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ツインアクトレス  作者: 伊瀬右京
2/10

1幕(前半)

 夕暮れの黄昏が窓から差し込んでくる放課後のこと。

『人間にはさ、その時期にしか許されない行動ってやつがあると思う』

 一般の教室棟とは渡り廊下一つで繋がっている、文化部のための部室棟。

 その最上階である四階、ここはその角部屋に位置する。

『いやいや、年相応な当たり前の活動をしろだなんて陳腐なこと、俺は言わない。そんなつまらない意味じゃなく、ある時期にだけ放てる輝きを無駄するのは惜しいと思うのだよ』

 室内には普通の教室にある机や椅子は少なく、役割の異なる各種照明器具やハンガーに掛かっている過去の公演で使われた衣装達が目立つ。

『若者には守るものなど無い。それゆえに何かを掴む、あるいは生み出す力に溢れている』

 ここは演劇部の部室。

『少年よ』

 黒板の前には、床に比べ一段高い位置にある稽古用らしき仮設ステージ。

 そこに座って膝の上に両肘をつき、組んだ指に尖った顎を置く男がいる。

 癖が強い髪の毛は博士のようにボサボサで、下の縁が無い金属フレームのメガネからブルーの瞳を覗かせる部長は、胡散臭い芝居がかった演説を続ける。

『その体の中で燻っている次世代を担う才能、我が演劇部で活かしてみないかね?』

 メガネの橋を人差し指で釣り上げ、骨格が浮き出た白皙の顔でほくそ笑む。

 決まった、と本人は思っているのだろう。

「んー、最後のはやっつけ台詞過ぎない?」

 率直に感想を言うと、キリっとした表情が一瞬で崩れて情けなく口がへの字に曲がった。

「どの辺が?」

「次世代を担う才能、って部活への勧誘じゃないよ。そんな大それた表現は、背が二メートル近いとか、IQが異常に高いとか、声の音域が普通より遥かに広いとか、いわゆる素材の時点で優れてる逸材に向けられる言葉だよ」

「過ぎた謙遜は相手への侮辱になるぞ。痩せ型で男だてらに癖の無い綺麗な髪に、ビョルン・アンドレセンみたいな整った女顔。誰が見ても眉目秀麗なお前は間違いなく逸材。中学で演劇部部長をやり抜き、高校もこうして演劇部で部長を務めている俺の目に狂いはない」

「トモさんと違って、俺は善良な普通の一高校生。逸材なんかじゃないよ」

 演劇部部長、鐘ヶ江智一は溜息をつき困り果て、ボサボサの髪を交ぜこねて頭を掻く。

 ちなみに俺にとって彼は、小学生からの幼馴染でもある。

「舞台役者も歌手も絵描きも表現者、共通項はあるってのに……かーー、なんだよ、ノリ悪りなあ。ぶっ飛ばすぞ?」

「暴力的な部長にはついていけません。それに生徒会長がそんなこと言っちゃダメでしょ?」

 トモさんは演劇部の部長でありながら生徒会長も兼任している。

 そんなことができるのか、前に一度聞いてみたけど「日本国憲法には背いていない」という面白くない適当な答えが返ってきたのを覚えている。

「入部しない?」

「しない」

「毎回口説き文句考えるのも苦労するんだぜ。今日で口説くの七回目、それでもダメ?」

「うん、ダメ」

 最後のダメ押しにか、仮説ステージからキビキビとした速歩きで近付いてくる。

「頼む、マジで入部してくれ。今年度は新入部員がゼロだったから、来年度四月からの二年生はいないんだ。中学時代からの経験者は貴重だしよー、待遇は良いから一緒にやろうぜ、なっ」

「部活なのに待遇って……」

 怯むこっちの様子など気にも留めず、息がかかるほど近くに顔を寄せてくる。

「特にゴールデンウィーク明けの全校生徒向けの公演は、演劇部で十年以上前から代々続いてる伝統なんだ。今年はやらないなんて、OBの方々に合わせる顔がない。別に全国大会に出るとかじゃないんだし、いいじゃんかよ」

