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ツインアクトレス  作者: 伊瀬右京
3/10

1幕(後半)

 右肩に圧し掛かる、決して軽くはない重さに耐えながら階段を上ってく。

 普段は中身がスカスカの鞄だから、五泊六日分の荷物が入ったショルダーバックは堪える。

 四月三十日金曜日、合宿開始前日。

 授業が終わってから一度家に戻り、再び学校にやって来た。

 体育館から聞こえるのは、フロアとシューズが不規則に擦れ合う音。

 グラウンドから聞こえるのは、ランニング中の運動部が発する規則的な掛け声。

 校舎の外から絶え間なく続く、対照的な二つの音声が面白い。

 一月前に練習は部室を使っていいと、トモさんに言われたけど、結局ずっと家でやっていた。

 理由は単純。俺にとって演劇部の部室は入ったことはあっても完全な新境地、もしあそこで練習をすれば昔の感が消えてしまう気がしたから。

 物静かな廊下を抜けて、部室の扉を開けた。

「あら、こんにちは」

 まず目に入ったのは、絵画のように窓際に佇む、背の高い楚々とした女性だった。

 その光景が綺麗だと思えたのは、彼女の落ち着きのある声と育ちの良さから湧き出る上品さゆえ。同じ高校の制服を着ている他の生徒達とは、身に纏う雰囲気が異なっている。

「あなたが、二年生の野川潤くんですね?」

「はい、そうです……こんにちは、初めまして」

 羞月閉花。

 長い緩やかな巻き毛の上から落ち着いた色彩のヘアバンドを掛け、目線の高さは俺と同じくらいで、鼻梁が高く顎は尖り過ぎない曲線を描く。世の誰もが認める美人だろう。

 彼女が話に聞く、演劇部員ではもう一人の三年生。

「こちらこそ、初めまして。水無瀬譲です」

 彼女はこの演劇部の脚本担当、そこまで考えてから思い出す。

 トモさん曰く、次の演劇部公演はこの水無瀬先輩が書いた脚本で行う予定だったとのこと。でも実際に使う脚本は急遽、ストレンジホームに差し替えられた。だから彼女は今回の件で、最も理不尽な被害を被った立場と言える。

 俺は事情を知る関係者であり主演でもあるし、申し訳なく思えてしまう。

「集まりが遅めですね。新入生の子達はいいとして、部長が遅れるとは困ったものです」

 さらにトモさんはこうも話していた。

 脚本を変更することを告げた際、水無瀬先輩は烈火の如く怒り狂ったと。

 こんな清楚な容姿の人物が怒る姿なんて想像できない、しかもあのトモさんが愚痴をこぼす程。普段優しそうな人が怒ると怖いとはいうけど。

「あのー、失礼かもしれませんが、いいですか?」

 何も喋らずにいると、水無瀬先輩の方から話し掛けられた。

「その……鐘ヶ江くんと綾ちゃんから話は聞いてました。髪の毛は本当に綺麗ですし、女の子に間違えられそうな容姿ですね。ああ、もちろん褒め言葉ですよ」

 なぜか楽しそうに満天の笑顔でそう言われる。

「それは……喜んでいいのか微妙なとこですね。あはは」

 糞っ。まったくあの兄妹は俺のことを、他人にどう説明しているのだろうか。

すると「こんちは~」と締りのない緩い挨拶と共に現れたのは、その兄妹の片割れだった。

「あ、譲先輩!」

「綾ちゃん」

 赤いキャリーバックを壁に立て掛け、ぱっと目を見開いて水無瀬先輩の元へ走っていく。

 その先にいる先輩はふわりと両手を広げて綾を柔らかく受け止めてから、髪の毛を摘むように撫で続ける。

 身長差は少なくとも二十センチはある。姉と妹にも見えるし、遠くから見れば若い母親と娘にも見える。そんな茜色の雲が浮かぶ空を背に映える光景……と不覚にも見惚れてしまう。

