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ツインアクトレス  作者: 伊瀬右京
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3章(前半)

 結城先生はベッドの上で落ち着いた生徒の姿を見て、たばこの煙を吐く要領で溜息を抜く。

 トモさんが隣にある机に舞の台本を置くと、二人は保健室を後にする。

「お前は看病」

 俺も一緒に戻ろうとしたところ頭を人指し指で押され、保健室の中へ突き返された。

 けどトモさんは最後に、先生には聞こえない控えめな声で「急いで悪かった」と呟き、結城先生の肩を後ろから押しながら、再び体育館へと戻っていく。

 保健室に取り残されて茫然と立ち尽くす。

 俺はステージの上で、倒れたまま意識を失って反応のない舞へ必死に呼び掛けた。

 ただ完全に冷静さを欠いていた俺は誰かに引き剥がされ、その後は結城先生が冷静に介護していた。幸いすぐに舞は目を覚ましたし、救急車を呼ぶような事態にも至っていない。

 することも無く手持ち無沙汰で、ベッドの脇にある椅子に座る。

 窓の向こうで沈もうとする夕日が、その寝顔にやや暗めな紅の光を照らす。少し前には人の心を鷲掴みにする凄い演技をしていたのに、今は無防備に目を閉じて寝静まっている。

「お前が何をしたんだか、わかんないよ」

 窓枠に縁取られた夕日の影を見ながらぼんやり呟くと、

「それは寂しいね」

「うわあっ」

 何の前触れも無く聞こえた声と動いた唇に、椅子から転げ落ちそうになる。

「ビックリし過ぎ、ボクは幽霊でも妖怪でもなんでもないんだぞ。失礼しちゃうな」

 眼を開けた舞は若干不機嫌そうに、ぷいっと俺とは逆側の窓の方へ寝返りを打つ。

「ね、寝てたんじゃないのか?」

「あんな少しの時間じゃ、眠れないよ」

「つまりトモさんと結城先生が出ていくまで、寝たフリをしてたのか?」

 二人だけになった途端に不意打ちを仕掛けてくるとは、イタズラ好きは相変わらずだ。

「ボクには優しくしてくれないんだね。それに比べて、水無瀬先輩とお芝居をしているときの潤くんは随分楽しそうだった」

「おいおい、別にそんなことは――」

「あれだけスタイルいい美人だと仕方ないか。キミはムッツリだし」

 人の弁解に耳を貸さず、昔と同じゆったりとした声で舞は喋り続ける。

「細さならボクや鐘ヶ江さんに軍配上がるけど、凹凸って意味じゃ敵わないし色気じゃ完全に負けてるや。それにシャワー室で見たけど、あれはバランスの良い見事なメロンだった」

 ベッドの中で自分の体を抱きながら、そういうことを遠慮なく口にする。

「だから……女の子としては、少し不安なのさ」

 急にしおらしい声になる、まるでこちらの動揺を誘うように。

「別にそういうのはない。むしろ美人過ぎて、水無瀬先輩は……少し苦手、かも」

「へー、そうなんだ。じゃ今度、水無瀬先輩にそう言っとくね」

「なっ」

 掛け布団のシーツを握りながら「嘘さ」と言いつつ舞は振り向く。

 そんなやり取りが久しぶりで、少し遊ばれてしまった。

でも覗き込むような上目遣いで俺を見るその姿は楽しそうで、どこか懐かしかった。

「逆に、勇はとっつきやすいよ。知り合って日が浅いけど話し掛けやすいし」

「自然な感じだよね。一緒に組み手の練習してる時も、面白かったし」

「面白かったか、平和だな。こっちは昨日、勇の蹴りを始めて見たときかなり怖かったのに」

「あれ演技じゃなかったよね、潤くん普通に怖がってた。実は笑いそうだったよ」

 無防備に笑い出す舞の隙を見て、額を目掛けて素早くデコピンをお見舞いする。

 頭を弾かれて「なんだよー」と文句を言いつつも、その口元は綻んでいた。

「あと鐘ヶ江さんはセンスあるね。とっても器用だよ、さすがトモ先輩の妹」

「それはすごく思う。呑み込みが早いし、トモさんが何もダメ出しをしないなんて珍しい」

「そっか、言われてみれば。ボクはわかりやすいダメ出し受けたのにね」

「俺達は主演だから、厳しく評価されるのはしょうがない」

 あのときのトモさんは怖いぐらいだった。でもそれくらいじゃなきゃ生徒会長と部長の二足草鞋なんて務まらないのかもしれない。

「ひさしぶりだね」

 一昨日からずっと顔は見ていたから、ひさしぶりも何もない。

「そうだな……気の利いた言葉は思い浮かばないけど、うれしいよ」

 でも二人きりは入学式の最中に飛び出したあの時以来だし、野暮なことは言わない。

 舞の穏かな顔を見ると、沈んでいた胸が軽くなって心のしこりが薄れていく。 きっとそれは、昔のような気兼ねない会話を二人で楽しめたからだ。

 けど、そんな楽しい時間に幕が下りるのはすぐだった。

「ごめんね、一人で逃げ出して」

 差し込む夕日が消え失せ、瞬時に暗い夜に切り替わったかのような錯覚。

 舞は掠れた小さい声で喋り、崩れるように伏し目がちになって視線を逸らす。

「謝るなよ」

「ボクの家がどう終わったのか、知ってるんだよね?」

 ふふっ、と唇を引き攣らせる表情に、ほんの少しだけ自虐の影が過ぎる。

 それを掻き消したくて弱々しく狭い両肩を、俺は強く握った。

「でも、舞にはどうしようもなかった」

「だって『約束』もしたのに……自殺しようとしてごめんなさい。ずっと言いたかった」

「そんなのは、いいんだよ」

 表情を隠す前髪を流すためにその額に触れようとすると、拒絶するように怯えられる。

 見られたくないのか、強引だったかもしれない。

「昔は昔。今はこうして無事に戻ってきたし話もできる。それに次こそ、俺達であの舞台を成功させられる。それでいいじゃないか」

 舞に聞きたいことは他にもあるけど、今は問い質す気にはなれない。

 これからは失われた時間を幾らでも取り戻すことができる。それに俺達は叶わなかった夢の実現へ向かっている、それは何よりも望んでいたことだから、今はそれで満足だ。

「ありがとう」

 舞は何かを押し殺しているようで今にも泣き出しそうな、複雑な面持ちだった。

「少し話せて、嬉しかったよ。でも、まだ頭がズキズキするんだ」

 舞はこめかみの辺りを抑えながら「てへへ」と笑う。

「ああ、ごめん。何も考えないで調子乗って話しちまった」

 悲しげに左右に首を振り、最後に「おやすみ」とだけ言い残して再び目を閉じる。

 しばらく待つと、やがて規則正しい寝息と共に舞はまどろみの中へと沈んでいった。

「変わらない、よな?」

 けれど、枕の下から広がる髪の毛は長く、月日の経過を感じる。

 まだ無垢に近かった過去の記憶から回帰してくると、寂しさを含んだノスタルジーが微風のように胸を霞める。一人で塞ぎ込むのは良くない。

 紛らわすために何の目的もなく携帯電話を開くと、昨日の夜トモさんと姉さんの話をしていたことを思い出した。

 公演日は手続きの類をしなくても親族なら入場できるらしい。当日まで一週間もないけど、何もしないよりは良い。


DAY:2010/5/2 17:41

To:野川 澄香

Sub:次の土曜日が本番!

ちょっと今更なことになっちゃうけど、公演当日は「保護者とか家族」って言えば入場できるらしいんだ。だから、もし良ければ姉さん来ない?


