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ツインアクトレス  作者: 伊瀬右京
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2章(後半)

「はあ、どっこいしょと」

 トモさんはあからさまに深い溜息をして、腰を重たそうに椅子へ落とす。さらにそのまま猫背で、眉間に皺を寄せて難しい顔になる。

「どうしたのさ、年寄り臭い」

「月とスッポンと言うが、外見は月でも中身がスッポンの場合、どう表現したらいいんだろうな。俺には適切な言葉が浮かばないよ」

 片目だけでトモさんは俺に視線を送ってくる。こちらとしては何のことやら。

 今この部室には俺とトモさんと水無瀬先輩の三人がいる。これから続きのシーンを練習するはずだけど、肝心な仕切り屋に元気が無い。何かが要因で悄然としている。

「鐘ヶ江くん。わたし達も他の班に負けていられません。さあ、早速お稽古を始めましょう」

 水無瀬先輩は瞳を輝かせて可愛らしく両手を握り締める。

 やる気に溢れているその姿を勇に見せてやりたいところだ。

「そういえば、月ってのは遠くから見るから美しいのであって、近付けばクレーターだらけの醜い球体なんだっけか」

 俺を見ていた片方の目を閉じて、今度は逆の目で水無瀬先輩を眺める。しかしその瞼はなぜか重く、怪訝の眼差しにも見える。

「ぼやいてないで、何を考えてるのか教えてよ。じれったい」

 そう急かしてみると、自らを決断させるように指で顎を数回叩き、

「案ずるより生むが易し、とも言うからな。やってみるか、さっきの続きからだ」

 やれやれと、ようやく鉛のような腰を上げて、両手を組みステージと向き合うトモさん。

「では、よろしくお願いしますね。野川くん!」

 ステージ下手で水無瀬先輩は始めたくてもどかしいと言わんばかりに、いつも穏かな表情を少しだけきつく締める。

 しかし、その姿を一秒足らず眺めてトモさんは「はあ」と、疲れを吐いて左右に短く首を振った。態度だけで表すその苦渋は何なのだろう。

 俺はベンチ代わりの椅子にだらりと腰を落とし、やがて顔を合わせる来訪者に備える。

「それじゃ《駅の主》に助けられたばかりの《少年》に《駅員》が声を掛けるシーンから始めよう。水無瀬君、好きなタイミングで始めてくれ」

 トモさんは気の抜けた緩い手付きでダーツを投げる要領で、二本指を水無瀬先輩へ向ける。

 誰も喋らない僅かな静寂の間、遠くから綾が練習しているナレーションが微かに聞こえる。

 一歩、上履きがステージに擦れる音が開始の合図だった。

 その後数歩の足音が聞こえてくる。さっきの勇と違って焦っている様子はない。

『おや』

 終電後にベンチで休んでいる常識外れの人物に気づいて《駅員》はやってくる。

 三年前には、粗大ゴミを迷惑そうに眺めるような、鋭い視線を浴びた。それくらい《駅員》は第一印象が怖い役柄だ。しかし今俺に向いている目に尖った棘は無く、

『ちょっとそこのキミ、こんな時間に何やってんだい?』

 そのなぜか高いハスキーな発声を聞いて、思わず肩がズレ落ちてしまった。

階段を踏み外した後のような、あの感じ。

「な、何かいけませんでしたか?」

 俺達の反応を見て、水無瀬先輩は慌てて素の状態に戻る。自覚は無いようだ。

「やっぱりなー、相性最悪だ。潤、これで俺が抱えていた苦悩がわかっただろ?」

 トモさんは想定していた問題を実際目にし、頭痛に耐えるように額を押さえている。

「胸中察するよ、こりゃ大変だ。台本読みのときは普通だったのに」

「そうなんだよ。台詞を読むだけならいいんだけど、立ち回りも含めた演技になるとぶっ飛んじまうんだ。これが今日……いや、もしかしたら本合宿中最大の課題かもしれん」

 本番や合宿のことを考えながら、こんな難題を一人で抱えていたとは、その器の大きさには感無量だ。重荷を少しでも肩代わりできればと、俺はトモさんの左肩に右手を置く。

「な……ふ、二人とも何ですか、失礼な! わたしを置き去りに妙な納得をして」

 理解できない不穏な空気を感じ取り、水無瀬先輩は俺達へ訴えてくる。

「だって……なあ?」

 トモさんは口の片端だけを苦そうに締める。そんな渋い顔で俺に同意を求めないでくれ。

「もう、何なのですか? はっきり仰ってください」

「ではお言葉に甘えて、単刀直入に言っていいかな?」

「い、いいですよ」

 単刀直入、という同級生の言葉に気圧されて水無瀬先輩はたじろぐ。

「全く役が掴めてない」

「はい?」

「役になりきれてないんだよ」

 午前の台本読みで水無瀬先輩は、ミスしないことを重視していて役作りはあまり意識していなかった。だから彼女が《駅員》という役柄をどう捉えているのか、まだわからなかった。

「いいか、水無瀬君。この《駅員》には行き場の無い四人の来訪者を事務室へ招き入れる役目がある。強引(・・)、にね」

 強引、という最後の一言だけをトモさんは強調する。

《駅員》はやさぐれていた女性が丸くならず尖ったまま大人になったような役だ。

「終電後の駅に屯しているやつなんてのは変わり者、それを引き入れるんだからさ……こう、もっときつそうな性格なんだよ。上品さとかはいらなくて、ガサツな感じ」

 さっきの演技はさしずめ英国にいそうな気取った紳士といったところ。丁寧なせいでガサツといった印象は欠片も無かった。

「き、きつそうな性格……ですか」

 水無瀬先輩はファッション雑誌に載るモデル並の端正な顎を引いて俯き、頭の中で悩みながら積み上げたイメージを再構築しているようだ。

「台詞とかを読み取れば、なんとなく浮かんでこないか?」

 トモさんは台本にある《駅員》の登場シーンを開き、具体的に台詞を読むことで可能な限りそのイメージを水無瀬先輩に伝えようとする。

 役に対するイメージなんてある程度はすぐに掴めなきゃ、その時点で苦難の道。ステージ上での細かい立ち回りに悩むのならまだしも、役作りの初期段階で悪戦苦闘するのは厳しい。

