亀の歩み
「まったく、君の欲の無さには驚かされるよ。都市参事会員の席をもらっただけで、残りの報奨は返上しようと言うんだから」
馬車の中から群衆に手を振るアルドに、隣からラウルが声をかけた。この二人は聖戦の五日後にようやく体調を回復し、今ようやくこうしてカムチャダール聖戦の優勝パレードに臨むことができるようになった。
ラウルはカムチャダール聖戦が終わった後、駆けつけたマグニ地区の魔女達の献身的な看病のおかげでどうにか一命を取りとめた。
カムチャダール聖戦の勝者は誰かをめぐって、ノルトハイムの都市貴族の議論はしばらく紛糾した。実際に走ってゴールを切ったのはアルドだったが、この聖戦のルールでは他の走者に力を貸すことは禁止されていたため、ラウルを背負って運んだアルドは聖戦の規定に違反していることになってしまうからだ。
しかし、ノルトハイムを瘴鬼から救った英雄であるアルドの功績を考えると、アルドを失格であるとすることもできない。結局アルドからの申し出もあって、報奨を減らした上でアルドを今回の聖戦の優勝者とすることで事は決着した。
「俺は政治の経験などないし、終身市政顧問の地位などもらったところでもてあましてしまうだろう。黄金120ギルダスだって俺の身には余る。貧しい育ちのの俺には金の使い方なんぞわからないし、それよりも市政に役立ててもらったほうがいいというものだ」
「見上げたものだ。僕なら市政顧問の立場を利用して、めいいっぱいやりたいことをやってみたいものだけれどね」
「それはお前が兎耳族だからこそ言えることだ。いくら俺たちがもともとは天人族だったことが明らかとは言え、まだまだ亀甲族が政治に関わることには抵抗が大きいだろうからな」
「もしかして、兎耳族の警戒を恐れて報奨を返上したのかい?」
「それもある。あまり急激に亀甲族が力を持つと、俺達が兎耳族に復讐しようとするのではないかと恐れる輩もいるかもしれん」
「そこまで考えているのなら、君はすでになかなかの政治家だな」
ラウルは笑いながら少し肩をすくめてみせた。馬車は中央通りを抜け、聖アルノルド教区に差しかかる。
「俺達が亀甲族に変えられたのは、最初は呪いだったのは間違いない。しかし俺達はこの姿であることを受け入れ、千年間甲羅を背負って生きてきた。その結果、歩みは遅くとも確実に前に進み続ける性質も獲得した。それは悪いことではあるまい」
「急進的な改革は望まないというわけか。そいつは賢明だ」
「ラウルよ、俺はずっと思っていたのだ。なぜ俺達の祖先は天人族の姿に戻ろうとしなかったのか、とな」
「天人五衰の呪をかけられては元に戻りようがなかったんじゃないのかい?」
ラウルは不思議そうに目をしばたいた。
「それはそうだ。だが俺達の祖先が解呪の方法の存在に考えが及ばなかったはずがない、現にイリヤ婆さんは俺の姿を元に戻すことができた。千年前だって、その気になれば土竜族に呪いを解くよう働きかけることだってできたはずだ」
「確かに、そうかもしれないね」
ラウルはアルドの推測に感じ入った様子で、何度もうなづいた。
「俺は天人族の姿に戻ってみて、はっきりとわかった。あの力は地上に住まう者には過ぎたる力だ。俺達の祖先は七人しかいなかったらしいが、あれだけの力があれば、七人でもゆうに一つの種族を滅ぼしてしまえる。現に兎耳族は俺達に滅ぼされかけていた」
アルドは街区を埋め尽くす群衆に笑顔を向けながら、言葉を続ける。
「だから俺は思うのだ。俺達の祖先はある意味、土竜族の呪いを甘んじて受け入れたのではないか……とな。天人族の力がこの地にもたらした破壊と混乱の大きさに、先人も思いを馳せたのかもしれん」
「君たちの祖先は、進んでその身に枷をはめられたと?」
「そうとでも考えなければ、なぜ俺達が一千年もの間、不公平な聖戦を受け入れてきたのか説明がつかない。あえて自分たちに不利な戦いを課すことで、自分達のしてきたことにけじめをつけようとしたとは考えられないか」
「うむ……それは考えてもみなかったな」