 しかしよく見ると、綾の表情はだらしなくうっとりしていて、性的な危うさを含んでいた。

「あのっ、失礼します!」

 緊張気味の固い声に振り返ると、入り難そうに廊下から部室へ片足だけ踏み入っている生徒がいた。短髪でさっぱりとした印象の男子だ。

「こちら、演劇部でいいんですよね?」

 彼の問いに対しすぐ答える者はいなかった。

 綾と水無瀬先輩は仲良くじゃれあっているから、今まともに相手ができそうなのは俺だけ。

まだ新入りの立場だから気が引けても、放置するわけにもいかない。

「そうだよ」

 綾と同じく、まだ制服が新しいからきっと一年生だろう。だとすると、

「もしかしてトモさん……鐘ヶ江先輩から勧誘された人かな?」

「そうっす。自分は一年の沖田勇っていいます。でも、剣道部と兼任なんすけどね」

 剣道部、と聞いてとても納得した。礼儀正しい感じや語尾の癖から、彼が体育会系の空気に慣れた人間なのが窺える。

「俺は野川潤。二年だけどキミと同じ新人だからさ、よろしく頼むよ」

「いえいえ、こちらこそ。不束者ですがよろしくっす」

 片手で後頭部を抑えて笑う彼は、取り繕う感じのない自然な愛嬌があって親しみやすそうだ。

「あれっ、もしかしてここに来るのって初めてなの?」

「実はそうなんっすよ。勧誘は受けてたんですが、実際に部室に来たのは初めてっす。だから同じクラスの鐘ヶ江さんに案内してもらいました」

「む」と唸り、水無瀬先輩に抱かれていた綾は突然ピクリと動きを止め、その両腕を抜け出して沖田くんの方へとずかずか歩いていく。

 一方で、残された先輩は両腕を持て余し、離れていく綾の体が名残惜しそうだった。

「ねえ、勇くん。部室に来る前、あたしを『鐘ヶ江さん』と呼ばないでって言ったでしょ?」

「ああ、ごめんごめん。女子のこと名字でしか呼んだことないんだ」

 腰に手を当てて、俺より背の高い沖田くんを見上げつつ威圧する綾。

「別に普通の呼び方じゃないか。何が悪いんだよ」

「はろー、潤。あんたなら説明しなくてもわからない?」

 特に何もおかしな点はない、普通の呼び方としか思えない。

「部長はあたしの兄貴、だから名字が被る。それが嫌ね」

 どんな学校にも探せばそんな兄妹は校内に一組はいそうだし、我慢すべきことだと思う。

「今度から気を付けるよ。うーん、なら『アヤコさん』でいいかな?」

「あたしゃ、某バスケ部のマネージャーじゃない! それもダメ『子』は抜かしてよ」

 沖田くんは考えてから律儀に呼び直すが、綾はわけのわからないダメ出しする。

「えっ、どうしてだい?」

「だって『子』って付くのは、なんかかっこ悪いじゃん。なら『綾』の一文字の方がかっこいい粋な呼び名じゃない?」

 今こいつは日本人女性の何割を侮辱したのだろうか?

「相変わらず、めんどくせえやつだな」

 確か小学生の頃、綾から今と同じ言葉を言われたことがある。しかし今も変わっていないとは……こいつの趣味趣向は幼いままようだ。だから身長も情けないままなのだろう。

「潤の言う通りだ。もう高校に上がったんだから中二病は直せ、糞ガキ」

 遠慮なく貶しながら廊下から顔を覗かせているのは、その兄であるトモさんだった。

「良し、揃ってるな」

 トモさんは橙色の台本を片手に持ち、室内にいる四人を見ながら満足そうに何度か頷く。

「おっ、本当ですか」

 さらにその脇には、紅紫色のリボンを揺らしながら顔を出す、舞がいた。

 舞とは入学式のあの日以来、たまに姿こそ見たものの、まともに口を利いてはいない。

 物珍しげに部室内を仰ぎ好奇心で瞳を輝かせるその表情をしばらく眺める。しかしわざとなのか、舞は俺の方には目線すら向けない。

「鐘ヶ江くん。結城先生は一緒じゃないのですか?」

「なんか急いでたみたいで『今日は全て任せた』の一言だけ残して走り去っていったよ。車で外へ行ったからどうやら私用だろうな、全くうちの顧問様は素晴らしい指導力をお持ちだ」

「結城先生は気紛れですからね」

 水無瀬先輩は同意しつつもあっさりと流す。逆に、トモさんはやれやれと肩を竦めながら、入学式の前日には無かった、仮設ステージ前の教卓に台本を置いた。

「おほん。ではこれより、連休明け公演に向けての、演劇部合宿を始める」

 部長というよりは教師のような、わざとらしい咳払いをしてから話し出した。

「まずはこれから五日間同じ釜の飯を食う者として、全員自己紹介といこうか」

 人差し指でメガネの橋を上げる仕草は、トモさんに染み付いた長年の癖である。

「まずは俺。部長を務めている三年の鐘ヶ江智一だ。演劇部には一年の頃からずっと所属している。あと生徒会長の方もやっているが、あっちがサブなので心配は無用だ。むしろ権力を利かせて、この部の活動を少しは贔屓できるので大船に乗った気でいてくれ」

