エピローグ ――咆哮――
――夜空に浮かぶのは、満点の星々だ。
それはさながら、数千年もの莫大な年月を費やしてもなお叶うことのなかった悲願を果たした人間たちを祝福しているかのよう。
事実、『傲慢の英雄』とてこの戦勝ムードには舞い上がらざるを得なかった。
――仮に、手元の報告書に目を通すこともなければ。
「――――」
雲一つない空模様。
が、レギウルスにとってそれは曇天となんら差異はないだろう。
平時豪胆かつ快活なレギウルスは、そっと人気のない聖堂のテラスに足を踏み入れ、遠い目で星空を見上げる。
「――――」
達成感など皆無。
ただただ、際限のない空白だけがレギウルス・メイカと言う男を支配していた。
「――どうしたのだ、そんな辛気臭い顔をして」
「……メイル」
ふと、背後に聞き慣れた声音が。
らしくもなく一張羅のレギウルスは、投げ入れられたその声音に一瞬反応したものの、決して振り返ることは無かった。
そして、幼馴染――メイルはそれを咎めることはない。
きっと、メイルもレギウルスの立場だったらそうしている。
そう、共感することができたから。
(……さながら迷い子だな)
メイルは凪いだ眼差しでレギウルスを一瞥する。
豪快な幼馴染は、されど今ばかりは指先一つが触れただけで木っ端微塵になってしまいそうな程儚く感じられる。
その焦点の行く先は、きっと闇夜の大空ではないのだろう。
「『清瀧事変』も私たちの大勝という考えうる限り最高な末路を遂げ、お母さんを取り戻せた。それでも、まだ不満?」
「……当然だろ」
「っ」
瞬間、レギウルスに『龍』さえ卒倒するであろう濃密な殺気が無作為に放たれる。
が、直後にはまるでそれを恥じ入るように張り詰めていた空気は霧散し、平時のそれに回帰していった。
八つ当たりだと、そう本人も自覚しているのだろう。
それを発散しないようにしてるのは、『傲慢の英雄』なりの矜持か、あるいは相手がメイルだからか。
後者だったら嬉しいな……と場違いなことを思案しながら、メイルはすっと目を細める。
「――魔王様は、もう死んだ」
「――――」
「引きずるなとは言わないのだ。私も同様の心境だ。だが、これからは復興、そして新たなる魔王の存在が必要となる、多忙極まりなき時期。割り切らないと、張り裂けるぞ」
「……分かってんだよっ」
「――――」
吐き出すように返答するレギウルス。
それを、どこか疎まし気にメイルは眺める。
――『魔王』アンセル・レグルスの死。
その起因は単純明快だ。
『白日の繭』。
それは他者の魂を糧に、ありとあらゆる生命体を貴賤を問わずに封印するという規格外のアーティファクト。
ラッセルが死にも狂いで運搬した『白日の繭』は、しっかりと満身創痍ながらもアキラ――否、ライムの手元へ届けられた。
ライムが行使する魔術は『創造魔術』。
無茶をすれば、アキラの代行人として十二分に機能するのである。
そうして、ライムの手により『白日の繭』はその実態を大きく変動させ、代償も最小限に抑制することができた。
――そして、人柱となることを志願した『魔王』は滅んだのだ。
幾ら代償を提言しようが、元々丸々国家を破滅に追い込まなければ足りぬ程に要求された代償なのだ。
それに幾ら小細工を弄そうが、本質にはなんら差異はない。
『魔王』に蓄えられたエネルギーは莫大だ。
基本的に生物が保有するエネルギーは過ぎ去った歳月に比例する。
アンセルの場合、『魔王』に就任するのは三百年前であったが、彼が生誕したのはもっと後――七百年前なのだ。
故に、そのエネルギーは別格。
代償としては、余りにも都合の良い話である。
無論、『魔王』たった一人で数万もの生命が補える筈がない。
その辺りはアキラがさる富豪と協力しどうにかなったが――それはまた、別の話である。
なにせ、レギウルスにとって最も重要なのは敬愛する王、アンセル・レグルスの死滅という要点なのだから。
「――――」
つい先日収束した『清瀧事変』。
『白日の繭』が発動した時点で相当な損害を被ってしまったのだが、されど想定していた被害を半減できている。
それもこれも、スズシロ・アキラが企てた謀略故だろう。
裏で戦局を操作していた彼の尽力もあり、概ね『清瀧事変』は満足のいく結果を得られたと言えるだろう。
