バトスの聖餐
一晩ラウルの家に泊めてもらった後、アルドは朝早くラウルと共にバトス山へ向けて出立した。バトス山はレバス鉱山とそれほど遠くない距離にあるが、アルドはまだ一度も足を踏み入れたことがない。サイロン教の聖地など、石版を見つけなければ興味を持つことはあり得なかった。
「それにしても、あんたも呆れた男だな。真実を知るために禁断の聖地にまで踏み込もうとは」
「おや、君だって人のことは言えないんじゃないのかい?」
二人は軽口を叩きながら山道を登っていく。ラウルは峻険な山道を踏破しつつ、全く疲れの色も見せない。どうやら山歩きには慣れているようだ。体力に恵まれたアルドも、ラウルに遅れずについていくのが精一杯だった。
「この先の聖域には、やはり見張りがいるんだろう?サイロン教徒にとっては禁忌の土地なのだから」
「いることはいるが、せいぜい二人がいいところだ。以前来た頃と変わっていなければね」
「そんな少人数で、不届き物の侵入を防ぎきれるのか」
「皆神罰を恐れているから、わざわざ立ち入ろうとする者などいないのさ。僕たちを除けばね」
ラウルは不敵な笑みを見せると、少し肩をすくめてみせた。
「しかし、聖餐とは一体何なんだろうな。カムチャダール聖戦の前にわざわざノウラが口にするものとは」
「この地が禁忌となっていることを考えると、よほどサイロン教にとって都合の悪いものだと考えるべきだろうね。例えば食べることで身体能力が強化されるような類のものなら、カムチャダール聖戦を汚したとみなされる」
「しかし、そんなものをノウラが食べるだろうか」
「うむ、石版にはノウラは正しき道を歩んだと記されていた。だからこの聖餐とは不正行為に関わるものとは考えられない。そもそも不正行為などしなくても、兎耳族が亀甲族に負けることは考えられないからね」
その言葉に思わずアルドは眉根を寄せた。ラウルは事実を言っているだけだが、先日のカムチャダール聖戦の苦い敗北を思い出してしまったのだ。
「ああ、すまない、悪気はなかったんだ」
「いや、それはいい。俺達が足が遅いのは否定しようのない事実だ。だがそんな俺達にノウラが敗北したとなると、そこにはよほどの事情があったと考えなければならないはずだ」
「誇りある敗北、という言い回しが気になるところだね。普通なら、カムチャダール聖戦で負けることを誇りに思えるはずがない。ノウラには亀甲族に負けなければならない何らかの理由があったはずだが、果たしてそれは何なのか」
「兎耳族にとって、亀甲族に敗北するなど許されない屈辱なのだろう?それを誇るとはずいぶん妙な話だな」
「聖餐を手に入れれば、その理由の一端が見えてくるはずさ。……おや、どうやらこの先が聖域のようだな」
ラウルが小手をかざして前方を見やると、遠目に二人の兎耳族が長い棒を手に聖域を警護しているのが見えた。衛兵の背後には木製の立派な扉があり、その両脇の見張り台がこちらを威嚇するように立ち並んでいる。
「さて、では手筈通りに行くとするか」
ラウルの言葉にアルドは無言でうなづくと、そのまままっすぐ聖域の入口に近づいていった。ラウルは山道の脇の茂みに隠れ、アルドの様子を伺う。
「やあ、これはこれは兎耳族の皆様、お仕事ご苦労様です」
アルドは予定通り、おどけた調子で衛兵に声をかけた。
「止まれ。この先は立ち入り禁止だ」
衛兵の二人は手に持った棒を交差させ、アルドの前を塞いだ。
「もちろん、それは存じております。私は聖地を汚すつもりなどございません。今日は少々お二方にお聞きしたいことがあって参ったのです」
「ふん、亀甲族ごときが我等に何を訊きたいのだ」
「兎耳族の方は、自分の体毛で作った毛玉が大好物であると聞き及んでおりますが、それは本当なのですか?」
