エピローグ ――外套――
七章、最終話です
一歩、また一歩。
極限にまで気配をそぎ落とし、拍動さえ停止させた状態で歩み寄る姿は死神そのもの。
その少年は、凪いだ眼差しで目下の男――ヴィルスト・ルシファルスを見据え、そのまま肉薄し、――。
「夜が綺麗だね。――そう思わないか、アキラ君?」
「――――」
紅茶で喉を潤しながら、そう少年――スズシロ・アキラへとさも当然とばかりにヴィルストは声をかける。
そこに、驚嘆の色は皆無。
そもそも、此処はルシファルス家当主が直々に制作した箱庭。
いわば、ヴィルストの世界だ。
故に、自身の領域へ足を踏み入れる輩を識別する程度、この規格外の生命体にとっては容易でしかないのだろう。
「……流石ですね」
「これでも四血族の一角だからね」
「それはそれは」
「――――」
ヴィルストは振り返ることもなく、目を細める。
それは、断じて数日の間消息不明となった、娘の意中の相手がこうして五体満足で舞い戻ってきた安堵故ではない。
真逆だ。
それは、背後の少年を心底疎ましく感じ取れるからで――。
「私の記憶では、スズシロ・アキラは戦死した筈。私の見間違えかな? それとも、幽鬼の類かね?」
「いえいえ。どちらも不正解ですよ」
「…………」
抑揚のない声音が耳朶を打つ。
ヴィルストは見定めるかのようにアキラの気配を探り――直後、おおよそ彼の身に生じたモノを判別した。
(成程……道理で)
偽装……ではない。
不自然に凪いだ気配で、概ね察していた。
だが、こうして確信を得てしまうと――どうしても、来るものがある。
ヴィルストは、さながら鏡でも眺めるかのような複雑な心境で、あるいは吐き出すかのように呟く。
「それが、君の根底か」
「そういうことです」
「はあ……いずれこうなると、そんな不吉な予感はしていたが、まさかそれがこうして現実となるとはね」
「――――」
ヴィルストは気品に満ち足りた微笑をこぼす。
だが、その瞳はどこまでも――。
「――君に、何が有った?」
「……さあ。そんなことを聞かれても、俺は俺です。何時まで経っても、俺は俺のままだったんですよ」
「……はあ」
深々と嘆息する。
ヴィルストとて――否、彼だからこそ、文字通り痛い程アキラの心境はよく理解できてしまうのだろう。
だからこそ、それを咎めやしない。
疎ましくは思うが、経験則からして幾ら自分のような部外者が如何なる綺麗ごとをほざいたとしても、結局無意味なのだ。
ならば、暴漢こそが最善策。
だが、一つ疑念も沸く。
「じゃあ、もう一つ聞いていいかい」
「ええ。ご遠慮なく」
「それは重畳。――なら、どうしてシルファーではなく、私のような中年の元へ足を踏み入れたのか、聞いてもいいかい?」
「…………」
アキラは一瞬躊躇し……そして、重苦しい溜息を吐きながら、それを吐露した。
「――もう、俺には彼女と出逢う資格なんて、ない」
「――――」
「『化け物』じゃなくちゃいけないんですよ、俺は。きっと、貴方なら容易く理解できると思いますが」
そう吐露するアキラの表情からは、ヴィルストさえも、天を仰ぐしかない程の決意が見え透いていた。
「……ここへ訪れたのも、唯一無二の理解者たる私が居るからかい」
「ええ、ご名答です」
「だろうね」
この世で、スズシロ・アキラを真の意味で理解できるのは、きっとヴィルストという人物においてほからないだろう。
きっと、沙織さえもはや判別できない。
――なにせ、『化け物』と分かり合えるのはいつだって『化け物』なんだから。
「それと、もう一つ。――シルファーに言っておいてください。『スズシロ・アキラは死んだ』、と」
「……まだ私が口外していなかったのもお見通しか」
「誰だってできますよ。ヴィルストさんって、滅茶苦茶シルファーのこと好きですからね。きっと、俺の死を知ってしまえば、完膚無きままに壊れてしまう。そう、思ったんでしょ?」
「全く以てその通りさ」
「なら、先に言っておきます。――無闇矢鱈に希望を抱かせる、それはきっと、現実に直面した際にこれ以上ない程の悪影響を及ぼす」
「…………」
否定は――できない。
十中八九、アキラは自分と同様の末路を辿る。
