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ツインアクトレス  作者: 伊瀬右京
4/10

2章(前半)

DAY:5/1 7:30

To:野川 澄香

Sub:Re:確か合宿だったっけ?

>>羨ましいなあ

一日目にして面倒なこともあったよ。トモさんの鼾が煩くってさ、全然眠れなかった。

でも合宿中は食費浮かせられるのが、ちょっといいかもね。


 五月一日土曜日、合宿開始初日。

 目覚ましのように届いたメールに返信したところで思い出す。

 姉さんを公演に招待する話。きっと綾からトモさんに話は伝わっているはず。

 しかし、昨晩は向かいのベッドで不快な鼾いびきを掻いていたトモさんの姿はすでにない。

 どこへ行ったのか。疑問を保留して、まずは腰掛けている二段ベッドの上の段を覗く。

「あ、おはようございます」

「早いね。もう起きてたんだ?」

 沖田くんはすでに寝巻ではなく、ハーフパンツに英語が沢山印字されたカットソーという動きやすそうな格好。台本をナップザックの中に入れて紐を縛り、準備万端といった様子。

「部長は一足先に家庭科室へ行きました。僕らも朝ご飯手伝いましょうよ」

 下級生より準備が悪いことに焦りつつ、急いで身支度を整える。これだから集団行動に慣れていない人間はダメだなと痛感する。

 寝巻を脱ぎ、ストレッチが利いて動きやすいブラックジーンズと、Tシャツの上から襟にベルトが付いた灰色のブルゾンを羽織る。

 最後に使い慣れた、クリーム色のリストバンドを両手に填める。

「なんかかっこいいですね。その手首のバンド」

「そう? これ付けてるとね、気合が入るんだよ」

 その質問に軽く答える。ただ、微かに伝わってきた沖田くんの声色には不穏な感触があった。

「ん、もしかして変なこと考えてないだろうね?」

「えっ……あ、いえいえ、そんなことは」

 顔に出るタイプなのか、今の彼はどこか取り繕っているように不自然。

 両手の手首から連想した悪い予感を隠そうと、平静を取り繕っているようだった。

 俺はそれを晴らすために右手のリストバンドを抜き取り、彼に放り投げた。

「ほれっ、普通のじゃないんだよ。重り付き」

「ふえー、こりゃすごいですね」

 小さい鉛玉が沢山詰まったバンドを受け止め、物珍しそうに勇は触っている。

「俺は運動部とかに入ったことないからね『これくらいやっとけ』って言われたことがあってさ。だから妙な傷も無いよ、この通りだ」

 肌が顕わになった右の手首を返して見せつけてやる。

 俗な三流ドラマでよく見かける後ろめたい傷など無い、普通の清廉潔白な手首だ。

「こっ、これってどういうところで売ってるんですか?」

 しかし数秒前の体裁は微塵も無く、見知らぬアイテムへの興味で俺のことなどすでに眼中に無い。それは無邪気な子供のように見えた。

 彼がリストバンドに夢中になっている間、最低限の荷物を手提げ袋に詰めて、準備完了。

「お待たせ、沖田くん」

「野川先輩、自分のことは「勇」の呼び捨てでいいっすよ。呼ぶの短いですし」

 学校の部活動なんて三年振りだから、慎重になり過ぎていたのかもしれない。

「わかった。それじゃ勇、俺も名前の方でいいよ」

「んー、了解です。じゃあ、潤先輩!」

 少し考えてから明るく答える勇に続いて、ほぼベッドだけの狭い宿泊室を出る。

 男子三人は、部室棟一階の端にあるこの部屋を宛がわれ、トモさんは「理不尽だ」と不服そうに漏らしていた。もっと広くて良い部屋は言い負かされて、女子達に奪われたようだ。