「ひとまず、何度か繰り返してみます」

 苦しそうな表情で再びステージ下手に向かう水無瀬先輩に合わせ、俺も定位置に戻る。

 短い瞑想の後、同じように水無瀬先輩は歩き出し『おや』と短く呟き、台詞を続けた。

『ちょっとそこのキミ、こんな時間に何やってんだい?』

 今度は妙に紳士的な印象は薄れたがかなりぎこちない。さらに駅のホームに現れた異物を捉える目つきに、冷ややかさも無かった。

 その後も水無瀬先輩は幾度か試行錯誤して、何度も同じ台詞を繰り返したものの《駅員》のイメージには遠いまま。ときには、完全に的外れな演技をしてしまうこともあった。

「例えば……結城先生は《駅員》に近いと思うんだ。真似してみてはどうだろう?」

 実在する、しかも普段から見慣れた人物を例えにするのは、かなり有効かも。

 トモさんのアドバイスに俺も期待が膨らむけど、

「結城先生……ですか?」

 あまり頭の中で噛み合わず、水無瀬先輩は余計に混乱している様子だった。

『何にせよ、いつまでもこんなところに座りこまれたんじゃこっちは迷惑なんだよ』

 試しに、最初の台詞の後に続く俺の《少年》との掛け合いもチャレンジしてみた。けれど俺とトモさんが知る《駅員》の演技には一向に近付けない。

 ここまで役とのマッチングが悪い場合、配役の入れ替えをすることも中学の頃はあった。

 役自体に対して人が合わせるよりも、役者の素の性格に近い配役をする方が楽だからだ。

 しかし、綾は背が低過ぎて《駅員》の荒れた大人の雰囲気には合わない。

 舞なら代役が可能かもしれないけど主役である《駅の主》から外すことは考えられない。

「頭を切り替えてきます」

 重く溜息を吐き、水無瀬先輩はタオルを持って廊下へと出ていく。

 その後ろ姿を見届けてから気難しそうに、トモさんは低い唸り声を喉だけで鳴らす。

「難しい、毎回かなりブレてるね」

「いや、俺にとっては想定通りさ」

 どういうこと? と聞き返すと、片手で二本の指を立ててトモさんは語り出した。

「理由は大きく二つ。一つ目は水無瀬君がお嬢様気質だってこと。たまに腹黒い部分はあるが基本的には育ちの良いお嬢様。しかし実際に演じるのはガサツな雰囲気の《駅員》なわけで、彼女の素の性格と掛け離れている。多分、そういうタイプの友達は少ないんじゃないか?」

 おっとりとした物腰の柔らかい雰囲気の水無瀬先輩と、三年前に一緒に稽古に励んでいた男勝りな雰囲気の《駅員》が頭の中で並ぶ。確かに特徴は対局的だ。

「二つ目だが、多分こっちの方がやっかい。一言で表せば……天然、だな」

「天然?」

「俺の偏見もあるけど、天然っぽい性格のやつは頭の周波数を他人のチャンネルに合わせるのが人一倍苦手だと思う。だから初期段階で水無瀬君が《駅員》の役を掴めなかった場合、稽古は堂々巡りになる可能性もあるって、覚悟していたよ」

 なるほど。水無瀬先輩には失礼だけどその分析にはかなり納得した。

 さすが三年間同じ部にいたこともあって理解が深い。

「お待たせしました」

 普段はお淑やかさの中にも余裕を感じる水無瀬先輩だが、今タオルを握り締める姿には焦りが濃く表れている。

「わたし副部長なのに、不甲斐ないですね。お二人には申し訳ないです」

「いや、誰がいつ壁にぶち当たるかわからない。今はたまたま水無瀬君なだけだ」

 重く沈んだその肩をトモさんは軽く叩く。

 何気ないその簡単な励ましで、救われてきた人間は多いだろう。俺も含めて。

「おっつかれさまでーーーす」

 そんな流れをぶち壊すように部室へ入ってくるのは、派手なエクステだったかウィッグだがを揺らし無駄にステップを踏みながら能天気に歩く綾だった。

「よう、諸君どうだね?」

 その後ろに立つ結城先生は、ジャージを腕捲りした姿が妙に様になっている。

「わたしがうまく演技できなくて……頓挫してます」

 力を抜きたまえ、と余裕のある声で結城先生は水無瀬先輩に諭す。

「そちらの状況はどうですか? まだあまり時間経ってないですが」

 戻ってくるまでまだ時間が掛かるだろうと思っていたから、俺は聞いてみた。

「天野さんと沖田くんは堅実に進めているよ。結構派手な打撃にも挑戦していた」

 勇の正拳を捌いて、蹴りを入れる舞の姿が浮かぶ。観るのが少し楽しみではある。

「先生、そのチンチクリンの調子はどうですか?」

 悪態をつく兄へあからさまに舌打ちする妹。けど何事もなかったかのように、綾は水無瀬先輩に寄り添う。するとその小さな頭に先輩が自然と手を置いた。

「この子はセンスあるな。悪い箇所を指摘すればすぐに修正できる。特にナレーションで教えることは何もない。強いて言うなら、あとは放送室で機材の説明をするぐらいだ」

「へー、綾やるじゃん」

 綾は唇を尖らせて上機嫌に、俺にVサインを向けてくる。

 台本読みの段階ではナレーションと《家出娘》の切り替えに戸惑っていた節があった。けどきちんと間を置いて、それぞれを単独でやる場合は問題ないのかもしれない。本番ではステージと放送室を行き来するし、意識の切り替えはしやすいはず。

「いいなあ、綾ちゃん。わたしなんかダメダメだよ」

 水無瀬先輩は今も落ち込んだ様子のまま、綾の頭にある三本の派手な毛束を弄っている。

 身を寄せ合っている明るい綾とは対象的だ。

「元気出してくださいよー」

 水無瀬先輩は「お芝居がうまくいかないの」と、直面している悩みを綾に打ち明ける。

 一通り説明されると綾は水無瀬先輩から離れ、自らの顎を擦りながら「なるほど」と何か考え始める。その仕種は兄と似ていた。

「良し。ここは伸るか反るか、ワンチャンだ。流れが悪い時は確変やぶっぱなしに限る」

 すると得意げに指を鳴らし、水無瀬先輩の正面に立って向かい合いその両腕を握った。

「いいですか、水無瀬先輩」

 何かアドバイスする様子。とっておきの秘策でも思いついたのだろうか。

「これって、三原じゅん子ですよね」

「「は?」」

 その言葉が何を意味するかわからず、俺とトモさんは同時に顔を見合わせて一緒に肩を竦めた。けれど俺達の共通認識は彼女達のそれとは真逆なことが、すぐにわかった。

「そ、そうだね」

 曇っていた表情が徐々に明るくなり、水無瀬先輩は嬉しそうに何度も頷く。

「つまり『顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを』みたいなノリですよ」

「うん、わかった……わかったよ、綾ちゃん。試してみるね」

 俺には意味が分からない謎のヒントで、何かを掴んだのだろうか。

 水無瀬先輩はなぜか頭に巻いていたヘアバンドを取る。そして荒っぽく髪の毛を掻き上げると、長い後ろ髪がふわっと広がる。でもそれを整えようとはしない。知り合って日が浅いけど、似合わない仕草だと思った。

