夕月棗はのんびり暮らしたい
俺、夕月棗は天涯孤独だ。
親は居たはずだが、借金の果てに蒸発したらしい。
らしい、というのは、物心ついた時にはすでに孤児院で暮らしていたからだ。
ユウヅキナツメという名前も、俺が拾われたのが月が出ていた夕方で、近くに棗が実っていたかららしい。
そんな周囲からは憐みの目で見られそうな身の上だが、それでも懸命に生きればそれなりの評価はされる。
金銭的な理由で部活動こそ行っていなかったが、勉学は人並み以上に励み、奉仕活動も積極的に行った。
そういった努力は就職にもプラスに働き、大手企業とまでは言わないがそれなりの会社に就職することは出来た。
「…就職できただけ、マシなのかねぇ…」
そうぼそりと呟きながら、短針が1の数字を刺した時計を見る。ここ数か月、ほぼ毎日この調子だ。
人並みに仕事は出来ているつもりだ。ノルマは最低限果たしているし、給料分は仕事をしていると思う。
上を見ればそれなりに人はいるが、下にいる人数はその何倍もいる。
中堅というよりも、中の上といった位置である。そう自分で評価できる程度にはまじめに働いている。
できれば、このまま目立たずに定年まで定時出勤と定時退社で暮らしていきたい。
出世?したい奴がすればいい。俺は遠慮しておく。
正直自分の時間を削ってまで他人の面倒ごとを押し付けられるような立場にはなりたくない。
増える給料に見合わない仕事量と責任の増加。メリットとデメリットのつり合いが取れてないのだ。
昇進すればやりたいことができる?いいえ、結構です。家に帰ってパソコンに向かいあったり本を読んだり、ゆっくり寝るだけで満ち足りてます。やりたいことは十分やってます。
そんな考えで仕事をしていたら、ある日急に仕事量が増えた。これはどういう事ですか。と課長に問い詰めたら、油ぎった笑顔でこう言ってきた。
「君の仕事ぶりには期待している。見事乗り切れたらさらに上に行けるだろう。頑張ってくれ」
F●ck!!と中指を立てたくなる衝動を堪えつつ、上記の考えを伝える。まぁ、睨まれはするだろうが仕事は落ち着くだろう。そう思って青筋が浮かんだ課長を尻目に席に戻る。とりあえず、振り分けられた以上はその仕事だけは終わらせよう。そう考えて手を動かす。これで出世コースからは完全ドロップアウト。静かな社畜生活で暮らせるゾ。そうと決まればサービス残業してでも終わらせるか。
…そう思った俺が浅はかだった。
翌日も、前日と同じ量の仕事が割り振られた。視線を課長のほうに向けると、青筋を浮かべながら笑顔を向けてくる。どうやら間違いではないようだ。
将来有望な野心家社員に割り振れよ…とため息をつきながら、とりあえず手を動かす。結局やることは同じなのだ。ご親切にも、期日が今日明日といった仕事ばかり集められているのが腹立たしい。期日を破るわけにもいかないので今日も残業覚悟でデスクに向かう。明日が憂鬱だ…
―――そんなことを繰り返していたら、もはや残業が当たり前になっていた。これってパワハラだよな?使いつぶされてるのか?そんなことを考えながら帰路についていると、若いチンピラ風の男が3人近づいてきた。便宜上、金髪、ドレッド、鼻ピアスとでも名付けよう。
「おっさん。俺たち金欠でさァ―」
「働けクソガキ。もしくは親に集れ」
お約束の絡みかたをしてきた金髪に即座に切り返し、歩みを進める。こういうのは適当にあしらって無視するのがいいとどこかで見た気がする。とりあえずドレッドと鼻ピアスは軽く噴き出して笑ってた。
「―ッザケンナ!オィ!オッサン!?」
茹蛸みたいに顔を赤くした金髪が再び前に出て胸倉をつかんできた。マンガみたいなやつだなと内心思いつつ、掴んだ手を払い落とす。