「昨日の夜はちょっと騒ぎ過ぎだったかな。今日が練習初日なのに」

「でも皆さん楽しそうでしたね」

 ファミレスから戻った後は部室でとにかく騒いだ。

 最初は広げたお菓子を中央に全員で輪を作り駄弁っていた。けれどどんな流れか、途中からローリスク禁止王様ゲームなり、ガチ修羅場即興劇なり、かなり盛り上がった。

「「おはようございます」」

 家庭科室の扉を開けてから二人同時に挨拶すると「おう、おはよう」という軽い返事。襟の尖った白いシャツにベージュのスラックスというシンプルな服装のトモさんがいた。

「男子諸君、おはよう。今日からよろしく」

 それともう一人、授業中に見慣れた黒いタイトスカートや胸元にブローチという教師然とした服装。後ろ髪を三つ編みできちんとまとめた彼女は、演劇部顧問の結城梓先生。

「しっかし、羨ましい。夜の騒ぎ、わたしも参加したかったぞ」

やさぐれた感じのする切れ長の鋭い目尻の先にはトモさんがいる。

 昨日は部員全員で遊んでいたのに、顧問一人だけ除け者にされて不満らしい。

 結城先生には、女性としての奥ゆかしさが普段から欠片も無い。良く言えば大らかな性格で悪く言えば単にわがまま。だから、この状況は穏やかとは言い難い。

「みんなで食事してから部室で騒ぐなんて、とっても楽しかったんだろうなー」

訴えるような厭らしい先生の精神攻撃を前に、トモさんは朝の食料を並べ続ける。

 察するに、俺達が来るまで不満を延々と言われ続けてきたのだろう。

 なのに無表情で平常心を保ち耐え抜いているその姿は、悟りを開いた釈迦のようだ。

「おはようございます」

 すると重たい空気を和らげる、水無瀬先輩の綺麗な声の挨拶が廊下から聞こえてきた。

 はっきり浮き出た鎖骨の上に細めのネックレスを下げ、膝下まで伸びた黒を基調とし縦に白のストライプが伸びるワンピース、という上品なお嬢様スタイルが似合っていた。

「水無瀬さん、おはよう。あれ、他の二人は?」

 結城先生の問いに「その……」と歯切れの悪い返事をしてから、心配そうな面持ちで歩いてきた廊下を見返す、何事だろうか。

 少し待つと残り二人の女子が姿を現した。

 まず姿を現したのは、アーガイル柄のニットに灰色のスカートを太いベルトで締めたカジュアルな装いの舞だった。腰下まである後ろ髪をまとめる紅紫色の紐リボンは、動きやすさを考えてか昨日よりも高い位置にあり、ポニーテールになっていた。

「ほらほら、綾ちゃん着いたよ。しっかりしなさいって」

 舞は右肩で支えていた小柄な女子部員の体を揺さぶる。

 しかし、主無き操り人形のようにふらつくだけで応答はない。

「なんだ、その魂抜けてる情けない面のガキは。初日なのに締まらねえなあ」

「いやいや、あなたの妹ですよ、部長」

 俺からの突っ込みを、トモさんは認めたくなさそうだった。

 綾は肩から袖へ赤い一本のラインが入ったアイボリーのパーカーに、腰から下の細いラインがはっきり出るスパッツ、勇と同じくらい動きやすそうで気合の入った服装だ。

 しかし肝心の中身の方はというと、目は動かず瞬きもしないし、口は半開きで放心状態。

「はー、疲れた」

 舞は重い荷物を扱うみたいに綾を椅子に座らせ、役目を終えて隣の椅子に腰掛ける。

「綾ちゃん、おーい。鐘ヶ江妹、起きろー」

 結城先生が頬を抓ったり優しい往復ビンタをしても、綾は三途の川から戻る気配はない。

「天野さん。アヤやん、どうしちゃったの?」

 綾に嫌がられた妙な呼び名はそのままに、勇は休憩中の舞に聞く。

「そりゃあ、勇くん。それを聞くのは、朴念仁ってやつよ。ですよね、水無瀬先輩?」

「ちょ、ちょっと天野さん」

 舞から気味悪い独特な含み笑いを向けられ、水無瀬先輩は慌てる。

「一人で状況を楽しむのはほどほどにしとけよ」

 そう俺が注意すると、舞は不機嫌そうに唇を突き出す。しかしすぐ立ち上がり、

「ありのままを話します。わたくしが起きた時には隣の布団で水無瀬先輩が、綾ちゃんを抱きしめていましたです。報告これでよろしいでしょうか、野川先輩!」

 捲し立てるように喋り、最後にわざとらしく指先まで力のこもった敬礼を決める。

 どうやらこいつは何年も昏睡状態でいたせいか、少し捻くれた性格になったようだ。

「そ、その……」

 両手と一緒にもじもじと肩を狭めて、頬を赤らませている水無瀬先輩は可愛らしい。

 その証拠に勇は、恥じらう先輩の姿に視線が釘付けになっていた。

「ふ、普段は……だ、抱き枕がないと、眠れ、なくて」

 言い難くそうに彼女が話す中、顎を擦りつつ「フヒッ」と謎の奇声を発して唸るトモさんは状況を察したようだ。

「多分寝惚けてて……で、でも学校に持ってくるわけにもいかな――」

「匂い、甘かった。貞操奪われた」

 これまで沈黙を守っていた綾が間髪入れずに一言。

 次の瞬間、肩を震わせていた舞は我慢できず、机を叩きながら堪えていた笑いを噴き出す。

「ちょ、ちょっと、綾ちゃん」

 未だ意識が戻らない綾の両肩を、水無瀬先輩は涙目で揺らし続ける。

 なるほど。

 綾は水無瀬先輩に抱き枕代わりにされ、朝まで熱い抱擁を受けていたと。

 そこで勇はなぜか突然、不自然な駆け足で家庭科室を出て行く。

 声を掛けようとすると、トモさんに「そっとしておけ」と肩を掴まれ止められる。

「なんで?」と聞いてみると、気取った感じで楽しそうに首を振りながら耳元で囁かれる。

「勇は普段、剣道部なんて男臭い集団にいる。しかもやつは間違いなく性格はムッツリだ」

 先入観で構築された人間観察だけど外れてはいないかも。

「そこであんな話題を聞かされてみろ、刺激が強いだろう。雄として純粋に立体的な問題が、文字通り浮上してくるとは思わないかね、野川潤君」

 左手を添えた右腕の手首を垂らしては起こす動作を繰り返し、得意気に話すトモさんは部員達の反応を見て実に楽しそうだった。



 朝食に用意されたサンドイッチのセットを頬張りながら、橙色の台本を眺める。

 三年前の台本とは違う作り。表紙には昔と同じく『ストレンジホーム』というタイトルが書かれていた。それを捲ると、右のページには六人分の配役がある。


[キャスト]