ラウルは顎に手を当てて、少しうつむいた。
「しかし、君たちが天人族の姿を捨て去るのなら、次の千年紀には瘴鬼と戦える者などいなくなってしまうね」
イリヤはこの五日間アーケロン街を巡り、千年前の事情を説明して希望者は天人族の姿に戻すと約束した。しかしイリヤの目論見に反して、天人族に戻ることを希望する者は一人もいなかった。
「それはどうしようもないさ。本来天人族などこの地上にいるべき種族ではない。瘴鬼が降ってくるのなら、甘んじて罰を受けるしかないのだ。それに」
「それに?」
「いつか瘴鬼が空から降ってくると思えばこそ、皆が罪を犯すことを恐れるようになる。天人族などがこの世にいれば、誰も瘴鬼など恐れはしない。瘴鬼を戒めとするためには天人族などいないほうがいいのだ」
「おやおや、君には政治家だけでなく宗教家の適性もあるようだね。天人族とは本来そういう存在だったのかもしれないが」
「そうだったとしても、もう俺にはどうでもいいことだ」
アルドがふと前方に目を向けると、馬車はアーケロン街へと入っていこうとしていた。以前のパレードなら決して立ち寄らなかった場所だ。
「そういえば、君の生まれ育った街は見たことがなかったね。じっくりと見せてもらうよ」
「何もないところだがな。見ておけばお前の学問の役に立つこともあるだろう」
二人が言葉を交わすうちに馬車は左へと折れ、アーケロン街へと入った。道路の脇に立ち並ぶ家屋は他の地区では見られないみすぼらしさだが、それでも今日は馬車を見送る亀甲族の顔は誇りに満ちている。
「アーケロン街の英雄、万歳!」
ハーラルの野太い声が聞こえてきた。アルドは苦笑しながらその声に応えて手を振る。
(英雄、か)
かつてリシャールに敗北した時にも、亀甲族の新記録を更新したというだけでハーラルはアルドを英雄と呼んだ。アルドはそんな呼び名は拒否したが、今ならばアルドが英雄と呼ばれてもおかしくはない。しかしそんな呼称はどこか自分には似つかわしくないとアルドは感じていた。
「今や君はアーケロン街だけでなく、全ノルトハイムを代表する英雄だ。そんなに難しい顔をしなくてもいいんじゃないか」
「俺に期待してくれるのはいい。だが俺を英雄扱いされても困るのだ。俺が目指しているのは、英雄などがいらない世界だからな」
「一族を代表する英雄がいれば、皆が亀甲族を誇らしく思えるんじゃないのかい?」
「別に俺などがいなくても、皆が自分を誇りに思えるような、そんな都市を作るのがこれからの俺の仕事だ。俺の活躍に頼って一族を誇るのは、天人族に頼って瘴鬼を退治してもらおうとするのと何が違う?」
「……そうだな、その通りだ」
ラウルは深くうなづくと、遠くを見るような目つきになった。
「亀甲族の現状が貧しいからこそ、英雄の胸のすく活躍で一時の気晴らしがしたくなる。俺のなすべきことは、そんな願望が起こらないようになるまで俺たちの地位を引き上げることだ」
「道は険しいぞ、アルド。もちろん、僕も協力は惜しまないが」
「それは覚悟の上さ。何、心配は要らない。確かに俺達は歩みは遅い、だが……」
アルドは一旦言葉を区切ると、群衆に手を振りながら表情を引き締めた。
「俺達ほど辛抱強く歩み続ける種族も他にはいない。この千年で、世界は確かに変わった。次の千年もまた、倦まずに歩み続ければいいだけさ」
アルドは静かな決意を漲らせつつ、そう言い切った。
遠くからよく通る歓声が聞こえてくる。リラの声だった。
リラは周囲の亀甲族と肩を叩き合いながらアルドを祝福している。リラの隣には、皺深い顔の奥から笑みをこぼすイリヤの姿も見えた。
(この光景を、この街全体に広げていかなければ)
種族の垣根を越えて皆がひとつとなる、アルドの理想とする街の姿がそこにあった。その願いが叶う日が何時になるのか、アルドにはわからない。
だが、それが決してあり得ない夢でも幻でもないと、アルドは確信していた。
歩みは遅くとも、この道を歩き続ければ、いつか必ず終着点に辿り着ける。
亀の歩みを、止めなければ。