「さあ、野川くん。もう一度やりましょう」

 水無瀬先輩は早速ステージの下手に立つ。

 自信すら窺えるその姿に首を傾げつつ俺もステージに上がり、始まりの定位置についてから先輩へ「いつでもいいです」と一つ大きく頷く。

 綾と結城先生が椅子に座り、トモさんは訝しげにこちらを見据える。

 そして数秒間の沈黙が続いた後、水無瀬先輩がステージ下手から足を進めた。

『おや』

 ホームにいる《少年》に気づいてから、台詞と供に一度足音が止む。

最後の一歩は踵から落としたせいか乱暴な音で、今までにはないものだった。

『ちょっとそこのキミ、こんな時間に何やってんだい?』

違和感なし、というのが理屈抜きの第一印象。

『あ、すいません。少し休んでました』

『休んでる……ねえ。ふーん、こんな寒い夜にねー』

 声は普段より低くて冷たい淡泊な印象。靴の爪先で地面を数回打ちつけて、首を傾けて両腕を組み、無気力な表情で《少年》の頭から足元を舐めるように眺める。

 今までとは違う。荒れたまま成長して、サバサバした大人の雰囲気が伝わってくる。

『何にせよ、いつまでもこんなところに座りこまれたんじゃこっちは迷惑なんだよ』

 苛立ちながら《少年》に対し、片手でクイッと立つように促しながら威圧される。

 しっかりとした役作りが固まっていた。

『さっさとお家へ……ああ、もしかして君も行き先ないとか?』

『僕もって……は、はい、そうです。すいません』

 余計な疑問は持たずに質問に答えろ、という無言の圧迫を全身で表現できている。

『謝ってばかりいるのは感心しないな』

 どこまでやるかわからないけど、水無瀬先輩が途中で止める気配がなかったから、場面の切り替わりまで俺も付き合うことにした。

 最後までその演技にブレはなく、俺は三年振りの《駅員》との対話を楽しむことができた。

『君よりも先に訪れ人はいるが、そこは文句言わないように』

 最後に《駅員》の細い指が《少年》の手首をぐいっと乱暴に掴み、下手袖へと連れて行く。

「はい、そこまで!」

 トモさんの手を叩く合図と共に、俺は息を吐いて力を抜く。

「水無瀬さん、すごいじゃないか。普段の君からは想像もできない演技だった」

「正直驚いた、イメージぴったり。あの雰囲気が出せるなら、もう悩むことないよ」

 満足そうにステージから降りる水無瀬先輩へ、結城先生とトモさんは賞賛を送る。

「キレがあって、良かったと思います」

 迷い無く鋭かった動きに対し、俺は素直にそう思えた。

「みなさん、ありがとうございます」

 水無瀬先輩はステージから下りると《駅員》とは違って、素の彼女らしい上品な一礼を共演者達へ向ける。

 間近で彼女の演技を見せつけられた俺としては驚いたどころじゃない。あそこまで迷走していたのに、短時間でコツを掴んでここまで激変するとは。

「綾ちゃんのおかげだよー、ありがとうね」

 水無瀬先輩はまさに干天の慈雨をもたらした綾をギュッと抱き締める。

 しかしそれを受けた方は、涎でも垂らしそうな変態的な顔で幸せを味わっていた。

「あのさ、トモさん」

 声を出さず振り向くだけの演劇部部長へ、俺は率直な質問をした。

「今のはハマってた、それは良いんだけど……みはらじゅんこ、ってどういうこと?」

 予想通りであっただろう質問に対して、トモさんはわざとらしく重い咳払いをする。

「それに『顔はやばいよ、ボディ――』って、何なのさ?」

 哀歓の狭間で遠い目のまま、窓枠に切り取られた快晴の空を見ながら言った。

「俺に聞くな。極めて特殊なヲタクか、多分七十年代生まれじゃねえとわかんねえよ」



 水無瀬先輩が問題を克服してからは、それまでのシーンを一度も止めずに、ナレーションや殺陣も含めて最初から通しで行うこととなった。

 まず結城先生が絶賛の綾のナレーションについては予想以上だった。舞台が始まって最初に演技を始める俺にとって、それは集中力やイメージを高める追い風になるほどだ。

 簡単に言えば、言葉だけで雰囲気を表現していた。具体的には抑揚・緩急の付け具合や声の止め方を上手に活かしていた。そういう細かい部分を、きっと自分で試行錯誤したのだろう。

「あと本番じゃマイクから喋るわけだから、そこは考えなきゃね」

 そうドリンクボトルを片手に喋る綾からは余裕を感じる。

 一方で勇は指摘されたように、恥ずかしがらずに演技できるように努めていた。まだ足らない部分はあるけど繰り返していけば熟練していくだろう。

 但し、舞との殺陣の部分はすでに形になっていた。事前の打ち合わせが二人で共有できていて、勇が繰り出す拳や蹴りには勢いがあるにも関わらず、それをいなしてから逆に打撃を入れる舞には余裕を感じる。

 最後に《駅員》の役をしっかり身に付けた水無瀬先輩。

 まだその演技を観ていなかった舞と勇は終始見入っていた。普段の落ち着きある雰囲気からは豹変した姿に、二人はそのセクションの間、瞬きすらしなかった。

 ただ勇の熱い視線は舞とは違って、淡い感情が見え隠れしている気がした。その様子を隣で見ていたトモさんはあからさまにニヤリと笑い、俺の耳元で素早く実に面白そうに囁いた。