少年 ・・・・・・・・・・・・・ 野川 潤

少女(駅の主)・・・・・・・・・ 天野 舞

おっさん ・・・・・・・・・・・ 鐘ヶ江 智一

駅員 ・・・・・・・・・・・・・ 水無瀬 譲

不良 ・・・・・・・・・・・・・ 沖田 勇

家出娘(兼・ナレーター)・・・・ 鐘ヶ江 綾子


 最初の三人は昔と同じなせいか、この一ヶ月間何度も見たけど感慨深くて目が留まる。

 その左のページには物語の概要が記されている。


[ストーリー]

田舎の駅に辿り着いた少年は、不良の追い剥ぎに遭ったところをある少女に救われる。しかし話もできず、すぐに少女はどこかへ去ってしまう。

少年は女性駅員に声を掛けられ、事務室で怪我の手当てを受けることになる。そこには他に、疲れを感じさせる風貌の中年男性がいた。さらに家出娘、自分を襲った不良も合わさり五人でしばらく雑談する。その後、家出娘が帰ろうとすると改札口には見えない壁があり、全員が閉じ込められてしまう。話し合いをすると、この駅には眉唾な風説があることがわかる。

その途中飲み物を買うために、少年は一人ホームへ行くと助けてくれた少女がいた。お礼を言ってからしばらく語らうと少女は再び去っていく。

駅員は言う「ここは一年に一晩だけ閉鎖される駅であり、今日はその夜。この閉鎖された夜には主である少女がいる、それがあの子だ」と。加えて主の噂を知る家出娘と不良の話や、本人と面識がある駅員、中年男性の考察などによって、主の正体が徐々に明らかになる。

