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ツインアクトレス  作者: 伊瀬右京
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3章(後半)

《家出娘》はステージ上手から、実際には無い事務室の扉を開け放った。

『ちょっ、ちょっと何よあれ』

 駅のホームから焦って事務室に戻ってきた《家出娘》に対し、他の全員が首を向ける。

『あ? なんだ、てめえか。あんな啖呵切って出て行った癖に。口ばっかかよ』

『お嬢ちゃんどうしたんだい? こんな深夜だし寂しくなったのかな?』

《不良》と《おっさん》は言葉の棘に差はあれど《家出娘》を煽ってからかう。

『違うわよ。あ、あれ意味わかんない』

『少女よ、とりあえず落ち着け。話しなさい』

 普段本人が醸し出す柔らかさを微塵も感じさせず《駅員》は《家出娘》の肩をやや強くぶっきらぼうに掴む。

 普段の綾なら、水無瀬先輩のそんなギャップに対し妙な痴情を抱いていることだろう。しかし今に至ってはそんな煩悩は見えない。

『出られないの。なんか押し戻されちゃうっていうか、壁みたいなのがあって弾かれちゃう』

『何とち狂ってんだ、このチビ女』

『うっさい、脳タリンは黙ってろ。お願いだからみんなはちょっと来てよ』

《家出娘》は同じ汚い言葉を吐き捨てて《不良》をあしらうも、他のメンバーを手招きして呼ぶ。

『けっ』

《不良》は片方の眉毛だけを吊り上げる怖い顔つきで後を追う。

『何なんだろうね?』

 コメディアン風に舌を出して肩を竦めるという軽いノリで《おっさん》はそれに続く。

『少年、我々も行こう』

《駅員》というキャラクターが持つ凄みを出すためか、水無瀬先輩は普段より意識して目を細めているように見える。そんな彼女に肩を叩かれ《少年》である俺はたどたどしい足取りで歩き、最後に事務室を出てステージ上手の舞台袖へと消える。

「よし、そこまでっ!」

 この後、事務室からホームでのシーンに移るため結城先生はキレの良い声で芝居を区切る。

 五月三日月曜日、合宿開始三日目。

 五日間ある合宿も今日で中盤に入る。

 今日は昨日の午後から入り始めた《少年》《おっさん》《駅員》《家出娘》《不良》の五人が絡むシーンからの確認になった。

 俺を含めた五人が舞台袖から再びステージに戻ると、昨日と同じく上下ジャージ姿の結城先生は、片手に持ったバインダーにペンを走らせている。

「おつかれさま。今のシーンで《少年》と《おっさん》に関しては指摘する部分はない。ただ二人の演技が上手いせいで、今は他の三人が浮いて見える。本番までにその差を極力埋めることが、ルーキー三人にとって最大の課題だぞ」

 良いかね? と三人の胸の内を射抜く鋭い視線、しかし誰もそれに怯まない。逆にそれを刺激としているかのようだった。

 区切りの良いところまで確認が終わり、午前の残り時間も僅かとなった頃。

「最後に《駅員》の登場から《少年》が一人で事務室を出るところまで通しでやってみよう」

 結城先生がメガホンを手に取りステージへ向けて叫ぶ。

 この脚本ストレンジホームは、大きく分けて二種類のパートがある。

《少年》と《駅の主》が対話する二人がメインのパートと、迷い人達が絡む五人のパート。

 この二つを交互に二度行い、最後に二人だけのパートで締め括るという、大きく分けて五部に区切られている構成。

 これから二部目にあたる最初の五人のパートを通しで行うことになった。



「もう言っちゃいますけど、足引っ張ってるの自分っすよね?」

 勇は覇気のないしょぼくれた顔で首をだらりと垂らし、昼食であるカップ麺の容器を割り箸でドラムみたいに叩く。

 その様子を遠くから見ていた水無瀬先輩が一瞬だけ下品なものを嫌悪する素振りを見せる。お嬢様には受け入れ難かったのか、勇少年の淡い恋心が実る日は遠いかもしれない。

「そこまで酷かねえよ、あんま卑屈になるなって」

「同じ初心者のはずなのに、アヤやんと水無瀬先輩は上手いっすよ。それに経験者のお三方は別格ですし、特に天ノ川コンビのお二人なんて……そういえばこの脚本の作者、諏訪乃鏡って人は高校生のうちにこれ作ったんですよね。才能ある人、爆発してくださいよ」

「そりゃ、この諏訪乃鏡って先生はすごいかもしれないけどな」

 そんな消沈気味の建の頭へ、喋りながらトモさんはやんわりとした握り拳を当てる。

「綾は入学前から準備してたからな、お前とは練習時間がかなり違う、比べるもんじゃない。あと水無瀬君の場合は噛み合ってるだけだ。偶然の産物でバタフライエフェクトみたいなもんだから、本人の演技力が高いわけじゃない」

 あんだ、こら? と地獄耳を利かせ遠くから反応するのは綾。愛しの先輩を批判されたのが気に食わない様子。

 確かに勇の演技は、他のメンバーに比べて劣っていることは否めない。けど指摘される弱点を一つ一つ直し、着実に上達しているから今後の伸び幅はこの中で勇が一番な気はする。

「いやいや、演技力だけで芝居の全ては決まらない、衣装に合う容姿も大事だ。水無瀬さん、ちょっとこっち来て」

 昼休憩になって姿が見えなかった結城先生が紙袋を持って戻ってきた。すると部室の入口で手招きをして水無瀬先輩を近くに呼ぶ。

 先生はその場で先輩の上着を脱がし、紙袋の中にある別の服を先輩に着させる。さらに帽子らしきものを被せたあと、部員達へ見せるように正面に振り向かせた。

「サイズも悪くなさそうだな。これが駅員の制服だ」

「おー、間に合ったんですね」

 満足そうにトモさんは頷く。

 普段の学校制服とは色や生地が違い、襟や前腕に刺繍がされたものだった。

「ああ、他の高校の演劇部から拝借できたんだ。水無瀬さん、感触どうかな?」

 水無瀬先輩は物珍しくて不思議そうに、帽子の硬いつばを触ったり袖口を摘んだりする。そして部室にある鏡の前に立つと、驚きを隠せず呆然と自らの姿に見入っていた。しかしそれも数秒のこと。