 そう誇らしげに言い切るが、

「でも、去年の舞台みたいに派手過ぎる演出をして、先生達に怒られないよう自重してくださいね。大船でもタイタニック号の如く沈まないことを祈っています、部長」

 水無瀬先輩から軽快に釘を刺されると、トモさんはやや仰け反って声を詰まらせた。

 潔く冷静な口調で部長の出鼻を挫くその様には、貫録を感じる。

「同じく三年の水無瀬譲です。一年生の頃から脚本担当でした。次の公演では役者の方に回ることになったのですが、演技に関しては一度も経験が無く初心者同然ですので、みなさん教えてくださいね。あと一応、この部の副部長です。よろしくお願いします」

 礼儀正しくて物腰が柔らかい、乱れの無い丁寧な挨拶。

 その姿に綾は両手で自らの頬を覆い見惚れ、沖田くんは瞬きもせず見つめていた。

「んじゃ、次は潤だな」

「えっ、ちょっとなんで。俺、新入部員なのに?」

「頭の巡りが悪いぞ。二年七組、野川潤。俺と水無瀬君以外は新入部員、そんでもってお前以外は全員一年生なんだ。年功序列的にお前が次だ」

 正論に屈しつつ諦め、その場で一歩前に出て俺は喋り始めた。

「二年の野川潤です。これでも一応は経験者なので足は引っ張らないとは思います」

 よろしくお願いします、と簡潔に終えたところで、我ながら淡泊だなと思った。

「野川先輩、面白くないです。これじゃ後輩がやり難いんですけどー」

 柄悪く片手を振り回す綾から、面倒な煽りが入る。

「まあ、面白くなかった変わりに、実力は俺が保障するよ。しかもこの美系だから、今期からはうちのエースとして活躍してくれると、部長である俺は思っている」

「そんなプレッシャーは止してよ」

 実際、どこまで期待に添えるだろうか。昨日まで練習は続けて、大分昔の勘を取り戻せたはずだけど、所詮は客観性のない自己評価。実際はここにいる人達の判断で決まる。

「んじゃ、次はあたしかな」

 指名を待たず自ら前に出る部員に、部長は目くじらを立て眉間に皺を寄せた。

「一年五組、鐘ヶ江綾子です。お芝居とかは完全素人です。ただ外見ならこの通り特徴あると思うので、自画自賛ですが子役とか向いてるかもって考えてます」

 自分の脳天に片手を水平に沿えて、背の低さをアピールする。

「よろしくです」

 最後に浅く頭を下げてから、水無瀬先輩の元に戻っていく。

 確かに綾の低過ぎる身長は、舞台では逆に映えるかもしれない。この中で唯一身長が一四〇センチ台だから、他の部員と並べば視覚的なインパクトは強いかも。

「身長を活かすのはいいが、舞台で他の部員の陰に埋もれないよう気を付けるように」

「それは舞台上で示しますよー」

 部長の辛い言葉を軽く流しつつ、綾は楽しそうに水無瀬先輩の腕に寄り添った。

「んじゃ、次は勇だな」

 あがり症なのか落ち着かない様子で「は、はい」と声が上擦っている。

「おっ、同じく一年五組、沖田勇っす。漢字は沖田総司と近藤勇を合わせたやつです。中学までずっと剣道をやってました。高校でも剣道は続ける予定ですが、演劇部の活動も一所懸命にやりますのでよろしくお願いします。あ、あと舞台劇は素人どころか観たこともないので、いろいろ教えてください」

