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ツインアクトレス  作者: 伊瀬右京
9/10

4章(後半)

 放課後は昨日と同じく、照明器具や放送室との連携を全員で再度確認をし、最後の通し稽古をやって早めの解散となった。

 その後トモさんから体育館を利用するための説明を聞いて、夜になるのを待った。

「姉さん、上からの照明だけあればいいよね?」

 演劇部や吹奏楽部の発表以外、平常時にも使われるステージ上部に設置された二つのサスペンションライトだけを点ける。

 自分達の足音以外の物音が一切ない静寂の中、二人でステージに上がる。

 明日には観客で埋め尽くされるフロアを眺める。今は誰一人いなくて、雑音さえ聞こえない真夜中特有の暗い沈黙が佇むのみ。

 俺は両手のリストバンドに指を引っ掛けて位置を整える。

姉さんは合宿の時と同じく、紅紫色のリボンで長い後ろ髪をポニーテールにまとめ上げる。

「《少年》と《駅の主》のパートだけをやろうと思うけど、最初の《不良》とのやり取りが絡むとこは短いし省く。中盤と終盤の、二人だけのシーンを繰り返しやっていこう」

 五部構成の内、三部目と五部目だけを繰り返す。少しの時間も無駄にしたくない。

「あとかなり疲れるだろうから、創平さんの言う通り、危ないと思ったらすぐに休憩しよう」

「心配無用よ。舞ちゃんと一緒になってから一年経つけど、今までだってリハビリや勉強とか厳しい事を頑張ってきた。あれに比べれば、これくらいなんともないわ」

 きっと舞のことは姉さんが一番良くわかっている。

「それにさ……明日の本番を逃したら、舞ちゃんがこれからずっと塞ぎ込んだままになる気がする。だから今はこれを乗り越えないと」

 同じ体に住まう同居人の言葉を、きっと今は信じるべきだろう。

「始めましょう」

 姉さんは重く頷き返して、淀みないシンプルな意志表示を口にする。

 そう覚悟を決めたあと、俺達はただ芝居へ没頭した。

『予定って、一体何のことですか?』

『察しが悪いなあ。この駅を外界から切り離したのは、このわたしなのさ』

今まで何度も練習してきたから失敗などありえず、主演同士の呼吸は同じリズムを刻む。

 しかしブレのない演技で完成度は高くとも、真っ暗のフロアは閑古鳥で何も反応は無い。

 この劇場には観客どころか、助演も裏方もいないゆえに称賛も批判も皆無。

 孤独な二人舞台、それでも揺るがない芝居を続ける。

『ありがとう、今日は君に出会えて良かった。道標が少しは切り開けたかもしれない』

『それは僕も同じさ。噂を聞いたときから、ずっと気になってたから……また会いに来てもいいかい?』

 喜びを表すようにゆっくりと頷き、穏やかな表情で《駅の主》は顔を上げた。

 最後に、上手側にいる俺が観客側からは見え難い右手の人差し指でサインを送ると、

『『それじゃ』』

 同じタイミングで台詞を言い終え、お互いに背を向け合う。

 それぞれが上手下手の逆方向に歩き去って、この舞台が終わることとなる。

 しかし達成感に浸ることはせず、すぐに変化がないか確かめる。

「どう聞いたらいいかわからないけど、何か変わった感じある?」

 姉さんは自分の内面に意識を向けるように、胸元に手を沿えてしばらく目を閉じる。

 しかし期待する結果は無かったようで、残念そうに首を左右に振った。

「まだ一度目だ、時間が惜しい」

 夜はまだまだ長い、たった一度程度では音を上げつもりは毛頭ない。

「待って……その前にちょっと」

 姉さんはどこか迷いが窺える手を翳し、勢い冷め止まぬ俺を制する。

 数秒だけ思い悩むように広いホールへ視線を馳せてから、決意したように喋り出した。

「全部は語らないけど、少し話しとく。あたしは三日前から舞ちゃんが閉じこもった理由をなんとなく察してるの、この体の同居人としてずっと近くで接してきたから。現実が怖いとかそういうのじゃなくて、もっと根本的な話。でもあたしは、それを潤には教えないよ」