「頑張ります」

 素の自分をすぐに捨てて劇中の駅員のようなやや太い声色で、共演者達向けそう言った。

 自分も怠けてはいられないなと思い台本を開こうとしたところで、荷物袋の中身が震えた。携帯電話を開くとメール着信が一つ。但し送り主はすぐ近くにいる。

 振り返る俺を待ち構えていたのか、姉さんは手に持った赤い携帯電話を振って軽い合図を出すとすぐに女性達の輪に戻っていく。その文面は簡単なものだった。

――午後一番はよろしく!

 稽古の順番としては《少年》と《駅の主》の対話パートになる。

 どう返そうか、と頭の中で呟くと一昨日、部室で擦れ違いざまに囁かれた言葉を思い出す。

――負けないからね♪

 それに一文字のユーモアを加えて返信し、姉さんと同じように仲間達の輪へと戻った。



 そんな昼休憩が終わると、稽古前に力仕事をすることになった。

 時代を感じさせる幅広いブラウン管のテレビを、男三人で視聴覚室から運び、舞台に押し上げてひとまず下手袖の奥に置いた。

 脚本には本来書かれないけど、このテレビは駅員室内のオブジェとして使うことになった。

 きっかけは先生と水無瀬先輩の提案で、不真面目な《駅員》を表すのに良いとのこと。実際に芝居のところどころにテレビをだらしなく見る様子を入れていくという話だ。

「よっこらせっと。あー、しんどかった」

 だらしなく若者らしからぬことを呟くトモさんとは逆に、部員の中でも体力がズバ抜けているだろう勇は至って平然としている。

 二人はそのままフロアに下りるけど、出番がすぐの俺だけはそのままステージに残る。

「おや、主演のうちの一人はやる気満々じゃないか」

 パイプ椅子に足を組んで腰掛けている結城先生は、ジャージ姿なのに貫録十分。

「もう一人だってそうですよ」

 午前中は出番が無かった主演女優は、助走をつけてステージに飛び上がる。

 細身の体から伸びるポニーテールが跳ね上がる姿は、絵的にかなり映える。

「元気が余り余ってるか、ならすぐ始めよう。午前とは違い、いきなり通しでやってみよう」

 映画監督よろしく丸めた台本を片手に、トモさんは俺と姉さんを指す。

「さて、いこうか」

 姉さんは軽快に俺の肩にタッチしてから、ステージ中央からやや下手側に立つ。

 隠し事をしていた昨日までとは違い、背筋が真っ直ぐ伸びた凛とした姿。

 俺も負けじと、両手のリストバンドの位置を整えて心を奮わせる。

始めてくれ、とトモさんから開始の掛け声が上がる。

 昨日は舞が演技の途中で倒れてしまったから、他のみんなは気にしているかもしれない。

 なら、主演として名誉挽回しなければいけない。

 昨日より迷いは無い。芝居のこと以外を頭から排除し、最初の台詞をステージへ放つ。

『さっきは、助けてくれてありがとうございます』

 次に続く台詞と姉さんの演技に意識を集中させる。

『あの駅員さんは仕事だからしょうがない。けど、君を含めた四人は招かれざる客かもしれないね。おかげでわたしの予定は水の泡さ』

鼻でくすりと笑いながら《駅の主》は楽しそうに両肩を竦める。

 舞とは違って繊細さは重視せず、アクティブな動きをするのは今までと同じ。

 但し、思い切りの良さ、という意味では昨日以上にメリハリのある見栄えの良い演技。 

『なんだか不思議だね。ふふっ、君とは初めて会った気がしないな。他の人はわたしとこんなに長く会話なんか続かないんだよ、あの駅員さんとかもそう』

 そんな姉さんに遅れないよう、心を奮わせて俺も追従していく。

 自分の演技を見定める冷静な思考で雑な部分を崩し、細かな仕種も丁寧にと心掛ける。

『それは光栄ですね。でも会話が続かないなんて、わからない。少しミステリアスなだけであなたは普通の人なのに。僕はそれを知っている、多分』

『縁があったら、また会いましょう』

 演技の形を取り戻した頃には、すでにこのパート最後の台詞が終わったところだった。

「天野くん、もうちょっと力を抜いた方がいい。自信を持って演技しているのはわかるから、あんまり気負うなよ。そんじゃ次の五人のパートに移っていこう。事務室のセットに戻すぞ」

