カムチャダール聖戦
アルドは息を弾ませながら、ようやくノルトハイム市の凱旋門をくぐった。砂埃にまみれた緑色の四肢のあちこちが悲鳴をあげている。12クロイエもの距離をひたすらに駆け続ければ、持久力に優れた亀甲人でもさすがに体に堪える。
遠く晩課の鐘の音が聞こえる。亀甲族としては俊足のアルドですら、陽が沈む前にどうにか凱旋門にたどり着くのが限界だった。
凱旋門の右柱には兎耳族の、左の柱には亀甲族の姿が彫り込まれている。この二つの種族が互いの誇りを賭けて脚の早さを競う「カムチャダール聖戦」は、今まさに終幕を迎えようとしていた。
ゴール地点の中央市場の噴水の前では、赤く染まった両の瞳がアルドを見据えていた。その瞳の持ち主の体は白い体毛に覆われ、しなやかに伸びる両足はアルドをからかうように軽快なステップを踏みつつ勝者の余裕を見せつけている。兎耳族代表のリシャールだ。
この生まれついてのスプリンターはその俊足を生かしてアルドよりはるかに早くゴールにたどり着き、今ようやく長距離走を終えようとしているアルドを待ち侘びているのだ。
アルドはゴール直前で立ち上がると、ゆっくりと――もっともそれは亀甲族としては全速力なのだが――石畳の道路に引かれた赤線を超えた。
リシャールとアルドは、それぞれの両手を横いっぱいに広げて見せた。我々は武器を捨てた、ということを象徴する仕草である。
それからリシャールがアルドに駆け寄り、背中の甲羅に手を回す。
アルドもリシャールの背を抱き、二人は互いの肩を叩きながら健闘を讃え合った。太古の昔からノルトハイムに伝わる、和平の儀式だった。
観衆の間から大きな拍手と歓声が飛んだが、よく見ると亀甲族の顔には笑顔が浮かんでいない。
今を去ること千年の昔、果てし無き戦いを繰り広げていた兎耳族と亀甲族は戦いに倦み、二つの種族が競うときは長距離走という平和的な手段で解決すると協定を結んだのだという。ノルトハイムでは誰もが知っている「スズダリの誓い」だ。
先ほどアルドがリシャールと肩を叩きあったのは、2つの種族の長い大戦が終結した歴史的場面を長距離走の最後に再現して見せることになっているからだった。
二度と凄惨な戦いを繰り返さないよう歴史の教訓を胸に刻むための演出だと言われているが、これほどの欺瞞を同族に見せつけて何も感じないほどアルドの心は鈍感ではない。
(――これは、茶番だ)
アルドは心の中で舌打ちした。いくら鈍重な亀甲人が身体に鞭打って脚力を鍛えたところで、早く駆けるために生まれてきたような兎耳族に勝てるはずがない。
なぜ我等の祖先はこんな馬鹿げた競争で物事を解決すると決めたのか。
今回のレースで兎耳族と亀甲族が争っているのは都市参事会員の議席だったが、この有様では永遠に亀甲族が市政に関わることなどできるはずもない。結局、全ては兎耳族の有利なように事が運ぶだけなのだ。
近いうちに、この聖戦は再び行われることになっている。来る千年紀を記念して豪勢な賞品が用意されるのだというが、亀甲族がそれを手にすることはあり得ないのだから、懸命に走る意欲も沸かない。
――もしもし、亀よ亀さんよ
世界のうちでお前ほど 歩みののろい者はない
アルドの頭の中で、亀甲族の童謡の旋律が鳴り響いた。奇妙に明るくユーモラスなその調べも、リシャールに敗北を喫した今ではどこか哀しく響く。
この童謡の中では、脚の速さに胡座をかき油断した兎が居眠りをしている間に亀に追い越され敗北したことになっているのだが、千年前にカムチャダール聖戦が始まって以来、そんなうかつな真似をする兎耳族など存在した試しはない。
アルドの知る限り、兎耳族は走ることにかけては他のどの種族よりも真剣だった。だからこそこの千年の間、一度たりとも亀甲族は兎族に勝利したことがないのだ。
アルドは両手についた土埃を払い、誇らしげな笑みを浮かべ観衆に手を振り続けているリシャールに一瞥をくれると、その場を後にすることにした。
リシャールはこの後、美麗に飾り立てた馬車に乗りノルトハイム市内をパレードすることになっている。
敗者がそんな姿を目にしても惨めな気持ちになるだけだ。
アルドは勝利の喜びに沸く兎耳族の歓声に甲羅を向けると、ひとりアーケロン街へと向かって歩きだした。
アルドは背を屈めながら、足早に中央通りから聖アルノルド教区を抜け、アーケロン街へと続く狭い小路へ入り込もうとしていた。
ノルトハイム市内で、亀甲族が堂々と歩ける区画は少ない。名目上は兎耳族と亀甲族の共生を掲げてはいても、ノルトハイムの市政を牛耳っているのは兎耳族で、亀甲族が市の要職に就いたことはない。