それも、考えうる限り最低最悪のパターンで。
仮にそうなってしまえば――あの子の脆弱な心は、たったの一突きで瞬く間に瓦解してしまうだろう。
無論、それはヴィルストの本位ではない。
希望は、真っ先にへし折るべき。
酸いも甘いも嚙み分けたヴィルストとてそれは理解できている。
それでも言えなかったのは、そもそもアキラになんらかの死を偽装せざるを得ない事情があったと、そう希望的観測したから。
だが、見ての通り現実は戦死だなんていう末路があまりにも生易しく思える程に散々たる代物であった。
(はあ……私もまだまだだね)
あの暗闇から抜け出したはいいが、こうして死守しなければならないモノが増えすぎるのも、それはそれで考え物だ。
そう、もはやみっともなく葛藤する暇など無いのだ。
一刻も早く、決断せねばならない。
ならば――。
「……つくづく、君は娘を酷い目に合って欲しいようだね」
「これでも、慮った方ですが」
「知ってる」
これ以上なく。
ヴィルストは憂鬱な将来に想い馳せ、そしてまた一つ陰鬱な吐息を吐き出す。
(……娘が泣き出す場面なんて、あんまり出くわしたくはないんだけど……これも、父親としての責務か)
天を仰ぐヴィルストを一瞥し、アキラは軽く一礼しながら声音を紡ぐ。
「それでは、ヴィルストさん。俺はそろそろ行きます」
「……もう少し、長居しないかい?」
「すみません、そういうワケにはいきませんので」
アキラはそう抑揚のない声音で、つい数日前まで無条件に振りまいていた愛嬌の一切を削ぎ落した声音で返答する。
それに対し、ヴィルストは微苦笑しながら一言。
「――ちょっと、待ってくれないかい?」
「――――」
踵を返すアキラの歩幅は変わらない。
が、ヴィルストは別段その不敬を咎めることなく、絶対的な優位さをかざし、ここに留めるように仕向ける。
「――此処は、私の箱庭だ」
「……幽閉するとでも?」
刹那、アキラから途轍もない鬼気が濁流のように溢れ出す。
久しく感じたことのない明確な『死』の気配に頬を引き攣らせながら、ヴィルストは「違う違う」とアキラの誤解を正す。
「そろそろ、君にに対する恩赦を支払わないとね」
「……護衛の報酬は金銭面で十二分になされていると心得ておりますが」
「違う違う。こうして、不安定な君が私の元へ一度とはいえども舞い戻ってくれたことさ。これでも感謝してるんだよ」
「――――」
拒絶すれば、まず間違いなく厄介になる。
そう本能的に理解したアキラは嘆息し、そしてようやく振り返る。
今更になって初めて交差する視線。
ヴィルストは空虚なアキラの瞳を一瞥しながら、そっと懐のアイテムボックスから『それ』を取り出す。
「……外套?」
「結構ボロボロだけどね」
ヴィルストが懐から出現させたのは、ほつれだらけのぶかぶかのコートである。
その灰色のコートはヴィルストの身長でさえあまりにも不似合いな程のサイズで、華奢なアキラなど以ての外。
その端々は擦り切れ、見るも無惨である。
だが、ヴィルストはそんなガラクタも同然な衣類をどこか懐かしむように眺める。
「これは、私のお古だよ。……厳密には『彼』から下賜されたモノを私が愛用していただけなんだけどね」
「……『彼』?」
「君がもう邂逅したことのある人物さ」
「――――」
意味深な笑みを浮かべるヴィルストへ追及する――暇もなく、彼はアキラにやや強引にその灰色のコートに袖を通させた。
「そろそろ温もり恋しくなる季節だよ。たまには、こういうモノも良いんじゃないのかな」
「…………」
魔術の気配は――皆無。
幾ら血眼になってそれを看破しようと躍起になろうが、怖気さえ覚える程にそれには魔力の痕跡が皆無であった。
悪辣なトラップ……ではないのだろう。
ならば、一体全体どうして――。
「理由なんて、問いださないでね。この年になって泣き出したくはないよ」
「……はあ」
どこか震えたその声音にアキラは吐息し――一瞬、儚い微笑を浮かべて、再度ヴィルストと向き直った。
そして――。
「ヴィルストさん――さよなら」
「また、会おう」
そう、噛み合わない声音を互いに紡ぎ――夜の帳が、降りる