そんな厳しいコメントに結城先生と水無瀬先輩は何か言いたそうだったけど、トモさんは受け流し短く締め括る。

 姉さんへの厳しさは相変わらず。

 ただ、ダメ出しをするわりにやり直しをさせない。そのせいか、顧問と副部長は何も喋らず互いの顔を合わせて首を傾げるだけで、異論を訴えはしなかった。

今も本来の演技より主張がありメリハリが強過ぎる、姉さんの《駅の主》。

 トモさんは妥協を嫌うタイプの人だから、満足しているわけがない。

 でも、姉さんの芝居だって方向性が違うだけで下手なわけじゃない。

 それに昨日知った事実を考えれば、舞本人が本番を迎えることは止めた方が良い。

 なら発想の転換。姉さん個人の演技では認められなくても共演者である俺が助ければ、二人の芝居としてトモさんを納得させられるかも。それが今はより良い方針なはずだ。

「良し。んじゃ、次も最初から少しずつやってくぞ。定位置に付け」

 それからは午前と同じく全員で切磋琢磨し、全体の完成度を高めていった。

 次のパートも五人での会話が続く。

 前半部は《駅員》からホームの秘密や《駅の主》に関することの説明が中心で、後半部では各キャラクターが解放された駅を去っていく。

 他に芝居内容とは関係ないけど、各キャラクターがホームを出ていくとき、ソファや仕事机といったセットの移動が激しいからそこが大変でもある。

『ここは一年に一晩だけ閉鎖される駅だ。さらに、この異界を作る人間がいてね、駅の主というんだ。ああ、そこの馬鹿なチンカスくんを懲らしめた、あのお嬢さんのことだよ』

 説明役でもある《駅員》はここから台詞が多めになる。

 今までにない長い台詞に加えて《駅員》という役の雰囲気も維持しなければならないため、水無瀬先輩は最初苦しんでいたけど、何度かの繰り返しでしっかり形にしていた。

『なんだそりゃ意味わかんねえよ。漫画や映画じゃねえんだ、あんたらだってそんな話、鵜呑みにすんのかよ?』

 勇は《不良》の演技自体に、今も試行錯誤を繰り返している様子。

 水無瀬先輩や綾と比べれば完成度は劣るものの、遅々とした変化ながら着実に上達している。少なくとも俺にはそう見えた。

『でも何も事情が無いなら、その駅の主とかいうのだってこんな状況作らないでしょ。わたしやあんたらが、このホームに居座ってるのと同じよ』

 綾は無理のない演技で《家出娘》を着実にこなしていく。

 昨日の段階で完成度が高かったし、初出演組の中では一番上手いと思う。

 但し、綾にはナレーションというもう一つの役割がある。これと同時進行でこなしていくのは他の出演者とは違った苦労があるのは、綾本人が一番わかっているだろう。

『つまりその……その主とやらが、この閉鎖された空間を作り上げている。しかもその理由が幼い頃に失った姉妹の弔い、ってことかい?』

 部長であるトモさんの演技は抜群の安定感を誇っていた。昨日と変わらず、演者自信が普段から放つ風格、それが《おっさん》という役に厚みを持たせている。

 それだけでなく部員達を指摘しながら、みんなと相談しながら細かいことを決めていく。

 上の立場で胡坐を掻かず、部員達を牽引していくところはかなり尊敬する。

 そんな五人が一体感で結び付いた時間が過ぎていく。

 最後にこのパートの通しを一度だけ終えると、すでに夕方に近い時間になっていた。

「このパートはひとまず良しとするか。休憩しよう、おつかれっ」

 パンパンと、小気味良く両手を打って部員達を労う結城先生。

 出番があった全員の顔に疲労が浮かんでいた。重たい足取りでみんながステージから降りていく中、俺は一人でステージ上に残った。

「潤、あんた疲れてないの?」

 いつもより声に覇気のない綾が、ステージを降りない俺に声を掛ける。普段は疲れを知らぬ元気印も勢いが弱く、心なしか緑のウィッグも垂れているように見えた。

「少しはね。ただ出番は毎回あるけど、長い台詞も無いからさ」

《少年》という役は主人公であり出番こそ多いけど《駅の主》との対話以外は、他のキャラクターに振り回される状況ばかりだから苦労する部分は少ない。

「あと少し休んだら、ラストを通しでやっても平気です」

 言うねー、とフロアで大の字になって寝ているトモさんは、からかい半分で口笛を吹く。

 次は最後のパートであり、物語の核心に迫る部分。

 駅のホームを閉鎖していた《駅の主》の真意がここで語られる。

 幼い頃《駅の主》には双子の姉妹がいた。二人は外見上の差が無く雰囲気もよく似ていて、両親すら間違えるほどだった。他者が誰も見分けられない状況で育った二人は、物心付いた頃には互いが姉なのか妹なのか、わからなくなっていた。

 そんな奇妙な状況が続く中、二人の精神は次第に壊れ始めていく。しかしある日の晩の終電間近、姉妹の片方がやってくる列車に向かって身を投げてしまうのだ。

《駅の主》は生き残った姉妹の片割れであり、今も自分が姉か妹かわからないまま。

 そして何の因果か、残された方は片割れが死んだ日の夜に限って、ホームにいる他人を隔離できる空間を、年に一度だけ構築できるようになった。

 それを《駅の主》は毎年欠かさず続けている。

 失った自分の半身を忘れないように。

 そんな事情に対し《少年》が、ホームにやってきた者達が知る情報や考えを元に彼女が姉と妹どちらなのか解明するのが、このラストパートの主な流れ。

 そこで俺が気掛かりなのは、シナリオ自体じゃなく《駅の主》の設定だ。

 姉妹の片方が死んでいるという過去。

 それは、今の姉さんと舞の状況を考えると嫌な連想をしてしまう。

 そこが不安だけど、昨日姉さんと話した限り全く気にしていないようだった。

ならパートナーである俺は信じて見守るべきだろう。

「それじゃ、あと五分したらラストパートを始めよっか?」

 結城先生はメガホンを手に取り、主演二人に大きい声で聞く。

「はいっ、わかりました」

 けどそれに対する返事は一つ、俺だけだった。

「おーい、主演の天野舞さーん?」

 先生は再び聞き返すけど、相手は無反応。

「ちょっと、ちょっと、天野さんってば」

 勇に肩を揺らされ、姉さんは「はっ、はい!」と引き戻されてビクっと顔を上げる。

 初心者がいる五人のパートに稽古時間を割いている状況だから、どうしても《駅の主》役である姉さんは暇になる。きっと、ボーっとしていたのだろう。

勢いがあった午後一番とは違い、とぼとぼと亀のようにステージ上る姉さん。

「最後はきっちり決めよう」と俺は声を掛けた。

 けどそこにあったのは、満ち満ちた不安に瞳が揺れて迷っていそうな表情。

「う、うん。大丈夫」

 何も聞いていないのに一人で「大丈夫」と言われたら、ますます心配になる。

どうしたのだろう、明らかにおかしい。

 この得体の知れない姉さんの動揺がわかっているのは、近くで見ている俺だけだろう。

「おっ、お願いします!」

 そんな俺の心配をよそに、姉さんは定位置について瞼を閉じた。何かを振り切るように大きく長い深呼吸をしてから、体の力を抜いて始まりの時を待つ。

 どうする?