頬が厳しさで締まり、射抜くような視線で真っ直ぐ見据えられる。

「それは舞ちゃん自身の口から直接聞いて欲しい。潤には、自分自身の力でその答えに辿り着いて欲しいの。それくらいじゃなきゃ、あの子を繋ぎ止めておくことはできない」

 その一言が、今までの人生で感じたことのない重みとなって、ずしりと圧し掛かる。

「そのくらいの想いがなきゃ、仮にあの子が戻ってきても、いずれあなた達は擦り減って破綻するわ。傷だらけのあの子の隣にいたいなら、背負いたいなら、生半可な覚悟じゃダメ」

それでもやる? と声に出さず視線だけで姉さんは問い質してくる。

 この期に及んで、引き返すどころか躊躇うことなんてありえない。このまま公演を終えても俺達はまた進めず、苦しくて虚しい足踏みを繰り返すことになる。

 三年前から俺と舞の足に巻き付いている鎖を振り千切るために――

「続けよう」

 それ以上の言葉はいらず、俺達は終えたばかりの芝居を再び始めた。

『ならあなたも僕らと一緒にどうでしょう? 少しとっつき難い人達だけど賑やかですよ』

『お誘いのところ悪いけど、遠慮するよ。だってこれは……己への戒めだから』

 流れるような動作は抑え、素早く動いてピタリと止まる手足と強い視線、それに連れて長く重い後ろ髪がふわりと揺れる。

 張った声とステージを踏み付ける音は、どちらもフロアの奥に届いているだろう。

 合宿のときから、姉さんの熱のこもったメリハリのある演技は変わっていない。

 大袈裟な身のこなしを続けるやり方は、画として変化が絶えない。

 きっと本番でも姉さんの《駅の主》は、自らの存在と情熱を観客へ主張し続けるだろう。

『なんだか不思議だね。ふふっ、君とは初めて会った気がしないな。他の人はわたしとこんなに長く会話なんか続かないんだよ、あの駅員さんとかもそう』

『それは光栄ですね。でも会話が続かないなんて、わからない。少しミステリアスなだけであなたは普通の人なのに。僕はそれを知っている、多分』

二周目を終えても、すぐに最初から芝居を再開する。

 今でもトモさんは、それとは対極的な舞本人の透明感ある演技を求めているだろう。その投げ掛けは稽古中度々あったし、きっと姉さんは読み取っている。

 でもこの場に限っては演技の質を変えて欲しくない、今は上達が目的ではないから。

 心の中に沈み込んでいる舞へ訴え掛けるには、妥協した演技では通じない気がする。だから迷わずに、思い切った自分の演技を続けて欲しい。

「少しだけ休憩入れよう。舞の方はどう?」

 連続で三周目を終えたあたりで、足に負担を感じてきた。

 特に姉さんの方は疲れが外からわかるぐらいで、ペタリとその場に座り込む。

「全然ダメ」

 姉さんは再び自分の胸元に手を当てた後、残念そうにその手を離す。

「あの子、あたし達が何故こんなことしてるかわかってるはずなのに……強情ね」

 苦労が実らなくて、重たい溜息。でも悲観はしてなさそうだ。

「まだ時間はあるから、諦めるのはまだ早いよ」

 体が続く限り止めはしない。

『さっきもだけど、それどういうこと?』

『覚えていないかもしれないけど、君と僕はずっと前に会っているんだよ』

自分の状態を客観的に見定める冷静さを捨てて、一心不乱で演技を続ける。

 そんな俺に連動してか、姉さんも熱が増して加速していく。