「勇のやつ、今ので惚れちゃったな」

 純粋な部員に対して不謹慎極まりない、下衆の勘ぐりってやつだ。



 やがて夕日が地平に掛かるくらいの時間になった。最後に細かい指摘やこれからの課題を話し合う。それで今日の稽古はお開きとなり、すぐに夕飯になった。

 昼食に比べれば断然良い内容。家庭科室には温かい惣菜と、御釜いっぱいの白米に、鍋から湯気が立つ豚汁があった。トモさんと結城先生が手配したみたいだけど恐れ入る。

「では男子諸君、この娘達は頂いていくぞ。夜這いになど来んようにな」

 女子達と共に去っていく結城先生を見て、トモさんは「幸せそうなこって」と呆れている。

 しかし俺は違い、先生の隣にいた舞のことを気にしていた。

 今日はあいつと何も話せなかった。

 個人的な話は、みんながいる稽古場ではできない。

 だから、近付くのは昼休みか、稽古が終わった後のどちらか。でも今日はこれで解散だから、二人だけで話すのは難しい。

 明日からは舞へのアプローチを考えながら行動しよう。稽古も大事だけど、舞に近付くこともこの合宿に参加している目的の一つなのだから。

 それから男子三人は家庭科室の戸締りをして、部室棟一階にある部屋へ戻った。

「おつかれさん、っと」

 年臭く膝に手をついてトモさんは自分のベッドに腰掛ける。

「さて野川潤、並びに沖田勇の両名に聞きたいことがある」

 多分、年老いた将校のつもりなのだろう。声は無駄に渋みを利かせ、肘を立てて顎の下で指を組み、どこを見るわけでもなく、ただ俺と勇の間の空間に目を馳せていた。

「なんでしょうかい? 鐘ヶ江智一部長殿」

 面倒臭くもあったけど、そのフリに付き合ってみる。

「これから穏便にのぞき(・・・)を成功させるための方法について論議したい」

「のぞき(・・・)……ですか?」

 トモさんが強調する三文字の言葉に対し、勇はなぜか興味深そうにしている。

「のぞき(・・・)とは、もしやあの覗きですか?」

 どうやら勇の中で「覗き」という行動は多種多様な意味を含む語彙であるようだ。

「好きかね?」

「嫌いな男子など見たことがありませんよ、お代官様」

 くひひひひひひ、と気持ち悪く笑う二人と距離を空けるべく、俺は肩一つ分ほど身を引く。

「ただ自分で覗きとは言ったが、そんなに簡単なものではない」

「ええ、そうですな。あのシャワー室は出入り可能な扉が一つであり、有効活用できそうな窓は一つもありません」

「出入り口を封鎖されたら完全密室か、まともな手段では手詰まりになりそうだな」

「外部からの視聴が困難ならば、内部。つまり潜伏するというのはどうでしょうか?」

「大胆な選択ではあるが、女子勢に見抜かれないギミックをあと数日で拵えるのは困難だ」

「では、ビ、ビデオ。機械に頼るのはどうでしょうか? ガラパゴスと叫ばれる昨今ですが、技術立国である日本の映像技術は世界でもトップレベルなことに違いはありません」

「馬鹿者! 文明の利器に頼った手段は断じて認めん。デジタルな世界などわしは一切興味無い。良いか、覗くという人間味のあるアナログな行為を実行し成功すること自体に意味があるのだ。恥を知れ!」

「ははっ。大変申し訳ありません、改めます将軍様」

 呼吸も荒く、見苦しい。そんな頭の悪い作戦会議に突然終止符が打たれることになった。

「しかし水無瀬君の芸術なまでに美しい肢体を、沖田伍長は観たいのだろう?」

 全てはここに話をもっていくための前振り。

 トモさんは急に声のトーンを普通に戻して、最後にしてやったりと口の端だけでほくそ笑む。

「いっ、いえ、そのー」

 えげつない不意打ちに何も対処できず、勝手に伍長にされた勇は慌てて取り乱す。

「言動の端々に表れ過ぎていたぞ。もう完全に心奪われちゃったのな~、フォーリンラブ」

「う、うう」

「さっき水無瀬先輩の演技に見惚れてたけど、他の人が出番の時とは明らかに視線が違ったよ」

「そ、そんな~、潤先輩まで」

 弄られて涙目になっている昨日知り合ったばかりの後輩が、少しかわいいなと思った。

「大丈夫、水無瀬君以外には多分バレバレだが、本人は腹黒いところはあれど基本は天然だし察しは悪い方だよ」

 安心しろと、落ち着かせるように勇の肩を叩くが、

「もう、ダメダメ。そういうのは止めましょう」

 両手を前に突き出しバタバタと振って、話題の流れを勇は掻き乱そうとする。

 さすがに新入生相手に苛め過ぎだ。首を左右に振り「もう止めよう」とサインを送ると若干物足りなさそうにトモさんは小さく頷く。

 勇は安堵の溜息を吐くと、項垂れた首をむくりと上げた。

「ところで部長と潤先輩は仲良いみたいですけど、付き合い長いんですか?」

「ああ、そうだ。まだ、あそこの毛も生え揃わん頃からの仲だぞ」

「いちいち妙な表現をするな!」

 品の無さを注意してもトモさんには完全にスルーされる。

「へー、いいなあ。小学校って歳違うとなかなか関われないけど、家が近いとかですか?」

「うんや、全然」

「じゃあ、どうして?」

 するとトモさんは目を閉じ普段は滅多に外さないメガネを引き抜く。

 瞼を開け、その日本人離れした青い双眸を勇へ向ける。

「俺はこんな外人みたいな色の瞳で、潤は昔から女顔で身体も細かった。だから虐められやすかったわけ。小学校の頃ってそういうやつは標的になるだろ? だから自然と惹かれたわけ」

 確かに幼い頃は軽い嫌がらせもあったかもしれない。でもそれは俺だけであって、トモさんが誰かに虐められている現場なんか一度も見たことがない。逆にトモさんが誰かを虐めてることなら何度もあったけど。