前述の通り、セフィールに関してはなんとか沙織の獅子奮迅の活躍も相まって、九死に一生を得ただろう。
『厄印』の撤去も完了済み。
後は『異形』と化した副作用か深い眠りにつく彼女の意識が復活してから、詳細を聞き出せばいい。
ちなみに、限度を超越した魔術を行使した沙織であったが、特段命に別状はない。
アキラが派遣した先兵ことスピカは、どうやら魔力の譲渡を会得していたらしく、粒子化一歩前の沙織は満身創痍ながらもなんとか生きながらえることができたのだ。
これに関しては素直に僥倖を言わざるを得ないだろう。
「……まあ、帝王が隻眼になってるのはちょっと驚いたのだ」
「ああ、それは同意するぜ」
帝王ことライカは、どうやら法国にて、朱紗丸と名乗る武士に襲撃され、瀕死の重傷を負ってしまったらしい。
帝王の恐ろしさは深い畏怖と共に魔人族にも轟いている。
そんな彼がこれほどまでの深手を負ってしまったという事実が、この事変の裏で暗躍する存在の強大さを裏付けていた。
「……はあ」
「……溜息なんて、ますますらしくないのだ。なんだ? 今日は天から刀剣の豪雨でも振ってくるのだ?」
「すげえ皮肉だな、オイ」
そう微苦笑するレギウルスであったが、その仕草の端々からは明らかに虚勢の気配が見え透いている。
確かに、それは『傲慢の英雄』らしい姿勢であったが。
無論、メイルはそれを一切許容しないが。
「レギ……いい加減、本心を話したら?」
「……どういうことだ?」
「確かに、レギがどうしようもない見栄っ張りだっていうのは、これだけ付き合っているんだから既知の事実だし、それでもいいんじゃないかと思う。――でも、それを私の前でする意味なんて、ある?」
「――っ」
一瞬心中を荒れ狂う激情が溢れ出されかけ――が、それも直後には引っ込んでしまった。
羞恥心も、ある。
だが――何より、それを悲観するのは、『傲慢の英雄』にとって何よりも堪えがたいモノなのだろう。
だからこそ、今は堪える。
あるいはそれは、メイルの前だからこそなのかもしれない。
恋人の前では、ただ格好いい男で居たい。
きっと、レギウルスはそんな月並みにありふれたなけなしの沽券故に、このような虚勢を取るのだろう。
つくづく――下らない。
「レギ」
「――――」
瞬間――鳩尾に、鉄拳が叩き込まれる。
鮮烈な激痛が全身を苛み、思わず血反吐さえ吐き出してしまう。
魔力には人一倍過敏となったレギウルスでさえ一切兆候を察知することができなかった時点で、魔力による増強が成されていないと理解できた。
理解できないのは、そんな見た目通りのか弱い少女が成した殴打が、何故これほどまでに響くのか――。
「――そろそろ、つまらん猿芝居は終いにするのだ、レギ」
「お、お前……っ」
レギウルスは突如として繰り出された打撃に悶絶し、恨めし気にメイルを見上げ――思わず、言葉を失った。
メイルの瞳に、害意は皆無。
ただただ、揺蕩う小舟のように不安定なレギウルスを案じる感情を、阿呆な自分でさえ容易く紐解くことができたのだ。
それを認知した瞬間、それまでレギウルスを蝕んでいた下らない感情の一切は自分でも驚くほど呆気なく消失した。
代わりに芽生えたのは、耐え難き悲哀。
「ああ……お前の言う通りだよ。俺だって、あいつが居なくなっちまったことにこんなにも喪失感を憶えるだなんて理解できなくて……やっぱ、言えなかった」
「――――」
メイルは、ちらりとレギウルスが手元に抱えていた一枚の資料を一瞥する。
その資料はぐしゃぐしゃに丸められていた――まるで、誰かの激情に呼応するかのように。
そしてその資料には、こう書かれていた。
『調査報告書・甲・弐』
『清瀧事変』において生じた資料の一つで、どうやら甲・弐とやらには把握した殉職者が記載されているらしい。
明記された文字の羅列は、一瞥しただけで読解する気概を萎えさせる。
だが、数ある名前の中で――たった一つが、どうしようもなく目に入ったのだ。
それの名は――。
「クソッ……! どうして、どうして俺だけ生き残ってアイツが死んじまうんだよ!? なあ、答えろよ――スズシロ・アキラ!!」
――月下に、獣の咆哮が木霊していった。