やがて解放される時刻になり、一人一人駅を出ていく。最後に少年は一人残り、駅の主である少女と二人きりなったとき告げる「君に会うために僕はこの駅へ来たのだから」と。


 大きな括りで全五章になるこのストーリーの概要は、過去何度も読み返したもの。

 舞台となるのは人里離れた駅のホーム。

 五人の男女がそこに隔離され、解放される時間まで互いの事情や駅の謎について話をする。最後に、主人公が閉鎖された駅を作り上げた《駅の主》と対話する、という話。

 台本を閉じると、表紙にはタイトルの他に『諏訪乃 鏡』という人物の名前があった。

「ねえ、トモさん。この諏訪乃鏡って人、脚本家か何かなの?」

「あれ、お前知らなかったのかよ。最後のページを見てみろ」

 台本の裏表紙を捲ってみると、そこには同じ学区内にある別の高校の名前が記されてあり、その後に『筆者:同演劇部 諏訪乃 鏡』とあった。

「難しい漢字の名前だね。まあ、それはいいとして、これは高校生が考えた物語なんだね」

「何を今更。俺はとっくの昔に知ってたぞ」

 昔は稽古と物語の把握だけで手一杯、小さなことを気にする余裕は無かった。

 トモさんは急に何かを思い出したように、天井を見上げる。

携帯電話を取り出し変態的なスピードでフリック入力を済ませて、俺に画面を見せた。


水無瀬君がこの件を了承してくれた最大の理由が多分それだ

同じ高校生の脚本家として思うところがあったんだろ

最初はめっちゃ不機嫌だったのに台本渡した後、一人でしばらくじっと読んでたよ


 自分の台本を突然キャンセルされ、水無瀬先輩は烈火の如く怒り狂ったと聞いた。けど昨日から俺が見ている彼女は常に落ち着いていて、そんな片鱗を全く感じない。

 ストレンジホームは物語の内容だって面白いと思う。

 だからこそ先輩は、今まで経験の無い出演者としての参加を了承したのかもしれない。

 朝食を終えた頃には頼りない綾の状態も回復し、部室へ移動して午前の稽古開始となった。

「少し空気が濁ってますね」

 水無瀬先輩が窓を全開にすると、彼女の長い巻き髪を撫でた微風が部室内に入ってくる。

 その後ろに広がる雲一つ無い蒼穹に心が洗われる。

「じゃあやるか。全員、椅子で向き合うように円を作れ」

 今日一日の稽古場は演劇部の部室。

 明日からは体育館での稽古になるらしい。今日はまだ初日でしかも午前中は台詞合わせをするだけだから、部室で十分という話だった。

 部員達が内側に椅子を向けて円を作ると、その中央に部長は一人立つ。

「細かいことは気にせず、一通り台本を流していこう」

 結城先生は一人円から外れてパイプ椅子の上で足を組み、様子を見るようだ。

 仕切るトモさんと結城先生の声に初心者である綾と勇は目つきが変わる一方で、同じ初心者でも水無瀬先輩は慣れているせいか涼しげで肩に力が入っていない。

「よし、綾。好きなタイミングで始めてくれ」

 綾は頷いて返事をしてから、精神を研ぎ澄まし集中力を高めるように数秒間だけ目を瞑り、大きく深呼吸する。やがて、静かにゆっくりと瞼を開けた。

『駅、そこには人を無意識に吸い寄せる魔力がある』

 綾は淀みない芯のある声で、台本に書かれた一行目の言葉を放った。



「やっぱ経験者のお三方は違いますねー」

 勇は天丼にあったエビの尻尾を捨ててつぶやく。

 午前中に台本の読み合わせに区切りが付いて昼食となった。今日はコンビニ弁当、やや寂しいけど部活の合宿の食事としては相応だろう。

「そりゃ昔に同じ役をやってるからな。上手くて当然だ」

 トモさんは一人すでに食べ終え、偉そうに爪楊枝で歯の隙間をいじくっている。

「間近で見せつけられると、へこみますよ。さすがは部長と、天ノ川コンビです」

 トモさん以外にこの通り名を言われるのは久々で、少し痒い気分になる。

 経験者三人と初心者三人を比べると、台本読みの段階でも熟練差があった。

 前者は演技の域に達している。それに対し、後者はまだ台本に読まされている状態。

 水無瀬先輩は場慣れこそしている印象だけど、台詞に抑揚が無く平坦な印象。

 勇はトモさんが指摘して良くなったものの、まだ「照れ」を捨て切れていない。

 綾は初心者の中では一番上手いけど《家出娘》とナレーターという二足草鞋の使い分けにまだ混乱している節があった。

 ただ三人とも台本は確認程度に見るだけで、台詞自体はほぼ頭の中に入っていた。

「俺達はその分、伸び代が少ない。でも、勇はこれから変わっていくから大丈夫だ」

 そうトモさんは言うが、おそらく演技力自体は俺や舞よりいくらも上な気がする。

 仮にもし別の台本を使うのなら、三年間演劇部にいたトモさんはともかく、ブランクの俺と舞の演技は幾らかレベルの低いものになるはずだ。

 勇は「精進します」とやる気を見せるように右腕で力瘤を作る。

 するとそこには、盛り上がった筋肉が皮膚にメリハリのある筋を描いていた。それに比べると俺の腕は、贅肉はないが細く貧相で情けない。

 動揺を悟られぬよう、勇の腕からすぐに目を逸らすがすでに時遅し。

「やっぱ日本男児たるもの、鍛え抜かれた力強さというのは魅力的だよな。そんな両腕に重りを巻くなんて無駄な努力よ」

 勇の横で爪楊枝を振りながら、トモさんは面白そうにシニカルな笑みを浮かべる。

「若くしてやや肥満気味な人よりは幾分かマシだよ」

 舌打ちするトモさん、自分のお腹を摘む俺。間に挟まれた勇はおろおろしていた。

 そんな昼休憩が終わり再び部室での稽古となった。

 男達は家庭科室での食事を済ませてから部室に直行し、女性達は一度荷物のある部屋に戻ってから遅れてきた。女性は繊細であり、野蛮な我々とは事情が異なるのだ。

「アヤやん、その頭どうしちゃったの?」

 勇の驚く声をつられて振り向くと、三本のふざけた部位が目に入った。

「勇くんその呼び方……まあ、いいや」

 脱力気味に肩をガクリと落とし新しく備わった不本意なあだ名を諦めつつ、綾は自分の頭の上で存在を主張しているものを弾く。

「これはエクステよ、エクステ」

 それは脳天から額へと真っ直ぐ伸びる、緑色の触角だった。

 少し違和感があっても綾の髪質自体に癖がないから、緑色でなければ作り物と気づかない。

 他にも左右の揉み上げの辺りから、赤い髪房が胸元に二本下りている。

「おいおい、自己顕示欲丸出しの中二病患者はお断りなんだが?」

 トモさんはこめかみを引き攣らせ、作った安い同間声を唸らせつつ、妹を睨みつける。

 そんな兄を無視して綾は俺の前に立ち、自慢気に緑色の触角を人差し指で撥ね飛ばす。

「似合うでしょ?」

 単純な感想としては、答えはイエス。綾の小柄な体格との相性が良い気がした。

「似合うけど……でもさ、そんな恰好で稽古するの?」

 誰もが抱く真っ当な疑問を言う勇に、綾は人差し指を振ってチッチッと舌を鳴らす。

「勇くんはわかってないですよねー、水無瀬先輩っ」

 そうだねー、と水無瀬先輩は綾の後ろから赤い二本の揉み上げを楽しそうに弄っている。

「稽古どころか、これで本番いくのは良いアイディアかもって、さっき話してたところだよ」

 平然と話す舞とは逆に、勇は「え、本気なの?」驚きを隠せず聞き返す。

 規律や風紀に厳しい体育会系の部活に所属する者として、抵抗があるのかもしれない。

「というわけで鐘ヶ江部長。衣装としてこれを採用しては、如何でしょう?」

 水無瀬先輩は赤い二房の先を綾の鼻に向けて、猫じゃらしのように遊びなら提案する。

「俺は認めるとは言わない。なぜならば、これは伝統ある我が部の行事であり、仮装大会では決してないのだから。そんなの認めねえ!」

 力強く否定し、握った拳を水平に振り切るトモさん。

「そうですか……部員は六人。現在そのうちの女子三人が賛成しています」

 予測済み、と言わんばかりに温度の低い自信ある喋り方をする水無瀬先輩。さらに謀ったようなタイミングで、それに続く声があった。

「いや、七人中の四人が賛成だ。顧問だって頭数に入れても構わないだろ? 民主主義だ」

 女子部員達の後ろ、部室の入り口にはいつの間にか、男勝りな口調で勝ち誇る結城先生が立っている。しかし午前中とは違う意外な服装に着替えていた。

 フレームが太いプラスチックの青いメガネを掛けて手にはメガホン、上下はジャージという生徒達以上にラフで愉快なスタイル。部活の顧問らしい格好だが、普段はフォーマルな服装なので珍しく思える。