「幼馴染っていいなあ。自分もそういうの――」

 と、会話を区切る振動音が部屋の隅から聞こえた。

 すいません、と勇が震えるナップザックの中から携帯電話を取り出す。

「ちょっと所用ができてしまいまして。少し失礼したいです、いいですか?」

 そう律儀な断りとは対象的に「あいよー」とこの生徒会長様はラフな受け答えをした。

 最後に大きく会釈をしてから勇は慌てて外へ出て行った。

「勇を、どう思う?」

 トモさんらしいかなり大雑把な質問に対して、あまり考えずに答えた。

「俺と違って明るくて接しやすい子だよね。自然っていうか、やわらかいっていうか」

 そう告げるとトモさんは天井に向かい大口を開けながら豪快に笑う。

「まあ、そうだな。でも聞きたいのはそこじゃない。ここは演技部だぜ?」

「ん?」と視線だけで聞き返されて、俺は慌てて頭を切り替える。

 今日見た勇の演技、それをビデオの早送りのように頭の中で再生する。

「最初にしたら上手いと思う。もっと思い切りがあってもいいけど、中学の最初の頃の俺なんかよりきっと良いよ。それにスタントはかなり得意そうだし」

 あの蹴りの連打を思い出すと、あのとき狙われた太股のあたりが今も竦むぐらいだ。

「俺も同じ意見だ……というか、そういう素質があるなと思ってスカウトしたんだけどな」

 この切れ者ならそういう思慮を働かせているとは思っていた。

「今日、自分の眼力が間違っていなかったことに安心したよ。それに、お前の演技力にもな」

「えっ?」

「お前の昔の演技は今も覚えている。天衣無縫っていうのかな、すごく自然なのに観る者を引き寄せる動きと、それに追従していく台詞。あれが今日も見れて嬉しかった」

「そう言われるとなんか……かゆいね」

 真っ直ぐに言われたら、俺としては返答に困ってしまう。

「本音を言えば演劇部らしく発声練習やエチュードもやりたいが、基礎練習ができるほど時間に余裕はないから諦める。でもメンバーに恵まれたから、まあ良しと思ってるさ。水無瀬君の《駅員》が不安だったけど、それも解決したしな。スケジュール的には若干遅れ気味だがまだ一日目だから挽回はできるし、幸先いいよ……ある一点を除いては、な」

「何それ?」

 何の前触れもなく、

「天野君は、衰えたな」

 それまでとは明らかに違った温度の低い声でトモさんは呟いた。

「お前の演技は三年前と全く同じで、俺は嬉しかった。それだけに天野君には落胆したよ」

 容赦なく淡々と言い張るトモさんの青い双眸は冷たく、残酷な厳しさを孕んでいる。 

「い、いや、でも三年ぶりなんだ。俺はたまたまだよ、誰でも昔通りってわけにはさ」

「俺達は昔、天野君の《駅の主》に惚れ込んだ。すごかった、中学生だというのに。あの頃にあった常識外れの異質な雰囲気は、努力を積み重ねたところで誰にでも表現できるわけじゃない。あれを俺は期待していたんだが……正直、残念だった」

 でも確かにそれは、俺も感じたこと。

 過去の記憶にある三年前の《駅の主》と、今日ステージ上で見た《駅の主》を重ねようとするけど、噛み合わずに離れる。どちらも同じ舞が演じたものなのに。

「酷なことを言っているのはわかってる。しかしあの完成度では満足できない。本番まであと一週間弱、経験の薄い者は伸び代があるが、経験者はもう劇的には変わらないだろう」

 あれでも観客に対して、下手には決して映らない。

 けど三年前にはあった圧倒的な、静かな威圧感が今日の舞にはなかったのは事実だ。

「まあ、それを何とかするのも共演者の役目。もう一人の主演なら、期待できるかな?」

 やや遠回しに「頼むぞ」と告げられて、俺は肩の力を抜いて項垂れた。

 ただでさえコミュニケーションにすら困っている状況なのに、期待されても。

「どうかな。避けられ気味だし二人だけで会話できる場を作るのにも困ってるよ。そうだ、舞の電話番号とかアドレス知らない?」

「知ってるぞ。ただ教えるのはいいが、潤は避けられるかも。俺も天野君に核心を突くようなメールを送ったこともあるけど返信は無かった。都合の悪い話はスルー。でも向こうは質問や相談を押し付けてくるからタチ悪い」

「やっぱそうだよね。難しいや」

「でも、天野君と本番を成功させるって、約束したんだろ? 諦めるなって」

「あんま追い立てないでよ」

 こりゃ失敬、とトモさんは真っ直ぐ立てた片手を俺へ向ける。

「明日からは俺からも助け舟出すよ。潤と天野君が二人きりになりやすいようにな」

「ありがとう。もし機会があれば、俺からも昔の演技を意識するように投げ掛けてみるよ」

 本番まであと六日間、授業のある平日を含むから実際はもっと少ないと考えた方がいい。

 そう考えてると、何か頭の片隅に引っ掛かっているような感触に見舞われた。

 何かを忘れているような。俺は今自分で大事なことを……本番?

