4章(前半)
裾の長い白衣を着た痩躯の男は、両腕を組んだまま沈痛な面持ちだった。
ここは地上から遥か高い位置にあるタワーの一室。訪れるのは、二度目。
「意識の疲弊が続き、そのうち二回は途中で倒れたわけだ」
昨日の稽古が終わった後、動揺する姉さんを励ましながら、創平さんに電話で状況を伝えた。そのときは、舞の意識が途切れて時間が浅いし一晩待とう、という創平さんの意見を聞いて様子を見た。
しかし朝になっても状況は変わらず、五日目の合宿最終日をこなした。
稽古自体はスムーズに進み、十分に本番を迎えられる仕上がりにはなった。但し俺と姉さんは舞のことで集中力を欠き、演技の端々がやや雑ではあった。
合宿が終わり解散後、俺達は創平さんのところにやってきた。
「しかも三日連続で……澄香さん、どうしてこうなるまで黙っていたの?」
これまで俺と姉さんからの説明を、創平さんは静かに聞いていた。けど今始めて、レンズの奥にある瞳に色が宿り、自らの手元から動かなかった目線が動いた。
「体の主導権を強制的に……まあ、それは予期せぬことだったので仕方ないでしょう。しかし舞が無茶をするようなら、止めて欲しいと頼んだはずだよ?」
「反対されると思いまして、申し訳ありませんでした。ただ舞ちゃんの強い想いを考えると、どうしても……軽率でした」
「これはあなたにとっても危険なことかもしれないんだ。今回はたまたま澄香さんにも影響が無かっただけかもしれないのに……似たような話を前にもしたはずです」
「それってまさか……もしかして、姉さんにも危険があるってことですよね?」
「ああ、そうだ。まだ潤くんには話していないが、もう察しているとはさすがだね」
俺は何も知らないから黙っていた。
けど創平さんの言葉を聞いて、今まで伏せていた疑問が杞憂でなかったとわかった。
「澄香さんと舞には説明してるけど、二人の状態は不可解な部分が多過ぎる」
創平さんは俺達二人へ、自分の両手を前に掲げて動かしながら話始めた。
「曖昧な言葉での仮説だが……もし二人どちらかの精神が消耗し過ぎた場合、もう片方にも影響が無いとは言い切れない。こんな状態だし、最悪の場合を想定しなくてはいけないよ」
舞に例えた右手を下げてから、姉さんに例えた左手が、右手に引っ張られるように下がる。
「今は幸いにも澄香さんの意識には何の問題もない。しかし不確定な要素が多いからこそ自己管理は慎重にして欲しい」
二人はそれだけ密接な関係にある。
姉さんはもう一度大きく頭を下げて謝った。
「舞は、どうなったんでしょうか?」
「自信を失ってしまったのだろう。今の舞はほんの少しの負荷ですら傷付くだろうし、些細な自己嫌悪ですら活力を大幅に失わせる。今は休ませるべきだ」
俺が舞と同じ立場なら、非力な自分に嫌気が差してしまうだろう。
合宿中、舞はそのことを一人で溜めこんでいたはずだ。
「澄香さん。舞は今、例の部屋に閉じこもっている状態なんだよね?」
「いつもはノックすれば入れてもらえるのに、今は鍵が掛かってるみたいで開かないんです」
二人の心の中にある部屋、その片方の前で佇む姉さんの姿がふと浮かんだ。
「あの、舞ちゃんはどうなるんでしょうか? あたしはどうしたら」
縋るような面持ちで姉さんは聞くけど、それを受けた創平さんは眉間に皺を寄せ、複雑な何かを堪えているようだった。
「これは根拠が薄い私見だけど、三年前の事件に比べれば小さなことだ。だから君達二人がいれば、いずれ回復するとは思う。何日後か何ヶ月後かは、わからないがね」
そして俺も姉さんも言い止まっていた結論を、創平さんは最後に代弁した。
「だが、土曜日の本番に舞が挑むのは無理だ。そもそもこのままでは不可能だし、仮に舞が目覚めたとしてもそれは危険だから、諦めて欲しい」
もどかしさを抱えたまま合宿の期間は終わり、授業のある普通の日々が再開した。
舞のことを思い出すと自分の無力さに苛立つ。授業なんて身に入らず、内容を理解せず板書に努める時間が過ぎて行く。まるで以前の堕落した時期に戻ったみたいだった。
放課後になると、運動部が活動している隣の体育館ステージに集合した。
しかし舞台内容のネタバレになるから、観客になる生徒の前で稽古はできない。