 簡単に打ったメールをすぐに送信する。

 外の夕日は保健室に入ったときよりも紅く、地平から差し込む光はさらに眩しい。

 時間も時間、もうすぐ夜だしカーテンを閉めようと椅子を立つ。

 するとその拍子に、近くで床に固い何かが落ちた物音がした。

 足元にはストラップ一つない質素な赤い携帯電話、机にある舞の荷物からズレ落ちたようだ。

 騒がしい音で持ち主は眠りを妨げられ、掛け布団を掴みながら唸る。

 落ちた拍子に開いた携帯電話を拾い上げると、そこには興味を引くものが画面端にあった。

 表示内容ではない。

 ディスプレイ右上の方にある、液晶が潰れて黒く漏れ出た滲み。

――液晶漏れだ~、清浄なる世界が侵食される~

 確か一ヶ月前にそんな内容のメールを見た。

 昨日はトモさんにそれを見せて話を――いや、そんなのはただの偶然の一致。

 愚行を消すために頭を振りつつ、赤い携帯電話を閉じようとする。

 けどそんな俺を躊躇させるのは、ディスプレイ左下に表示される新着メールの知らせ。

 いくらなんでも……それに、人の電話の中を勝手に覗くなんてダメだ。

 本能と理性が衝突し、僅かに手が震え出す。

「ん、んー」

 携帯電話に集中していたから、ベッドで眠っていた舞の呻き声につい驚いてしまう。

 そして気づく。驚いた拍子に、わなわなと震えていた指がボタンを押し込んでいることを。

 思考回路など吹き飛び、何かに取り憑かれたように表示を恐る恐る覗くと、そこには送信者とタイトルだけが並ぶ受信メールの一覧があった。


17:42 潤♪

次の土曜日が本番!


 一番上に表示された欄を見ると、凄まじい何かが脳天から背筋を裂かんとばかりに貫いた。画面を捉える視野は急激に狭まって、呼吸すら乱れる動揺が瞬時に荒れ狂う。

 意味がわからない、これはなんだ?

 遊戯、驚かし、裏切り、内通、騙し打ち、犯罪。

 携帯電話を持つ手の震えは止まらず、支離滅裂な言葉が頭の中を行き交っていると、

「潤くん、今何時?」

 俺の胸中など知る由もない舞が緩慢な動きで体を起こし、眠たそうに目をしばたかせる。

 朦朧としていた意識が徐々に回復し、ふらふらしていた視線が俺の片手に定まると、

「ダメっ!」

 舞は形振り構わず必死に手を伸ばし、携帯電話を奪い取ろうとしてくる。

 その鬼気迫る形相から反射的に身を引いてしまい、俺の腕を舞の手が霞める。

「あわわわわ」

 ベッドに座ったまま飛び出した舞は勢いはそのまま真っ逆さまに床へ落ちていきそうになる。焦って手をバタつかせる舞の体を、俺はすぐさま受け止めるけど、

「ひゃっ」と、跳ね上がった妙な悲鳴。

 携帯電話を握った方とは逆の手には、何かがふわりと指の間まで沈み込んでいた。大きさは掌ほどで、少し温かくて弾力のある柔らかい感触。

「へっ……う、うわあっ」

 舞と自分の姿勢からすぐにその正体を察し、舞の胸からすぐさま手を離す。

 急激に異常なほど心臓が早鐘を打ち始めた。混乱を抑えられない、冷静の二文字がどこかへ吹き飛んでしまう。

「むっつり! エッチ! 変態! 絶倫!」

 恥ずかしそうに身悶えながら、引き寄せた掛け布団で全身を覆い隠す。そして頬から耳まで真っ赤にしながら必死に罵声を浴びせてくる。

「ご、ご、ご、ごめん」

 続け様に起こった事態のおかげで錯乱状態のまま、思うように話し掛けられない。

「見ちゃったの?」

 未だベッドの上に掛け布団と供に蹲っている舞の一声。

「み、見てないよ。事故で触っちゃっただけで、服の上からなんて無理に決まって――」

「違う! そっちじゃない! 落ち着きなさい!」

 そっちよ、と人差し指が示す先は俺の片手の中にある携帯電話。

 息が詰まり喉が動かないから、なんとかぎこちなく頷くことで答える。

 はー、と舞は長い溜息をして頭を抱え込み、長い髪の毛をむしゃむしゃと混ぜこねる。

 しかし数秒後、掛け布団を派手に振り払い、ベッドから勢い良く跳ねて立ち上がった。

「なら、しょうがないか。遅かれ早かれ、打ち明けようとは思ってたし」

 部室での自己紹介で外したギャグ、静けさがなく主張の強い演技、ベッドの上で慌てる落ち着きの無さ、急にその場で立ち上がる突拍子もない行動。

 そのどれもが俺の中にある舞のイメージとは、かけ離れたもの。

 頭上から俺を見下ろす舞の顔は夕陽が背景になっていて影が差し、窺いにくい。

 ベッドから下りて、上履きに踵を合わせてから机の上にある自分の荷物を持ち、最後にただ呆然としているだけの俺から携帯電話を乱暴にぶんどる。

「ある所に出掛けるから、これからボク(・・)に……って、もう演技をする必要はないか」

 なぜか頭を左右に振り切ってから「早く立って」と急かすように手を差し伸べてきた。

「これから、あたし(・・・)についてきて」



 それから最寄り駅で電車に乗った。

 学校を出るとき、部長であるトモさんに話を通そうとしたけど、最初は問答無用で却下されてしまった。しかし彼女が強引に押し通すことで、なんとか許可が出た。

 ゴールデンウィークの夜の六時を過ぎ、都心へ向かう上り電車は空いている。

「頭がズキズキするのは本当なんだ。だから着くまで休ませて、事情はあとで全部話すから」

「本当、ってなんだよ。まるで何かが、嘘みたいな言い方」

 もう一度だけ「ごめんね」と言って、宥めるみたいに俺の横髪を撫でてくる。 そして寄り添う形で頭を俺の肩に預け、彼女は沈み込むように目を閉じた。

 倒れてから起きて、寝てから起きて、そして今も眠ろうとする。忙しいことだ。

 揺れる地下鉄の車内で、保健室での出来事を何度も思い返した。

 支離滅裂で想像の域を出ない様々な推測が脳裏を行き交う。

 そのせいか思ったより時間の経過が早く、気づけば電車は到着していた。

「これから病院まですぐだよ。十分くらいかな」

 改札を出てから出口に向かう彼女の後ろを歩いて、地上に出るとビルが立ち並ぶ大通り。

数分歩くと、やや趣が変わった風景が姿を現す。

 緑に囲まれた品性を感じるいくつもの建物。

 道の端々にある表札とシンボルらしき紋章からこの区域全てが、病院内の敷地だとわかる。それに病棟らしき建物だけでなく、患者への配慮か整備された樹木や芝生があって、瀟洒な煉瓦張りの大学らしき学び舎まであった。

 かなり規模の大きい病院のようだ。

 さらに進むと、他の建物とは比べ物にならない高さを誇る巨大な二本のタワーが、夜天を貫かんと聳え立っていた。周囲の建物は配下の家来だと言わしめんばかりの存在感。

 右には長く太いタワー、左にはやや低く細いタワーが並び、上空で一本の細い通路によって繋がっている。

 そのやや奇抜なデザインは、へその緒で繋がれた母体と胎児を彷彿とさせる。

 中に入って先にあるエスカレーターに乗ると、開けた広いフロアがあった。

 見上げると、天井は高く遠い位置にあり、斜めに伸びたいくつもの鉄筋がクロスするように張り巡らされ、それが格子状の菱形模様を描いている。さらにその先には淡いブルーの照明に彩られた夜空があり、それらが美的な空間を演出していた。