 直前のあんな頼りない様子を見せられたら、共演者であるこっちが不安になる。

 そんな状況に容赦なく「始めてくれ」とトモさんお決まりの合図が上がる。

仕方ない。心配だけど、今は芝居に神経を集中させる。

『また会ったね、こんばんは』

 俺は柔らかく首を傾けるだけの会釈をして、最初の台詞を投げ掛ける。

 その後、やや長めの間が空いてから《駅の主》はゆったり(・・・・)とした動作で振り向く。

『巻き込んでしまって悪かったね。でも解放されたはずだよ、君も含めて全員さ』

 その瞬間、強烈すぎる違和感が電気のように頭の中を走った。

 緩やかで詠うように喉から放たれるその台詞。この雰囲気は、これは。

『そう、みたいですね。僕以外はみんな帰って行きましたよ。ワケありの人達もいていろんな話が聞けて、楽しかったです』

嫌な予感を押し殺し、俺はどうにか台詞を繋ぐ。

『当たり前だけど人間にはそれぞれの物語がある』

 鮮やか、水の流れのように透き通っていて捉えどころがない。

 観客はその囁きに惑わされ、弄ばれている感触になる――そんな常人離れした妖艶な動作。

 間違いない。今は姉さんじゃなく、舞に切り変わったのだ。

『己を維持するか、逆に変革を望むか。他者を求めるか、逃げるか。事情は様々さ』

 芝居が始まる前に見た危うい様子にも納得がいくと、不安と心配は何倍にも膨れ上がった。

『それは、君やわたしとて例外じゃない』

 創平さんと姉さんが言っていた、今の舞はまだ精神的に弱く負担を掛けてはいけないと。

 演劇なんていう神経を磨り減らすことは、本来ならタブーのはずだ。

『だから君も、本来向かうべき自分の物語に戻りたまえ』

『もう戻ってますよ。他の人達の話は聞き終えたから、すでに僕の物語は始まっています』

 昨日のようにいつ再び倒れるかわからないから、普通なら止めさせるべきだ、普通なら。

『何を言っているの?』

 でも、一つの体の中に宿る舞と姉さん二人の中で折り合いがついたから、こういう状況になっているのだろう。

『だって僕はあなたに会うためにこの駅へ来たのだから……いや「あなた」って呼び方も他人行儀かな』

 二人の決意を無碍にしたくはない。だから俺自身も覚悟を決めようとした矢先、

『さっき、もだけど』

 左足を軸にゆったりとこちらに振り返ろうして――

『それ、どういう』

 前触れも無く、膝が折れるようにガクリと力無く曲がった。

 ほんの一瞬の揺らぎ。同時にその先、昨日の墜落していく舞の姿が脳裏を霞める。

「危ないっ!」

 瞼は今にも閉じてしまいそうで、舞はその場で膝を付く。

 昨日とは違って非現実的な光景に圧倒されることなく体が動く。

前髪が浮き上がり、ぐらりと前のめりに倒れようとする上半身を、俺は咄嗟に支える。

 掴んだ両肩は存在感が希薄で、ただでさえ細身の体が俺の不安に拍車を掛けてくる。

「大丈夫か?」

 極力揺らさないように呼び掛ける。

「ごめん」

 表情は苦しさに歪み肩を上下させて荒い呼吸をしながら、弱々しい掠れた声が返ってきた。



 それからは俺と結城先生で支えながら、再び保健室へ舞を連れていった。

 意識ははっきりしているから、体育館では昨日ほど切迫した雰囲気にならなかった。

「とにかく安静にしていなさい。野川君は今日も付き添いね」

 結城先生はそんな簡単な指示を主演二人に出すだけ。

 ただトモさんの方は歯噛みするような苦い顔をしていた。

「今日も休んでろ。先生には天野君はたまたま体調が悪いだけだと、強引に誤魔化しておくからな」

 結果として俺達は何も聞かれず、二人は体育館へ戻っていった。

 そんな寛大な処置……いや、過ぎた気遣いだ。

 昨日は、舞が倒れて夕飯に至っては別行動。

 今日も、主演二人が稽古を抜け出し保健室に来ている始末。

 何か事情があると、みんなに感づかれていないわけがない。主演二人がこの体たらく、その一人として申し訳ない気分になる。

「今も舞のままか? それとも姉さん?」

 廊下から響く足音で二人が遠くへ離れたことを確かめてから、俺はそう話し掛けた。

「うん、ボク(・・)だよ」

 姉さんの一人称は「あたし」だから、切り替わらず今も舞みたいだ。

「具合、少しは楽になった?」

「昨日は床に激突しちゃったから、あんなことになったけど、今日は随分まともさ」

 舞はゆっくり体を起こし、両手の手首を逸らす華奢なガッツポーズを取ってみせる。

 空元気だろうけどそんな舞の仕草につい笑ってしまい、俺はめくれた布団を掛け直す。

「まだ落ち着いてなきゃダメだ。今は少しでも安静にしよう」

「すまない……世話を掛けるね」

 するとなぜか自分の胸元を抑えながら、舞は再びベッドの中に戻っていく。

「この後、少ししたら夕飯だけど、調子悪いようだったら持ってくるよ」

「ふふ、なんかすごく優しいね。これなら許してあげても良いかな」

 掛け布団を引っ張り鼻と両手で口元を隠しつつ、何かを含む楽しそうな流し目で見られる。

「えっ、何を許すって?」

「そりゃあ、さっ」

 ベッドの中でモジモジと自らの体を抱き寄せ、なんだかしおらしく目を逸らされる。そして確信犯的な含みを湛えつつ、

「昨日、ボクの胸触ったこと」

「なっ」

 ちょうど二十四時間前、この保健室で起こった事が瞬時に頭の中で再生される。

 慌てて被さってきたから、つい受け止めてしまった。あのとき、表に出ていた意識は姉さんだったと思うけど、体自体は舞であることに違いないわけで……

「ちょ、ちょっと、潤くん。冗談半分だよ、本気にしないで真っ赤になり過ぎ! そんなこっちも恥ずかしくなっ、ちゃう」

 舞は考え込む俺に対して両手をバタつかせた後、徐々に頬を赤くしながら俯いていった。

「ご、ごめん」

 煩悩に負けないようとしたら、逆に居た堪れない空気になった。

 夕日の紅が差す保健室は他に物音一つしないから、今の俺達には静か過ぎた。

 変に意識してしまうけど、先に固まった雰囲気を動かしたのは舞だった。

「さっきね、澄香さんにも同じこと言われて「今は休みなさい」って怒られたのさ」

 舞自身の口から姉さんの名前を聞いたのは、これが初めてだと思う。

「二人してボクに同じこと言うなんて、潤くんと澄香さんは本当に仲の良い姉弟なんだね」

「真っ直ぐ言われると、なんか……かゆいね」

 おかしなことを言っただろうか「ふふ、何さそれ」と口元を抑えて楽しそうに微笑まれる。

「澄香さんって愉快な人だよね、明るくって落ち着きなくって、いつも動き回ってる感じ」

「弟として、返す言葉もございません。あなた様の体をお貸し頂いていることにも、感謝感激雨霰でありまして、不遜な姉に変わりまして深くお礼申し上げます」

「良いではないか、苦しゅうない」

 ふざけた謝辞を告げると、時代劇の殿様の如く満足そうに舞は何度か頷いた。

「迷惑掛けたりする時ない? あの人、たまにハメを外し過ぎる時あるからさ」

「おっと。今の、澄香さんここで怒ってるよ」

 掛け布団の上から自分の左胸、心臓の辺りを指差す。

 既視感。それは昨日の夜、お店で姉さんも似たようなことをしていたから。

「ボクみたいな騒いだりするのが苦手な人間とは相性良いと思う、陰と陽みたいなものでさ。あと、ボクはお姉ちゃんっていないから、なんか新鮮で楽しいよ」

「姉さんも言ってたけど、仲良いみたいだよな」

「うん。でもね、澄香さんは日頃の癖とかをボクに近付けようとしてるんだよ。取り繕わないと、鐘ヶ江先輩とかは怪しむかもしれない。そのせいかあれでも結構無理を……してはないかな、楽しそうだし。でも疲れはしてるのさ」