二人の衛兵は突然眉を吊り上げた。こうすれば兎耳族は激昂するとラウルから聞いていたのだが、果たしてその通りだった。
「この無礼者め、亀甲族の分際で我らを愚弄するか」
二人が憤ったのを確かめると、アルドは背を向けて一目散に駆け出した。しかし亀甲族の脚の速さなどたかが知れている。アルドはたちまち衛兵に追いつかれてしまった。
「我らが毛玉など食べるものか。無知蒙昧な亀はそんな程度のことも知らんのだろうな」
衛兵は地にうずくまるアルドの甲羅を棒で殴りつけた。アルドは首を引っ込め、ひたすら打撃に耐える。こうすれば大して痛みを感じずに済むが、背を打たれるたびにアルドの誇りは少しづつ削り取られてゆく。
「我等を侮辱するということがどういうことか、その体に教えてやる」
衛兵は罵倒を吐きかけながらアルドの甲羅を打ち続ける。その衝撃に耐えながらアルドは横目で脇の茂みを見つめた。茂みの奥のラウルと目が合うと、ラウルは素早く聖地の方へと駆けていった。
(頼むから、うまくやってくれよ)
ここまで屈辱的な目に合わせられたからには、ラウルにはなんとしてでも聖餐とやらを持ち帰ってもらわなければならない。アルドは背に降り注ぐ打擲の嵐をやり過ごしながら、ラウルの成功を祈り続けた。
さんざん衛兵に打ち据えられた末にようやく解放されると、アルドは打ち合わせ通りバトス山の中腹でラウルを待ち続けた。一度衛兵の目をくぐり抜けられれば帰路はどこからでも駆け下れると豪語していたが、そんなに己の足に自信があるのだろうか。
「やあ、待たせたね」
脇の茂みからラウルがひょっこりと首をのぞかせた。その体毛にはあちこちに雑草が絡みついている。急いで獣道を下ってきたらしい。
「どうだ、収穫はあったか」
「こいつを見てくれ。頂上付近にたくさん生えていたんだ。どうやらこいつが聖餐の正体のようだ」
ラウルは背に負ったリュックから、奇妙な形の野菜を取り出してみせた。
「こいつは……人参なのか?」
上方に青い葉をつけているところはノルトハイムでもよく見る人参と変わりがないが、赤い根の部分は先端が三つに分かれている。今まで見たことのない奇妙な形だ。
「さすがに、こんなものは僕も見たことがないね。兎耳族の僕ですら知らない人参が、まだこの世にあったとは」
「あんたにもこいつの正体がわからないのなら、どうするんだ」
「魔女ならば何か知っているかもしれない。イリヤ婆さんを尋ねてみるとしようか」
「魔女?あの婆さんは魔女だったのか」
ノルトハイムでは民間の薬草師は魔女と呼ばれ、サイロン教により異端とされ排斥されていた。薬草の知識のある者なら、確かにこの奇妙な人参のことも知っているかもしれない。
「俺にはどうも得体のしれない婆さんにしか見えないが、本当に信用できるのか」
「彼女は周囲からは狂人としか見られていないが、それこそが彼女が信用できる証さ。この何もかもが狂っている世の中で狂うのなら、それは正気だということにほかならない」
ラウルはさも当然のことのように言い放った。この男は時々、何を考えているのかわからなくなる。
「なら俺達はどうなんだ。正気を保っていると言えるのか」
「禁断の聖地に踏み込むなど、狂気の沙汰に決まっているだろう」
ラウルは軽く片目をつぶってみせた。アルドは苦笑しつつ、ラウルの言葉に同意するほかはなかった。
「ふん、こいつは随分とけったいな代物だね」
イリヤは薄暗い部屋の中で、目の前のテーブルにに並べられた人参を胡散臭そうに眺めていた。周囲の棚には様々な草花や茸が整然と並べられていたが、この人参と同じ姿の野菜はどこにも見当たらない。
「イリヤ婆さんでも、こいつを見たことはないのかい?」
「私も長いこと魔女をやっているが、こんな奇妙な人参は見たこともない。どんな薬効があるか見当もつかぬわ」