今日の主な目的は芝居自体ではなく、照明器具の種類や設置個所、放送室から流すBGMのこと等を、部員全員で共有することだった。
ただ俺達は話を聞くだけで、実際に照明器具や放送室内で音響を操作する放送部の人達の方が忙しそうだった。
「鐘ヶ江会長。毎年恒例でボランティアは惜しみませんが、こちらも上心あれば下心ありですからな」
「OKだ。俺の手腕を信じなって、予算の件は穏便に通しておくよ」
穏やかでない会話を生徒会長と放送部部長はステージの隅でしていた。しかし裏方用の台本で真面目に打ち合せをしている節もあったし、そこは目を瞑ろう。
今、放送部の人達がチェックしている大掛かりな照明が三つある。
一つは、観客側のステージ前方に設置されたフットライト。
八つの大きい電球が収まった一メートル半ぐらいの長いボックスが二セット。それがステージ前方の中央から左右に置かれ、下から眩しさを感じない程度の灯りで、役者を照らす。
二つ目は、カーテンに遮られた左右の舞台袖から差し込むサイドライト。
これはフットライトに比べて頻繁にオンオフの切り替えがあり、演出の一つとして使われるみたいだ。主に、各キャラクターの入退場のときに使われる。
これに加えて三つ目、普段からステージの真上にある長いバトンにぶら下がる二つのサスペンションライトが地明かりとして、全体を照らす。
「うっ」
不意に上から突き刺さってきた強烈な光に少し目が眩む。
ステージ側から左右の壁を伝い体育館後部へ延びる二階のギャラリー通路から「急ですいませーん」という声がした。
「おー、本格的!」
綾が呑気に感動するけど、俺は逃亡中の泥棒が警察に追い込まれる気分だった。
他と違って太い光が直接当たるから眩しく、熱さすら感じるこれはスポットライト。
バスケットゴールの脇から届く幅のある太い光柱は、明りが消えた体育館の中なら微かな埃と共に自らの軌跡を残す。だから他の照明よりも主張が強い。
本番で使う照明はこの四つ。
さらにBGMがどのポイントで流れ出すのかも把握する。
「ジムノペディ、でしたっけ? この曲、なんか眠くなっちゃうや」
「そう? わたしは好きよ、心が水面に浮かぶ感じで落ち着く」
両手を頭に回し興味が無さそうに呟く綾と、全身でゆっくりとしたピアノの旋律に聞き入る水無瀬先輩。二人の感想の差は、互いの性格の違いを思わせる。
ジムノペディは《駅の主》と《少年》のパートで多用される曲だ。
主張し過ぎない静かな音色で二人の対話の雰囲気作りをする役目がある。直接この曲が流れるステージで芝居をする俺としても、劇中の展開と相性が良いと思う。
放送部と演出面の打ち合せを終えると、一度だけ通し稽古をすることになった。無関係な人に対してネタバレにならないように緞帳を閉める。
分厚い布一枚の隔たりがあり、その向こうでは運動部が活動中。そのせいか一人一人の演技はぎこちなかった。通し稽古としては不十分かもしれないが、最後の確認と割り切れば悪くなかった。
本番前の仕上がりとしては良好、部活終了の時刻になり解散となった。
でも、たった一つの心残りはずっと消えずにいた。
本当にこのまま本番を迎えていいのだろうか。
学校からの最寄り駅に向かう通学路を進みながら、今朝から同じ自問が繰り返される。
「顔が怖い」
唐突に、ギュッと二の腕を強く握られた。
ビックリして振り向くと、半分が夕陽で紅く染まった姉さんの顔があった。それは悲しそうでもあり俺を戒めたいかのようでもあった。
すぐに正気を手繰り寄せ、思考に埋もれていた自分を引き戻す。
「思い詰め過ぎよ」
姉さんにとって舞は、同じ体を共有しているから自らの半身と言っても過言じゃない。誰よりも密接に関係しているのに、舞と通じなくなったときは取り乱していたけど今は冷静だ。
「ごめん。姉さんは、俺なんかより全然強いね」
「そんなことないわよ。ずっと前から覚悟してただけ」
「覚悟って?」
「心の準備ってやつよ。ただでさえあたし達はこんな状態だし、舞ちゃんも儚げなところがある子だから、いつか危うい状況がやってくるとは考えてた。それでも一昨日、急に繋がりが切れちゃった時は驚いちゃったけどね」
今二人で歩いている道の隣には、終端が見えない一直線の長い河川敷がある。