 普段演劇部のみんなといるときの姉さんは、本来の素の性格とはかなり違う。

 でも舞の言う通り、姉さんなら逆境を楽しむことぐらいしかねない。

「こんな不思議な状態だけど、よろしくね。ボクからも直接言いたかったのさ」

「ああ、よろしく。何が出来るかわかんないけど、俺もこれから協力していくよ」

 昨日までと違って見えない隔たりが無いから、本当に昔に戻れた気分で心が安らぐ。

「それと騙すようなことしてて、今までごめんね」

「いいんだ。こうして話が出来るだけでも嬉しいからさ」

 申し訳なさそうに謝る舞に、今は何の疑念も不安もないと示す。しかしそれでも、その表情は必要のない自責の念に囚われているようだった。

 そんなに自分の心を責めないで欲しい。だから俺は静かに片手で、舞の頬に指先でそっと触れた。不思議そうに首を上げる舞、その微かな接点から温もりが伝わってくる。

「思いつめないで」

 言葉通りの願いを込めて、今も現実を恐れるその心が壊れないよう、掌全体でゆっくり耳から頬、口元まで何度も撫でる。

 落ち着かせるようにそれを何度も続けると、舞の表情は次第に和らいでいった。

「潤くん。キミは昔からそういうこと平気でやるもんね。しかも無自覚……」

「えっ?」

「なんでもない……ほらっ、もう手を離して。中で、澄香さんニヤニヤしてるんだから!」

 頬に触れる俺の手を払い、掛け布団を引き寄せて舞はベッドの中に引き籠ってしまう。

 どうやらまた姉さんが何かちょっかいを掛けたらしい。

 持ち前の自由な性格ゆえに人で遊ぶのが好きな姉さん、あの人と意識を共有して生活するのは大変だろう。

 そんな肩の力が抜けるやり取りをしながらも、俺達がいるここは保健室という事実を忘れてはいけない。だから、一応は念を押しておかないといけないだろう。

「あとさ、無理のし過ぎは止めてくれよ。あまり体力が続かないっていうのは聞いたよ」

 本心では、それをあまり言いたくはなかった。

 無理を承知で舞台に立とうとする舞の胸中を察すれば、それは酷な言葉なのだから。 

「それにさ、姉さんはノープロブレムとか言ってたけど、二人の状態を考えたら《駅の主》の役はやって欲しくない気持ちもあるんだ」

「役に関してはボクも大丈夫だと思うよ、心配ないさ」

 鼻で微かに「ふふっ」と笑われるけど、その意図が俺にはわからない。

昨日の姉さんもだけど、二人の根拠の無い自信はわからない。まだ振り回されてる気分だ。

「でも」

 頭まで被っていた掛け布団を口元まで戻し、舞は再び浅く顔を出す。

「ボクは潤くんとの『約束』を果たせなかった。だから今度こそって」

 それは昨日もこの場所で、一瞬だけ垣間見えた表情だった。

 余裕は欠片もなくて、悲愴と焦燥に満ち満ちている。まるで、見てるこっちまで切なくて胸の奥が苦しくなってしまそうなほどに。

 そのいつ折れてしまうかわからない危うさが、怖い。

「あのな、よく聞いてくれ。昨日は冗談にならないくらいやばかったんだよ。今日もあんな調子じゃ、心臓がいくつあっても足りない。心配だ」

 今日は倒れ掛けても、偶然受け止められたからまだいい。けど毎回、運良く怪我をしないとは限らない。

「ごめんなさい」

「優しくするのだって、当たり前だ。そうでもしなきゃ……消えちまいそうで、怖いから」

「でも、ボクは諦められない。やらなきゃ」

 決意の声には、悲哀が漂っている。

「俺は舞とまたこうやって話せるようになっただけで満足なんだ。それ以上は望まない」

 数年前から心の底に封じ込めていた切望、それがまた無くなるのなんて耐えられない。

 もう失うのは嫌なんだ。

「でもこれ以上、一人でおいてけぼりは嫌だもの」

 舞はそれを最後に、またベッドに潜り込んで眠りについた。

 その言葉が何を意味するのか、このとき俺にはまだわからなかった。



 あれから少しして舞、ではなく姉さんが目を覚ました。

 夕食だから家庭科室に来るように、と綾からメールが来ていたし丁度良かったけど、少しだけ問題があった。

 昔から姉さんは寝起きが悪かった、それは体が変わっても同じらしい。

 ベッドから引っ張り出すのに苦労したものの、どうにかみんなが待つ家庭科室へ連れ出せた。

 みんなと合流する前に姉さんと話したいことはあったけど、今は仕方なく断念した。

「主演二人、ゆっくりし過ぎだろ。これで保健室のベッドの匂いまで変だったら、天誅だな」