「そうは言っても、所詮は人参だろう?高山に生えているからには、ヤマウコギの類じゃないのかな」
「そうとは決めつけられん。なぜこれがサイロン教の連中にずっと禁忌とされてきたのか、その意味を考えなければならんぞ」
「イリヤ婆さんは、どうしてこの人参が禁忌なんだと思う?」
「ふむ、これは一つの仮説だがね」
イリヤはひとつ咳払いをすると、言葉を続けた。
「こいつは麻薬なのかもしれん。サイロン教の連中は、日頃『糧を通じて天の国を覗いてはならない』と言っておるだろう?これは飽食を戒めたものと考えられておるが、私は麻薬を禁じたものだと捉えている」
「なるほど、そういう考え方もあるか」
ラウルは腕組みをすると、何度も深くうなづいた。
「こいつを食すと途方もない快楽を得られるかもしれないが、副作用として禁断症状が現れるのかもしれん。事実、そのような薬草なら私もいくつか知っておる。こいつがその類なら、当然禁忌とせねばならん」
「兎耳族が麻薬に依存するようになっては拙いだろうからな」
アルドにはイリヤの考えは説得力があるように思われた。しかしラウルはまだどこか納得が行っていない様子だ。
「確かにイリヤ婆さんの説には一理ある。しかし、この人参はノウラがカムチャダール聖戦の前にわざわざ食べたものなんだ。兎耳族を代表する走者が麻薬など口にするだろうか」
ラウルは石版の内容を一通りイリヤに説明した。兎耳族は誇り高い走者だ。わざわざ禁忌を破り麻薬を口にしてから聖戦に参加するとはアルドにも思えなかった。
「ほう……ノウラか。その名にたどり着いたということは、お主もいよいよ真実に向き合うべき時期が来たということかもしれんな」
「おや、イリヤ婆さん、ノウラの名を知っているのかい?ノウラはこの人参を食べて、何をしようとしていたんだろう」
「その辺の事情は、その石版に文字を刻んだ者しか知らぬだろうさ。私が知っているのはノウラが亀甲族に敗北したという事実だけだ。いずれにせよ、こいつを口にしてもろくなことにならんことは確かだろうね」
ラウルはうつむいたまま無言でイリヤの言葉を聞き流していたが、急に何か思いついたように顔をあげた。
「そうだ、アラムダル聖典には何かこの人参を象徴するような記述はないかい?何とか手がかりだけでも欲しいところなんだけれど」
「そんなものがあるのならとうに話しておるわ。あの聖典なら私は全てそらんじることができるが、このような人参のことなどどこにも書かれてはおらぬ」
ラウルはがっくりと肩を落とした。アラムダル聖典の名はアルドも聞いたことがある。サイロン教からは異端とされるアラムダル派の書物だが、それだけに教会の正史には記されていない異伝を数多く伝えている。この聖典にも奇妙な人参のことが書かれていないのなら、もはや聖餐の意味を知る手がかりはないかもしれない。
「書物で確かめることができないのなら、あとはこれを食べてみるしかないんじゃないのか」
「亀よ、そなたもラウルと同類なのだな。ひたすらに物事を知りたがり、何故と問うことを止められぬ。身に余る知識も、知らぬほうが良い真実も全て手に入れようとする。だがそれだけはならぬ。禁忌とされる食物が危険でないはずがない」
イリヤは小さな瞳を閉じると、ゆっくりとかぶりを降った。
「そう言えば、イリヤ婆さんはどうしてノウラの名を知っているんだい?」
「その者の名がアラムダル聖典に記されておるからさ」
「それは本当かい?それならぜひ聖典を僕にも見せて欲しいところなんだけれど」
ラウルの瞳に急に生気が戻った。
「お主が知りたいことだけが書いてあるとは限らぬがな。時には目を背けたくなる事実とも向き合わねばならなくなるぞ」
「いや、それでも構わない。今はどんな手がかりでも欲しいんだ。その聖典を僕に貸してくれないかい?」
