願わくば
――その男を一瞥した瞬間、何故か『月』を彷彿とさせた。
そもそも、『厄龍』ルインの髪色は日本人において割とメジャーな黒色なのであるが、今やその漆黒の頭髪は煌めく月色に染まりあがっている。
そして深紅に染まった瞳は澄み渡った藍色へ。
「――――」
誰だ。
この男は、誰だ。
かつて『厄龍』であったルインは吐き気が差すような禍々しい雰囲気を纏っていたが、この少年は丸っきり勝手が異なる。
思わず昼寝でもしてしまいそうな、何故か痛々しく思えてしまうほどに慈愛に満ちたその眼差しは。
静かに微笑むその姿は神聖の一言でしか形容し修飾することはできずに、己の語彙力をこの時程恨んだことはないだろう。
「――誰だ、お前は」
「――――」
誰もがその神々しい少年の君臨に息を呑み、そして固唾をのんでじっと食い入るように凝視していく。
そして、不意に少年ははにかんで。
「――ありがと、生きててごめんね」
「――ぁ」
別人だ。
その慈愛と世界を呪いもせず、ただただ不条理に溺れるかのような痛々しさに満ちた声音は明らかに冒涜者のモノではない。
別人。
そう、たった一言で確信できた。
「……お前は、一体誰なんだよっ」
「何でもない。 何者でもない。 何者にもなれなていない」
「――――」
「――ただ、『月』に導かれただけ」
「――っ」
分からない。
『月』という単語は俺や沙織が生きる日本ではごくありふれた概念で、それこそ夜空を見上げればすぐに謁見できるだろう。
故に、その言葉は間違っている。
「沙織――月を見たことはあるか? この世界でだ」
「――? ……そういえば、なかったような」
「っ。 ったく、どうなってんだよ」
苛立ち気に悪態を吐く俺を、ガバルドは胡乱気な眼差しで問いかける。
「おい、どうしたスズシロ? そういきりたって」
「ガバルド、俺がこの世界ではない別種の世界から来た『来訪者』だってことは必然既知の情報だよな」
「あ、ああそうだが……それが何か」
「――無いんだよ」
「っ?」
ぽつりと呟かれたその言葉に瞠目し、無理解を示すガバルドにも理解できるように、率直に結論を述べる。
「――月なんて、この世界にはないんだよ」
「――――」
そもそも月という概念を既知ではないガバルドや魔王には俺が何を言っているのか理解できずに、ライムちゃんに至っては「浮気……?」なんて呟いているばかりだ。
だが、かつてあの景色を共に見た沙織は違う。
「あっ。 ……そういえば、『荒城の世界』や『地獄』、元の世界にも月なんて無かったような……」
「……普通、四つも偶然が重なるものか」
俺たちがまだ知らないという可能性もあるが――この世界線には、『月』という概念が存在しないのはどうやらほぼ事実なようだ。
なのに。
「――どうして、月なんて知ってんだよっ」
「――――」
俺が導きだした突拍子もない解答がどのような影響を与えるのかは定かではない。
だが、一つ確かなことが。
――どうせ、ロクなことないんだろうなあ
悲し気に微笑む少年の情景を瞼に焼き付けながら、俺はそうただただ漠然と降りかかる厄災を悟っていたのだった。
「――ボクに、君たちに敵対する意思はない」
「――――」
小さく、されど不思議と魔王城の頂上に木霊した声音はどこまでも響くかのような不思議な錯覚に陥らせる。
その声色はどこまでも自分のことを置き去りに資、誰かを思いやる慈愛と、そして悲痛な覚悟に類似したモノが見て取れた。
会話の主導権は完全に謎の少年に握られている。
「――――」
逆にここで無用な口答えなどすると更に面倒なことになると漠然と予感した俺は、周囲へ目配せして意思を伝達する。
「――きっと、これからキミたちは数えきれない苦難に出会い、そして乗り越えて――『月』へと向かうだろう」
「――――」
「今は唯、それが悲しい」
「――――」
理解、無理解、理解、無理解、無理解、無理解。
響き渡る言葉の意味を分析するにはあまりに情報が足りず、今はただ、それがただひたすらにもどかしい。
その静謐な声音にガバルドや魔王、驚くべきことにライムちゃんでさえどこか拝むように少年を見上げている。
まあ、それも無理もない。
それこそ、同性な俺でさえ見惚れてしまうような少年なんだからな。
外面が――ではない。
確かにその少年の容姿は神が丹精込めて作り上げた最高傑作であると説明されても疑うこともなく納得してしまいそうなほどに神聖で端正だ。
だが、それ以上に――、
「――――」
「――っ」
その少年はどこまでも純情で、純真で、純正で――だからこそ、残酷であり、そして彼はそれさえも自覚しているように感じられる。
これはあくまで俺がそう感じただけで。
それが真実なのはか依然として不明である。
だが、それでもその少年を形作る魂は太陽が霞んでしまいそうな程に眩しくて。
「あれっ」
「――――」
ふと隣を見てみると、沙織の頬から一筋の涙が零れ落ちていた。
そもそも沙織は泣きやすい女の子という要因が相まってこそいるが、その最もたる起因はきっと別のモノであろう。
そして少年は、懇願するように、切願するように、強請るようにう、目を背けないように、目を焼きつけさせるように、告げた。
「――願わくば、キミたちがボクを滅ぼしてしまうことを」
「――――」
きっと、ただそれだけ。
その少年は、それだけを願って今この瞬間を生きているのだ。
「――なんだそりゃ」
そんな漠然とした確信を得た瞬間――神々しい少年の背丈が掻き消えてしまっていった。