それどころか、亀甲族は貧民街の中に押し込まれ、それ以外の場所に住むことすら認められていなかった。2つの種族の貧富の格差は大きく、亀甲族の多くは兎耳族の人参畑で農奴として働かされたり、鉱夫やガレー船の漕ぎ手などの過酷な労働に駆り出され、貧しい暮らしを強いられている。
市の中心部の兎耳族の富豪がが多く住まう区画では、兎耳族が露骨に侮蔑の視線を向けてくる。中にはアルドとすれ違うたびに舌打ちをする者もいた。聖アルノルド教区のようないくつかの種族の雑居する区域まで来るといくらかは亀甲族への偏見も和らぐが、それでもまだここはアルドが安心して息をつけるところではない。
「そこを行く同胞よ、来る千年紀を私と共に祝いませんか」
土竜族の聖導師が、足早に聖アルノルド教区を通り抜けようとするアルドにくぐもった声をかけてきた。目深にかぶった黒いフードの下の目は、ほとんど見えてはいないらしい。
ノルトハイムでは聖職者はほぼ土竜族で占められている。サイロン教の聖導師は都市貴族である兎族についでノルトハイムでの地位が高く、どういうわけか兎耳族には厚遇されているのだった。
「すまないが、護符なら間に合っているよ」
アルドは土竜族が目の前に掲げた護符を突き返した。もうすぐやってくる千年紀は各種族が積み重ねた罪が精算される時だと言われている。悪徳を積み重ねた者はその罪にふさわしい災厄に見舞われるとサイロン教の聖導師は説いているのだが、アルドはそんな話など信じていなかった。
(亀甲族に、罪などあるものか)
来るべき千年紀を前にして、土竜族の作る護符は兎耳族に飛ぶように売れている。この護符があれば、罪が祓い清められ災厄からその身が守られると聖導師達が説いているからだ。ノルトハイムの街を歩くと、兎耳族の都市貴族は皆こぞって胸にこの護符をぶら下げている。
アルドにはそんな兎耳族の様子が可笑しくて仕方がなかった。自分たちが市政を牛耳り亀甲族を抑圧しているからこそ罪の意識が芽生えるのではないか。
そんなに罪悪感があるのなら亀甲族の待遇を改善すればよいのに、護符を買って金の力で罪を精算しようとするなど、まったくもって度し難い連中だ。
「本当にいいのかい?いくらあんたの甲羅が丈夫でも、千年紀の災厄まで防げはしないぜ」
土竜族の口調が急に下卑たものに変わった。聖導師は自分達に金を貢がないものには露骨に態度を変える連中だ。こんな連中に兎族が溜め込んだ金を搾り取られていることに、アルドは少しだけ溜飲を下げる。
千年紀の災厄の内容が何なのか、様々に噂されていたが、聖導師は難病や大怪我、あるいは大火などの不幸に見舞われるのだと説いていた。そんなただ生きていても遭遇する程度の不幸を避けようとする意味がアルドには理解できないが、都市貴族とはできるだけ不条理を避けようとする連中らしい。
サイロン教でも異端のアラムダル派やスザク教徒などはもっと禍々しい事態が起きると言っているようだが、もともと今の人生に大した価値があると思っていないアルドにはどうでもいいことだった。
「そこで死ぬのなら、俺の寿命はそこまでだったということだろうさ」
そもそも1千年もの間兎耳族に不公平な競争で負け続け、抑圧され続けている亀甲族に罪などあろうはずがない。土竜族の狡猾な商売に協力する気など、端からアルドにはなかった。
「そうかい、せいぜい気をつけなよ」
土竜族はそう吐き捨てると、そのまま踵を返してしまった。聖職者らしからぬその物言いに苦笑しつつ、アルドは予定通りアーケロン街を目指すことにした。
「人魚亭」と書かれたその文字の塗料は既に剥げかけていて、目を凝らさなければそうと読み取ることはできない。初めてこの看板を目にした者は、この扉の向こうが料亭であるなどとは気づかないだろう。
そのくらいに、この木造の家屋の作りは粗末で頼りないものだった。兎耳族の都市貴族が通うような煉瓦作りの店とはまるで違う。
しかしアーケロンの貧民街で生まれ育ったアルドには、このあばら家こそが憩いの場だった。ここだけが、ノルトハイムで亀甲族のアルドを受け入れてくれる唯一の店なのだ。
「おお、お帰り、アルド!」
人魚亭の扉をくぐったアルドを、威勢のいい声が迎え入れてくれた。その声の主はこの区画では唯一の兎耳族だ。この店の主人は客にはいつもお帰り、と声をかけるのだ。
「ただいま、リラおばさん。やっぱり今日も勝てなかったよ」
「そいつは仕方がないさ。でもあんたはよくやったよ。また新記録更新したんだろう?」
リラは長い両耳をぴんと立てると、今日の聖戦の結果の書かれた紙片をアルドに示した。「早耳のリラ」の通り名が示すように、リラはいち早く手に入れた瓦版で今日のカムチャダール聖戦の結果をすでに知っていた。
「慰めてくれなくてもいい。結局、負けたことに変わりはないからな」