 などとトモさんから下品に煽られる。

「さいてー、お下劣クズ野郎。発想がマジ終わってる」

「品性が欠片も無い、情けない。こんな人がどうして部長なんでしょう?」

「出過ぎた杭は打たれないからな。部長、今のを生徒会や教師陣に言いふらしても良いな?」

 綾と水無瀬先輩と結城先生、三人は「死ねばいいのに」という視線の矢を打つ。

 女性陣からの容赦ない批判に、鋼の心を持つ我らが生徒会長様も折れたのか、やせ我慢をしながら顔を歪ませていた。

 そんなやり取りのおかげか空気が軽く、俺と姉さんは自然と食事の輪に入れた。

そ の後は一昨日と同じく、特に騒ぎもせず明日に備えて全員お開き。

 でもその後もまだ心配だったし、他に誰もいないところで話をしたかった。だからシャワーが済み次第二人で落ち合うことにした。

 ただこの場合、三人と表現するのが適切なのか。ややこしい。

 部室棟と教室棟を繋ぐ渡り廊下を一進み、入学式の日に駆け上った屋上へ続く階段を上る。

 あの日抉じ開けた扉をそっと開けると、微風に乗った冷たい夜気が心地良く全身を撫でた。

「ようやく来た。遅いぞ」

「あれ、早かったね」

 陽気に手を振って迎える様はとても姉さんらしい。

 けど昼間のカジュアルな服装とは違い、今はポニーテールを解き、薄着の上にクリーム色のカーディガンを羽織っていて、この服装は舞のイメージに近いなとも思った。

「全く、さすがジゴロ。女を待たせるのだってお手の物か」

「ジゴロって何さ?」

「二人っきりであんなに女の子のほっぺを撫で回すなんて……我が弟ながら、とってもエッチだった。でも嫌いじゃないわ!」

「我が姉ながら、下衆なお考えですな」

 言い返すと「ほっとけ」と姉さんは子供みたいに舌を出してそっぽを向く。

 そんな調子でずっとふざけていたいけど、本題を話さないわけにもいかない。

「舞の具合、今はどう?」

「今も少し元気ないけど、夕方に比べれば大分回復したよ。明日は元気だと思う」

 酷い状態ではないみたいだから、ひとまずは安心か。

 ただそれでも聞いておく、というか釘を刺しておく必要がある。

「どうして止めなかったの?」

 やっぱりその話か、と待っていたかのように頷く。

「舞に負担を掛けちゃいけないのは、俺なんかより姉さんの方がわかってるはず。創平さんにも無茶をしないように言われてるんでしょ?」

 そんな俺の言葉を聞いても、姉さんは何も答えずじっと物思いに耽っていた。

 しばらくすると「はあ」と重たい溜息をつき、金網に寄り掛かり音を立てて揺らす。

「あたしも驚いたわよ、こんなのは初めてだった。ちゃんと聞いてね、突拍子もないこと言うからさ。端的に言えば――」

 今更どれだけ突飛なことを言われても、

「あのとき、舞ちゃんに体の主導権を強制的に取られたのよ」

 驚かないつもりだった。

「昨日はあたしが舞ちゃんに出番を譲ったけど、今日は違う。あたしは退かされたの」

「なっ、なんだよそれ……穏かじゃないね」

「理屈は全然わかんないけど、いくら魂が弱っていてもこの体は舞ちゃんのもの。だから主人格である舞ちゃんが強く望めば、副人格であるあたしを引き摺り下ろせるんじゃないかな」

 そんな物騒なことを平然と姉さんは口にする。

 専門的な用語はわからないけど、それは舞にとって危険なことには違いないと察する。

「それじゃあ、舞はこれからも出番が来たら、姉さんを押し退けて自分で芝居をするかもしれないの?」

 俺の言葉を否定できず視線を下げる姉さんに、底知れぬ不安を感じた。

 今は姉さんと話しているけど、俺の声は内側に潜んでいる舞にも聞こえている。

 だからその幅の狭い両肩を掴み、胸の奥にある心臓目掛けて話し掛けた。

「舞、聞こえてるんだろ? そんな危ない真似は止すんだ! 芝居や本番だって姉さんに任せればいい。もし取り返しのつかないことに」

「止めなさい! さっき舞ちゃんと、もし負担が大きくて危険だと感じたら止めるように、とは話しておいたわ。そんなに責めないでいてあげて」

 そう姉さんに諭されて、両肩を掴む手の力を緩める。

「この体にいると舞ちゃんの気持ちが伝わってくるのよ、言葉じゃなく感情が直接ね。だから芝居を自分でやり遂げたいって思いが痛いほど伝わってくるの。だから今日は何も抵抗せずに好きにやらせちゃったとこもある。だから、半分はあたしの責任よ」

