私とは違って」
「――――」
見据えた挑発。
だが、それは短気な老猿の気をこれでもかと触れさせ――。
「――そこまでです、二人とも」
「……お兄ちゃん」
「――――」
突如としてつい先程まど虚空を凝視していたアキラは、老猿の首元へと鋭利な藍色の刀身を添えている。
「動かないでください。それとも、自分の臓腑が何色なのかそれほどまでに知りたいのですかねえ?」
「……生憎、それは知り尽くしている。要らぬ気遣いだ」
「それは重畳」
「――――」
苦虫を噛み潰したかのような、声音でそう吐き出す老猿に対し、アキラは余裕そのもの態度である。
否。
そもそも、目下のこの生意気な少年が激情をほんの少しでもあらわにする場面なんて、それこそ見たことがないのだが。
「それで、進展は?」
「……『清瀧事変』にて取りこぼした異形を糧に、凱旋さえ片手間で可能な程の軍隊を構築した。万端である」
「ほう……具体的な数は?」
「――およそ、二万」
「…………」
アキラは、一瞬ライムと目配らせし、直後には再度老猿と視線を交差させ、嘆息しながら口を開く。
「後、二万」
「――ッ! 無茶をっ」
その、あまりにも無謀としか言いようがない一言に、個人の感情云々に真っ当な理性がこれでもかとかみいた老猿。
が、それに対し返答な酷薄だ。
「いいえ。貴方の技量ならば、その程度容易な筈」
「――。理論上の話だ! そもそも、二万もの妖魔を生成するのに如何に多大な素材が必要不可欠が理解できるか!?」
「無辜の民を併用すればいいだけの話です」
「なっ……」
そのあんまりといえばあんまりな意見に開いた口が塞がらない老猿。
「貴様……人の心が無いのか?」
「ほう? 『聖戦』で敵兵にあれだけの損害を付加した紛れもない『英雄』が戯言ですか。存外、笑えませんね」
「――ッッ!!」
的確な指摘に老猿は目を丸くする。
何を言えなくなってしまった初老の男に対し、アキラは平淡な声音で助言――否、呪詛を吐き出す。
「一人でも、人を殺したんでしょ? なら、そこからわざわざ数える必要性なんて皆無ですよ。一人と、二万。なんら差異はありません」
「――――」
そんなどうしようもない極論――否、暴虐に老猿の瞳に、初めて目下の存在に対する畏敬の念が宿った。
――これが、悪か。
人のみで人に非ず、万象を疎むことも愛することもなく、ただただ合理を追求し暴虐の限りを尽くすその姿は――。
「――この、化物がっ」
「――――」
散々忌み嫌っていた罵倒がアキラの耳朶を無神経に嬲る。
が、あれだけ嫌悪していた罵声だというのも関わらず、いっそ乾いた笑みが浮かび上がる程にこの心は揺るがなかった。
それは強かな決意故か、あるいはそれを感じ取る器官さえ欠如したからか。
(どうでもいいな)
そう判断付け、アキラは俯く老猿を一瞥し、一言。
「――それでは、任せますよ」
「――。勝手にしろッ!!」
冷静沈着な老猿は、らしくもなく激情をあらわにしながら迅速に『転移』を以て本部へと帰還していった。
無論、その手の甲の震えはアキラも知覚していたが。
「――ライムちゃん。事後処理を」
「お兄ちゃんは」
「一人になりたい。――入るな」
「……了解よ」
ライムは冷淡な兄の声音に眉を顰め――そして、敬愛の意味合いを込めて、恭しく頭を下げたのだった。
声が、木霊する。
――化け物がっ。
声が、木霊する。
――はあ……どうやら、私が君を見余っていたようだね。――失望したよ、アキラ君。
声が、木霊する。
――ホント……どうしようもないですね、貴方は。
声が、木霊する。
声が、声が、声が、声が、声が。
狂気に浸ることもできず、さりとて割り切ることもできないような、そんな自分のように度し難い感情が胸元を支配する。
「――――」
声が、木霊する。
――一か月後、法国にて事変を起こす。
――そして、君はボクを殺害するために参加せざるを得ない。
――明言する。仮にこの事変に君が姿を見せないのなら――白崎沙織、そしてその一派を皆殺しにしよう。
――さあ、そろそろボクと気味との間の因縁に、終止符を打とうではないか。
声が、木霊した。
「ああ、そうかい」
そう、スズシロ・アキラは反吐を吐くかのように、抱擁するかのように息を吐いたのだった。
何一つ、知り得ない