何処までも果てなく続くそれは今まさに俺達が直面している問題を思わせた。
「天ノ川コンビ、か」
河川敷を見て姉さんはそう呟く。
「あんた達は織姫と彦星みたいにはさせたくない。一年に一度、そんなたまにしか会えないなんて、物語は綺麗だけど本人達は苦しいに決まってるわ」
そんな皮肉を連想することはあったけど、今まで決して口にしたことは無かった。
「俺だって幻想染みたものになるつもりはない、俺も舞も普通の人間だ」
駅に辿り着き、俺は下りで姉さんは上りの電車。
「それじゃ、また明日ね」
先にやってきた帰宅ラッシュの下り電車に入り、ホームに残る姉さんに手を振る。
しかし次の瞬間、何か閃いたように額をピクリと上げる姉さんは、棒立ちしていた足を捻ってこちらへ駆け出した。
「なっ」
今にも閉じようとする扉に臆せず、全力で自分の体を捻じ込もうとする。
それを見て俺は咄嗟に手を伸ばし、阿吽の呼吸で姉さんも反応する。二つの手が合わさった瞬間、俺は急いで引き寄せる。
紅褐色のリボンに結われた後ろ髪も扉に挟まれず間に合って、電車は動き出した。
まったく、ただでさえ自分だけのものじゃないし、しかも主演女優なのだから、体は大事に扱って欲しい。姉さんが無茶をする度、毎回心臓に悪い。
「潤の部屋に遊び行ってみたい」
そんな俺の気苦労も考えず、姉さんは身勝手な思い付きを口にした。
「別に良いけど、急にどうしたの?」
まあいいじゃない、と説明する気もなくあしらわれる。
そして人がいっぱいで窮屈な車両の中で、四日前と同じように俺の腕にしがみついてくる。まったくもっていつも自由な人だ。
四駅分移動してから降りて、十分ほど歩いた場所にあるマンションに着く。
「ようこそ、姉上様」
「おー、綺麗にしてるじゃない。関心、関心」
玄関の後にある二つの扉の内、リビングに繋がる扉を開けると、姉さんは満足そうに頷きつつ部屋の中を見渡す。
1LDKのこの部屋には高校入学と同時に暮らし始めた。
両親が離婚する時、元の一軒家は売ることになったから今はここで半一人暮らしだ。
「母さんはたまに来るの?」
「うん、一ヶ月に一回ぐらいかな。あの人は自分の荷物をほとんど実家に送ったから、隣の部屋に最低限の服とかしか置いてないよ。外国にいる父さんほどじゃないと思うけど、母さんも帰ってくればすぐ行きっ放しだから、それで十分なんだ」
家にいる頻度が低いから、母さんは小さい方の洋室で事足りる。
だから俺は、リビングを自分の部屋として使わせてもらっている。
けど最初の頃は自室にしては広過ぎた。ベッドと本棚だけではフローリングの床を持て余して、部屋の角が空いた寂しいインテリアだった。けど小さめのカーペットや勉強机とか、制服を掛けておくハンガーラックなんかも増えてきて大分豊かになってきた。
「さーてさて、早速~、ここかな♪」
などと機嫌良く部屋中を吟味されながら、断りも無く本棚の引き出しを開けられる。
「ちょいちょい、何してんのさ?」
「決まってんじゃん。エロ本を――」
その頭の悪い名詞を聞いた瞬間、バネを効かせて打ち出したデコピンをすぐさまお見舞いしてやる。すると「うぇげっ」と、愚か者は女性らしからぬ下品な叫びを上げた。
その名詞の後に続く述語を想像するのは容易だったから。
「ちょっとー、最後まで言わせてよ。お約束を中断したらいけないんだぞー」
文句を言っておでこを擦りながら、姉さんは部屋の隅に鎮座する大柄な電化製品に近付く。
「何これ、ブラウン管?」
奥行きのある旧世代のテレビに対し、壊れ物を触れるかのようにそっと手を置かれる。
失礼な、と内心で思う。仮にも我が家では現役稼働中の名機だ。
「テレビはそっちに持っていかれたからさ、トモさんと綾に貰ったんだよ。貧乏というわけじゃないけど、あまりテレビ自体も見ないし節約したいからね、貰えるのはありがたかった」
いろいろ考えてるんだねー、と呟きながら姉さんは部屋の探索を続ける。
「あれ、あれれ。あのさ潤、パソコンは?」
「ん、そんなの無いよ。お金ないもの、これでも切り詰めて生活してるんだ」
「なんですって?」
なぜか切迫した口調で、危機的な眼差しを向けられる。
「潤、あなたまさか……情弱?」
「何言ってるのさ?」