「で、出来レースかよ」

 結託する女性陣を前にたじろぐトモさんの様を見て、随分と権力が弱い部長だなと思った。

「男子諸君、こんな暴挙が許されてはならないとは思わないか?」

「トモさんには悪いけど、俺は思わない」

 不意に訪れた俺の裏切りを信じられず、トモさんは骨ばった顔を歪ませて驚愕する。

「潤、貴様……もしや籠絡されたな。女共に誘惑でもされたのか?」

「なんじゃそりゃ。違うよ、純粋に賛成ってだけの話」

 新たな賛同者を得て、綾は控えめに親指を立てて突き出してくる。

「綾の役《家出娘》を考えると悪くないよ。意味の無いファッションとしてじゃなく、やさぐれた家出娘なんだからこのくらいアクが強くてもいいかなって」

「おー、さすが潤。あたしも練習しててそう思ったんだよ。それに《家出娘》はあんまし出番が多くないし、かといって勇くんの不良みたいにアクションのある見せ場も無い。だからこんなアクセントあってもいいかなって考えたわけ」

 それを聞いて安心する。酔狂な座興ではなく、演出の一つとして考えていたことに。

「まあ、そういうことなら良しとするか」

 妥協し諦めたように頭を掻くトモさんは実に頼りない。

「我ままを通したところで、稽古も頑張らないと。《家出娘》の出番は少ないが、その代わりにナレーションと兼任。これを初心者がやるんだ。鐘ヶ江妹、君は結構大変なんだぞ?」