「あれっ、観たこともなかったのか」

 固い挨拶の後に、勧誘した本人であるはずのトモさんが呟く。

 このメンバーのうち三人は経験者、水無瀬先輩は一年の頃から演劇部の部員だし、綾の場合は中学が俺とトモさんと同じだから何度か観ている。

 そもそも演劇部自体、普通の中学には数少ないのだから無理はない。

「経験なんてのは高い能力で十分補える。期待してるぞ、新入生総代を務めた主席入学君」

 はっ? と、俺は間の抜けた頭の悪い声を上げてしまった。

「ん、潤どうした? 鳩が豆鉄砲食らったような顔して」

「潤のことだから、入学式なんてどうせボケっとしてたんじゃない?」

 全く否定できないから、反論の余地はゼロだ。

 それにしても新入生総代に主席入学、彼がそんなすごい人間だったとは、とそこまで考えて思い当たる。トモさんが沖田くんを勧誘した理由は主にそれなのでは。

 仮に芝居の未経験者であったとしても、優秀な人間なら短期間でモノにできるかも。

「んじゃ最後、天野君どうぞ」

 舞は紅紫色のリボンで結った長い後ろ髪を揺らしつつ、俺と同じように一歩前へ踏み出す。

 余裕を保っている平然とした表情。そこに何を秘めているのか、俺は知りたい。

「一年四組、天野舞です。潤先輩とは今回の脚本と同じ役を務めていました。経験者ではありますし、今回の舞台には微力ながら力添えできるように頑張ります」

 簡単にそう告げてから、なぜか片足を上げて、

「皆さん、よろぴくっ!」

 指先を影絵のうさぎのように変えて、拳法家の如く真っ直ぐ両手を突き出す。そして至って真面目な表情のまま、片足立ちのバランスを保つためにかくっと上半身を傾ける。

 トモさんは「ん?」と首を前に突き出しつつ短く唸り、メガネのレンズを曇らせた。

 綾と水無瀬先輩も呆気にとられ口を開けたまま、ただ茫然としている。

 ベタベタで寒過ぎる上に印象が強過ぎるから、否が応でも大きな疑問符が部員達の共通認識として残り続ける。形容しがたいこの状況。

 この瞬間だけは部室の外で活動している他の部活もきっと静止している。街を紅に染めながら地平に沈む寸前の太陽も、このときばかりは動きを止めたに違いない。

 呼吸すら許されないほどに凍てついた空気、それを動かしてくれたのは、

「よろぴくっ!」

 同じ寒いギャグで返した勇者、沖田くんだった。

 それから一拍置いて、謎のポージングを解いた舞はすたすたと救世主の元へ行き、

「沖田くん、拾ってくれてありがとう! 完全に外したから、もうダメだって思ったよー」

 泣きそうにうるんだ瞳で感謝しながら、慈悲無く未だうさぎの型を律儀に崩さない救世主の両手を、許しを請うように握った。

 それをきっかけに、この部室は時の流れを取り戻した。

「ま、まあ、天野君も経験者だ。昔は潤と二人で天ノ川コンビと呼ばれた逸材、きっと我が部の繁栄に貢献してくれるだろう。但しギャグのセンスを少しは磨いてくれ。一致団結するってのに、力が抜けてはまずいだろ?」

「寒いギャグだって役に立つときありますよ、きっと」

 舞は不満そうに唇を突き出してつつも失態を認めるかのように嘆息をもらす。

 あれ、おかしい。

 そんな舞を見て、なんだか歯車が噛み合わない酷く妙な感触がした。昔はあんなギャグのようなパフォーマンスを好むやつじゃなかったのに。

「というわけで、この六人で来週末の公演に挑む」

 トモさんは切り替えるように、淡々とした低いトーンの重い声で話し出した。

「これは新入生へのアピールの場でもある。部員の半分は新入生だが、それでも半端な演技は許されない。本番までに完成度の高い舞台にするために、全員心して稽古に励むよう――」

 喋りを止めてから流れるように首の向きを変えて、

「――なんて固っ苦しい合宿、俺はごめんだぞ。勇」

 気を引き締め過ぎて固くなっていた沖田くんに、トモさんは緩い声で話し掛ける。

 すると驚きはしたものの不意を突かれたせいか、沖田くんの表情は随分と軽くなった。

「諸君。この合宿、存分に楽しんでくれ」

 差し込む夕日のオレンジを横顔で受けて、ふてぶてしくも隙のある笑みで部員達を見渡す。

 自信と余裕を見せるトモさんには、集団を引っ張ってきた人間だけが持つ安定した器量と懐の深さがある。それが夕暮れの空から差し込む紅の色彩に乗って高揚となり、部員達を包んでいくように思えた。