 舞を庇う姉さんには悪いけど、責任だとかはどうでもいい。

「でも、こんなことが続いたら」

「これからは、あたしだって目を光らせておくわ。でも潤はこの子を信じてあげないと。あなたが信じないで誰が信じるの?」

 二人が抱える身体の事情はわからない。俺には手が届かないからこそ心配だ。

 もう舞には芝居をやって欲しくないことには変わりない。

 ただ姉さんの言う通り、その意志を捩じ伏せて安直に否定するのは間違いな気はする。

「そうだね、わかったよ。でも俺は何もできないから……姉さん、舞のことは頼むよ」

 そっと背中に腕を回されて「了解」と言いつつ、背中をポンポンと優しく叩かれる。

「そろそろ行かなきゃ、みんなに怒られちゃうかも」

「待った」

 まだ一つだけ聞きたい事があったから、屋上から戻ろうとする姉さんを引き止める。

「あのさ……舞のことも心配だけど、姉さんの具合はどうなの?」

「大丈夫。平気よ、ありがと」

 そう聞いてみると、動揺もなく短い言葉が返ってきた。でも返事までにあった一秒程度の間が、理性によって保たれたものに思えた。

 姉さんは錆びた鈍い扉を開けて屋上から去ろうとする。

 だから俺も続こうとする。けど、なぜか片手を真っ直ぐに伸ばし、力強く突き出された。

「ストップ! 一緒に行ったら、二人きりでいたってバレちゃうかもしれないじゃない」

「それは今さらでしょ。もうみんな勘付いてる、意味無いよ」

「意味無くても大事なこと! 配慮があるだけで他人の見る目は違う、せめてもの誠意よ」

 くるりとその場で翻るように振り向いてから、閉じる扉の後ろから顔を覗かせる。

「潤は昔より強くなったね」

 一方的にそんな言葉を残して姉さんは去って行った。

「そんなことない。ただ後悔してるだけだ」

 謙虚な言葉じゃなく、本当にそう思うことを一人屋上で口にした。



 五月四日火曜日、合宿開始四日目。

「大雑把な指摘は昨日までで済んでいるから、パートの切り替わりでアドバイスはするが少しずつ通しに慣れていこう。それにステージ側とナレーションとの噛み合わせも、そろそろ試しておきたいしーーーなっ?」

 トモさんは語尾を伸ばしながら、その矛先を自らの妹に向けた。

「任せなさいよ。結城先生にも太鼓判押されてるんだから」

 自慢のウィッグを揺らし強気に啖呵を切る綾は、ステージ裏の階段から上った 先にある放送室に一人で入っていく。

 それは期待を裏切らないものだった。

『ここは最終電車が去った真夜中のホーム。今日の役目を終えたこの場所に訪れるのは、日常から乖離した人間達。そして彼らを引き寄せたのは《駅の主》と呼ばれる、一人の少女だ』

 各パートが始まる前とラストに必ず入るナレーターは物語の語り手。

 物語を進めていく役割だから、雰囲気作りとしてかなり重要な役割だ。

 スピーカーから出る声を聞くと、綾はそんな役割をきちんと理解していると感じた。

 聞きやすい透明感のある声が、真夜中の駅という退廃的な設定に良く合っていた。

 それは体育館内に対して発するだけでなく、ステージにいる役者達の高揚にもなり、おかげで全員がより集中し演技の質も一段深くなっていた。

 しかし逆に、今も解決していない部分がある。

 姉さん演じる《駅の主》の主張が強い動きに、トモさんは未だに満足してない様子だった。

 姉さんの《駅の主》は舞とは違い、頻繁に《少年》と目を合わせようとする。

 舞の《駅の主》を妖精とするなら、姉さんのそれは道化師のような印象。

 でも何度も見るうちに、これも《駅の主》として成り立っていると思えてきた。記憶にある《駅の主》と特徴が真逆だから受け入れ難いだけで、先入観無しで見れば良い演技だ。

 そう自分の中で折り合いが付くと、それからの芝居は楽しかった。今までは以前とのズレが常に念頭にあったせいか、袖が釘に引っ掛かるような感触がずっと続いていた。

 今は何も懸念無く動ける。

『この駅に吸い寄せられたのは、一歩踏み外せば道を違えていた人間ばかり。この奇怪な駅に迷い無き者はやってこない。但し、もし自分ではわけがわからず、解決できない何かに翻弄されているなら、真夜中の寂れた駅を探してみては如何でしょうか?』

 ラストシーン後の綾のナレーションをもって、そんな本番でもないのに充足感に満ちた時間はあっという間に過ぎた。

 唯一の心残りは、出来るなら舞と主演をやり遂げたかったこと。

 でも、あんな不安定な状態なのにそれを望んではいけないし解決すべき問題は大き過ぎる。

 だからこの舞台は姉さんに任せて、舞には安静にしていて欲しい。

 またいなくなるのは絶対に嫌だから。

「よーし、んじゃ昼休憩。みんな良かったぞ」

 両手を叩きながら、号令のような声を掛ける結城先生はハツラツとしていたけど、それとは逆に部員達は憔悴していた。

 そのせいか昼休みは昨日までと違い、とても静かで全員がぐったり休んでいた。

 午後も、午前と同じ方式で進んでいく。トモさんや先生からの指摘は減って、午前よりも早いスピードで進んでいく。最初から最後まで一周終えた頃には、もう本番に臨めるレベルだと感じた。