 しかしすぐに、温い部長のコメントとは対照的な大人目線での声が出た。

 結城先生は緑の触角を指で弾きながら綾を戒める。

 綾はわかりましたと一言、ゆるんでいた表情を引き締める。

 二人のやり取りでお遊びムードが終わり、部室内が少しだけ緊張した空気に変わった。

 トモさんは台本を片手に、一段上がった仮設ステージへ上がっていく。

 結城先生だけ窓際でパイプ椅子の上で足を組み、他の部員達はステージに向き合う形。

「これから立ち稽古に入る。最初のシーン、手始めに我が部のエースその1に手本を見せてもらうことにしよう。全員、参考にするように」

 どうぞ、と俺へ向けて手を差し出しトモさんはステージから降りた。

「そういう脚色は止めてよ」

 声を出すことで、俺は急にドクンと跳ね上がった自分の動悸を誤魔化した。

「冒頭はあたしのナレーションからだけど、そこからやるの?」

「いや、今はいい。通し稽古じゃないからな、部分的にやっていく」

 綾とトモさんのやり取りを見て、みんなが台本を捲る。

「まずは《少年》が駅にやってきて《不良》に襲われる直前までやって……おっと忘れてた」

 トモさんは慌てて仮説ステージの中央に、自分が座っていた椅子を置く。

 ベンチは台本にも記されていて、これからのシーンに必要なものだ。

 真夜中、駅のホームに主人公である《少年》が訪れるところから物語が始まる。

「始めてくれ」

 午前中の読み合わせとは違う、ここからが稽古の本番。

 けれどいざステージに向かうと、緊張で胸の鼓動が早鐘を打ち始める。

 歩く足は柔らかく動くか、喉が詰まらず台詞が自然と流れるか。ここに来て、そんな不安が頭の中を徐々に侵していく。

 仮設ステージ右端、つまり上手側に立つとみんなの視線が集まり俺の動揺に拍車を掛ける。

 そして部室が静まり返る中、舞と一瞬だけ目が合う。

 他の部員とは違って俺の演技を待つ好奇心だけではない。その瞳の中で、怖気づく俺に対する情けと憐れみが揺れているように見えた。

 一月前の歩道橋の上でも、始業式の後の屋上でも、常にペースはあいつにあった。

 でもせめて、ここで演技だけは劣るわけにはいかない。負けてたまるか。

 もう、逃げるのは嫌だから。

 願掛けに、左手首のリストバンドを右手で二度叩く。そして臆病な片足を一歩前に出した。

『きっかけなんてものは、もう忘れてしまった』

 腹から喉を通り出た声は詰まることなく、台詞となって外へ放たれる。

『教室には下らないことで感情を安売りしているクラスメイトがいて、部活では勝つ気もないのに青春ごっこをしている部員達がいて』

 踏み出す歩調は独白の雰囲気に合わせて、ゆっくりと進める。

『家では不仲を隠す両親の作為に塗れた空間が窮屈だった……ただそれだけのこと』

 空を仰ぐ首も同じように、緩急を無くして静かに少しずつ動かす。

『とにかく家の近くから離れたくて、電車に乗り続けた。夜になって、ようやく終電が行き着いた場所は、遠くに山さえ見えるド田舎。そして、ここは僕の生まれ故郷なのだ』

 長旅に疲れたように、ベンチ代わりの椅子へどすんと腰を落とす。

 ここまでの台詞は独白、次からは喋り口調になるから喉の使い方を切り替える。

『ふー、家を黙って出たのは良いものの、どこかに泊まる当てもない』

 唇を細めて息を吐き、ぐったりと体の力を抜いて椅子に背中を預ける。

『お金もそんなにあるわけじゃないし、腹も減ったし。最悪は野宿かー、どうしよ』

 座ったままお腹を擦って、疲れ果てたようにだらしなく腰を前にずらす。

「そこまで!」

 トモさんの張り上げるような声で芝居を区切るが、短い時間だったせいか名残惜しい。

「野川くん、やるじゃないか。部長、前評判以上だぞ」

「正直驚いてます……錆付いてはいないようだな」

「でも自分の感触としては、まだ少し硬いなって、思ってます」

 結城先生とトモさんからの評価は悪くないみたいで一安心。

 気づけば、他の四人は真摯な顔つきで俺を見ていた。

 その内の一人、舞に向かって少しだけ目を向けてみる。ほんの一秒間足らず視線を交わすだけの牽制、それだけで自分が押されっ放しじゃないことを示す。

 やり遂げたせいか、少し力が抜けてステージから降りようとしたところ、

「潤、待て待て、まだだ。このまま続けるぞ」

 トモさんに手を伸ばして止められる。

 そうだった。台詞の多さ少なさはあれど、主人公である《少年》は全ての場面でステージの上にいるのだ。一抹の不安が消えたとはいえ気を抜いてはいけない。

「さて、この素晴らしい演技を披露した我が部のエースその1に続くのは……エースその2である天野舞君と、ピカピカ新品で期待の一年生、沖田勇君だ」

 トモさんは軽快な足取りで楽しそうに舞と勇の間へ近寄り、二人の肩に手を置いた。

 了解です、と落ち着きのある澄ました声で返事をする舞に対し、

「は、は、はい!」

 勇は全く余裕が無さそうだった。さらにステージの段差に躓いて台本を落としてしまう。

「鐘ヶ江くん、少し調子に乗り過ぎでは?」

「悪い悪い、でも早い段階で煽った方が耐性は付くもんさ」

 水無瀬先輩は反省の様子はない豪放磊落なトモさんに呆れて引き下がる。

「まあ、打たれて成長する場合もありますからね」

 そう俺がフォローすると、トモさんは意外そうな顔で俺を眺めてくる。

「なんでえ、潤。お前が俺の暴挙に肯定するなんて珍しいじゃねえか」

「そうかい? 実際そう思うだけさ」

 自ら暴挙と言う部分はさておき、実体験から俺も同意するところではある。練習中に慌てた分だけ本番で動揺せずに済む気がするからだ。

「潤先輩、天野さん、自分はうまくできるか……いえ、まともにできるかどうか」

 ステージに上がってきた勇は鍛えられた体格とは逆に、とても頼りなく表情は淀んでいる。

「まずは何も考えずにやってみるといい、変に力まないで自然にね」

「そうそう、気楽にいこうよ」

 俺が簡単な助言をし、舞が腕を軽く叩くと、肩に入った力が多少は抜けたようだった。

 勇は頷いてからステージ下手に行き、覚悟を決めて強く両手を握り締める。

 舞はその後ろに控え、勇とは逆に心を落ち着かせるように目を閉じて深呼吸する。

「さっきの《少年》の最後の台詞からスタート。《不良》との騒動が終わってから《駅の主》が去っていくとこまでやろう」

「殺陣の入る場面はどうする?」

 ここからは駅に着いた《少年》を勇が演じる《不良》が襲い、それを舞が演じる《駅の主》が懲らしめるという内容。

「んー、《少年》がボコられるところはアドリブでもいけるか?」

 トモさんは顎に手を当てて、青い瞳だけを動かして俺と勇を交互に見る。

「俺はただ痛がるだけだから平気だよ、勇はどう?」

「ええ、潤先輩とやる最初のところは大丈夫だと思います。でも、その後はちょっと……」

 勇は困りつつも心配そうに舞を見る。

 次のシーンで俺が頑張ることはあまりない。一方的に襲われて混乱している様を表現すればいいだけで、台詞も細かい叫びを漏らす程度で少ない。

 しかし舞と勇はスタントみたいな激しい殺陣がある。この舞台では唯一のアクションシーンであり序盤の見せ場だ。でも勇が心配するように、練習してからでないと危ないと思う。

