幽霊騒動(1)
彼と彼女が路地裏で出会う三ヶ月前のこと。
冬の雪が少しずつ溶け出した季節の夕方、茶色い癖っ毛頭のウォーレン・ファンベールは役所の一室にいた。部屋は広くなく、八台の机が向かい合うように並び、中央に島を作っている。その一席にウォーレンは座っていた。
彼は税務官の職業に就いている。税を徴収した書類の整理と計算、正しく税金が納められているかの調査が基本業務で、滞納者への徴収作業もこなす。
「今日はここらへんでいいかな」
書類をまとめて、トントンと紙束の端を整えながらウォーレンは席を立つ。この日は計算を主にした書類仕事に手を付けていた。
「先輩、もう終わったんですか?」
右隣の席に座っている金髪のおさげの眼鏡をかけた女性がウォーレンに話しかけてきた。
彼女の名前はアリシア。ウォーレンの後輩で一年ほど仕事を一緒にしている。彼女の鼻の周りにぽつぽつとそばかすがあり、胸は……とても豊かだ。
ウォーレンは後輩の問いに対して素直に答える。
「まだ終わってないが……明日の俺がきっとこなしてくれるさ」
「またいつものやつですか? そのうち怒られちゃいますよ」
アリシアは作業を止め、右手で頬づえをつき呆れた表情をする。
「かもしれないな。ただ、八〇点取ればいい仕事を七〇点で済ませるのがポイントだ」
「それじゃあ。残りの一〇点分はどうするんですか?」
「そのまま、七〇点で通ればラッキーだろ。もしやっていない一〇点分がバレそうになったらこっそりやっておく。それくらいなら本気を出せば終わるはずだし、他人にも回しやすい」
ウォーレンはコートを着終え、黒いベレー帽を被る。数年前からこの国の軍務官にはベレー帽が支給されるようになった。それを他の役人たちも真似てベレー帽を被る人が増え、ある種役人のシンボルとなっている。ウォーレンはそれを真似たいわゆるミーハーだ。
『他人に回す』という発言を聞き、アリシアは何か思い当たることがあるようだ。
「……もしかして、昨日私に回ってきたお仕事って」
「おっと、急用がたった今できたようだ。さっさと帰らないと」
ウォーレンは手持ちの鞄を掴み急ぎ足で部屋の出入口へ向かう。
「最初から本気出してくださいよ! ……仕方ないですね。代わりに今度、ご飯おごってくださいね」
「ああ、そのうちな」
優秀な後輩を持つのは良いものだと思いつつ、ウォーレンは帰路に就く。
ウォーレンの家――ファンベール家の屋敷に到着し、玄関で出迎えくれた初老の使用人に荷物を預ける。この使用人はウォーレンの専属執事であるモーリスだ。長い間ファンベール家に仕えウォーレンが子どもの時からお世話になっている。身分としては奴隷であるが他の使用人も同じだ。
「うう、外はまだまだ寒いな……屋敷の中は天国のようだ」
「坊ちゃま、風邪を引かれてしまっては元も子もありませんので、明日から送り迎えいたしましょうか?」
「前にも言ったが、いらないぞ」
この国のお役所仕事は基本的に貴族が担う。職場に使用人が出迎えすることは珍しくはないが、家が近いことや気分によって散歩したいことからウォーレンは断っている。
屋敷は広く二階建てで、正面から入るとまず玄関ホールがあり、その奥に大きな階段がある。階段の両脇には大きな彫刻が飾られていた。
(また、変なのが置かれてる……)
四角く白い土台には模様が刻まれており、獣の彫刻が佇んでいる。ライオンのような獣だが、お尻部分も顔になっていて、前と後ろの両方から顔が飛び出ている。
彫刻から目線を外すと、玄関ホールの西側に二人の使用人が集まり何かしている。
(何だ?)