「この建物、病院っぽくないね」

「一応病棟もあるけど、ここだけは他の建物とは違う位置付けらしいよ」

 静かで広いせいか、大理石の床を踏む二人のコツコツという足音がフロア内によく響く。

 エレベーターに乗って上の階を目指す。

 扉の上部に映る階層の表示が動くごとに事の真相に近付いていく。そう思えば思う程、胸の内にある不安の渦が強くなり、緊張と困惑も肥大していく。

降りた後、彼女は重たい後ろ髪を靡かせながら振り返った。

「あたしは、信じてるから」

 片手をぎゅっと握られる。その表情は、俺の覚悟を窺いつつも縋るようで瞳は弱々しい。

「俺も、信じてる」

 空いているもう片方の手で、それを覆い握り返すことで応える。

「ありがとう」

 彼女は重なった互いの手をしばらく眺めて、不安に揺れていた表情を少しだけ緩ませた。

 何もわからないから、信じてやるしかないのが本音。

 だけど、それでも信じてやりたい。

 何部屋分か進むと、彼女は静かな廊下の中で明りが灯る数少ない扉の前に立ちノックした。

 どうぞ、と返事をしたのは野太い男性の声。

「失礼します」と答えてから扉を開けて中に入る彼女に続く。

 まず目に入ったのは、部屋の奥まで所狭しと並ぶ金属フレームで何列も組まれた書棚。

 さらに机に置かれた聴診器や、病院で見る黒い丸椅子もあって診察室にも見えた。

 軽く緩やかに片手を上げて「やあ」と、彼は書棚の奥から姿を表した。

――これ以上縛られるのは良くないからキミは歩き出せ

 その姿を見て、昔彼から告げられた台詞が頭の中を反芻する。

猫背気味の姿勢の上から長い白衣を羽織るため、やや暗いイメージがある。しかし彫りが深い顔とリムレスのメガネも手伝って知的な印象の方が勝っている。

天野(・・)さん、夜分にすいません」

 彼に対して自分の名字を口にし、彼女はなぜか頭を下げて固い挨拶をする。

 しかし彼は「気しないで」と軽い返事をして、机にある椅子の高い背もたれに手を置くだけで座らず、俺に向き直った。

「久しぶりだね、潤くん。突然ですまない」

 彼と交わす挨拶は、去年の夏以来になる。

「こちらこそお久しぶりです、創平さん」

 予測していたことの一つだった。

 去年の夏頃までは、舞が眠る病室で今と同じ白衣姿の彼と度々会うことがあったからだ。

「舞の意識が戻った時点で、創平さんなら何か関係しているかもしれないとは思ってました」

 創平さんは舞にとって、残り少ない親族。

 彼の名前は、天野創平。舞の従兄にあたる人だ。

「落ち着いているね。なら、あとは説明するだけかな。別の部屋の方が説明しやすい」

「わたしは外します。いない方が、話しやすいこともあるでしょう?」

 彼女は一人扉から離れるように本棚の方へ一歩身を引く。

「そうだね。潤くんに全てを説明するには、遠慮のない言葉を使ってしまうかも」

「終わったら合宿に戻ります。あとこのことは、二人だけで話がしたいですから」

 創平さんは納得したように頷く。

「さっき通った一階のフロアで待ってるから、話が済んだら来てね」

 見送ろうとする彼女の姿がおぼろげに見えたから、その手を少し間だけ握って部屋を出た。

 暗めで人気のない閑散とした廊下を、長い裾を揺らす白衣が進んでいく。

 角を右に折れると、最初にあった部屋の前で創平さんは立ち止まった。

「多分、今の潤くんなら余計なおせっかいかもしれないが、一応言っておく」

 白衣のポケットから出した鍵でロックを外すと、ドアノブに手を掛けたまま止まった。

「何を見ても、僕と彼女以外の人間には他言無用だよ」

 念を押すように重い声で告げられた注意を、誤魔化すことはせずしっかり受け止める。

「わかりました」

 すると創平さんはドアノブを捻り、閉ざされた扉を開ける。

 灯りを点けて部屋に入っていく白衣の肩から部屋の中を覗く。

 そこは創平さんがいた部屋とは対象的で、物が少なかった。普通の病室で見るベッドに簡素な戸棚が一つ。さらに白い壁も手伝って良く言えば清潔、悪く言えば殺風景な部屋。

「なっ」

 ただ重要なのはベッドの方で、そこに点滴から伸びたチューブに繋がれたまま眠る女性。

 一瞬、眩暈に襲われる。

 学校の保健室での出来事を考えれば、もしかしたらという予感はあった。

「始めに言っておく、ちゃんと生きている。ただ去年の今頃からずっとこの状態だ」

 幼い頃からよく見知ったその顔は、俺が覚えている活発な印象とは真逆。

 生気が失せてこけた頬は病的で、トレードマークでもあった長い髪の毛は艶を失っている。いつもエネルギーに満ちていた彼女のこんな姿を、俺は今まで見たことが無かった。

「なっ、何で」

 ベッドの傍へ行き、弱った痛々しい姿で眠り続ける彼女を見ると、胸が締め付けられてその場で座り込みたくなる。

「どうして」

 でも今それを我慢しなかったら、何が崩れてしまう気がして必死に堪えた。

「姉さん」

 数年前から離れた場所で暮らしていた姉、そのか細く動かない手を神様に祈るように握る。

 人の頭を撫でることが好きなその手にかつての温もりは無い。

 逆にやや温くて、そのせいでこの体に宿る命が儚いのだと思えてしまった。

「検査は細めにやってはいるから肉体に異常はない……はずだ。無責任な言い方ですまない」

 力及ばぬ自らを責めるその様は、懺悔するかのようでもあった。

「姉さんは、一体どういう……教えてください」

「君のお姉さん、香澄さんはかなり特殊な状態なんだ。だからまずは時間を追って事の始まりから説明するよ」

 創平さんはベッドの足元側に立ち、姉さんを眺めて話し始めた。

「まずは去年の春頃だったかな。澄香さんは度々、あの病院に通うようになっていた。舞が眠り続けていた、以前に君や僕が何度も通ったあそこにね」

 中学二年の夏から舞が入院していた市立病院に、俺は週に一度必ずお見舞いに行っていた。

「あそこに姉さんが……全然知らなかった」

「彼女は最初、潤くんに会いに来たそうだ。君が舞の病室に通っていたのは、ずっと知っていたみたいだからね」

 中学の頃から演劇部や舞のことを姉さんには話していたし、通う病院の場所も教えていた。

「ただ、最初は高校生の君に合わせて土日に来ていたけど、やがてそれを避けるために平日に来ていたよ。僕はあの病院に勤めていたからよく覚える」

「俺を避けるためって……姉さんはやっぱり病気か何かだったんですか?」

 ベッドに眠ったままの姿を見て、そう思うなという方が無理だ。姉さんとは一年前まで度々会っていたし、その後はメールでのやりとりも多かったのに、一体何が。

「いやいや大丈夫、澄香さん自身に病気とかは無かったよ。ただ、彼女が君を避けて通うようになった理由は、二人だけで舞と会うためだろう」

 創平さんは何もない天井を見上げる、当時の光景を思い返すように。 

「重要なのはここからだよ。澄香さんは病室に来ると、眠る舞の手を取るだけだったけど、口では何も語らず心で通じているようだった。そしていつも、満足そうに帰っていった。そんな日が一ヶ月くらい続いてから、澄香さんは少し不思議なことを言い出したんだ。最初の一言は『舞ちゃんは体が動かなくても、心はしっかり生きてるんですね』だった」

 この話の雲行きが変わったことをなんとなく察する。

「それだけなら単なるセンチメンタリズムで済む。けど、その後は舞と実際に会話したかのようなことを、度々呟くようになっていった。澄香さんが知るはずのない、舞の好きな食べ物や苦手な科目、昔の演劇部のことについてね。露骨じゃなく常識の範囲で僕に仄めかす程度の話し方だったが、その内容はどこか常軌を逸していた」

 何も関係ない人間なら、怖くて離れていくところだ。

「澄香さんには妙な印象も無かったたけど、ただでさえ眠ったままの病人相手だ。さすがに訝しく思って、舞に近付かない方がいいと、話そうか考えていたとき……それは起こった」

 昔通い続けていた病院で、そんなやりとりがあっただけでも驚きなのに。

「ある日、舞の病室へ行くといつも通り澄香さんがいて、一緒に眠っていた。しばらくそのままにしておいたけど、夜になっても起きないから揺り動かしたが……彼女は目を覚ますことなく、ベッドへぐったりと倒れてしまった。あのときは焦ったよ、いくら呼び掛けても意識が戻らなくて、何度も呼び掛け続けた」

 冷静な知性を思わせる創平さんの容貌に影が差し込み、その眉間にやや力が入る。

「その甲斐あってか、声が返ってきたよ。ただ、僕の声に答えたのは澄香さんではなくて――ずっとベッドで眠り目を覚まさずにいた、従妹の舞の方だった」

 想像する。ずっと眠ったままでいた舞の瞼が、花開く蕾の如くゆっくりと開く光景を。

「今もはっきりと覚えているよ」

 ただ創平さんが直面したその状況は、純粋に喜べるものではなかっただろう。

「舞は何の変哲もない普通の朝みたいに目を開けて、二年以上動かしていない体を苦しそうに動かして、僕に声を掛けようとした。でもね、自分の体に倒れている澄香さんを見た途端、ありえない物を見たように驚いていた。すぐにその顔に触ってみると、しばらく凍りついていたよ。そして、声を引き攣らせながら――」

