一文字の辞表
有り余る体力で何をしたのかは、まだ明言しておりませんよ!
……ラストがシリアス故にあとがきが書けなかったのですが、あれはちょっと「これが私の辞表だ!」を意識していたり。
あれが爽快でしたね。
「――■■■■■!」
「あらあら」
病室に、青年程度の年齢でも十二分に通じる端正な容姿を盛大に歪ませた男が大慌てで侵入していく。
が、無論それを咎める者は誰一人として存在しない。
ふと■■■がちらりと■■■■■の手元を一瞥し――そして、盛大に目を剥く。
「――ぁ」
――なにせ、その手元にはすやすやと惰眠を貪る赤子の姿があるのだから。
それを確認した途端、それまで抑えていた万感の想いが水滴となって頬からこぼれおちてしまった。
「……何泣いてるのよ」
「い、いや御免ね……。ちょっと、感慨深くてね」
「――――」
■■■■■は感激に身を震わせる■■■へ、どこか呆れたような、それでいて愛しむような眼差しで見下ろす。
「ほら、そんなに震えないの。私まで恥ずかしいのよ」
「そ、そうだね……」
■■■■■に促せれて、■■■は木製の椅子に未だ生まれだての小鹿のように触れる足元を何とか落ち着かせながら座る。
「全く、ちょっとは落ち着きなさいよ」
「い、いやねえ……ほら、やっぱり嬉しいじゃんか?」
「……まあ、否定はしないわ」
「やっぱり?」
「ちょ、ニヤニヤしないでよ! 駄目男がこの子にも映るでしょ!」
「駄目男って……」
一応ボクって最高位の龍なんだこねえ……と苦笑する■■■さん。
きっと、後にも先にも■■■にこんな口を叩けるのは、その嫁であり尻に敷いた■■■■■だけだろう。
と、不意に■■■の視線は手元の赤子へ。
「可愛いね」
「異論は挟まないわ」
すやすやと惰眠を貪る赤子からは既に愛らしさが溢れ出しており、この年からでも将来が楽しみである。
「男の子だった?」
「これでゴッツイ♂に見えたら今すぐ眼下に行くべきだわ」
「そこまで言うかな、普通」
「よそはよそ。うちはうちよ」
「そうかな……そうなのかな……」
なんだか釈然としない■■■を横目に嘆息しながら、■■■■■はそういえばとばかりに問いかける。
「名前、決まった?」
「…………」
「離婚届はどこかしらね」
「そこまで言うかな、普通!?」
「常識はぶっ壊したなんぼなのよ。精々覚えておきなさい」
「へ、へい……」
「返事は?」
「はいっ!」
医療のエキスパートたちが「調教……」という単語を思わず思い浮かべてしまったのは言うまでもない。
■■■は微苦笑しながら頬を掻き、
「まあそういうのは冗談で、もう名前は決まっているよ」
「寒い冗談ね。惑星凍るんじゃないかしら」
「毎度の如く辛辣で、逆に安心したよ」
「ふんっ」
と、拗ねたようにそっぽをむく■■■■■のいじらしいその姿に目を細めながら、■■■は赤子を一瞥し、告げる。
「――メイル。いい名前でしょ?」
「――――」
「僕の頭文字と、■■■■■の名前にちなんでつけてみたんだけど……どうかな?」
「……まあ、悪くないんじゃない?」
■■■■■は口元をとがらせながら、されどどこか温かみを感じさせるような表情でそう首肯する。
それに「やった――!」と年甲斐もなく■■■であった。
「いやあー、お気に召さなくて細切れにされたらどうしようかなって思ったよ!」
「あなた私のことなんだと思ってるの!?」
「…………」
そっと視線を逸らす■■■。
だが、沈黙こそ何よりもの肯定であることは明白であり、それを過敏に悟った■■■■■は、次いで口元に張り付いたような笑みを浮かべ、仰る。
「いいわ。引退したとはいえ、龍の次期頂点の名をほしいままにしていた私の力をとくと味わいなさい!」
「ちょ、待って! お医者さん! 患者が乱心――」
助け舟を求める■■■は、周囲を――「後はお若いお二人さんで、ね?」とばかりに人気が引いた病室を見渡す。
ついでに、ご丁寧に赤子――メイルも退避済みだときた。
つまり――、
「……詰んだね」