 互いの演技そのものがパートナーに対する激励となり循環する。だから何度繰り返そうとも決して折れはしないだろう。

『僕は幼い頃の君を知ってる……いや、君達と言った方がいいか。さっきまでいた人達の話を聞かなきゃ、君が昔遊んだあの姉妹だって、多分気づけなかったけどね』

『昔……そんな、だって……それは何年ぐらい前のことだい?』

《駅の主》は、幼い頃に自殺した自分と瓜二つの姉妹を見送った双子の片割れ、という役だ。

 二人はそんな事情がある役を務めることに、何の抵抗も無さそうだった。

俺は今でもそのことをネガティブに考えてしまう。あの二人の状態を考えれば当然。

 でもここまで来たら信じるべきだ。

 今二人を信じなければ、舞は永遠に戻って来そうにない気さえするから。

 四週目と五周目を終えて再び小休憩、二週毎に休みを入れるのがきっと良い。

「少しだけ聞きたい」

 さっき姉さんは言った、舞の本心は察しているけど俺には教えないと。

 だから最小限の言葉で質問をする。

「舞はまたストレンジホームをやりたいと願っていた。それは本当だよね?」

「今更ね……もちろんよ。誰よりも、きっと潤よりもその気持ちは強かったはず」

 あいつは合宿四日目の保健室で言った、諦めたくないとも、おいてけぼりは嫌だとも。

 今は塞ぎ込んでいても、本心はあいつだって本番の舞台に立ちたいはずだ。

「じゃ、一つだけヒントを出すわ。創平さんは、舞ちゃんは自信を無くしている状態って言ってた。けど、そんなのは些細なこと。もしそんな弱い甘ったれた考えなら、引っ叩いてでもこのあたしが連れ戻すわ。そんなの悲しすぎる」

 厳しい叱責をそう言い切るのが、姉さんらしい。

「でも、そんな理由じゃない。三年前とは違って、今のあの子は自分に負けるほど弱い子じゃないわ……あの子自身のことじゃないのよ、それがヒント」

 ちょっと喋り過ぎたかしら、と最後に呟いてから姉さんは話を終えた。

 記憶が薄れないうちに、姉さんが語ったことに何度か意識を巡らせる。すると、ある予感が頭の中で少しずつ膨れていく。

 もしかしたら――しかし結論に対してまず自制心を打ち立てる。

 考え過ぎではないだろうか、しかも自意識過剰だ。でも舞が自分の事情じゃなく閉じこもっているなら。

「わかった、ありがとう。それじゃ続けようか」

 だとしたら、切り札はある。

『あの頃のことは忘れたくてね。朧気ではっきりとは覚えてないが、確かにわたし達は三人で遊んでいた。その事実だけは思い出せるよ』

『そっか、やった。もし思い出してくれなかったらどうしようかと思ってたよ。一安心だ』

 気力自体は無くなっていないけど、疲れはじわじわと堪えてくる。

 四肢の感覚は鈍り、時間経過すらわからなくなってきた。

 観客の想定など度外視して、演者と対話することだけを考える。

 これは演技ではあっても、物語を表現する芝居ではすでにないのかもしれない。

『もう確かめる術はない。小さい頃でさえ、どちらが姉で妹なのか両親ですら判別が付かなかった。世話係だった女性が唯一わたし達の差がわかったらしいが、かなりの高齢だったみたいで随分前に亡くなったらしい』

『確かに僕も、二人が瓜二つで結構混乱したよ。それを利用して、君達には大分いたずらを仕掛けられたもんだ。どっちが姉でどっちが妹なのか、何度もクイズを出された覚えがある』

 これで七周目、だったろうか?