 創平さんは喉仏を上下させるほど大きく息を呑んでから、紡いだ。

「『どうしてそこにわたしが寝てるんですか?』と言った」

 心臓が委縮した。

「僕はその言葉の意味をすぐには考えなかった。B級映画や小説じゃあるまいし、真に受けないのが当然。でも舞は澄香さんと僕を交互に見ながら、震えが止まらない手で自分の顔や頭や体を何度も触っていたよ。その後、枕元にあった鏡で自分の顔を見た途端、弾けた」

 全身の血液が冷えて固まる。

「手に届く物をめちゃくちゃに投げて暴れたさ。僕が腕を押さえてしばらく話し掛け続けると舞の様子は次第に落ち着いた。その後真っ赤に泣き散らした目で、縋るように舞は主張したよ『わたしは野川澄香です』とね。まだ融通の利かない体なのに、必死に訴え続けていた。二年ぶりに意識が戻ったから何か異常があっても不思議じゃない。だからとりあえず相槌を打っていたけど、舞の神経を余計に逆撫でるだけだった」

 創平さんを含む周囲が、全て色彩を失い歪んだかのような錯覚に陥る。

「しかし舞の状態はともあれ、倒れた澄香さんを介護する必要があった。すぐに他の先生を呼ぼうとしたが、拒否したのは舞でね『きっと大丈夫、わたしの体は平気です』とアピールされたよ。それからも舞はわけのわからない主張を何度もしてきた」

 創平さんは眠る姉さんの顔を直視することで、過去の記憶をなぞっているようだった。

「でも耐えきれずつい『なら証拠を示せるのか?』と言い返してしまった。そしたら携帯を貸してくれと頼まれたよ。僕が自分の物を渡すと、舞は番号を打ってから画面をこっちに向けてきた。すると澄香さんの鞄の中から着信音が聞こえて、舞が通話を切ると同時にそれは鳴り止んだ……最初は自分の耳を疑ったよ」

 再会してから今日まで接してきた舞と、目の前で眠り続ける姉さん。

「二年以上も意識が無かった舞が、澄香さんの番号なんて知るわけがない。その結果が示すものを、すぐには認められるわけがない。でもね、非現実的な事実から逃げようとする僕を彼女は許さなかった。その後にも僕の目の前で、自分の銀行口座で暗証番号を通したり、住んでるマンションの部屋を示したり、その郵便受けのナンバーを外したりした」

 二人の姿が交互に脳裏を行き交う。

「ここまで言えば君のことだ、把握しただろう。ただ他に事例なんて無いからね、語弊のないようにしっかりと断言しておくよ。こんな表現が正しいかはわからないが――」

 創平さんが口から出る一字一句が、この瞬間だけはやけにゆっくり聞こえる。

「――今、澄香さんの意識は舞の体に宿っている」

 言い下された事実が重く頭に圧し掛かってくる。

 それでも逃げず、嘘偽りない創平さんの言葉を拒否せず全て止める。

「澄香さんの肉体は定期的に検査しているし栄養の摂取も怠っていないから、健康上の問題はない。だが魂の器として中身を失った肉体がどういう状態にあるか……申し訳ない、僕程度の医者では把握しようがない。世界でもこんな症例は無いんだ」

 創平さんは姉さんを見続けながら、悔むように表情を歪ませる。

 ただ、それは若干行き過ぎた衝動が見え隠れしているように見えた。

「この話にはまだ続きがある。次は舞についての話だ」

 創平さんは一度仕切り直すように息を吐く。

「その後は元の病院から転院して、この病室で匿うことにした。澄香さんには他人に悟られないように天野舞として生活してもらいつつ、衰弱した体のリハビリをしてもらっていた。そんな中、澄香さんはさらに奇妙なことを打ち明けてくれた。舞本人の意識と会話出来るとね」

「えっ、会話って」

「三年前のあの事件から、舞はずっと昏睡状態のままだった。僕も君も、舞は一生目を覚まさないんじゃないかと、覚悟すらしていた。しかし舞の魂は今もあの体の中で消えずに存在している。そしてどうやら澄香さんは、舞の意識みたいなものと対話できるようなんだ」

非現実的なことが立て続けに提示されていく。

「それは舞の体へ意識が移る前にも兆候があったらしい。お見舞いに来ていた頃は、眠る舞の手を握ると頭の中で短い言葉が通じる程度だったようだ。けど舞の体に入り込んだ後、それがはっきりとした意思疎通に変わったと話していたよ。香澄さん曰く、目を閉じて集中すると扉のようなものが現れて、その部屋の中で舞と会話するようなんだ」

 姉さんのことだけでも受け止めるのが精一杯なのに、ついていくのがやっとだ。

「しかし当時はまだ、二人は会話のやりとりが出来るだけで、舞本人の意識が表層に現れて活動することは出来ないようだった。なんでも、本人が嫌がって外界との接点を拒否しているという話だ。頑なに拒んで、部屋からは絶対に出ようとしなかったらしい」

「それって三年前のことが」

 創平さんは首を縦に振ってから、過去の記憶を思い起こすように白い天井へ目を凝らす。

「三年前、錯乱した母親が引き起こした無理心中によって、舞は家族を失った」

 その悲劇が、全ての原因だった。

「舞の両親が不仲だったのは、僕ら親戚の人間には知れ渡っていた。だが親族とはいえアドバイスは出来ても直接の解決に関して口を出すのは、みんな憚っていたよ。どちらに非があるという話ではなかったし、二人の仲は末期的で円満な解決を望むのは難しかったから」

 両親のことは中学の頃、舞と何度も話した。

「周囲からの介入がないままの時期が続いたあの日、事件が起こった。両親である二人の口論はやがて暴力へエスカレートし、結果として妻が夫を包丁で刺し殺してしまった。母親はそのままヒステリックになって、舞の兄である息子も殺した。そして部活帰りの舞も殺して、自分も死ぬ予定だったのだろう」

 主演同士の公演という俺達の目標を壊して、過去に縛りつけた悪夢。

 あの事件さえなければ何も狂わず、俺達は平穏に日々を過ごせたはずだと何度も思った。

「しかし舞は家を抜け出し、包丁を片手に追ってくる母親から逃げ続けた。そのときに、舞は遮断機の下りた線路を越えてまで逃げようとして、構わず母親はそれを追おうしたが」

 言い辛そうで、一度重たそうに創平さんは呼吸してから続けた。

「やってきた列車に跳ね飛ばされて、娘の目の前で逆に死んだ。その後は――」

「その先はいいです」

 すまない、と必要のない謝りを入れてくれた。

 今はもう幾分か平気になったけれど思い出す度、昔は胸の中が掻き毟られる感触になった。

 兄と父親を殺した母親の死を見せつけられた舞は、俺へ向けてメールを送った。

 その文面を一字一句たりとも忘れたことなどない。

 それは「ボクのことは忘れて生きて」だった。

 舞はそのあと、町の高台から飛び降りた。

 しかし幸運にも舞は手術後、奇跡的に一命を取り留めた。

ただ体は正常になっても、意識が戻らなくて三年前の夏から昏睡状態がずっと続いた。

 俺はこのことを昔は取り憑かれたように毎日思い返していたし、舞のいるところへ行きたいと、何度も願っていた。

「今まで舞の意識が表面に出て来なかったのはそれが原因だろう。過去の記憶が恐怖となって舞の中に残り続けているんだ」

 当時の事件に関わる舞のことを語り終え、創平さんは天井を見上げていた首を下ろす。

「澄香さんの話に戻ろうか。彼女は体のリハビリが終わってから毎日粘って舞を励まし続けたらしい。その心の中にあるという舞の部屋に入ってね」

 弱った他人を励ますことを諦めない、それは自らの体から離れても変わらないみたいだ。

「去年の秋頃だった。リハビリも終わる頃、いつも通り体の様子を聞きにいったが雰囲気が違っていた。それは澄香さんじゃなく正真正銘、舞本人だったよ」

 そこまで聞いてようやく、今まで疑問に思っていたパズルのピースが埋まった気がした。

「ただそのときは二つ三つ言葉のやりとりだけで、すぐに澄香さんの意識に戻ってしまった。澄香さん曰く、まだ慣れが必要ということだった。ときどき舞が表に出てくる時もあって、回数を重ねると話していられる時間も増えていった。今じゃ、見知った人の前なら何時間も出ていられるよ。ただ人の多い街中だったり、見知らぬ人の前だとすぐに消耗してしまう」