「ここはネット回線も引いてないのね、ダメよ! 今は情報化社会なんて語るのすら古臭い世の中なの! ネット環境に順応できないで育つのは、車の免許を持たずに中年を迎える事以上に恥ずかしい事。社会人としては挨拶できないようなものなのよ! それがきっかけ――」
姉さんは俺の体を揺さぶりながら、血走る寸前の眼で、悲鳴に近い声で喋り続ける。
「国語の教員免許持ってるバリバリ文型の癖に」
「文理の枠組みなんて関係ないわ。出来て当たり前のことなのよ!」
これは、悪ノリ半分のおふざけ。
しかし釈明しなくては俺の沽券に関わるし、不名誉なレッテルを張られたままなのは癪だ。
「パソコンは無いけどさ、変わりにこういうの持ち歩いてるよ」
俺が学校鞄の中から取り出した、掌小サイズの子機と7インチのタッチパネル端末を見て、姉さんは大袈裟にたじろいで壁まで後退した。
「なっ、タブレットと、モバイルルーター……だと?」
「この部屋にはネット回線が無かったから、もし引くなら工事する必要があった。それに持ってたパソコンも古かったし、そこで考えた末の答えがこれ。調べながら料理とかする場合は、パソコンより断然向いてるし室内でも外でも万能、しかもこれはデータ制限なし。タブレットのがスマートフォンより文字が大きいから調べものに向いてるのもグッド。ラッキーだったのがルーターの回線を新規で長期契約するなら子機は無料で貰えたからサイフにも優しかった。タブレット自体は型落ちで古めけど、スペックは十分。ただルーターとタブレット二つの充電を気にするのは面倒かな。ただそれも学校のコンセントを拝借すれば、そこまで問題じゃない」
「くっ、侮ってた、なんという情強……でも嬉しいわっ、そんなにたくましくなって姉さん感激よっ! 濡れちゃうわっ!」
「はいはい」
自分の両肩を抱いて体をブンブン揺り動かし、精神的に自慰する姉を適当にあしらう。
「しっかし、ダメか」
何が? と聞き返すと、急におふざけを止めて両腕を組んで溜息を漏らす。
「舞ちゃん。潤の部屋に来れば、もしかしたら癒されて復活するかと思ったんだけどさ」
俺の部屋に来た理由が、遊びや興味本位ではないとようやくわかった。
「全く世話が焼ける。潤との、約束を放り出す気かしら」
本番は明後日、稽古は十分したし公演自体はこのままでも成り立つ。
あとは俺達の問題。
ただ舞が戻ってきても、創平さんの言う通り本番に臨むのは危険。
でも、このままではいけない。そんな漠然とした思いと、何も手立てが無いという事実が、矛先が定まらない焦りとなって、どうにかしたい気持ちを燻ぶらせる。
「これじゃ手詰まりなわけだけど――」
突然言葉を区切るとどこを見るわけでもなく、姉さんの目線と体が数秒間だけ硬直する。
そして刻が動き出したかのように歩いて、俺のベッドに腰掛けた。
「あのさ……あたし、刺激ってバカにしちゃいけないと思うんだよね」
こほん、と一つ咳払いをしてから、なぜか慎みある控えめな姿勢ながらも、頬をほんのりと赤く染める。そしてなぜか、もじもじと身を捩らせた。
「一応聞くけど、何言ってんの?」
何やら不穏な空気を感じ取りつつも、俺は面倒臭がらずに相手をする。
「だーかーら、刺激よ、シ・ゲ・キ。眠りから覚めないお姫様には、昔から王子様のやさしいキッスが相場と決まっているわけ。でもそれだけじゃ、不十分かもしれない。熱い抱擁で心の壁を溶かしたあと、その距離を一気にゼロにするには……やっぱり情事しかないわ。舞ちゃんのためだもの、お姉ちゃん頑張る。大丈夫よ、あたしやさしくリードしてあげ――うぎゃっ」
危ない眼つきで好き放題に喋り、愉悦に浸っている姉を引き戻すべく、無防備なおでこに狙いを定め、全力を込めた渾身のデコピンを開放した。
「その辺にしなさい。なーにが、シ・ゲ・キだ」
「あたしも必死なのっ! 舞ちゃんには自信を取り戻して欲しいのよ」
涙ぐんで両手で額を抑えながら、姉さんはプイっとそっぽを向く。
でも確かに何もせず塞ぎ込んでも仕方ない。でも真剣に物事を考えて欲しい。抱擁なり情事なりは、ただの悪ふざけ。何が何でも刺激になれば自信――
そこまで考えると、あることが脳裏の隅っこに引っ掛かった。それが意識の端っこから消える前にすぐ手繰り寄せる。それと創平さんも口にしていたある言葉を思い出す。
刺激と自信?