「うむ……この聖典は本来ならアラムダル派に属さぬ者には見せてはいけないことになっておるが、ひとつ条件を満たすなら考えてやっても良い」
「僕は何をすればいいのかな」
ラウルは好奇心に目を輝かせながら、そうイリヤに問いかける。
「お主が兎耳族の罪を悔い改めることだ。もうすぐ次の千年期が訪れる。良い機会だからこの聖典を読み、この一千年、お主らが何をしてきたのかを知るのも良いだろう。さすれば兎耳族の業の深さに自ずから頭を垂れる気になるだろうよ」
「僕たちの罪を知れば、瘴鬼とやらに襲われずに済むのかい?そんなものが本当にいるのなら、ぜひお目にかかりたいものなんだけれどね」
「罰当たりな事を言うな。この街で最も罪が重いのは、お主ら兎耳族なのだぞ」
イリヤは不快そうに顔をしかめた。
「冗談だよ。僕だって、サイロン教の聖導師が記さない兎耳族の罪というものがあるのなら、知りたいさ」
「お主に、本当に真実を知る覚悟はあるのか。今までこの聖典を最後まで読めた兎耳族は一人しかおらんぞ」
そんな者がいるということを、アルドは初めて知った。兎耳族にもアラムダル派の者がいるということなのだろうか。
「それなら、ますます知りたいね」
「ならば、これを持っていくがいい」
イリヤはテーブルの隣の書棚から古めかしい装丁の書物を取り出すと、ラウルに手渡した。
「アラムダル聖典の第三紀、鉄の時代について記したものだ。サイロン教の連中が決して触れたがらない歴史が、ここに書かれている」
「先の千年紀以降僕たちが何をしてきたかを、これで知ることができるということかな」
「兎耳族の多くは邪教の書物だと目もくれようとしないがね。何でも知りたがるお主なら問題はなかろう。最も、最後までお主の心が折れないかまでは保証できかねるがな」
「本当なら第二紀の記録が読みたいところだけれど、もう残ってはいないのだったね」
ラウルにはイリヤの脅しめいた言葉も全く効いていないようだ。
「サイロンの聖導師どもが全て燃やしてしまったからな。先の千年紀以前の記録は、今は聖導師どもの記した正史しか残されておらん。忌々しいことだ」
イリヤは吐き捨てるように言った。前回の千年紀以前の歴史については、サイロン教に都合の良い記録しか残されていないらしい。
「では、これはじっくりと読ませてもらうよ、イリヤ婆さん」
ラウルは喜々としてアラムダル聖典をリュックにしまった。兎耳族の悪行が記されているらしいこの書物も、ラウルにとっては知的好奇心の対象でしかないらしい。
「どうせ、その聖典も研究対象にするだけで、悔い改める気なんぞ端からないんだろう?」
イリヤの家を辞して帰る道すがら、アルドはそうラウルに問いかけた。
「まあ、そう決め付けないでおくれよ。僕だって兎耳族がこの一千年何をしてきたかは知りたい。もし断罪に値するほどの罪とやらが僕達にあるのなら、僕だって悔い改めるに吝かではないさ」
「スズダリの野で俺達に不利な競争を押し付けたのは罪ではないのか?」
「亀甲族の君がそう考えるのは無理がない。カムチャダール聖戦がどう見ても君達に不利な競争であることは間違いないからね。しかしスズダリの誓いが一方的に兎耳族が押し付けたものとは考えられない。亀甲族の側にもあの誓いを受け入れるだけの理由があったはずだ」
「一体どんな理由があったら、絶対に勝ち目のない競争を俺達が受け入れるって言うんだ」
「その理由を探る手がかりが、あの石版にあると思ったんだけれどね」
そう話すラウルの肩は、心なしか沈んでいるように見えた。
「あの人参は、あんたはどういうものだと思う?」
「イリヤ婆さんが言っていたように、危険なものであることは間違いないだろうね。なぜそんなものをノウラが口にしたのか……これは今後の研究課題、といったところだな」