 合宿初日の妙なギャグ、稽古中に演技の質を変化させてから倒れたこと、夕方の保健室での携帯電話、それに創平さんの説明。

 これまでの全てを組み合わせると、今まで理解できずブレていた像がピタリと重なる。

「つまり今は、舞の体で姉さんが主に生活してて、たまに舞本人も表に出てくると?」

 そうだね、と肯定する創平さんの一言を聞くと、改めてとんでもない事態だなと実感する。

 でも不鮮明で靄が掛かっていた部分が晴れて、随分スッキリした。

「これらは二重人格なんてものより遥かに奇天烈だ。人格どころか独立した二つの魂が一つの肉体に収まっているんだからね。人間の魂の所在、それが脳にあるのか心臓にあるのか、シナプスが作る幻想なのか、そんな議論が馬鹿馬鹿しく……すまない、これは話の脱線だな。その後は舞の社会復帰を考えて、中卒検定を取って高校への入学試験、というのが大筋の流れだ。試験とかは二人が協力すれば、苦労は無かったらしい。澄香さんは大人だし、中学二年までとはいえ舞自身も学力は高い方だったからね。あとは、君も知っての通りだ」

 中卒検定というのは言葉すら初めて聞くから、その辺はよくわからない。

 でもその後の流れはわかる。始業式前に鐘ヶ江兄妹とコンタクトをとってストレンジホームでの公演を提案。それから演劇部に参加といったところか。

「それと、この件は病院内でも極一部の人間しか把握していない」

「どうしてですか?」

「理解ある人物以外には、話しても信じてもらえない。あと仮に、こんな珍しい事例があると世間に広まれば厄介なことになると、僕らは危惧している。例えばニュースになったら、間接的に弟である潤くんも窮屈な思いをすることになるだろう。この件を知れば、二人の状態を調べようと接触してくる医学者は後を絶たない。人間の精神、という未開拓な分野を物理的に解明できる糸口。だからこの件は極力内密にすべきだ。一般病棟ではなくこんな部屋を使っているのはそのためさ」

 安易に行動を起こすのは危険だということはわかった。

 でも、それと同時にある疑問が浮かんできた。それは過去に下された言葉に対するもの。

「だからですか?」

 思い返すと苦虫を噛み潰したくなり、湧き出てきた悔しさのせいか額のあたりが急速に熱を帯びていく。抑えきれず爪が沈み込むぐらい拳を握り締めて、思いの丈を吐き出す。

「だから、俺には秘密にしていたんですか?」

 俺の言葉を聞いた途端、創平さんは後ろめたさを隠すように部屋の端へ視線を逸らす。

「悪かったと思っている」

「俺は一年前、あなたに言われた!」

 三年前の事件が起こってから、俺は入院していた舞のお見舞いをずっと続けていた。

「慎重にならなければいけなかったとはいえ、本当にすまなかった」

「あなたに「これ以上縛られるのは良くないからキミは歩き出せ」と。あれはこの件を俺から隠すための嘘だったのでしょう?」

 けれど去年の夏、舞は突然転院することになった。そして俺はその行き先を、創平さんから教えてもらえなかった。

「俺はあのあと……あのあと、俺は!」

 それからは唯一の拠り所を無くして煩悶する自分を誤魔化すために、何も考えずに心を空虚にする日々が続いた。

「特殊な件だったとはいえ、弁解の余地が無いことは重々承知している。僕は去年からずっと君を騙してきた、本当にすまなかった」

 舞とも姉さんとも関わりがあるというのに、事情を知らされずにいたことが悔しい。けどそこまでの事情や思慮があったなら仕方ないと、なんとか自分を納得させる。

 ただ一人だけ蚊帳の外に置かれていたから、少しは物申さないと気が済まない。

「それは本人達にも聞いてみてくれ。僕が言わない方が良い別の意図もある」

 きっと彼は俺では窺い知れないような苦労をずっと重ねてきたはず。だから胸の中で燻ぶる不満を、一言で抑えなければならないだろう。

「僕の説明はこれで全部だ。何か質問あるかい?」

 創平さんは役目を終えたように姿勢を崩し、俺に対してどうぞと片手を差し出してくる。

「じゃあ一つだけ。どうして、そんなに良くしてくれるんですか?」

 数分前に浮かんだ疑問を遠慮せず、そのまま口にしてみる。

「僕みたいな高校生の子供でも、姉さんは普通の患者さんじゃないから、この体の扱いには特殊な対応をして頂いているとわかります。危ない橋みたいなこともあったと思います」

「舞の体に二人の精神が同居しているなら、もう片方の澄香さんの体はしっかり管理していた方が良いと思う。憶測の域を出ない話だが、何が起こるかわからないからね」

「本当にそれだけですか?」

 ただ今までの創平さんの様子を眺めていると、眠り続けるこの姉の弟としては、下種の勘ぐりめいたことをせざるを得ない。

「ああ……そうだけど」

「本当にそれだけですか?」

 同じ言葉でもう一度問う。

「敵わないね、白状しなきゃダメかい?」

「嘘偽りなく正直に言ってくれれば、今まで騙してくれた件は不問に付します」

 歳の差に遠慮することなく、俺は創平さんの本音を引き出すために強気の姿勢を取る。

 すると諦めて観念したのか彼は左右に首を振り、

「その……舞の病室にいたときの澄香さんを見たとき、とても儚い印象だったんだよ」

 行き場のない両手を合わせてそわそわと、

「でも話し掛けてみるとさ、弟の君ならわかるだろうけど、よく喋る人だよね」

 居た堪れなさそうに創平さんは喋り続ける。やはり雲行きが怪しい。

「舞の体に意識が移ってからも、賑やかな性格は変わらないじゃないか。でも彼女のきれ……彼女の体は、じっと時が止まったままなわけで。僕はこの体をずっと管理してるわけで」