 体は勝手に動くけど、きっと演技の質はかなり劣化している。しかしそれを判断する冷静さは、今の俺達には残されてない。観客がいないことが救いと思えるくらいだ。

『その時々でいずれかが姉と妹の役割をこなしていたし、片方が自殺するときに偶然わたしが姉の方の名札を付けていただけだ。証明する手段は存在しない』

『本当にそうかな?』

 あとは意気消沈せず一縷の望みを抱き、全身で舞うだけだ。

 そう気持ち任せの勢いで《駅の主》へ一歩近づこうとして、足元の感覚が希薄になった。

 まずい、と思った時にはすでに上半身が揺らいでいた。でもなんとか躓く程度で抑え込む。

「ご、ごめん。今のとこもう一度やろう」

「そんな無理して」

 姉さんも疲れているのか、元気なく今までより覇気が薄れた声がした。

「いや、大したことない。すぐに続けよう」

 頭を振り意識と感覚がまだはっきりしていることを確かめて、すぐに持ち直す。

「もう止めよう」

「何言ってるのさ、それとも少し休む?」

「もう……いいよっ!」

 ようやく引き出した。

 その一言は、己の弱さに耐えられず、すぐにでも潰れてしまいそうなほど擦れていた。

「どうしてこんなことするの?」

 だから、舞に切り替わったのだとすぐにわかった。

 今まで舞は心の部屋に潜みながら、俺と姉さんをずっと見ていたはず。きっとこれは理由を聞きたい問いではない、感情を吐き出したい叫びだ。

「澄香さんとやれば本番は成功する、ボクは必要ないじゃないか」

 幻かと見紛うほど生気に乏しくて、糸が切れた操り人形のよう。希望を求めない瞳に光は無く、動く唇はわなないている。

「いや、必要だよ」

 儚げに揺れる舞を、瞬きせず真っ直ぐ見据える。そうしなければ、今すぐに目の前から消え去ってしまいそうだから。

「姉さんがやったんじゃ演劇部の公演は成功しても、俺達の夢は一切叶わない。それじゃ意味がない。だから明日のステージに立つのは舞、お前とじゃなきゃダメだ」

 もうこれ以上、深い暗闇に落とさせやしない。

 舞自身が、どんなに現実に絶望していようとも。

「無理に決まってるじゃないか」

 言い切られる、活力の片鱗すら感じないほど抑揚のない声で。

「創平さんに聞いた、表に出ている時間が少しずつ長くなってるって。なら最後の最後だけ舞が演じるのだってありだ、だから投げ捨てるなよ」

「本番のステージでお芝居なんて不可能さ。合宿の時ですら、あんな無様だったのに。ボクは今日まで一つのパートですら、やり通せた試しがない」

 絶望に打ちひしがれて首を左右に振り、力尽きるように座り込み、膝の上にだらりと片手が落ちた。

「潤くん、もうボクのことは忘れるべきだよ」

「何を、言ってんだよ」

 まるで別れ言葉のよう。

「三年間、ボクは自分の殻の中に閉じこもっていた。感覚は曖昧にしか残ってないけど、何も無い世界に漂いながら、いつもキミとの思い出に浸ってた」

過去の記憶に思いを馳せて、舞は微かに幸せそうだ。

でもそれは縋るようで、胸が引き裂かれるほど切ない姿だった。

「中学生でもいろいろ工夫して二人で役作りをしたよね。部活が終わった後も、台本を読んで物語やキャラクターのことを語りながら、自分達の演技を膨らませて、楽しかった」

 過去にしないで欲しい。

「それに、お互いに親の事情を話し合ったよね。ボクも潤くんも昔、その事でいっぱい苦労してた。あんなに自分のことを話せたのは、キミが初めてだった」

 中学の頃、演劇部で主演同士に抜擢されて毎日稽古に励んだ。

 そこから家庭の事情という共通項を知って、俺達はお互いの距離を縮めていった。

「あれはボクらだけの、秘密の共有だったと思う。けど今はもう、そんな生易しい次元の話じゃないんだよ。君には触れて欲しくない、ボクはもう醜過ぎて、手遅れだから」

 黙って話を聞いている俺を、舞は危うくて壊れそうな上目遣いで覗き込む。

「母さんは、ボクを殺そうとどこまでも追い掛けてきた。気を緩めるとすぐに思い出す、あのときの光景を。それに夢で見るんだ、地獄にいる母さんがボクの首を絞め殺そうとしているところを。もう呪いみたいなものさ。ボクはもう世を恨み過ぎてる」