「どうした?」

「そういえばトモさん。綾からさ、姉さんの件って、聞いてない?」

 最低限の言葉で質問すると、トモさんは細かな挙動すら止め、石造の如く固まった。

 数秒後「忘れてた」と、口以外を固めたままそう呟いた。

「すまん、マジすまん。この合宿の件とかさ、あまりにも忙し過ぎて忘れてた」

 てへっ、となぜか某お菓子会社の女の子の如く、ベロを口の端から出しておどける。

 忘れていたとしても、無理はない。普段の生徒会長の仕事に加え、合宿事情の諸々をこなしているのだ。むしろ悪いのは確かめるのを怠っていたのは俺だ。

「ああ、でも平気だぞ。当日はOBだとか親族・保護者だって言えば、基本的には受付通るしさ、問題なく入れる」

「わかった。ちょっと忙しいとは言ってたけど、伝えとくよ」

「おう。澄香の姐さん、元気か?」

「メールのやり取りばっかで一年以上会ってないけど、相変わらずこんな感じだよ」

 一ヶ月前に綾にも見せた「液晶漏れだ~、清浄なる世界が侵食される~」と書かれたメールを開いてから、携帯電話をトモさんへ向かって投げる。

 文面を見た途端、鼻で噴出した。けどどこか安心したようでもある。

「慌ただしさは昔と変わんないのな。俺も綾も、澄香の姐さんには世話になったしな、是非とも観に来て欲しいよ」

 幼い頃、姉さんは俺だけでなく、またに鐘ヶ江兄妹も連れ回して遊んでいた。

 特に綾とは七歳差で、しかも小柄な背丈がお気に入りで可愛がっていた。

「だとすれば、俺も稽古に力を入れなきゃな。あねさんの前で無様な真似はできん」

 今までは部長として広い視野を保っていた青い目が、ギュッと締まったように見えた。

「そういえば、まだ観てないね」

 俺の言葉の意味が分からず「ん?」と唸ることで聞き返される。

「トモさんの演技だよ。今日はまだ《おっさん》の出番は無かった」

水無瀬先輩の《駅員》と俺の《少年》のやり取りが終わった後、駅の事務室に入りトモさんの役である《おっさん》が登場する。今日はその手前までしか稽古が進んでいない。

「自信のほどは?」

 数分前にトモさんから受けた、試すような視線をそっくりそのまま返してやる。

「それは――」

 しかし少しも怯むことなく、

「――明日のお楽しみさ」

 自信に裏打ちされたような、分厚い不敵な笑みをトモさんはしばらく続けた。



『見えない壁みたいなのに押し戻されて改札も抜けられない。かといって線路伝いにスタンドバイミーごっこを試みても結果は同じ。これは手詰まりだろう』

 革張りの低いソファに《おっさん》は深く座り、開いた膝に肘を落として節くれだった長い指を両手で組む。

『じゃ何かよ、俺達は本当にこのボロい駅から出られないっていうのかよ?』

《不良》は乱暴に振るった腕で空を凪ぎ《おっさん》へ行き場のない不満を吐き出す。

『けっ、冗談じゃねえぜ』

『大きい声出さないでくれない? はっきり言ってウザいんだけどー』

 落ち着きのない《不良》に対して、気怠い口調で《家出娘》は煽り立てる。

『なんだ、この糞チビ女』

 挑発してくる《不良》に対し全く動じず、気に食わない顔で誰もいない方に視線を外す。

『まあまあ、待ちなさい。それに君は行く宛は無かったんだろ? こうして寝床にあり付けただけでも僥倖じゃないか』

 荒れる《不良》の両肩を抑えて、言い聞かせるように苛立ちを静めようとする。

 立ち上がり、歩く動作、台詞、その全てを意識して動かすことで「老い」を表現し、自身の年齢に対して二倍もする《おっさん》という中年男性の役に、トモさんは成り切っている。

 ただ、それはあくまで技術的な話。

 どんなに稽古を重ねようとも人間自体が成長していなければ表現できない、濃密さが伝わってくる。これは三年前に見たトモさんの《おっさん》には無かった。

 役者本人のユーモアも感じる。太い演技だな、と思えた。

『ん? 寝床を提供すると言った覚えは無いぞ。ここは浮浪者どもの溜まり場じゃない』

 四人の輪から外れた位置にあるデスクに寄り掛かり《駅員》は腕を組んでいる。

『そこは姐さん、未来ある若者達のためのボランティアだと思って、な?』

『若者達へのボランティア? ならあんたは今すぐここから追い出しても構わないな? それとも、そんな立派なヒゲを生やした男が『若者』などと言い張るのか?』

 デスクから離れ、目上に当たるはずの《おっさん》に対して礼儀を弁えず攻め立てる。

 トモさんも水無瀬先輩も背が高いから、二人が隣り合うとかなりインパクトがある。

 あと今は無いけれど、本番でトモさんは鼻の下と顎に付けヒゲをするらしい。

『おやおや、これは手厳しいな。そうだ、少年。全員分の飲み物でも買ってきてくれ、外に自販機があっただろ?』

『はいはい、わかりました』

 俺は自分以外にステージに立つ四人を指差して数え、上手袖へ歩いていく。

「はい、そこまで。さすがに休憩入れようか」

 ステージ正面から見て俺の姿が消えると、フロアでパイプ椅子に座る結城先生が手を叩く。

 すると緊張の糸が解けたように五人全員が一斉に肩の力を抜いた。

「なんか体は疲れてないのに、神経が疲れますね」

「さすが運動部、的確な表現だね」

 勇と綾は二人揃ってステージ端にぶらりと足を投げ出し、ぐったりと鉄柱が交差する高い天井へ半開きにした口を向ける。

 五月二日日曜日、合宿開始二日目。

 部室だった昨日とは違い、今日は朝から体育館での稽古。

 午前中は、本番で使う体育館ステージで昨日のおさらいをしてから、続く事務室のシーンに必要な仕事机やソファ等をみんなで運んだりしていた。

「鐘ヶ江くん。やっぱり三つのシーンを続けてやるのは少し無茶でしたよ」

 疲れている一年生二人とは違い、余裕のある水無瀬先輩は部長の采配へ抗議する。

「それはわかっていたけど、五人が揃ったテンションを続けてみたかったんだよ。五人全員の連携が命の場面だから、休まず続けた方が精度上がると思ったんだ」

 午後に入ってからは、昨日の続きである事務室のシーンから稽古を続けた。

 具体的には、事務室に《少年》《おっさん》《駅員》《不良》《家出娘》が集まり、その五人の掛け合いが続くシーンが一つ目。

 続いて、全員が事務室から出て、改札口には見えない壁があり外へ出られないこと、線路に沿って歩いても途中で押し戻されることを全員で確かめるシーンが二つ目。

 最後に、今やり終えたばかりの、事務室に戻り駅に閉じ込められたことを話し合うシーン。

 午後に入ってからシーンの切り替わりで休むことはせず、この三つを続けて行った。

 それぞれの合間は細かな指摘をした程度で全員ほぼ立ちっぱなし、しかもこの三つのシーンはステージ上にいる役者の人数が劇中で最も多いから神経を使う。

 台詞自体が少なめの俺や、慣れている三年生の二人はさほど疲れていない。ただ、体育館のステージも初めてで、演技自体もまだ不慣れな勇と綾には堪えたかもしれない。

「初めてやったにしては結構良い出来だった。二人ともおつかれさん」

部長は休憩中の一年生二人の肩を掴むことで労う。

 それぞれの役作り自体はあまり問題無い。

 水無瀬先輩は昨日の時点で《駅員》の役を十分身につけていたし、綾はセンスが良いせいか《家出娘》の物憂げな雰囲気を掴んでいた。トモさんの《おっさん》に関しては、説明すらいらないレベルの完成度。勇の《不良》はまだ荒い部分はある、けれど昨日より着実に進歩している。