「そんじゃ一切止めない完全な通し稽古、一発いってみようか」

 そのトモさんの提案にほぼ全員が一つ返事で応える。唯一勇だけが動揺していたけど、俺がその垂れ下がった肩を叩いて励ますと、徐々に復活していった。

 いざ通し稽古を始めてみると、最初は全体的に硬さが目立った。ただ後半になるに連れて慣れてきたのか、徐々に全員が午前と同じ動きに戻っていった。

 これならば合宿最終日である明日でしっかり詰めれば、良い舞台になると思う。

 パイプ椅子に座る結城先生が見守る中、細かなミスはあっても途中で止まることなく最後のパートである《少年》と《駅の主》の語り合いに入ることになった。

『一人一人、また一人と迷い人達は去っていった。残るは己を一切語らぬ少年と、この異界を統べる少女――』

 綾のナレーションが始まることで、自然と集中力と高揚感を高まっていく。

 時間からして、今日の稽古の締め括りだから気合を入れて最高の仕上がりを目指そう。

『また会ったね、こんばんは』

 自信をもって出した台詞の手応えを感じつつ、続く相棒の台詞を待っていると、

『巻き込んでしまって悪かったね。でも解放されたはずだよ、君も含めて全員さ』

 おかしい。

 出だしの台詞が始まってから終わるまでに、違和感が不安に塗り変わる。

 この合宿が始まってから、もう三度目なのだから間違いない。

再び、姉さんから舞に切り替わった。

 抑揚がない滑らかな声と繊細で緩やかな動き、誰より近くで触れてきたからすぐにわかる。しかし今はその美しい演技が、逆に脆さに思えてしまう。

 表に出していないけど、きっと今までみたいに無理をしているに決まっている。

『当たり前だけど人間にはそれぞれの物語がある』

 瞬きした次の瞬間に崩れてしまいそうで怖い。

 しかし《駅の主》の静かで妖しい眼の奥には絶対に演技をやり抜こうとする決意があった。

『もう戻ってますよ。他の人達の話は聞き終えたから、すでに僕の物語は始まっています』

 どうする? 台詞を繋ぎつつも迷う。

 舞だって自分の状態がわかっているはず。それに体の中で意志が通じている姉さんが、何も話さないわけがない。二人の決断を裏切ってでも、形振り構わず止めさせるべきか。

『何を言っているの?』

『だって僕はあなたに会うためにこの駅へ来たのだから……いや「あなた」って呼び方も他人行儀かな』

 けれど今日を締め括る通し稽古の真っ最中。今この場で中断すれば、演劇部のみんなに対してさらに迷惑を掛ける。トモさんへの恩や、主演としての責任もある。

 様々な考えが頭の中で交差して、決断を躊躇っていると――

『さっきも……だけど』

 昨日と同じ場所だ。

『それ、どう』

 朦朧とした表情のまま無理に振り返ろうとする。

 バランスを崩して墜ちていく上半身を、俺は咄嗟に受け止めようとして――踏み止まった。

 長い後ろ髪を乱しながら、体育館中に響き渡るほど強く右足でステージを踏み付けて、主演女優はその場に静止する。

 唐突なその動きに体育館の空気が一変した。

 舞台袖にいるみんなと放送室にいる綾、その全員がこの雰囲気を感じ取っただろう。

 主演女優はこめかみから汗を垂らし、息が荒いまま動かないでいる。

 主役を担う天ノ川コンビは三日連続で芝居を中断したと、その場にいた全員が察した。



 きっと意識を失って倒れる寸前に、舞から姉さんに切り替わったのだろう。

 その後、姉さんが「もう一度やらせて欲しい」と、頭を下げてみんなに頼み込んだ。

 誠意ある後ろ姿を見て、俺も同じようにみんなに謝った。

 芝居を最後までやり通せない主演なんていらない。同じ役をやった経験があって熟練が高いから許されているだけだ。もし演技力がお粗末ならとっくに降ろされている。

「そんな場合じゃないだろ。今日も……もしかして、体が弱いのか?」

 結城先生はトモさんを怪訝な眼差しで一瞥してから、姉さんの両肩を支えて心配する。

 確か昨日、舞を保健室に連れて行った後にトモさんは「誤魔化しておく」と言っていた。だから先生はそれに対して疑っているのだ。

「体は大丈夫ですから、お願いします!」

 水面下での顧問と部長のやり取りも構わず、姉さんは頭を下げ続けた。

 すると真摯な態度に結城先生が折れてか、最後のパートだけもう一度やることになった。

 結果、きちんと最後までやり終え、みんなの表情にあった不穏な陰りも薄まり、少しは信頼を取り戻せたように思えた。

 これで最悪の状態で合宿最終日を迎える事は避けられた。

 そんな形で今日の稽古は終わったけど、主演女優だけは結城先生に呼び出された。

 二日連続で保健室に行き、今日も様子がおかしかった。だから、顧問として見過ごせないのは当然だ。

 でも話自体は短かったようで、姉さんが職員室から出てきたのはほんの数分後だった。

「おつかれさま、どんなこと聞かれたの?」

「体のこと。三年間眠ったままで、その後遺症とか残ってるのかって聞かれた」

 覇気の無い声でそう話す。結城先生は教員で演劇部の顧問、事情は知っていて当然か。

「そんなことより、ちょっと来てっ!」

 姉さんは沈んだ暗い様子のまま俺の腕を掴んで走り出した。

 しばらく進んでから、そのまま人気の無い空き教室を見つける。

「ど、どうしたの?」

 姉さんは室内に俺を押し込んでから、廊下に誰もいないことを確認し、そっと扉を閉じた。

「いつもは返事があるの。こんなのは初めてなのよ」

 何の話か、その瞬間だけは意味が分からなかった。

 青ざめて暗澹とした姉さんの顔を見て頭を巡らせると、すぐにある予感がした。

 それは俺が最も危惧していたことへと一気に膨れ上がった。

「いくら呼び掛けても、舞ちゃんの声が返ってこないのよ!」

次回、8/7(金)PM10時頃に更新です。

残り3回の更新になります。

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