 アホらしい。俺は頭の中で、創平さんが表現したいことをたった一言に集約した。

「それはつまり……ギャップ萌え、ですか?」

「まあ、その……」

 創平さんは顔を背けて、恋慕で溶け掛けた自尊心を守ろうとする。

「要は、惚れたと?」

 人の姉に対しこんなことを喋るやつは、容赦なく煽っていこう。

「は、はっきり言わないでくれよ」

 初めて気づく、彼はとてもめんどくさい大人なのだと。



 一通りの説明と間抜けな暴露話が展開されて、俺達は姉さんの体が眠る部屋を出た。

「信頼はしています。ですが心配なんで、一応……姉さんの体に妙なことしないで下さいね」

 最後にそう念を押すと、創平さんは目をしばたかせてからぷっと噴出し、

「心配ない。澄香さんの体を直接介護しているのは、僕じゃなく口の堅い女性看護士さ」

 満足そうに肩を一度だけ叩かれる。

 こちらも目上の人相手に煽ったわけだし、そのくらいの面子は保たせてあげよう。

 その後、創平さんと別れて、姉さんが待っている下の階へ降りた。

 薄暗い静寂に満ちた廊下を歩き、皮靴の足音を響かせ広いフロアへと戻る。

 さっきは疎らでも人がいた、今は人の気配すら無い。

 目立つ灯りは、申し訳程度の淡い緑色のライトと、小さな豆粒みたいな青いランプのみ。

 その空間の中心――眼を閉じたままたった一人、静かに佇んでいた。

 夜天が窺えるガラスの天井から、僅かに差し込む薄い月明かりを浴びている。

 彼女のいるフロアに踏み進む。けど、あるところから無闇に近付けなくて引き下がる。

 その存在が儚そうに見えて、下手に触れれば崩れそうな気がしたから。

「ちゃんと話は聞けた?」

 自らの胸元に片手を当て、踵を軸に九十度回って振り返り、急にパチリと瞼を上げる。

 ステージの上でも見たそのメリハリのある仕草から、今の彼女が舞でないことを察する。

「あ、うん」

 今どんな声を掛ければいいのか、息を詰まって喉が固まるせいで次の言葉が出ない。

 正視することもできず黙りこくってしまい、しばらく無音の時間が流れていく。

 そんな俺を見兼ねたのか「仕方ないな」と呟き、先に行動を起こしたのは彼女だった。

 一瞬だけ口元を綻ばせる彼女は胸元に沿えていた手を離す。そして両手を左右に開いてから、

「おいで」

 その一言だけで、一ヶ月前から始まった一連の出来事に対するわだかまりが解かれていくようだった。唐突だったとはいえ、変に身構えた自分が馬鹿みたいに思えた。

 俺だけじゃない、彼女もきっとつらかったはず。

 メールでのやりとりはしていたけど、直接会うのは一年ぶりぐらいだろう。

 だから真の意味での再会と、正体を明かさず見守っていてくれた感謝を込めて、

「久しぶりだね、姉さん」

 世界でたった一人だけに向けるその言葉で呼び掛けた。

 俺の声はフロア内に木霊して、床や天井に吸い込まれて消える。

 近付こうと一歩前に足を出した。

 けど、俺より先に彼女が抑え込んでいた何かを解放するように、床を蹴飛ばして走り出す。

 瞬きをする間もなくお互いの距離がどんどん縮まる。

 そして俺を腕ごと羽交い絞めにするように抱き付いてきた。

「本当に、久しぶりだね」

 それはきつく痛いくらいで、彼女は俺の存在を全身で確かめているかのようでもあった。

「潤」

 声も姿形も違うけれどそれは紛れもなく、血を分け合った姉の懐かしい呼び掛けだった。



 すでに時刻は八時を過ぎて、帰宅中のサラリーマンの姿が半分を占める地下鉄の車内。

「ちょっとだけ」

「嫌だ」

 俺の左腕に抱き付くというよりは、ベタリとへばり付いている舞の姿をした姉さん。

 頭を手で押して突き離そうと試みるも一向に離れようとしない。

 その吸着力は強固を通り越して、堅牢ですらある。

「もう我慢できない。スキンシップくらいさせなさい。一ヶ月前、いやもっと、ずっと前からあたしはムラムラしてたんだ。欲求不満だったんだ」

「そ、そんな表現」

「背は伸びたけど男のむさ苦しい感じはないし、スマートさは残ってて良かった。もううれしくてお姉さんきゅんきゅんしちゃうわ」

 怖いもの見たさか、左から右へと車内を眺めてみる。

 案の定、同乗者達の視線が集中していた。俺と目が合った人は焦って目を逸らす。

 好奇と侮蔑、それぞれに差はあるけど複数の痛い視線が何度も俺に突き刺さる。この状況はステージ上で台詞を間違えることより、居心地が悪いのは明白だった。

「潤、潤、マジ潤」

 そんなことなど全く気に掛けない姉は、俺の肩に頬擦りを繰り返す。

 これは何の罪を償うための公開処刑なのだろうか。

 俺は諦念感に身を任せ無抵抗のまま、学校の駅に着くまでの時間を耐え抜くハメになった。

「さてと、じゃ行こうか」

 降りて早々、疲れて鉄柱に寄り掛かる俺の隣で、姉さんは元気そうだった。

「どこに?」

「あたしの行きつけの店にね、常連なの」

 そうだ、メールばかりでしばらく直に会ってなかったから忘れていた。俺の姉さんは昔からこういう、人を振り回して派手に遊ぶ破天荒な性格だった。どうやら今も全く変わってない。

 こちらの意志など全く配慮せず自由奔放に、姉さんは俺の手を引っ張って歩き出す。

 それから学校側とは逆の、入学してから行ったことがない出口を通る。

 飲食店が立ち並ぶ中規模のテナント、そこにあるカフェの扉を姉さんは遠慮なしに開く。

 カウンターでマスターと思しき中年男性が「おー、いらっしゃい」と気さくな声で迎えてくれた。優しそうな雰囲気の人だけど、どこか疲れた印象がある人だなとも思った。

 店内は小奇麗で落ち着いたインテリアの中、大型のモニターや天井から伸びたガラス板のオブジェといったアクセントもあり、店主の上品なセンスが窺える。

 スペースは縦長で秘密の話をするには十分、それに音量が低めのBGMが流れている。

 隅の席に座ると「いらっしゃいませ」と落ち着きを感じるエプロン姿の女性が、お冷とお手拭きをテーブルに置いてくれた。

 姉さんはメニューを見ず、俺の分まで勝手に注文する。

 彼女がカウンターへ去ると「えへへへ」と、姉さんは気持ち悪くニヤニヤ笑いながら俺を眺めてくる。舞本人では考えられない挙動だ。

「本当にマジうれしいな。久々過ぎ」

「一昨日の夕方に合宿始まってから、ずっと顔合わせてたじゃん」

 アヒルみたいに唇を突き出してから、首を振ってわかりやすく否定される。

「だってー、今までは常に舞ちゃんっぽく演技してたから、地のあたしじゃなかったもん」

 一昨日からの姉さんの立ち居振る舞いを思い返す。

 確かに姉さんの素の状態と比べれば、舞に幾らか近い印象だったとは思う。

「舞っぽくか。まあ努力は認めなくもないけど、あいつの真似は難しいと思うよ」

「ぐぬぬぬ」

「自己紹介のときの『よろぴく』だって外し過ぎ。あんな寒いネタを舞は絶対やらないなー」

「そういう人の黒歴史を抉るなっての、マジ恥ずかしかったんだから」

 だらりと項垂れて過去の失態を悔みつつも、テーブルの下で俺の脛を蹴ってくる。

 しかし姉さんは何か閃いたのか、すぐ立ち直りピクリと首を上げて、身を乗り出してくる。

 嫌な予感が走ってつい後ずさり、まだ一口も飲んでいない冷えた水を喉に流し込む。

「それで潤と舞ちゃんってさ、付き合ってたの?」

「ぶっ」

 自分でもわかるほど盛大にむせ返ってしまった。

「汚っ、ここまでリアルに飲み物噴き出す人を見たの初めてだよ」

 姉さんはおしぼりでテーブルの上をさっと撫でる。

「そんで、どうなの? 昔は「演劇部ではー」とか「天ノ川コンビー」みたいな話しか聞いたことなかったし、もっと個人的な部分を掘り下げてみよう!」

「付き合うとかは、そういうのは……まだ中学だったし、その……」

「ははーん。なーにー、良いわねえ、思春期特有の甘いセンチメンタル、羨ましいわ。あたしの中学時代はそんなの無かったもの。まだ純粋だった頃にそんな思い出作りたかったわ」

 そりゃあんたみたいなエキセントリックな性格のやつに訪れる、ごく普通の真っ当な青春など想像できない。

「でもお姉ちゃんは弟のそんな気持ちがわかるぞ。あの子ってさ、人の心を操るのが上手いよね。なんというか精神的にエロいというか……あ、舞ちゃん怒ってる」

 姉さんは自らの胸元にそっと手を当てた、まるで何かを探るみたいに。

「えっ、どういうこと?」

 病院で創平さんが言っていた。奇想天外だけど、姉さんと舞は心の中で会話できるらしい。

「そのままの意味よ。なんか『堂々とプライベートを暴かないでください』って怒られた」

 あはは、と笑いながら手首の軽いスナップで自分、もとい舞の頭へ軽いげんこつをする。

「少し話すね」

 打って変わり、やや真面目気味に姉さんは背筋を伸ばして姿勢を整えた。

「こうやって心臓のあたりに手を当てるとね、はっきり聞こえるのよ。舞ちゃんの声が心臓のあたりから頭の中に響いてくる感じなの」

 頭に響くという舞の声、その通り道をなぞるように、胸元から首にかけて指先を滑らせる。

「今こうして喋ってるあたしの声も舞ちゃんに届くし、潤の声も通じてるんだよ。しかも、目を閉じれば声を出さなくても頭の中でお話できる。暇な授業中なんか楽しいくらいよ」