 放心状態で自らに潜んだ悪夢を吐露すると、自虐で少しずつ口元が釣り上がり歪んでいく。

「こんな醜い人間は消えるべきだ。自分がつらくて死にたいだけならいい、ボクはきっと潤くんだけじゃない、他人の足を引っ張ってしまう。だからいずれ、キミを穢し壊すだろう。そんなボク自身が想像できるから、だからっ」

 それが、三年前に街の高台から飛び降り、合宿の途中から心の部屋に塞ぎ込んだ理由。

「だからボクは、キミから逃げたんだよ」

 俺を見る舞の虚ろな眼は、今にも事切れそうだった。

「一度は澄香さんの話を聞いて希望を夢見た……けど帰ってこなければ良かった。舞台で演技なんて務まらないし、些細な現実が怖くて震えてしまう。だから、ボクは消え去るのがいい。澄香さんが元の体に戻れば、あとはいなくなるよ。潤くんはこんなボクとは違うから――」

 死ぬことすら誰にも知られず純粋に消え去りたいと、舞は願っているようだった。

「――ボクのことは忘れて生きて」

 自ら未来を手放そうとする言葉。

 それは三年前、舞が自殺する寸前に俺へ送ったメールと同じ言葉。

 それを思い出すと同時に、耐え凌いできた過去の苦しみが再び戻ってくる。

 心に詰まっていた大切なものが抜け落ち、消えない虚無に苛まれていた頃の感触。

 わかってはいた。

 向き合って本気の話をしたら、舞が三年前に抱えたトラウマと負の衝動に直面すると。

 でも、もしそれに耐えきれなくて拒否したら、舞を引き戻せず一生後悔するだろう。

「すまなかった」

 あの頃、二人は世界で最も通じ合っていると、信じて疑わなかった。

「俺も舞も家の空気が苦しくて、それを話し合えただけで満足してた。でも救われた気になっただけで解決しようと何も考えなかったから、あの日お前を助けることができなかった。毎日思い返して、いつも後悔してたよ」

 三年前の公演日前日、あの時行動していれば全てが違っていたと何度思い返しただろうか。

 問題に対して俺はあまりにも幼かったし、子供だからと臆して甘えていた部分もある。

 中学二年生なんてそんなものだと、誰もが言うだろう。

 ただその結果、舞をたった一人で奈落に行かせてしまった。

「しょうがないよ。きっと何をしても、あんな結末にしかならなかったのさ」

 絶望を受け入れている舞の表情を見る度、心が抉られる。

「お前が眠ったままになったあの日から、俺はずっと無駄な時間を過ごしてたよ。自堕落で薄い毎日だった。でもあの日に歩道橋で舞の姿を見て、次の日には演劇部に入ることになって、それで動き出せると思った。二人で前に進むことだけに視野を狭めて、過去に決着をつけなきゃいけない舞を蔑ろにしてた……お前が何を思っているのか、わかろうともせずにな」

 一ヶ月前から姉さんの事を知るまで、わからないことだらけで物事に翻弄されていた。

 けどそんなことは言い訳に過ぎない。合宿中あの病院で全てを教えられた日からでも、決して遅くはなかったはず。

「俺は一人で盛り上がって、三年間も眠ってた舞のことを置き去りにしようとしたんだな」

 俺はもっと舞自身のことを考えて、察してやるべきだったんだ。

「本当にっ……すまなかった」

 懺悔、何も濁さずこれ以上はないほど胸の内を吐露する。

「でもな」

 舞の心に住み着いた闇を受け止め、何もできなかった過去の自分を苛むのはここまでだ。

「うるせえよ」

「えっ」

 舞は不意を突かれたように、閉じてしまいそうな瞼をピクリと見開く。

「黙って聞いてれば。自分は弱くて穢れ切ってる? 俺が綺麗なやつだから汚したくない? ふざけんな。俺も舞のことがわかっていなかったけど、そりゃ逆も同じだ」

「ごめん。でも、ボクはあのときに逃げてしまったから、潤くんを理解する資格なんて無い。トモ先輩と綾ちゃんを見て、本当にそう思った。それにね、キミはボクのことなんかわからない方が良い。その方がきっと幸せさ」