 重要なのはこの五人で調和の取れた芝居にできるかということだ。独立した演技は一人一人の努力で良くなっても、それぞれの連携は阿吽の呼吸を合わせる必要がある。

 役者と役者が対話しなければならない。

 それを可能にしているのは、あの五人の中心にいた《おっさん》であり、どれだけ演技力が高くても役者がトモさんでなければ、あの芝居は成立していない気がする。

「さて、俺達は汗を掻いたところで、次は天ノ川コンビに頑張ってもらおうか」

 トモさんはステージから飛び降りて、体育座りしている舞へ「出番だ」と手を差し伸べる。

「わかりました。お見せしましょう」

 目の前に出されたその手を、舞はまるで迎え撃つように握る。

 たったそれだけの二人のやり取りを見て、俺の中のシフトが瞬時に切り替わった。

 今日これまでの出番は、主人公としてステージにいただけ。

「俺はあまり疲れてないし、少ししたら続けてやっても構わないよ」

昨日も含めた稽古で、俺自身の演技力が必要だったのは最初の短いプロローグだけ。真価を問われるのはこの後の、長く続く《駅の主》とのシーンからだ。

「アヤやん、セット片付けよう」

「そうだね」

 二人の一年生は古びた机をステージ下手へ運び出そうと動く。それに倣ってか、水無瀬先輩と結城先生もソファを同じ方向へ移動させる。

 最後にトモさんが季節外れのストーブを運ぶと、事務室の演出に必要なセットは一つ残らず消え、俺以外の部員は全員ステージから降りた。

 この後は事務室内ではなく、駅のホームで二人きりの長い掛け合いが始まる。

「それじゃ、よろしくね」

 軽快にステージへ飛び上がった舞は、打ち付けるように握り拳を俺へ向ける。芝居の前に限らずこんな男同士がするような挨拶を、三年前には舞から一度も受けたことが無い。

「ああ、全力を尽くすよ」

 でもそんなことは気にしない。今俺ができる最高の演技を、全身で打ち出すだけだ。

「最後の方に俺の台詞が一回だけあるけど、今はここからやらせてもらう」

 フロアに座り込んだままトモさんは言う。

 最後にいつまで経ってもホームから事務室に戻らない《少年》を《おっさん》が呼びにくるけど、姿は見せずにただ声を掛けるだけになっている。

「それじゃいつも通り、好きなタイミングで始めてくれ」

 俺が下手袖のカーテン裏。

 一方で、ステージ上手からやや中央よりに舞は立ち、その横顔は静かに刻を待っている。

 俺は両手首のリストバンドを左右の手で交差するように掴み、数秒間だけ目を閉じる。

 集中を妨げる邪魔な音は何もない。そんな心地良い静寂、今から二人だけの時間が始まる。

 俺は狭い歩幅でゆったりと足を進めた。

『あれっ……あ、あのー』

 行き先には想定していなかった人物の姿、それは自身の危機を救ってくれた少女。

 他者を寄せ付けぬ雰囲気を纏った少女に一瞬躊躇いつつも、勇気を出して声を掛ける。

 すぐに返事の言葉は無く、やや間が空いてから鬱陶しそうにだらりと振り向く。

『何?』

 一人の時間を壊した邪魔者を睥睨するその眼には威圧感、それは僅かな敵意を含んでいる。

『さっきは、助けてくれてありがとうございます』

 無難なお礼に気に食わなかったのか、興味を失ったように再び《少年》から視線を逸らす。

 目下のフロア、つまり左右に伸びる架空の線路を《駅の主》は陰鬱な眼差しで眺める。

『忠告したのに、どうして出て行かなかったんだい?』

『あれだけじゃ、何もわからないですよ』

 鋭い声を出す舞の《駅の主》とは逆に、俺は両手の動きと合わせ柔らかな表現を心掛ける。

『あの駅員さんは仕事だからしょうがない。けど、君を含めた四人は招かれざる客かもしれないね。おかげでわたしの予定は水の泡さ』

『予定って、一体何のことですか?』

 呑気な質問に対し諦めたように息を抜いてから《駅の主》はメリハリのある動きで踵を返しフロアから《少年》へと向き直る。

 そして悪戯めいた上目遣いで、からかうようにこちらを覗き込み、

『察しが悪いなあ。この駅を外界から切り離したのは、このわたしなのさ』

 サーカスのピエロの如く楽しそうに自らの胸に手を添える。

 閉鎖された駅を司る《駅の主》その非現実的な存在を、舞は全身で表現している。ブレのない一貫した《駅の主》像をしっかり打ち出せている。

 間違いではないし、その迷いのない演技は一つの正解であるとは思う。

 けど、そうじゃない。

 俺が三年前に触れた舞の《駅の主》は自ら存在を主張する活発な印象はない。

 俗世から切り離された存在、とでも言えばいいだろうか。何処か人離れしていて静かに他者へ笑い掛ける美しい幽霊のようなイメージ。それがこの舞台劇にある駅のホームという設定と噛み合って、浮遊感のある世界を表現していた。

『なんだか不思議だね。ふふっ、君とは初めて会った気がしないな。他の人はわたしとこんなに長く会話なんか続かないんだよ、あの駅員さんとかもそう』

 口元に人差し指を当てて、挑発的に囁くも芯の通った声で語り掛けてくる。

『それは光栄ですね。でも会話が続かないなんて、わからない。少しミステリアスなだけであなたは普通の人なのに。僕はそれを知っている、多分』

『どういう、こと?』

『あなたは覚えてないだろうか?』

『おーい、少年。まだかー』

 いつまで経っても戻ってこない《少年》に痺れを切らし、フロアから《おっさん》の叫ぶ声が上がる。

『ちょっ、ちょっと待って』

『縁があったら、また会いましょう』

 少女は去っていくとき、必ずこの台詞を残す。いわゆる決め台詞だ。

 紅紫色のリボンに吊り上げられた後ろ髪を揺らし、下手の舞台袖へと走り去っていく。

「はい、そこまで」

 舞がカーテンの裏に消えたと同時にトモさんの声が上がり、同時に俺は全身の力を抜く。

 昔通りじゃないけど、芝居の質自体は悪くないだろう。

「さすがは天ノ川コンビですね」

 やや定着しつつある通り名で水無瀬先輩に称賛され、勇からは口を開けたまま拍手、結城先生には満足そうに頷かれる。綾だけは一人、なぜかステージの端を睨んでいた。

「良かったよね? 潤くん」

 課せられた芝居をこなした、舞の表情には満足そうな顔があった。

 そういえばこんな明るい舞の笑顔を、再開した日から一度も見ていない。それは言い換えれば、俺は今日まで舞に対し、警戒して構えた接し方しかしてこなかったということ。

 何を怖がっていたのだろう?