「創平さんが言ってた通りなんだ。突拍子もない内容だからさ、聞くだけで精一杯だったよ」

 あの内容をにわかには受け入れ難いけど、この後に及んで疑っても仕方ない。

「こらっ、天野さんは信用出来る人よ。素直じゃないのはダメよ」

 謎の掛け声と共に、俺の頭へ切れ味の悪そうななまくら手刀を当ててくる。

「さすがに思考の共有みたいなことはなくて、考えてることが全部筒抜けってわけじゃない。でも、あたし舞ちゃんと相性とっても良いみたい、もうマブ達だね……ああ、でも潤と結婚すればあたしの妹になるのか。かわいい弟とかわいい妹がダブルでいるとか最高ね」

「妙に飛躍させた想像すんな」

 一人で勝手に悦に入る姉さんのおでこへ、デコピンの速射をお見舞いすると「うげっ」という女性のものとは思えない濁った叫びが店内に響いた。

「うう、ダブル突っ込み。中と外から同時とかガード不能じゃん」

 どうやら今は表に出ていない舞も、俺と同じ気分になったらしい。

「そっか。本当に舞とは……なんというか、いつでも通じ合ってるんだね」

「前はそうじゃなかったのよ。ちゃんと目を閉じてさ……抽象的な表現になっちゃうけど、心の深いところに潜らないと会話も出来なかった。一番最初の頃なんて、わたしがただ舞ちゃんの体に入ってるだけの状態で、実は一人じゃないって気付きもしなかった」

 姉さんは目を瞑り再び胸元に手を置いて話し始める。

「でも、何日も過ごす内に気づいたのよ、本来のこの体の宿主が心の奥底にいるって。自分の内面へ沈み込むっていうか、潜っていくと二つの扉が見えた」

 扉、という表現は確か創平さんも使っていた。

「片方はあたしの部屋で、もう片方の扉が舞ちゃんの部屋だって感じたよ。でも舞ちゃんの扉は閉じたままで、ノックをしても返事は無いし、魂が死んじゃってるのかもしれないって最初は思ってた。でも何日も粘って呼び掛けてみたら、ようやく返事があったの」

 二人の人格が一つの体の中に共存することなんて、不思議以外に表現のしようがない。

「それからはあんまり詳しく話すとまた舞ちゃん怒るから、ザックリ話すね。舞ちゃんは少しずつだけど確実に現実に戻りつつある。今じゃ、あたしの助け無しでも自分の意思で外に出る……うんとー、歩いたりとか喋ることもできる。他にも、あたしが聞いた外界の音や手で触った感覚とかも伝わるようになったのよ。目に見えるもの、視覚は共有できないけどね」

 今は二人を繋ぎ止めているこの現象に感謝すらしたい。

「ただ、まだ慎重でいなきゃ危ない。でなきゃ、今日の稽古中みたいなことに」

 何の抵抗もなく床へ落下していく舞の姿、あれは今思い返すだけでもぞっとする。

「無茶は禁物か」

「そうよ。必要なときだけ舞ちゃんが出て、普段は極力あたしが外に出て活動する。それが今の舞ちゃんとあたしのスタンスなの」

 自分の内面に他者が存在する感覚なんて想像もできない。

 でもマブ達と姉さんは言うし、舞との仲が良いならうまくやっていける気はする。

「たしか中卒検定、ってやつを受けてからあの高校を受験したんだよね。大変だった?」

 二人の関係は良好だとしても、今まで相当な苦労があっただろう。

「うんや、全然。確かに舞ちゃんは中学の途中から勉強も途切れてるし、あたしに関しては数学と理科は全くダメだった。でも舞ちゃん昔は成績良かったみたいだし、あたしだって紛いなりにも国語の教員免許持ってるしね。あとはお互いで勉強の役割分担すれば、楽勝だったわ。そもそも二人で筆記試験受けてるようなもんなんだから、反則みたいなものよ」

 確かに舞の成績は当時かなり高くて、試験前に俺が勉強を教わっていたくらいだ。

 姉さんが国語の教員免許を持っていることは初耳だけど。

「勉強よりもリハビリの方がきつかったわよ。何年も全く体動かしてないと運動関係は衰えていくのね。関節とかは固まらないように、看護師の人がときどき動かしてくれてたみたいだけど筋力自体はかなりダメで全然力入らないんだから。舞ちゃん、感謝しなさいね」

 姉さんは満足そうに恩着せがましく、自らの胸に語り掛ける。

「それと……ホントーーーに、ごめんね。潤には今までいろんなことずっと黙っててさ」

 無駄に元気があった姉さんの勢いがしゅんと息を潜め、申し訳なさそうに上目遣いになる。

「いいや、それはもう今更だよ。気にしてない」

「あの高校の入学とかいろいろ整理がついたら、潤にはいつでも話せた。だけど、できれば舞ちゃん自身に説明させてあげたくて、でも間が掴めなくて、延び延びになっちゃった」

 創平さんから説明を受けるまでは、何もわからず翻弄されていた。

 けどこの奇異な現象とは裏腹に、二人の関係は良さそうだしそれ以上は望まない。

「姉さんはこのまま演劇部の合宿も続けて、本番に臨む気なの?」

 両手を腰に当て「もちろんよ」と自信たっぷりに頷かれる。

「それは心配だよ。だって《駅の主》の設定はさ……台本読んだでしょ?」

 まだ稽古では入っていない最後のシーンで語られる《駅の主》の過去。

 あれを考えれば、今の姉さんと舞にはあの役を演じて欲しくはない。

「言いたいことはわかる。確かにあたしと舞ちゃんがこの状態で、あの脚本にある《駅の主》の役をやるっていうのは連想するし、皮肉な巡りだし、抵抗があるのはわかる。でも大丈夫。あの役は双子がネタの話だからあたし達とは違うって、ノープロブレム」

 俺とは真逆で何も恐れず、姉さんはブレない親指をグッと立てる。

 主演としてパートナーである俺は不安で堪らない。けど、演じる姉さんは強気で迷いも無いだろうし、この調子じゃきっと止めないから心配しても仕方ない。

「そっか……なら今度は姉さんの話も聞かせてよ」

「んー、どういうこと?」

 こんな状態なら、元の生活との折り合いをつけなきゃならないはずだ。

「父さんとはどうなの?」

 そう質問した途端、姉さんは息を大きく吸い込んでから、その全てを吐き出すようにとてつもなく重く深い溜息をついた。

「ちょ~苦労した」

「だろうね」

 少しだけ目を瞑る、それまでの経緯を回想するように。

「当然だけど、この体で生活してる内は父さんと会うわけにはいかない。極力あたしと舞ちゃんの関係は話さないようにって、創平さんに言われてるしね。でも幸運っていうか、父さんは去年の夏から海外赴任してるの。すっごく前にメールで教えたの覚えてる?」

「うん、覚えてる。それでもやり取りはあるでしょ。父さんだって一年中外国にいるわけじゃないから」

「そこはね、ちょ~頑張った」

 軽いノリで『ちょ~』と、引き延ばす言葉遣いで閃く。女性にしては背丈がある元の体に戻れば、姉さんは水無瀬先輩より《駅員》の役が噛み合うかもしれない。

「父さんが帰国する度に、電話は極力避けてメールで言い訳考えたわよ。教育実習だったり、ゼミの論文で忙しいとか、卒業旅行を被せたりとかしたわ、もちろん全部ウソだけど。あとは酔い潰れてメールに気付かなかったとか苦しい言い訳もした。娘として自己嫌悪よ、とほほ」

 それでも事情を隠しながら父さんに秘密を隠し続けているのはすごい、俺じゃまず無理だ。

「ま、その甲斐あって、一応トラブルなく上手くやれてるよ。ただこの状態になってから一年近く経つから最近は直接会いたいってせがまれてるわ。そろそろ別に工夫が必要かも」

「そっか……でも相変わらず姉さんはタフで強いや」

「これっ、女の子に「タフ」だなんて、いかつい言葉使うんじゃないっ!」

 逆鱗に触れたのか、また爪先で脛を蹴られる。

「かなり難しい話だったし、全部打ち明けようかとも思ったけど、実際止めといて良かった。あの頃の父さんには負担が大きかったかもしれない。まだ外国で昔の生活を忘れる必要があったと思うから」