「何を言ってるんだい。この聖戦が端っから不公平なもんである以上、兎耳族に勝てないのはどうしようもないんだ。でもあんたは過去の自分には勝ったんだ。それでいいじゃないか」
気風のいいリラの言葉を聞いていると、少しづつ敗北の悔しさが和らいでいく。
「で、今日はどうするんだい?いつも通り、海老の揚げ物でいいかい」
「ああ、そいつで頼むよ」
リラは注文を取ると、脚を引きずりながら厨房へ戻っていった。速く走れることを何よりも誇りにしている兎耳族にとり、その俊足を奪われることを上回る屈辱はない。
脚に怪我を負って走れなくなった兎耳族は一族の恥とされ、縁を切られて兎耳族の居住区から追放される。その中にはリラのように亀甲族の貧民街に流れてくる者もいるのだった。
「ほうら、お待たせ。今日は疲れただろ?特盛の分はただにしとくから、しっかり食べとくれ」
美味そうな料理が目の前に並べられる頃には、人魚亭は亀甲族でいっぱいになっていた。アルドの新記録更新を讃えるため、今日は常連客だけでなくアルドの友人もこの人魚亭に集っている。
「さて、それでは我らがアーケロン街の英雄を讃えて乾杯と行こうじゃないか」
アルドの向かいに座った男がエールを満たした盃を高く掲げた。
「よしてくれ、ハーラル。負けて帰ってきた俺を英雄だなんて」
「そう言うな。お前は今年も新記録を出したんだ。たとえ亀の歩みでも、兎耳族に少しだけ近づくことができたんだ。それが俺達の誇りなんだ」
ハーラルは鋭い歯を剥きだして笑った。だがアルドがその笑みに釣られて顔をほころばせることはなかった。
「それが何だ。ほんの少しばかり兎耳族との距離を縮めたところで、それが何になる?この調子で行ったら亀甲族の中から兎耳族に勝てる者が出てくるのは一体いつになる。次の千年紀を迎える頃か」
ハーラルはアルドの思わぬ剣幕に押されて黙り込んでしまった。
「新記録なんて出したところで、俺達が都市参事会員の席ひとつもらえるわけでもないし、貧民街の外に住めるようになるわけでもない。俺たちの置かれた状況は何一つ変わってはいないんだ。それなのにこんな所で呑気に酒など飲んで盛り上がっている場合か」
「おい、何もそこまで言うことはないだろう。俺達がせっかくお前の健闘を讃えてやろうと集まったってのに」
「俺のしたことなど健闘に値するものか。勝負に負けたのに内輪で喜ぶなど愚か者のすることだ。そんな愚鈍な連中の集まりだからこそ、俺達は奴らにつけ込まれたのだろうよ」
「俺達が愚鈍だと?少し言葉が過ぎるんじゃないのか」
ハーラルは思わず色をなした。アルドも立ち上がってハーラルの胸倉をつかむ。
「愚鈍でないのなら、なぜ1千年もの間、俺達が不利な競争を文句も言わずに続けてきたのだ。理不尽に耐えるのは美徳ではない。現実を変えようとしないのはただの怠慢だ」
「ならどうしろって言うんだ。スズダリの誓いを破るとでもいうのか」
兎耳族と亀甲族は長きにわたる戦いを終えた後、スズダリの野にて長距離走で民族間の争いを解決すると神の前で誓ったのだという。この誓いを破ると、神罰により一族が全て滅ぼされると伝えられていた。
「おやおや、どうしたんだい、二人とも」
リラが気色ばむ二人の間に割って入った。
「あんた達が怒るのも無理はないよ。全てはあたしの先祖があんた達に不利な取り決めをしちまったせいだしねえ。いっそのこと大食いで肩をつけることにしたら、あんた達にも勝ち目があるかもしれないねえ」
「おお、リラさんの料理だったら俺はいくらでも食えるぞ。食の細い兎耳族の連中なんぞに負けはしないさ」
単純なハーラルはすぐに気分を戻すと、リラに快活に微笑みかけた。アルドもハーラルから手を離して再び席に着く。
「まあ、人参をかじるしか能のない連中に負ける道理はないだろうな」
アルドは表向きは怒りを収め、話を合わせてみせたが、それでもリラの言葉に納得が行っていたわけではなかった。アルドは海老の素揚げを何匹か口に放り込み、鋭い歯で噛み砕くとエールをあおり、苦い気分とともに飲み下した。
(なあ長老、俺は一体どうしたらいい。今までもこれからも、俺達は兎耳族に負け続けなければいけないのか)
アルドは心の中でそう問いかけた。子供の頃からアルドはひたすらに大人達になぜ、と問いを突きつける性分だった。その気質は今でも変わっていない。
本当ならば理不尽な現実と折り合いをつけ、兎耳族の支配も甘んじて受け入れる大人になるべきなのかもしれないが、アルドはどうしてもこの現状を認めることができずにいた。
「おばさん、エールをもう1杯だ」
いくら飲んでも酔える気分ではないことはわかりきっているのに、それでも今のアルドには酒をあおる以外にできることはなかった。肩を組んで酔い騒ぐ仲間たちの喧騒をよそに、アルドはひとり黙々と胃に酒を注ぎ込んだ。