「覚悟――!」
そう疲れ切ったような表情で嘆息する■■■を、■■■■■は有り余る体力で――。
「……どうして、私は今更っ」
「――――」
引き剝がすべきだった。
この至近距離で、避けようもない砲弾を吐き出し、メイルへ致命傷を付け加えるべきであったのだ。
だが、それを理性が実行しようとそう叫ぶ度に震える手先が邪魔をし、結局何一つできないままで終わってしまう。
(どうして……どうして)
もう、そんな感情は捨て去った心算だった。
二度と奪われないように孤高の一匹狼を演じ、自らの愛娘にさえもそれを強要するような、そんな生き方を選んだ筈だ。
「――――」
――ならば何故、今更涙が溢れ出す。
もう、自分にこの抱擁を甘んじる資格なんて無い筈だ。
自分の愛娘には排水溝で生きることを強要し、あまつさえこうしてその娘を「弱いから」というどうしようもない理由で殺そうとしているのだ。
悲しいなんて――その抱擁が嬉しかったなんて、どの口で言える。
「お母さん。――殺して」
「……は?」
己の内にずっと永眠し、目を覚ます筈のなかったその感情の名前が分かる四苦八苦するセフィールへ、そうメイルが耳打ちする。
その意図が余りにも不明慮で、意味が分からず――、
「ど、どうして……」
「殺したいんでしょ? 私を八つ裂きにしたかったんだから、ここに来たんでしょ?」
「――――」
「なら、私を殺して。もう、抵抗なんてしないから」
「……どうしてっ」
あれだけ生きるという選択肢に死にも狂いで縋り、そしてこの逆境を覆した今で、そんな声音を吐くのだ。
どうして、今更になって。
悪辣な罠?
どうしようもない意地悪?
否。
断じて、否。
そんな推察が全くの見当違いであることは、メイルのその純然な、温かい感情が宿った瞳が一切合切否定する。
嘘じゃない。
メイルは、冗談でもなんでもなく、本気で自分を殺してしまえと、そう告げているのだ。
「どうして、そんなことを……」
「もう、それは言った」
「――――」
「私は、もう生きる意味を果たした。――それに、貴女なら、殺されてもいい」
「――ぁ」
――殺せ。
それこそが、自らの悲願ではないか。
何故、今更になってそれを躊躇する。
もう、理由なんてモノは一切かなぐり捨てて、ただただ本能のままに、目下の心底気に喰わない少女を食い殺せばいい。
そうすれば――そうすれば、どうなる。
――殺せ。
強いとか弱者だとか、そんなことはもうどうでもよく、ただひたすらに眼下の少女が憎たらしかった。
なら、その胸を穿ってしまえばいい。
そうしてしまえば、この胸の内に宿ってしまったこの感情は瞬く間に消え失せてしまうえるだろう。
――殺せ。殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。
それで、何もかもが終焉に導かれるのなら。
セフィールは、手元の鋭利な扇を手に取った。
それを目にし、メイルは即座に離脱しバックステップ――することもなく、全てを委ねるとばかりに目を伏せる。
そんなメイルの仕草に一瞬扇を掴むセフィールの華奢な腕が微動したが、それも一瞬のことである。
躊躇も、迷いも、もう消え失せた。
――メイル。いい名前でしょ?
振り落とす寸前、そんな声音が微かに脳裏に木霊する。
「――ッッ」
黙れ。
もう、自分が決めてしまったのだ。
今更それを曲げるなんて、できる筈もない。
「――――」
セフィールは、殺し損ねないように扇へ全身全霊の魔力を練り込み、自らの身体能力も最大限にまで上昇させる。
そして――、
「――――」
無言で、まるで激情を押し殺すかのように無言でセフィールは扇でメイルの華奢な首筋を撫で、
――それが、お前の本音なのだ?
そして、声が木霊し――、
「ああああああッッ‼」
メイルの首元を切り裂くその寸前、セフィールは全力でその扇の軌道を常軌を逸した膂力で変更し――己の胸元へと、決別の証とばかりに一文字を刻み込んでいった。