「母さんの方も似たようなもんだね。最初は俺と一緒にゆっくり住んでたけど、今は仕事に体を任せてるから一ヶ月に一度くらいしか家には帰ってこない」

 俺達の両親は数年前に離婚した。

 父さん側へは姉さんが、母さん側へは俺がつくことになった。

「最近思うのはさ……何年か前に、娘のあたしが一人暮らし始めたわけだけど、父さんも母さんも親としてさ、子育てっていう一つの目標を少し達成した気になっちゃったのかも。だからタガが弱くなって、別れちゃったのかもね」

「そっか。自分の仕事に生き甲斐を持ってた人達だもんね」

 昔から細かい喧嘩が絶えなかったし、仲の良くない夫婦だとは幼心でも察していた。

 一応は恋愛結婚であったらしい。けど共働きであったし、子供目線でも二人とも自分の目標を大事にするタイプだとわかっていたから「いずれは」という予感はあった。

 そして俺が中学、姉さんが大学に進んだとき、二人の仲は元に戻れない一線を越えた。

 しかし二人とも夫婦としてはどうあれ、親としてはしっかりしていた。

 だからこそ子供への思いが強く、どっちが引き取るか長い争いがあった。鬼気迫る両親を間近で見ていた当時の俺にとって、二人は愛情よりも妄執に取り憑かれた獣達に思えた。

「あの頃は潤にだけ、負担を掛けされちゃったね。あたしが大学の近くに下宿してたばっかりに親を任せちゃったから……今も後悔してるわ」

「仕方ないよ。親の仲が悪いからって、姉さんが自分の道を妥協するのは馬鹿馬鹿しいしさ」

 ただその頃の経験が、俺と舞が繋がるきっかけにもなった。

 望まないことではあったけど、全てが自分にとって悪いことだったとは思っていない。

「お待たせしました」

 閑話休題。注文した料理が慣れた手付きでテーブルに次々と置かれていく。最後にグラスを二つ置いて「ごゆっくり」と静かに女性が去っていく。

「なら、潤の方はどうなのよ」

 さっきまでの苦労話が終わり、喋りに滑舌の良さが戻る。

「どんなふうに過ごしてたのか、聞きたいかな」

 ここ最近の生活を思い返してみても、正直何も無かった。

「今まで、と言っても面白い事は無かったよ。ずっと薄い時間の繰り返し。クラスの人とは浅くしか繋がってないし、勉強も人並みにはやってたけど、何かに打ち込むことはしなかった」

 平凡ではなく平坦で、起伏のない無機質な日々。

 舞の病室へ行くことだけが唯一意味のある時間だったけど、半年前の夏にはそれもしなくなった。ただ今は事情を知ったから、以前より救われた気分ではある。

「でも最近は……昨日今日の話だけど、あの演劇部は刺激あるかな」

 あまり考えずとっさに口走った話だけど、嘘じゃない。

 思考停止して生活するだけの屍だったあの頃に比べれば、この数日間は普段より幾分も密度が濃くて全身が活きているのは本当だ。

「そっか……あそこはみんな噛み合ってて良い場所だと思う。あたしもあの空気は好きかな」

 そう口にしてから何か思い出したか、姉さんは優しく微笑んだ。遥か昔の記憶を懐かしむみたいに。

「それに十代にしては老けてる感じもあるけどトモくんも立派になって、昔面倒を見てたお姉さんとしてはうれしい限りよ。綾ちゃんは相変わらず小さくて超キュートで可愛いわ。でも、綾ちゃんは舞ちゃんのこと少し嫌ってるっぽいのよね」

「だって、綾に殴られたんでしょ?」

 最初に再会した歩道橋の上では左の頬にガーゼ、それが次の日の入学式には絆創膏に変わっていた。あれは綾が手を出して傷になったと、鐘ヶ江邸で聞いた。

「ぐすん、手加減なしの正拳突き、めっちゃ痛かった。あれはお姉さんショックだった、もう立ち直れないわ」

 涙ぐんだ真似をしながら、今はもう治っている左の頬を撫でる。

「ま、そんだけあんたが色男ってことよ……いや、この場合は色男の娘、か」

「ん、どういう意味?」

 姉さんは返事をせず、またも薄気味悪い笑みで俺を眺めてくる。昔から慣れているとはいえ一人で楽しそうに自己満足するその仕草を溜息一つで受け流す。

 そんな姉の悪癖にやや辟易しながらも、演劇部や鐘ヶ江兄妹の話題が出たことでまた一つ気になることが思い浮かんだ。

「そういえばまた質問になっちゃうけど、どうしてストレンジホームをやろうと思ったの?」

「そりゃあんた、ここまで説明すればわかるじゃない。察し悪いわね」

 馬鹿だな、と言いたげな顔で貶されても困る。

「三年前に、あなた達はあの脚本で本番に臨むことが出来なかった。しかも片方は意識が戻らなくて再挑戦することも叶わず、時間は止まったまま。未練、ずっとあったでしょ?」

 遠慮なくそう言い切る姉さんに俺は黙って頷く。

「舞ちゃんも同じ想いなのよ。止まった針を進めるには一番わかりやすくてストレートなやり方だと思った。だからトモくんには無理を承知で押し通したわ、その代償は痛く付いたけど」

 ウインクしながら、綾に殴られた辺りの頬を二本の指で擦る。

「あたしって余計な邪魔者はいるけど、舞ちゃんは目を覚ました。ならまた立ち向かうべきなんじゃないかな。それに何より、約束もあるんでしょ?」

「なっ」

 前振れもない不意打ちの言葉に、心臓が喉元まで飛び上がったみたいだ。

「ん? どうしたのよ、妙な子ね。本番を成功させるって、約束してるんでしょ?」

 もしや姉さんなら――と考えてから、その一言を聞いて安心する。

 命が縮まったかと思った。きっと『約束』の本当の意味までは知らないだろう。

「それにあたし自身も無関係な話、ってわけじゃないしね」

「どういうこと?」

 意図のわからない姉さんの呟きに聞き返すも「まあ、いいじゃない」と軽くあしらわれる。

「じゃ、こっちも質問よ。どうしてトモくんから、入部の誘いを断り続けてきたの? 去年からずっと演劇部の勧誘を断り続けてきたみたいじゃない」

 無理やり話を終わらせるかの如く話を打ち切り、姉さんは俺を指差す。

「なんだよ。姉さんこそ、察し悪いじゃないか」

 姉弟で互いに同じ言葉で罵っているのに気づいて、少し滑稽に思えた。

「何よ、もったいぶらずに教えてよ」

「それはいいけど、さ……聞こえちゃうんでしょ?」

 秘密にするつもりはないけど直接口にするのは嫌だった。

「さっきさ、視覚は共有できない、って言ってたよね。ちょっと待って」

 だから声にしなくてもいい手近な物に頼ることにした。携帯電話を開いて、最小限の文章を打ってからテーブル上で回して画面を姉さんの方に向ける。

「あらあら、うふふっ」

 姉さんは富裕層のマダムみたいな手付きで口元を抑える。正直この文面が姉さんを楽しませるのはわかっていた。


――舞が目覚めないのに自分だけが進むのが嫌だった


 おもちゃにされるのは癪だった。でも声に出せばもっと楽しませることになるから文章にしたわけで、つまりせめてもの抵抗だ。

「ずっと眺めるのは無し」

 テーブルの携帯電話を拾ってポケットに仕舞おうとするけど、焦って床に落としてしまう。

「潤は昔と違わない優しい子だね、それだけで嬉しいぞ」

 悪ふざけするような感じはしない自然な声。

 携帯電話を拾ってから顔を上げるとすぐ目の前に映ったのは華奢な手。

 病室で見た青白い姉さんのものとは違い、確かな生気を感じさせる綺麗な手だった。

 それが俺の頭の上に置かれ、そこで気づく。

 数時間前から胸の奥に引っ掛かって固まっていた緊張が自然と解れていくことに。

 俺の横髪を流しつつ頭を撫でてくるその柔らかい感触に、少しだけ甘えることにした。

次回、8/4(火)PM10時頃に更新です。

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