 舞の演技が昔と違うなんて、些細なことに過ぎない。

過去、本番を迎えられなかった舞台劇にかつてと同じ配役で望む。願っていた奇跡のはずなのに、俺はなぜ自然と受け入れなかったのか。

 歩道橋の上で待ち伏せされたり、ストレンジホームの公演を裏で進められたり、陰で知らないこともされた。けどそれで固くならず、むしろ喜んで聞いてやれば良かったのだ。

 今はこうして同じステージ上に立ち、二人で稽古ができる。それでいいじゃないか。

「ああ、良かったよ」

 爽やかに今も微笑んでいる舞へ歩み寄る。一歩、二歩と、やがて手の届く距離に入り、力を抜いてだらりとしている舞の手を取ろうとした、そのときだった。


「二人とも、悪いがもう一度やってみてくれないか?」


 舞の手を握ろうとした俺を防ぐように上がった無遠慮な声。

 俺だけでなく舞も、さらに他の部員と結城先生を含めた全員の視線が、一人に集中する。

 膝に手をついてゆっくりと体を起こし、屹立するその姿は傍若無人。

「いいか?」とメガネの橋を指で上げ、場の空気など構わず聞き直す暴君の姿を、一同が唖然と見ている。

 そして気づく。見えない緊張を走らせる青い双眸はステージに向く。フロアからはそう見えるだろう。その矛先に俺はいなくて、視線を交差させているのは、舞だった。

 まさか――その様子だけで、俺はトモさんの意図を察する。

 試そうとしている。

 昔の演技と方向性が変わっている舞へ「それは違う」と訴えている。

昨日の夜、トモさんは舞の演技に対しての不満を話していた。けどこんなやり方で示すのは。

「部長、何が気に食わないのだ? わたしはあれで良いと思うぞ」

 結城先生は組んでいた足を下ろし、ずっと座っていたパイプ椅子から立ち上がる。

「わたしも同じ意見です。鐘ヶ江君、あれで完璧ではないのですか?」

 水無瀬先輩の言った「完璧」という言葉が気に入らなかったのか、トモさんはぴくりとこめかみの辺りを揺らし、副部長へ向けて首を動かしたその時、

「いいですよ」

 そう堂々とはっきり言い放ったのは、俺のすぐ目の前にいる主演女優だった。

「でも、二、三分だけ時間を下さい」

 自信すら窺える覇気のある言葉を残して、舞は一人ステージを降りていき、そのまま部員達の視線を意に介さず体育館を出ていった。

「兄貴、どういうこと?」

 妹の質問にトモさんは「すぐにわかるさ」と呟いて、それ以降はずっと黙ったままだった。

 そして舞は宣言通り数分後、再び体育館へやってきた。

「お待たせしました」

横髪を耳に掻き上げてから、芝居を始める位置に立ち、睨むような視線のあとゆっくり目を閉じた。

「潤くん、ボクはいつでもいいよ」

 これからは違う領域だと、どこか研ぎ澄まされた感じがする舞に気圧され、俺は再び下手の舞台袖へ向かった。全員の意識が集まる中、

「始めてくれ」

 今も舞を見たままのトモさんの声は何よりも重く、俺の心臓の鼓動を一際強く打った。

 舞が何を考えているのかわからないけどこの先、甘えは全く通用しないだろう。

 俺はさっきと同じように両手首のリストバンドに願掛けして、自らの演技を始めた。

『あれっ……あ、あのー』

 静まり返った空間に一人佇む少女に声を掛ける。

 すぐに返事をしないその姿はさっきの芝居と何も変化はない……ただ、錯覚だろうか。

 柔らかく曲がる両手の指は空気を掴むようで、さっきとは違う様子だと感じた。

『何?』

 そんな指に見惚れていると、囁くような声が放たれた。

 意識が引き寄せられ反射的に舞の顔を見ると、まだ目は閉じたまま。

 しかし徐々にその瞼は上がり、開かれたところで微かに顎が上がる。

 一呼吸の間が空き、緩やかに首が動きながら、目尻へと瞳が流れる。

 すると同時に、さっき耳に掛けた横髪が滑り落ちていく。

 今までとは違い、はっきりとは開けずに細いままの眼は眠たそうだ。

 たった数秒間だけの細かい仕種なのに、すでに今までの演技とは異なるのがよくわかる。

『さっきは、助けてくれてありがとうございます』

 俺の台詞の後、首を少し傾けると、閉じそうなほど微かに開いた唇が動く。

『忠告したのに、どうして出て行かなかったんだい?』

人の心を撫上げる妖しさを秘めた声に、俺は息を呑む。

 変容した舞の雰囲気に気を取られないように、自分の演技は崩さないよう努める。

『あれだけじゃ、何もわからないですよ』

『あの駅員さんは仕事だからしょうがない。けど、あなたを含めた四人は招かれざる客かもしれないね。おかげでわたしの予定は水の泡さ』

 重たそうな眼はそのままに、暖急のない流麗な動きで翻した両手を人に置き換えて話す。

 その人離れしている幻想的な様は、観る者を惑わすようでもある。

『予定って、一体何のことですか?』

『察しが悪いなあ』

 これまでの演技が動的だとすれば、今の演技は静的なもの。

 能動的だった部分が削ぎ落とされて、観る者に訴えるのではなく、観る者を引き付ける演技に変わっている。

『この駅を外界から切り離したのは、このわたしなのさ』

 細かな仕種と供に紡がれる台詞は美しくも妖艶であり、さらにその立ち居振舞いは観客達を嘲笑う。まるで人ではない非現実的な存在が宿ったかのよう。

 俺が三年前に接した《駅の主》の圧倒的な存在感を漂わせる、学生離れした演技だ。

 懐かしい。俺やトモさんが待ち望んでいたものはこれなのだ。

『いえ、完全に遮断したから無理よ。わたし自信も例外じゃない』

『ならあなたも僕らと一緒にどうでしょう? 少しとっつき難い人達だけど賑やかですよ』

 共演者だというのに陶酔しそうになった最中、

『お誘いのところ……悪いけど、遠慮する、よ』

 どうしたのだろう、台詞の歯切れが急に鈍くなった。さらに踊るように舞い続けていた両手も重くなり、やがてぶらりとその動きを止める。

『だって、これ、は』

 両膝に力はなく、体が前のめりになる。額は汗ばんでいて、すでに芝居中のものではなく、ただ苦しみに耐えているだけのもの。

それでも舞は全うすべき芝居を続けようと、途切れ途切れの台詞を繋ぐ――刹那、

『己、への……いまし、め』

それはビデオのスロー映像のように現実味の感じられない光景。

徐々に閉じていく瞼。

体を支え切れなくなった膝がガクリと曲がる。

そして紅紫色のリボンで結ばれた長い髪が散らばると共に、力尽きて崩れ墜ちていった。


次回、7/31(金)PM10時頃に更新です。

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