ウォーレンが使用人に近づいてみると、花瓶が机から落ちたようで割れていた。床には破片が辺りに散らばって大きな水たまりができている。使用人たちは割れた花瓶を掃除している最中だった。掃除中に誤って落としたのかと考えたが今は夕時だ。屋敷の清掃や花瓶の手入れなどの家事雑用は、朝から昼にかけて済ませてしまう。別の理由で落としたのだろうか。
使用人の一人がウォーレンが帰ったことに気付き、慌てて謝罪する。
「ウォーレン様、大変申し訳ありません」
「こんな時間に花瓶を手入れして落としたわけじゃないよな。何かあったのか?」
「それが……先程までこの場所には誰もいなくて……申し上げにくいのですが、花瓶が勝手に落ちたようです………」
『勝手に落ちた』という意味がわからず固まってしまった。ウォーレンはそのまま不自然な点を指摘する。
「……花瓶が自分で動いて落ちるわけないだろ」
「……」
玄関ホールに飾られていることから花瓶も大きく水が入っていてある程度重い。ちょっと触れた程度で落ちることはなく、かと言ってこんな場所に突風が吹くわけでもない。誰かが故意に押さなければ落ちないだろう。
「使用人の誰かがやった可能性はあるか?」
「ファンベール家の使用人がそんなことするはずがありません」
この屋敷の使用人は当主のダンブルギアが全て選出している。そんな不遜なことをする輩は雇っていないだろう。使用人の意見にウォーレンも賛同する。
「ただ……」
受け答えをしている使用人が何かを言い淀んでいた。そして使用人は考えを口にする。
「最近不思議なことが屋敷で起きています。窓や物がひとりでに揺れたり動いたりすることがあります。特に厨房に多くて食材がなくなることもあります……」
「……は?」
そんなことがあるのかとウォーレンは専属執事のモーリスを目で伺う。
「ここ一ヶ月くらい前からでしょうか。夕方から夜にかけて起きているようです。私も話を聞いたときは半信半疑でしたが、この目で揺れているのを確認しました。不可解なことですので屋敷の皆様には伝えておりませんでした」
モーリスが言うのなら確実にそうなのだろう。ウォーレンは自身の目でその現象を見ていないからか不思議そうにしている。
「わ、私たちは幽霊の仕業じゃないかと話しているんです! この屋敷に住んでいる地縛霊か何かが化けて出てきたんじゃないかと」
ブルブルっとウォーレンの背筋に悪寒が走った。ポルターガイスト現象とでもいうのか。
「ゆ、幽霊だと!? そんなことあるわけないだろ。じょ、冗談だよな?」
だらだらと冷や汗を垂らしつつ、使用人たちを見るが誰も目を合わせてくれない。一ヶ月前から住み着いているというのなら、その間幽霊と共に生活していたことになる。
ウォーレンは、幽霊や暗い場所など怖いものが苦手だ。
その幽霊とやらに呪いを掛けられたり、取り憑かれたりしている可能性がウォーレンの頭に過ぎるが……それ以上は怖くて思考を放棄する。
代わりに花瓶へと意識を向け、脳内から幽霊を追い払う。
(花瓶が割られたということは、幽霊が怒って何かしらのサインを出したとか? もしその理由が花瓶にあるとしたら……例えばデザインや花のセンスがよくないとか……)
ついでに言うと数年前から父親のダンブルギアが美術品や骨董品を買い漁るようになった。花瓶が割れたことに激怒して使用人に八つ当たりするやもしれない。そんなことになれば、使用人たちが不憫だ。
「……もしかしたらその幽霊はこの花瓶が気に入らなかったのかもな。俺が代わりのものを用意する。割れたことは親父に言わなくていいぞ。もし言及されたら俺を呼んでくれ」
「わかりました……」
「あと、屋敷に飾る花は幽霊に優しいものに変えてくれ」
「はぁ……」
無理難題を吹っ掛けたようだが、ウォーレンにできることは花瓶を選んで買うことくらいだ。花は消耗品だしウォーレンは詳しくないので面倒を見切れない。
腑に落ちないもののこれ以上はどうしようもなく、ウォーレンは執事のモーリスと階段を上がり二階の自室へと向かう。一階の使用人たちは二人を見送った後、片づけの続きを始めた。
「なぁ、モーリス。幽霊に好みってあるのか?」
「私にはわかりかねます」
「だよなぁ……」
さすがに有能な執事でも幽霊に関してはわからないようだ。
「ところで花瓶はいつ買いに行きましょうか?」
「そうだな、明日の仕事終わりにしよう。迎えを頼めるか?」
迎えを要らないと言っておいて、結局頼むウォーレンであった。