「一人で勝手に不幸ぶるな! この世のどこにも真っ白な人間なんていやしないんだよ。人の心ってのは外から見りゃ白くても、開けて開けて開けて開け続ければ、どこかには必ず黒い部分がある。大事なのは、それも全部ひっくるめて認められるかだ」

「黒いだけならいい、ボクは穢れてるんだ。キミならあの部の人達と一緒にいれば、強く綺麗なままでいられるよ。駄目なんだ、ボクはもう壊れている。歯車が噛み合わない、狂ってる、怖いんだ、普通の生活なんか送れない……引き返せない一線を、キミは踏んじゃいけない」

「そんなもん、俺はとっくに踏んでいる!」

「嘘だよ! 潤くんには澄香さんやあの部の人達がいるでしょ。あの人達と一緒にいれば明るい世界にきっと馴染めるさ」

「舞にとっても同じことだ! それにな、確かに姉さんや演劇部の人達は、きっかけを与えてくれるかもしれない。でもその一線から戻るにはお前が必要だ。それができないくらいなら、俺はいつまでも中途半端なとこで何もせず、停滞し続ける方を選ぶ」

「母さんはっ、父さんの血が付いた包丁を振り回しながら、ボクを殺そうと追い掛けてきた。でも、電車に引かれて死んだよ。目の前で吹き飛ばされて、腕が千切れながら、最後までボクを睨み続けてた。あんなものを一度でも目にしてしまったら、もうっ、まともな人間には戻れない!」

 今まで見たことが無いほど虚ろな眼で、己の闇を吐き出してくる舞。

 初めて聞いた残酷な事実と、剥き出しの負の衝動に、俺自身も蝕まれるような錯覚に陥る。

 でも引き下がらない。

 ここで負ければ、受け止めなければ、もう一生舞は戻ってこない。

「俺はお前が言うほど綺麗じゃない。弱くて、穢れた生き物だ! 純粋で綺麗な人間に、こんなものは……無いんだよ!」

 俺は自分の左手首から切り札であるリストバンドを引き抜いた。

 顕わになった手首を返し、それを見せつける。

 すると、激情のぶつけ合いで昂っていた舞の気迫が一瞬で消え失せる。口元をわなわなと震わせて、信じられないものを見る愕然とした表情に変わった。

「これ、痕はもう消えないらしい」

 合宿初日の朝、宿泊室で勇に見せたのとは、逆の手首。

 俺の左手首には、横一文字の禍々しい傷跡がある。

 時期は大分経っているせいか、周囲の肌色に比べて凄惨な赤紫に変色している。

「お前が寝たきりになってから、俺も逃げようとした。いつか目覚めるかもしれない、まだ死んではいないというのに、諦めて逃げようとしたんだ。お前の方がよっぽど苦しかったはずなのに、死ねば会えるかもって、馬鹿な選択をした」

 まだ弱くて子供過ぎた。

「でも、そのときたまたま帰ってきた姉さんに見られて……止められたよ。何度も何度も引っ叩かれたけど、間違いだと気づかされた」

 この傷は長い間、俺自身を戒めた。

「だからふざけた真似はもう二度としないと誓った」

 しかし皮肉にも、強さを与えてくれたかもしれない。

「俺とお前は逃げた者同士、同罪だ」

 突然打ち出された現実に、舞は崩れるように項垂れた。

「でもさ、逃げた人間がもう一度立ち向かうのは無理なのか? いけないのか?」

 力無いその両肩をしっかり掴む。

「もし舞がそう言い張っても、もう現実には引き返せないと折れても俺は見捨てない! 本番中に、ステージで倒れても目を覚ますまで何時間だって俺は待ち続ける。観客なんて知ったことか! 俺達の芝居をやり遂げるまでどんなやつにも邪魔はさせない。どれだけ醜くても穢れていても構わない。お前が何もできなかった空白の時間だっていつか埋めてやる」