「んー、今はまだ早いか。《駅の主》と《不良》のとこは途中で飛ばそう」

 いつ始めてもいいぞ、とトモさんは三人にタイミングを任せる。

「お願いします!」

 勇は委縮はしていなくても、まだ肩に力が入っている。

 その幅のある肩の横にいる舞は、親指と人差し指で丸を作ってサインを送ってくる。

 最初のシーンで、俺は自分の演技が三年前と比べそう劣っていないことを示した。

 だから今度は逆に、舞の演技を見させてもらおう。

 さっきのシーンの終わりと同じようにだらしなく椅子に座り、合図となる台詞を口にした。

『お金もそんなにあるわけじゃないし、腹も減ったし。どうしよ』

 俺の台詞が終わった直後、間髪いれずに勇はステージ下手からこちらへ足を踏み出した。

 少しタイミングが早い。何拍か間が欲しいけど、今は気にしてもしょうがない。

『おい、そこの兄ちゃん』

 首を曲げたまま縦に揺らし、片方の眉毛だけ上げた顔で近付いてくる。

 悪くはない。素行の悪い《不良》といったそのままの雰囲気を出せている。

『ちょっと頼みがあるんだ』

 ただまだ「照れ」が抜けてないせいか、歩き方等仕草一つ一つにぎこちなさが表れている。

 それと明らかに悪い点が一つだけある。

『な、何の用ですか?』

 俺は疲れて眠たそうな顔を止めて威圧的な《不良》を警戒し、怯えるように後退る。

『金出してもらえれば、それでいいんだ、よっ』

俺の太股目掛けて《不良》は前蹴りを繰り出すが――その勢いにゾッとする。

 それに合わせて俺は椅子の上から転げ落ち、痛みに耐えるようにのた打ち回る。

 寸止めになるのか疑いたくなるほど、怖かった。蹴りが来た後に「転ぶぞ」と意識していたから形にはなったけど、半分は演技でなく素で怖がってしまった。

『そらそらそらぁ!』

 俺を痛め付けるように打ち続ける蹴りの勢いは止まない。しかしどれも服に掠れる程度で寸止めされ、実際に体には届いていない。

『頂いてくぞ』

 俺のブルゾンに手を伸ばし、乱暴に襟を引っ張りポケットの中を弄る。

『待ちなさい』

 午前中の台本の読み合わせのとき、すでに聞いていた。けれどステージ上では三年振りに聞く、濁りがなく張りのある強い声。

『ああっ、空気読め。こっち来んなよ』

 仰向けに倒れているから、ステージ下手に立つその姿は見えない。

《不良》の言葉を無視するように、一定のリズムを刻む足音だけは聞こえる。

『来んな、つってんだよ。てめえは何なんだ?』

『この夜の秩序を守る、駅の主さ』

 機嫌が悪そうに片方の眉毛を上げて《不良》は、現れた乱入者と対峙する。

『早くこの駅から去りなさい』

『おいおい、状況わかってんのかよ。てか、調子乗ってんじゃねえぞ』

 俺は体の痛みに耐えるよう表情を歪めながら上体を起こし、二人の方を窺う。

 頭一つ分だけ高い位置から《不良》が見下ろし蛇のように舌を出す。

それに対し少女は全く動じず、一歩更に距離を詰めて冷静な凄みを利かせる。

『もう一度だけ言う。早くこの駅から去りなさい』

『ふざけてんじゃねえぞ』

 痺れを切らして勢い良く不良が腕を振り上げたところで、

「はい、ここで中断。《不良》は途中退場してくれ」

 本来なら二人の派手な殺陣が始まるところを、今は飛ばして勇がステージから降りる。

 その後ろ姿は、稽古とはいえ初めて人前で演技を披露したことに不安げだった。

「《不良》が倒されたとして、その後の《少年》の台詞から再開」

 どうぞ、とトモさんが人差し指と中指を伸ばしたサインを送る。

『いたっ……ありがとうございます、助けてくれて』

 膝をついてなんとか立ち上がり、危機を救ってくれた少女へ礼を言う。

 それに対し少女は関心が無さそうに、何も反応せず背を向けたまま去っていく。

『ちょ、ちょっと待っ』

 引き止めようと届くはずもない手を伸ばして再び躓くと、少女が振り向く。

 鬱陶しく汚いものを見るような目とメリハリのある動きには冷たい印象……そんなふうに《駅の主》を演じる舞を見て、俺はなぜか違和感を覚えた。

『こんな時間だし、君はもう帰ったら?』

 決して下手なわけじゃない。むしろ勇の演技とは比べるまでもなく次元が違う。

『住んでる家はずっと遠くで、電車もないからもう帰れないんです』

『そう。でもこの駅にいたらあまり人には教えられない体験をするかもしれないね』

 細かい立ち居振る舞いにだって迷いは無いし、台詞だって詰まらずしっかりしている。

 でも、俺が知っている舞の《駅の主》とは、何かが違う。

『日付が変わる前に、この駅から出ていくことを勧めるよ』

 昔はもっと静かで日常とは違う異質な雰囲気を醸し出し、他者への関心が薄く存在自体が達観したイメージがあった。

 けど今目の前にいる舞は冷たさの中にも明確な熱を秘めていて、はっきりとした意識の抑揚を表現しているように見える。

『……えっ、それってどういう?』

『縁が、あったらまた会いましょう』

 台詞の最初にアクセントの効かせた含む言い回しの台詞を残して去っていく。

「はい、そこまで!」

 舞が一定の歩調でステージ下手の末端へ辿り着くと、トモさんが芝居を区切るために手を叩いて小気味良い音を部室に響かせる。

