ノート端の愛言葉
『何故だろうか、と疑問に思う。彼は何故、私に手を伸ばし、私を受け入れるのか。自身が化け物であることも忘れ、私はまるで、化け物を見る目で彼を見た』
ノートにボールペンを走らせる。
滑らかな書き味に、手が止まることはなかったが、口も動かし続けていた。
「好きな本」
「太宰治、人間失格」
「マジか」
「マジだ」
傍から見れば、些か知能指数の足りない会話だとは思う。
それでも、目の前でノートに影を落とすその人物は、楽しげな声を上げ続けた。
「好きなケーキ」
「……苺タルトとチーズ系統」
「あれ、ショートケーキじゃなかった」
ボールペンの先に、インクが溜まってしまい、机の端に追いやって来たポケットティッシュに手を伸ばす。
「好きだけど、生クリームによって善し悪しが変わるから」と淡白に告げ、ペン先を拭う。
白いティッシュは、黒いシミを残した。
「チョコレートは良く食べてるのに?」
「甘さの質が違う。後、これは脳の為」
ポケットティッシュと共に追いやっていた、チョコレート菓子を手繰り寄せる。
元々開いていたそれの蓋を片手で開き、どうぞ、と差し出す。
左手でそれを行いながらも、右手は変わらずに文字を書き連ねていく。
罫線の上に並ぶ文字は見慣れた、そして書き慣れた丸みのある癖字だ。
如何せん、女子文字と呼ばれ、キャラに似合わないと笑われることが多く、ボールペン字講座を受講しようかと考える。
「頭、使うもんねぇ」
ガサゴソとチョコレート菓子を取り出す音と共に、呑気な声音が響いた。
次いで、チョコレート菓子がボクの口元に運ばれ、反射的に口を開いてしまう。
ぽい、と投げ入れられたそれは、チョコレートとクッキーが合わさったものだ。
有名なパッケージでは青に羅針盤の描かれたものである。
チョコレート部分には、帆船が描かれており、もぐもぐとそれを噛み締めた。
「あ、じゃあ、愛用の目薬!」
「目薬ぃ?」
素っ頓狂な声が出て、顔を上げた。
そこには、赤縁の眼鏡を引っ掛けた、癖のある髪の男がいる。
その顔立ちの幼さと言うか、あどけなさからは、男の子とも少年とも言えた。
黒よりも茶色の目立つ瞳を、薄硝子越しに真っ直ぐと向けてくる彼は、チョコレート菓子を摘みながら答えを待つ。
もぐもぐと動く薄い唇を見ながら、何の目薬だったっけ、と頭を捻る。
それから、嗚呼、とボールペンを握り直す。
「デジアイ」
「黄色いやつだ」
「そう。刺激も少なめで使い易い」
黄色いダイヤ型のパッケージに、中身も黄色の目薬だ。
ビタミンが豊富だからか、鮮やかな黄色の液体で、刺激も少なめだからこそ、愛用品と言える。
文字で埋め尽くしたノートを見下ろし、次のページを捲った。
今度は真っ白になったノートを見下ろし、再度ボールペンを構える。
「俺もそれにしようかなぁ」
「そうした方が良い」
未だ目薬の話から離れず。
思案するような声を聞いて、ノートに新しく鉤括弧を書く。
「崎代くん、知ってるかい。伊達だろうと、レンズの入った眼鏡をしていると視力が落ちるんだよ」
『嗚呼、何て愚かなの』漢字と平仮名を並べ、台詞を書き連ねる。
書いている文章と、声に出す言葉がごちゃ混ぜになりそうで、一度息を吐く。
「俺、視力変わってないんだけどなぁ」
「ちゃんと眼科に行った方が良い」
「……作ちゃんって、真顔で声も変わらないから、冗談が冗談に聞こえないよ」
「これはガチでマジ」
「えっ」
胃の奥底がぐつぐつと煮え立つような文章を綴っていく。
崎代くんの視線は、ボクの顔とノートを行き来しており、ノート内容は逆さからでもそこそこ読み込んでいることだろう。
例えば、絵を描く時に柔らかな表情の人を描く時には自身の表情筋も柔らかく、荘厳な景色をカメラに収める時には表情筋も固くなる。
そういうものだ、そういうものだと思っているのだ。
だからこそ、崎代くんの言う真顔のまま顔を上げ、眉尻を下げているその顔を見る。
「理解出来ないし」
ボールペンのペン先を引っ込め、ノートの上に転がす。
空いた右手を伸ばし、眼鏡の縁に触れ、そのまま手前に引いた。
ゆっくりと外れた眼鏡の奥からは、何にも遮られない茶の瞳が現れ、瞬きをする。
「崎代くんの方が、余程可愛らしい顔をしているよ」
左手で男にしては長い睫毛を撫でた。
慌てて閉じられた瞼は、緊張し痙攣するように小刻みに動いている。
「えぇ……」
「作ちゃんの方が可愛いよ。俺、好き」
「嗚呼、そういうところだよ」
眼科に行った方が良いと思う。
何なら、大きい病院へ行き精密検査を受けた方が良いとすら思う。
それを口にする度に、すごいことを言っている、だとか、大げさだよ、と笑うのが崎代くん本人だ。
眉間にシワを寄せて、真顔を苦虫を噛み潰したような顔に変えると、崎代くんは息を吹くように笑った。
笑うと、目尻も眉尻も下がり、空気が春先のように緩むのが特徴だ。
「ねぇ、作ちゃん」
「……何」
眼鏡のツルの部分を丁寧に折り畳み、机の上に置くと、崎代くんが笑顔のままに距離を詰めて来る。
詰めて来ると言っても、そもそも机一個分くらいしか距離はないのだが。
「本屋さんに行って、いちごタルトを食べて、目薬を買いに行こう」
顔を近付けられ、鼻と鼻が触れ合う。
瞬きをしたボクは、手探りで転がしたボールペンを持ち直し、ノートを自分の方へと引き寄せる。
『嗚呼、何て愚かなの。私の言葉に、男は柔らかな笑みを見せる。ああ、俺も君と一緒に化け物になりたいんだ。それはどうしようもなく醜い、そうして純粋な男の愛だった』
ボールペンを筆入れに突っ込み、ノートを閉じる。
両方まとめて鞄に突っ込みながら、近いその額に頭突きを一発入れて、距離を取った。
痛みで呻く声を聞き、空っぽになったチョコレート菓子のパッケージと黒いインクに染まったティッシュをゴミ箱に入れに行く。
流れる作業を終え、鞄を背負う。
未だ、崎代くんは額を押さえて呻いている。
「早く起き上がって、本屋さんで人間失格を買って、苺タルトと崎代くんのケーキを半分こして、同じ目薬買いに行こうよ」