「姉さん!」
アヒルみたいに唇を尖らせていた姉さんの両肩を掴んで、ぐいっと引き寄せた。
突拍子も無い俺の行動の前にされるがままで、姉さんは驚いている。
しかしやがて心臓を抑えるように胸元に右手を置き、わかりやすいぐらいに頬を朱に染めながら顔を逸らされる。
「そ、その……冗談半分だったのよ。お姉ちゃん、いきなりその気になられても困るわ。でも舞ちゃんの為だものね、あたしも覚悟しなきゃ。でも潤が相手なら――」
「これっ、これっ、さっさと戻ってこい」
軽いデコピンを二連続で当ててやると、姉さんは再びやさぐれ気味に唇を尖らせる。しかしその不機嫌そうな訴えを無視して言い聞かせる。
「思いついたんだ、これなら舞も応えてくれるかもしれない!」
唐突に閃いたアイディア、これが最良の打開策のはず。それに『約束』を果たすためにも、俺が舞のためにしてやれる唯一のことだろう。
但し、実行するにはある人の許可が必要だった。
「おう、話ってなんだ?」
広い長机中央で空になったコンビニ弁当を前に、爪楊枝で前歯をいじりながら、だらしなく仰け反る姿は年寄り臭くて様になっている。
本番前日の昼休み。ここは基本的には一般生徒にとって不可侵領域である、生徒会室。
その中央に生徒会長であるトモさんが、威厳のない崩した姿で休憩していた。
今朝「昼、話をしたい」とメールを打つと、ここに来るようにという返信がすぐにあった。
「少し相談があってさ。いや、相談というよりはお願いだね」
そう言い直してから要件を伝える段になると、喉がやや強張った。
しかしここで怯んでも仕方ないから、一度大きめに空気を吸い込んで、吐き出す息と一緒にその内容を打ち明けた。
「今日の夜に部活が終わってから、俺と舞だけの、二人だけの特訓をさせて欲しい」
それが昨日閃いた、俺と姉さんが舞に対してできる唯一のこと。
それを聞くと、爪楊枝を動かすトモさんの手の動きが止まる。しかし一瞬のことで、再びさっきと変わらない慣れた手つきで歯の隙間をなぞる。
「体育館を使うんだろうが……何時までだ?」
「誰もいなくなってから深夜になってもやる、納得いくまでずっとだ。寝泊まりは、合宿で俺達が使っていた部屋があればいいから、頼む!」
舞が自信を取り戻すための刺激的な方法はこれしかない。
摩耗した舞の心はすぐに癒えないかもしれないけど、勇気付けることはできるはずだ。
「ダメだ、許可できない」
すげない態度で淡々と言い下される。しかし一度くらいじゃ引き下がれない。
「舞の演技に満足してないんだろ? だから俺達は残り少しの時間でも努力してみたいんだ」
「確かに天野君の仕上がりには疑問は残る。しかし昨日までの演劇部全体の仕上がは悪くないからな。なのに、夜な夜な体育館で主演二人だけで稽古されるなんてのはリスクが合わない。部長として、許可できないな」
もっともな正論。部長という肩書きからの事務的な反対。
「演劇部のみんなに迷惑は掛けない。それに合宿のとき、トモさんは頼んできたじゃないか。もう一人の主演として、昔の舞の演技を取り戻す手助けをしろって。まだ時間はある」
「俺の目から見て、お前は今まで十分にそれをしていた。保健室に付き添ったり、夕食時に抜け出したり、天野君の「事情」に最も向き合ったのはお前だ。感謝こそすれど、責めることはしない。よくやってくれた、これ以上は望めんな」
こちらの秘密に触れず「事情」の一言で片付けて、後ろめたい部分を突くような言い方。
その姿勢にブレはなく、こちらの意思を汲んで譲歩しようとはしない。
何も言い返せず、その貫禄に飲まれそうになる。でも引き下がったら最後、もうこの要望をトモさんが飲むことはない。