 もし舞とこれからも一緒にいられるなら、己の全てを捧げたって構わない。

「街を一緒に歩いているとき、お前が急に泣き出したってすぐに慰めてやる。自殺したくなってもすぐに包丁を取り上げて静まるまで一緒にいてやる。いつでもどこでも、俺はお前を支え続ける!」

 そう自分の心に覚悟を刻み込む。

「どんなに深いドン底からだって、何度だって引き上げてみせる。拒否されたって逃げられたって、どこまでだって追い掛けてやる! 絶対に諦めてなんてやらないからな!」

 何も考えずに、胸の内で揺れていたありったけの想いを舞にぶつける。

 しかし舞は何も応えず、今も黙って静止している。ただそれは目に見えなくとも、心にある悪夢と俺の言葉の狭間で葛藤しているようにも見えた。

 どのくらい時間が経ったかわからない。

 けどやがて前触れも無く、薄く開いた左右の眼から二筋の涙が零れ落ちていく。

 動かなかった頬に赤みが差し、喉の嗚咽と共に引き攣る。

 それはまるで、長い間固まっていた氷塊が溶けていくよう。

「ボクは大変だよ、面倒だよ?」

 前屈みに倒れてくる、俺に身を預けるように。

「そんなことは百も承知だ」

 今も過去と未来の狭間に怯えて微かに揺れる肩を抱き寄せ、大丈夫だと安心させたくて頭を撫でてやる。

 俺の胸に顔を埋めたままシャツで涙を拭う姿は、ずっと溜めこんだ悲しみや自責の念が直接流れ出ているかのようだった。その全てを出しきるのは多分無理で、折り合いを付けるにもかなり時間が掛かると思う。

 俺には支えてやることしかできないけど、それが永遠に終わらなくても構わない。

 三年前の俺には重過ぎる決意だったかもしれない。でも今なら大丈夫、ちゃんと背負える。

「拠り所にしてもいいの?」

「俺にはもう、舞が拠り所だよ」

 昨日までとは違う隔たりのない温もりを感じたくて、抱きしめる力をより一層強くする。

 ずっと望んでいた人とようやく通じ合ったこの瞬間を、三年前からずっと夢見てた。

 それがあまりにも嬉しいせいで、それからは何も考えなかった。

 そっと腕を離して今も目尻に浮かぶ涙の粒を指で払ってやる。今もその表情は晴れ切ってはいない。

 けど、そこには解放されたような嘘偽りない微笑みがあった。

 それを目掛けて、自分の顔を近付けてからやや傾ける、特別な意味のある位置だ。

 舞は察してか、頬を赤く染めてはっと驚くように後ずさる。

 けど、俺は構わず離れた分だけ詰め寄る。

 拒否はない。だから俺は少しずつさらに距離を縮めていって、目を閉じようと――

「これこれ」

 舞は鼻先に翳した人差し指で、どこか楽しそうに俺の接近を制した。

「今はまだ(・・)違うでしょ? ちゃんとさ……守らなきゃ」

「そっか、そうだった。ついさ、ごめんごめん」

 早まったことを叱るように「だめじゃない」と左右に指を振る。

 そのまま俺の唇に指を当てたあとに顎、首へと滑らせ、胸に達すると、さっきと同じように背中へ腕を回してくる。昔もこうして体をなぞられたことがある。

 それから真夜中の体育館で過ぎゆく時間も気にせず、しばらく互いの存在を確かめるように抱擁し合っていた。

 俺たちの時間を邪魔せず静かで物音一つ立てないフロアへ向けて、俺は胸の内で密かに感謝した。

次回、8/14(金)PM10時頃に更新です。

あと1回の更新になります。

最後の行まで読んでいただけるとうれしいです。

忌憚のない感想、頂ければ幸いです。

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