「部長、素晴らしい采配だ。経験者二人はさすがだし、新人も素材が良い」

「お褒めに扱り至極光栄にございます」

 執事の如く慇懃な姿勢で片腕を胸に沿えて、トモさんは結城先生へ答える。

「沖田君、良い蹴りだった」

 結城先生は片手を握り、力強く立てた親指を勇へ向ける。

「あ、ありがとうございます!」

 勇の曇っていた表情が晴れて、体育会系の人間らしい元気な返事が開いた四角い窓を抜けて外へ抜けていく。

「あの蹴りは、当たるんじゃないかと思ったよ……熱かったね」

 最初に蹴りが迫ってきたとき、俺は怖くて本気で体が竦んだ。またあれと同じ演技をしろと言われてもまず無理だろう。

「勇くん、あんなのどこで練習したの?」

 今までただ黙っていた綾の質問に、勇はなぜか竹刀を持つように腕を構えて、それを垂直に綾の頭へ何度か振り下ろした。

「剣も蹴りも人に向ける攻撃には違いない。だから竹刀と足を置き換えれば、あとは尺だけ気を付ければ寸止めするのは簡単かもって考えて、少し練習したんだよ」

 理屈はわかるけど、凡人に同じ芸当は不可能だろう。

 彼には体に染み付いた剣道の腕があり、主席入学するほどの頭脳がある。この二つの要素が合わさって初めてできることなのではないか、文武両道が成せる技というやつだ。

「勇、しかし演技自体はまだまだ課題があるぞ」

「ふふ、そうだな。まだ初心者だし現時点では悪くないが、完成度としては△だ」

 飴の後の鞭の如く、トモさんは勇の肩を軽快にポンと叩き、結城先生がそれに続く。

「相手をした潤と天野君、勇の演技は何を直したらいいと思う?」

 トモさんは勇から俺、舞へと目配せしていく。それは俺達が人の演技をどう指摘するのか、試したいかのようでもあった。

「ボクは、まだ恥ずかしさが抜けてないようにも見えます。あとはステージが広いから、もうちょっと一つ一つの動きを大きくしてもいいかも」

 その舞の意見には俺も同意するところだ。

 柄の悪い《不良》という役自体は表現できていても、まだ思い切りが足りない。

「そうだな。まだ人前で演技すること、あとはステージへの慣れが必要だろう」

 勇は床を見つめて、言われたことを咀嚼するよう小刻みに首を縦に振る。

「潤はどう思う?」

「あんまり大したことは言えないけども」

 さっきの演技の最中、明らかに直した方がいいと思うことが一つあった。でもそれは極当り前なこと、指摘さえされれば誰でも直せる。

「喉は使わずにもっと腹から台詞を出すようにした方が良い」

 これは午前中の台本読みのときにも感じていたことだ。

「舞台はドラマとかと比べて、大袈裟な表現が必要だと思うからさ。まずは発声から大袈裟にしてみるといいかも」

「あっ、確かにテレビのドラマで考えてました」

 勇は納得するように、握った右手を小槌のように左の掌に打ちつける。

 俺も中学の頃、ドラマの要領でこじんまりとした演技ではダメだと思ったときがあった。

「役作り自体は悪くないしな。その二つに関しちゃ、数をこなせばすぐ上達していくだろう。期待してるぞ」

 トモさんは勇をそう励ましてから、丸めた台本をパンパンと叩いてみんなの注目を集める。

「それじゃ早速、次のステップだ。この後は三つの班に別れる。一つ目の班は天野君と勇、さっき飛ばした殺陣の場面の打ち合わせをしてくれ。怪我しないように気を付けな」

 後頭部に手を当てて「よろしく」と会釈をする勇に、舞も小さく頷いて応える。

「二つ目の班は俺と潤と水無瀬君で、次の《駅員》登場シーンからの練習だ」

 三年生二人と俺は脚本の進行のまま、さっきの続きをやることになる。

《駅の主》が去った後、水無瀬先輩が演じる《駅員》が現れて、傷を負った《少年》を事務室へ連れて行く。さらにトモさん演じる《おっさん》が加わり三人のやり取りが続く展開。

「お二人とも、よろしくお願いしますね」

 水無瀬先輩に丁寧な口調でそう言われると、落ち着かなくなるのは俺だけだろうか。

「ちょっ、あたしは?」

 部員の中で唯一名前を上げられず、綾は慌てながら自らを人差し指でアピールする。

「最後に綾と先生だ。ナレーション部分の反復練習をしてもらう」

《家出娘》の出番はまだ後だから、今の段階で綾がすべきことはナレーションの精度を上げることだろう。

「なら、これから稽古場を分けようか。部長達三人組はステージのある部室がいいか?」

「そうですね。残り二チームは……音楽室とかどうでしょう? 今日は確か空いてます」

「わかった。なら、部長チーム以外はわたしと一緒に来てくれ」

 トモさんの提案を聞きつつ、連れ出す三人の部員を丸めた台本でリズムよく数えて、結城先生は廊下へと出ていく。

 最初に続くのは、気合十分に両腕を振って歩く綾で、その後を勇も追う。

「では、そちらも頑張って!」

 綾とは対照的に、舞は部室に残る俺達へ軽い雰囲気で手を振ってから、廊下へ出て行こうとする。けれど俺と擦れ違う時、

――負けないからね

 微かな囁きが聞こえた。

 舞が部室から出て行った後も、それがしばらく頭の中で残響していた。

次回、7/28(火)PM10時頃に更新です。

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