「よろしくお願いします、鐘ヶ江部長」

 それに応えるように俺は声を掛けた。

「あたし達、経験者のお三方よりも目立ってやりましょう」

「そうね、頑張りましょ」

 実にらしく強気なことを言う綾、その頭を水無瀬先輩は撫でる。

「自分は足を引っ張らないように頑張るっす」

「お手柔らかによろしく」

 沖田くんは両手の拳に力を込め、舞も微かに口元を綻ばせたように見えた。

 美しい黄昏も手伝ってそこには心地良い団結があった。こんなのは久しぶり、しばらく忘れていた感触。三年前から塞ぎこんでいた自分には少し眩しいくらいだ。

 俺がこの演劇部に参加する最優先の目的は舞のことであって舞台は二の次、そう今までは思っていた。でもこんな雰囲気を作られたら主演として手を抜くわけにはいかない。

 全力で挑もう、言葉にせずそう胸内で誓った。

 トモさんは思いを馳せるように部員達を眺めて、満足したように目を閉じた。

「よし。まずは泊まる部屋に荷物置きに行こうか。水無瀬君、女子部屋なんだけど」

「それなら結城先生に聞いてますよ」

 そっか、と水無瀬先輩に相槌を打ち、

「じゃ、潤と勇はついてき――」

 そこでトモさんはピタリと動きを止めた。

 理由は一つ。自らの下腹部が「グ~」と、ユーモア溢れる濁った低音を発したからだ。

 部員達を仕切り先導しようとしていた矢先、これでは気が抜けて締まらない。このなんとも言えない微妙な居た堪れなさは、数分前に白けた舞のギャグにも匹敵する。

「そ、そういえば、みんな夕食って済ませたか?」

 昼飯食べてないんだ、とトモさんは下品な音を上げたお腹を擦った。



「やっだー、勇くん。もつ煮定食頼むなんて、年寄り臭い」

「かね……じゃなくて、アヤやん、そんなことないよ。美味しいのに」

「何その呼び方、ちょっとキモいよ。まだアヤコさんのがマシかも」

 身震いする綾を気にせず、沖田くんはメニューに載っている定食を楽しみそうに眺める。

「綾ちゃん、そんな汚い言葉遣いはダメですよ。めっ」

「あふうん」と奇声を漏らしながら綾はビクンと身を捩る。

 さらに肩を小刻みに揺らしつつ、実に変態的で悦楽に満ちた表情のまま、水無瀬先輩に焦らされながら首を突かれる。

 まるで飼いならされたペットのよう。正直、気持ち悪い。

「みんな悪りぃ。今日の夕飯、全然考えてなかった。明日からは大丈夫だから安心してくれ」

 六人席の端っこで、みんなへ片手を立ててトモさんは謝る。

「この不景気なのに部費落ちとは気前がいい。さすがはトモ先輩、ここが違いますな」

 舞はトモさんに向けて自らの力瘤を叩き、ニヤリと悪さを含んだ顔をする。

「ふむ、煽てても何も出ないぞ、天野君。今年は機材を買う予定が無いとはいえ、注文の遠慮はしてくれーーーよっ?」

 そう語尾を伸ばした後、角張った顎の顔は首ごと一気に俺へ向いた。

「な、何さ?」

「白々しいぞ。二年七組、野川潤!」

 トモさんはメニューを数ページ捲りながら指を折り、おおよその金額を計算している。

「ったく、一人だけ別の単品ものとライスとサラダは大盛りにしやがって、しかもメインは重たいボリュームあるやつとはな」

「だって、最低そのくらいじゃないと腹持ちが悪くてさ」

「痩せの大食いは変わらずか。恨めしいぜ」

 ここは学校近くにあるチェーン店のファミレス、駅から遠いせいか夕飯時でも客は疎らだ。

「そんな幼馴染に対して、最近腹周りに付き始めた贅肉に悩んでいる我が兄であった」

「あ、綾。お前ってやつは……」

 拳をわなわなと震わせて怒りの矛先を明確に表すも、

「鐘ヶ江君、先週から生徒会の仕事があることを口実にお昼を抜いているそうですね?」

 水無瀬先輩の涼しげな横やりに、トモさんの瞼が見開いて拳から力が抜けていく。

「ぐっ、どうしてそれを」

「わたしの情報網は侮りがたしです、鐘ヶ江部長。悪しからず」

 相手に有無を言わせない鉄壁のスマイルを持つこの人は副部長たり得るなと思った。

「お待たせしました」

 注文の一部をウエイトレスが運んでくる。勇くんはそれを見て再度、メニューを開いた。

「部長。恐縮ですが、もうちょっと注文追加してもいいでしょうか?」

「一年坊主、空気は読めよ?」

「ひっ、調子乗りました、すいません!」

 穏やかな表情とは掛け離れたドスを利かせた怖いトモさんの声に、沖田くんは慄く。

「追加の一つや二つぐらい予算の誤差っしょ。生徒会じゃ、ここでよくサボってるんでしょ? しかも支払いは全部経費落ちって、話してたじゃん」

「おー、ならいいじゃないですか。潤くんだって結構頼んでますし、ボクもいいと思います」

「あ、綾てめえ、バラすんじゃねえよ。この糞馬鹿変態ビッチめ。しかも天野君まで」

 綾と舞の波状攻撃を受け、劣勢に立たされる威厳無き部長の姿は哀れだった。

 そんな賑やかなやり取りをしながら、俺は密かにあることを思い出していた。

 雑多な雰囲気の中で誰かと賑やかに食べ物を口にすること。

 それは俺の中で失われ、すでに何年も忘れていた、温かみだった。

次回、7/24(金)PM10時頃に更新です。

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