意地だけで青い双眸を凝視して、その場に立つだけの長い沈黙が過ぎ去っていく。
やがて予鈴が鳴り、昼休みの喧騒が徐々に静まっていく。
掛け時計の秒針が等間隔で刻む音が、余計に体感時間を遅くしているようだった。
「特訓ってのはさ、どうしてやりたいんだ??」
校舎を通じて伝わってくる、生徒達の微かな気配すら薄くなったときだった。
「主演としての責任か? 女を助けたい男としてか?」
最後にダメ押しか、メガネの上の眉間を揺らし「ん?」と、試すように聞き直される。
模範的で正当性のある答えは、考えるまでもなく前者なのだろう。
しかし自分の事情を切り離して、義務を重んじる姿勢を見せれば認めてくれる……というのは打算でしかない。きっとそんな骨の無い考えではいけない。
そもそも格の差が違い過ぎて、探り合いの時点で圧倒されてるし、口先の駆け引きじゃ全く敵わないから、相手を捲ることを考えても仕方ない。認められないのがオチだ。なら――
「――女を助けたい……男としてだ」
それが本音。
舞を助けたい思いで、俺は今この場で張り合っている。それに嘘偽りはない。
そう言い切ったところで本鈴が鳴り始める。
すると無表情に固まっていたトモさんの頬が、左右とも釣り上がって二つの山を作り――
「いやっほー、ブラボ~、いただきました!」
パイプ椅子から立って、小刻みに拍手をしながら、踊るように軽快なステップを踏む。
まるで鳴り続ける本鈴は、場を盛り上げるサンバのよう。
その楽しそうな一人宴は本鈴が鳴り終わるまで続き、最後は盛大な祭りの後みたくとても満足そうに上から俺を眺める。無念だ。
「この、クソ部長がっ!」
「んーんー、良きかな良きかな。一点の曇りも無い、若き純粋な想い。甘美であったぞ」
俺の罵倒なぞ目を入れても痒くないと言いたげに、俺の頭を撫でてくる。
この屈辱的なオチに対して、拳を握り締めずにはいられなかった。普段なら適当にあしらうけど、こうも完全敗北してはそれすらできない。敗者に拒否権はないのだから。
「それで良いんだよ。主演としての意見なら、あとは余計なことはせずリスクを抑え、無事に公演を終えることを守るべき。さっきの俺みたいな話に行きつく。今の完成度なら校内の発表としては十分なレベルだからな。あとは男としての意見の方だけど……実力があれば、多少は身勝手でもいいんだよ。元々、人員不足だった我が演劇部にとって、レベルの高い人材を確保できただけで幸運、最初からわがままがあっても良いと想定していたさ。それこそ、感謝こそすれど、責めることはしない」
「もしかして、最初から遊ぶつもりだったの?」
「いやあー、少しは反対しておかないとさ、なんか優し過ぎるじゃん。障害として立ちはだかり煽った方がお前も天野くんも燃えるはず。あと部長としては提案の良し悪しを振いに掛ける義務がある。何より少年の純心を拝むこともできそうだったし。つまり俺としちゃ一石三鳥、最大リターン取れる安定行動だったわけよ」
憎らしいほど屈託の無い笑顔で陽気に話される。
あー、どうしようもなくむかつく。今すぐにでもこのふざけた部長をド突き倒してやりたくてたまらない。しかし今はその衝動を抑えよう。
「けっ、んじゃ、許可してくれるわけ?」
「ああ、結城先生には放課後までに話しつけとくよ」
目的は果たせたし、感謝こそすれど、責めることはしないようにと、自分に言い聞かせる。
「休み時間はみ出しちゃって悪いね。俺もだけど授業遅れちゃう」
「何言ってんだ。この五時間目、俺のクラスは自習だ」
含み笑いを浮かべる口元で、トモさんは未だに勝利の味を愉しんでた。
次回、8/11(火)PM10時頃に更新です。
残り2回の更新になります。
忌憚のない感想、頂ければ幸いです。