105話
宿屋に戻ると、アモエナは服を着替える事もせずにラウンジのテーブルに座り、テーブルで飲み物を注文してから深く溜息をついた。
原因は、団長に言われた言葉である。
――なんとマヌケなことだろうか。
クーデルスが魔王であり、人にとって危険な存在であるという事がすっかり頭から抜け落ちていたのだ。
たしかに、人にとって有害な面はあるかもしれない。
けれど、けっしてそれだけの存在ではないのだ。
だからアモエナの唇は、知らぬうちにこんな言葉をつむぎ出していた。
「だって、彼は人を愛するということを知っているもの」
……それが人から見ればズレて歪んだものであったとしても。
アモエナを愛し、受け入れる。
どんなに胡散臭い言動と腹黒い行動をしていても、その根底にある愛する事への誠実さだけは疑った事はなかった。
不意に視界を大きな影をよぎり、目の前に誰かが無言で座る。
「クーデルス?」
「何か、悲しい事があったのですか、アモエナさん」
そんな言葉から、気まずかった昨日が嘘のように会話が始まる。
いや、そうなるように仕向けられたのだ。
いつだってこの魔王は人の心の隙間に入り込むのが巧い。
「うん……とても酷いことを言われてしまったの」
笑いながらそう告げたつもりなのに、気が付くと涙がこぼれていた。
どうやら、アモエナは自分が思っていたよりずっと傷ついていたようである。
伸ばされたクーデルスの指が、そっとアモエナの頬をぬぐった。
「何があったのですか?」
そう問いかけられて、アモエナは一瞬躊躇う。
あんな台詞、とても本人に利かせられたものでは無い。
だが、クーデルスは優しく笑ってこう告げた。
「何か言いにくい事があるのですね?
でも、自分ひとりで抱えているのはとても辛いんでしょう?
私なら大丈夫。
貴女が望むなら誰にも話したりしないし、何を言われても貴方が望まないようなことはしませんよ」
そんな口約束、信じるほうがどうかしているのかもしれない。
だが、アモエナはそんな賢さを活かせるほど強くはなかった。
「さぁ、内緒話をするなら誰にも聞こえないようにしましょう。
――咲き乱れよ、梔子の花」
そう言って、クーデルスはテーブルに置かれた木製のカップを指でつつく。
すると、その木目の間から枝が伸びて梔子の花が一輪だけ咲いた。
甘い香りが漂い、同時に周囲の音が聞こえなくなる。
おそらくは周囲の音を遮断する魔術をかけたに違いない。
「もう、大丈夫ですよ?」
笑顔でそういわれた瞬間、我慢できずアモエナの唇が勝手に言葉をつむぎ出した。
「あのね、クーデルス……」
新しく出来る舞踏団に誘われたこと。
ドロチェスとカッファーナにも声をかけているということ。
そして、クーデルスと別れるように言われたこと。
やがてアモエナが全てを語り終えると、魔王は優しい声で彼女にこう尋ねたのである。
「それで、貴女はどうしたいんです?」
「さぁ? 正直、よくわからない。 でも、こう言ってやりたいかも」
一端台詞を区切り、アモエナは頭の中で言葉を選んでからこう叫んだ。
「クーデルスの事を何も知らないお前らが知ったような口を聞くな! ……ってね」
そう叫んで気持ちが楽になったのだろう。
アモエナはスッキリした顔で大きく息を吸った。
「そうですか」
「うん、そうなの。
その場で言えたらたぶん恰好よかったんだろうけどね。
言えなかったの。
あたし……ものすごくダサい。 本当にダサいわぁ」
アモエナはそのまま机に突っ伏し、自嘲するかのように笑い始めた。
「そんなことないですよ。
私のアモエナさんは可愛くて賢い子です」
クーデルスがその頭を優しく撫でる。
そして、しばらくそうしていたあと唐突にこんなことを言い出した。
「ねぇ、アモエナさん。
踊りにゆきませんか? 実はようやく私の楽器が届いたのです」
「今から?」
あまりにも意外な提案に、思わずアモエナが体を起こす。
クーデルスが自分の楽器を作らせていたことなど、とっくの昔に忘れていたからだ。
「ええ、まだ昼前じゃないですか。
昼食の屋台を探す人たちからお金を巻き上げちゃいましょう」
「ぷぷっ、なにそれ、ものすごく人聞きが悪い」
そんな反対にもなっていない非難の声に、クーデルスは片目を瞑って微笑む。
「いいでしょ? 私は何せ魔王なんですから。
二人だけで旅していた頃の気分を味わいたい気分なのですよ、今日は」
そう言って差し出された手を、アモエナは拒む事ができなかった。
「ずるいわ。 そんな事言われたら反対できないじゃない。
私、疲れているのよ? すっごくショックだったの」
まるで嫌がるような言葉。
だが、その声の明るさと笑顔が、彼女の台詞を明確に裏切っていた。
「何もふて寝することだけが疲れを癒す方法ではありませんよ。
……さぁ」