ラウルは一人うなづきながら、しきりに口髭を上下させた。気が付くと、話し込んでいるうちに二人はラウルの家の前までたどり着いていた。
「僕はしばらくアラムダル聖典と格闘してみるとするよ。わざわざ僕に協力してくれたのに君の期待に答えられなくて済まなかった」
「いや、それはいい。あんたにも解らないことなら、誰にも解らないだろうさ」
アルドは目の前の不思議な青年に好感を覚えていた。リラ以外に対等に話のできる兎耳族に会ったのは初めてだった。考古学者としての性分からだろうが、亀甲族に偏見を持たず接してくれたラウルと別れるのは名残惜しい。
「とにかく、貴重な石版のおかげで僕の研究もだいぶ進みそうだよ。何か礼をしたいところだが、兎の食事など口に合わないだろうね」
「礼など良いさ。あの石版の文字が読めただけでも十分だ。一度だけでも俺達が兎耳族に勝ったことがあると知ることができたんだからな」
頭の固い長老とは違い、ラウルは石版の読解に協力してくれた。そのことだけでアルドの心は十分過ぎるほど満たされていた。
「機会があったらまたここを訪れるといい。いずれ研究が進んだら君に伝えられることもあるだろう」
ラウルはそう言って右手を差し出してきた。明日からはまたレバス鉱山でつるはしを振るう日常に戻らなければならないと思うと、急にここを立ち去るのが惜しくなってきた。
「兎耳族があんたみたいな奴ばかりなら、俺達ももう少し生きやすくなるんだろうがな」
「そうとも言えないさ。サイロン教の禁忌を破ろうとする兎ばかりでは、この世の秩序は保てないだろう?」
「そいつは道理だな」
ラウルがあらゆる偏見から自由なのは、あらゆる禁忌を恐れない不敵さの裏返しでもあった。アルドは苦笑すると、ラウルの手を固く握り、再会を約してマグニ地区を後にした。
「おいアルド、今度の聖戦の走者のことを聞いたか?」
午後の採掘を終え、鉱夫の雑居室でくつろいでいたアルドにハーラルが声をかけてきた。千年紀記念大会の日程が近づいてきていたが、今回もアルドは亀甲族代表の走者に選ばれている。
「いや、まだ俺は何も知らないが。リシャールじゃないのか?」
兎耳族の代表が誰であるかなど、アルドには興味はなかった。相手が誰だろうと、アルドが兎耳族に勝てる見込みはないのだ。
「ちょっとこいつを見てくれ。なかなか面白そうな奴が来たぞ」
アルドは面倒くさそうにハーラルから瓦版を受け取ったが、紙片を手にした途端、アルドは己が目を疑った。
(兎耳族走者はマグニ地区出身、ラウル・アドリアンだと……?しかも報奨が都市参事会員の席に終身市政顧問の地位と黄金120ギルダス、とはずいぶんと豪勢だ)
ラウルが相当な健脚の持ち主であることは、先日共にバトス山を訪れた経験からよく知っている。しかし兎耳族を代表する走者になれるほどの実力の持ち主だったとは流石に驚きだ。
「マグニ地区代表の走者は今回が初めてだそうだな。あそこに住んでいるような輩は兎耳族は認めないものとばかり思っていたんだが」
「いや、奴等はどんな思想の持ち主であれ、脚の速い者には一定の敬意を払う。この男が走者となっても何も不思議はない」
アルドの心は少しだけ高揚してきた。もちろん、知己だからといってラウルは手加減などしないだろう。やはり勝てないことに変わりはない。アルドが終身市政顧問の地位を勝ち取ることもないだろう。
しかしあの男相手に負けるのなら、そう嫌な気分はしない。
偏見のないラウルが市政顧問の地位についてくれれば、亀甲族の待遇も少しは改善されるのではないか。
それは、アルドが勝利することと同程度に価値のあることかもしれない。
(これはきっと、良い兆しだ)
ラウルの勝利ならば、アルドも心から祝福することができる。迫る千年紀記念大会に、いつになく心が躍るのをアルドは感じていた。