「まず、いきなり人に金を集る。次に初対面の人をおっさん呼ばわり。三つ、こんな深夜に無意味に出歩く。クソガキと呼ばず何と呼べばいいんだ?帰って寝ろ」
挑発的に目線を合わせる。社会の荒波に揉まれて拾う困惑な俺は大人の対応をする余裕はないのだ。
「う、ウルセェ!」
少しの間をおいて、言葉を詰まらせた金髪茹蛸が殴り掛かってきた。さっさと家に帰れよ。
まぁ、ある程度予想が出来てたのでとりあえず軽く前蹴りを放つ。腹に足裏が当たり、金髪茹蛸が尻もちをつく。何が起こったか分からないような表情を浮かべている金髪茹蛸と、それを見て一層笑い転げる他二人。加勢する様子も無いようなので、このまま帰ろうと背を向ける。
「おーっと、オジさん。彼、お尻の骨折れちゃったよ?病院代おいてってよ~」
今度はドレッドが絡んできた。メンドクサイ。俺は帰って寝たいんだ。
「尻もち程度で折れるならもとから身体がボロボロなんだろ。救急車呼んでさっさと入院させとけ」
「ぁー、もうメンドウだしさぁ、財布だけ置いてけよ。俺らが有効に使ってやっからよ」
鼻ピアスまで参戦してきた。2対1は正直無理だしどうやって逃げるかな。そもそも、喧嘩なんてやり方すらわからないしなぁ…
バシンッ!
突如、頬に衝撃が走った。
「はい、時間切れなんで無理やりちょーしゅーしまーす」
ドレッドが頬を叩いたようだ。呆気にとられ、今までの思考が全部吹き飛んだ。
遅れてじわりと頬が痛み出す。ぁーなんかもう、どうでも良くなってきた。
怒りで身体も震えだしてきたぞ?とりあえず、あれだ、我慢はやめよう。
「オジさん、ビビってる?プルプル震えて―!?」
うかつに顔を近付けてくれてどうも。おかげで髪が掴みやすいし、殴りやすい。
まずは3発ほど顔面を殴ってから、思いっきり髪を引っ張り地面に引きずり倒す。そのあと、顎あたりをめがけて足を踏み落とす。
ゴギャッという小気味よい音とともに動かなくなったドレッドを尻目に鼻ピアスに向かい合う。
「俺、帰れって言ったよな?お前も顎砕かれたいか?」
そう言いながら適当なファインティングポーズを取る。見様見真似なので不格好だが、まぁ無いよりましだろう。
やる気満々なコチラに対して、鼻ピアスはドレッドの様子を見て震えだしている。
正直こちらもドレッドの顎を割ってクールダウンしたせいで足が震えてるのだ。このまま怯えて逃げて行ってほしい。
鼻ピアスの視線が俺とドレッドを交互する。何か相手の戦意を削るいい言葉はないものかと考えを巡らせる。
ドスッ
突然、そんな感触が腰当たりにした。
振り返ってみると、真っ赤になった金髪茹蛸が焦点の合わない目でこちらを見ている。
抱き着くように引っ付かれても、正直そういう気はないので気持ち悪いだけだ。
そっと、視線を腰あたりに移すと、じんわりとシミのようなものが浮かんでいた。
厳密にいえば、腰に生えた冷たい感触の何かを中心に今なおシミは広がっている。
一瞬で思考が冷却され、発生した激痛が認めたくない現状を肯定する。
刺された さされた ササレタ
街灯の光を、腰に刺さった刃物がギラリと照り返す。赤黒い色が混じっている。
ああ、間違いなく刺されている。そうはっきり認識すると同時に、足の力が抜ける。
そのまま崩れるように地面に倒れこむ。水飛沫のような音がした。血ってこんなに一気に出るのか。
そんなどうでもいいことをぼんやりと思い浮かべながら、腰に震える手を当てる。
べっとりと血にまみれた手を見て、自分の深刻さを理解する。もう手の感触もだいぶ薄れている。
理解したところで、急激な眠気が襲ってくる。寝たらお終いだと理解しているのに、逆らえない。
ゆっくりと瞼が堕ちる。同時に、遠ざかっていく足音が聞こえる。救急車なんて呼ばねえよなぁ…
そうぼんやりと考えながら、意識は完全に闇に消えた。