「悪いけど、ごめん」

 俺の一言返事に諦めたのか両肩をガックリと落として、おでこを俺の肩に置く。その拍子にトモさんのボサボサヘアと俺の横髪が絡み合う。少し気持ち悪い。

「はあ、そっかー。俺じゃ潤の心を射止めることは無理なんかねー」

 フラフラとした足取りで俺から離れて、夕陽に背を向けたまま窓枠に寄り掛かった。

 たまに呼び出されて今みたいな一人小劇場に付き合うのも嫌じゃない。

「どの部の誰の勧誘だって結果は同じ、俺はどこにも入らない。そろそろ諦めたらどう?」

「磨けば宝石になると確定している原石を、見て見ぬフリなどできるわけがない」

 どうやらこの様子だとまだ諦めないようだ。

「それじゃ俺は帰る。トモさんはどうする?」

「俺は生徒会の仕事を少しだけしてから帰るよ」

「そっか。んじゃ、お疲れ様」

「これから疲れるのは俺じゃなくて、お前かもしれないけどな」

 ドアに手を掛けたとき、唐突に出た意味深な言葉が気になって振り返る。

「それ、どういうこと?」

「なんでもないよ。ボケ老人の戯言だと思いたまへ」

 茜色の空を背景に、青い瞳を隠すように目を閉じたまま、温度の低い声。

「またな、潤」

「う、うん、またね」

 妙な後味に後ろ髪を引かれるが気にせず、演劇部の部室を後にした。

 今日は春休み最後の一日。

 当然校舎の中は静かで人気がまるでなく、自分の足音だけが廊下に響く。

 俺は入学してから一年間ずっと帰宅部で、今まで縁の無かった空間だから不思議だ。

 グラウンドで精を出す野球部が打ち上げた硬球の甲高い音が、今日は活動していない吹奏楽部のシンバルの代わりのように思えた。

「野川潤!」

 ささやかな時間を引き裂く野蛮な声が目下、階段の踊り場から響いてきた。

 そこには両手を組んで俺の名前を叫ぶ声の主。

 数分前に聞いたトモさんの気掛かりな台詞を思い出し、その意味を理解する。

 あの人が好きそうな……いや、この兄妹が好きそうな演出だと一人胸の内で納得した。

「おやおや、まだこんなに小さいのに迷子になったんだね、ママはどこにいるの?」

「うっせえよ、今そのネタをやるな」

 こいつはもし制服でなく私服ならば、小学生に間違われてもおかしくない貧相な体型をしている。加えて短めのボーイッシュな髪型が、子供っぽさをさらに際立たせている。

「新入生は明日から登校のはずだけどな」

「入学式の前には学校に来てはいけない規則でもあんの? 少なくともあたしは知らない」

 よれや皺が全く無い新品の制服をまとって背筋を伸ばし、小さい体を示してくる。

「第二ラウンドよ、兄貴の寸劇は面白かった?」

 階下で俺を待ち伏せていた女子の名前は鐘ヶ江綾子。

さっき演劇部の部室にいた鐘ヶ江智一の妹であり、俺にとってはもう一人の幼馴染になる。

「あたしも入部することになってるから、言わせてもらう」

 兄と同じ青い瞳で睥睨しながら、大きく弧を描くように片手を頭上に掲げて、真っ直ぐ振り下ろし人差し指を俺へ向けてくる。

「演劇部に入りなさい!」

 兄とは違って何の捻りも無い、ストレートな正攻法。トモさんの勧誘は今日までで七回目であり、毎回捻った趣向を仕込んでくるから面白くはあった。

 でも俺は、小細工無しのこういう宣言の方が苦手だ。

「ごめんな、綾。俺はやめておくよ」

 誤魔化して受け流すことは通じない、だから率直に答えた。

 攻撃的に睨む表情と突き出した人差し指をピタリと止め、綾はしばらく沈黙する。

 静寂の空間で交差する互いの視線、逸らしたら負けな気がしたから、綾が発する無言の圧力から逃げない。どちらも譲らない張り詰めた時間を終わらせたのは、遠くで野球部が出した解散の号令だった。

「驚いた。まるで鉄壁じゃない、あんた全然折れないのね。こりゃ兄貴も苦労するわ」

 くるっと捻り返した逆手で俺を指差し、兄と同じく溜息交じりに綾は呟く。

「褒め言葉として受け取っておくよ。じゃあな」

 俺は階段を下りて、綾の頭を手の甲でワンバウンド軽く叩く。

 いつもなら嫌がって文句を垂れてくるところ、なのに何の反応も無かった。

 それが少しだけ怖く感じたから、早く去ろうとやや駆け足で歩く。

 しかし予感は当たり「潤」と名前で呼び止められる。

「あんた、いつまで同じ場所で足踏みしてるわけ?」

 頭の芯が一瞬にして白く霞み、足が固まる。

 この辺りは優しい兄と違い、妹の方は厳しい。ストレートな性格のせいか容赦なく人の心に踏み込んでくる。綾はそれを自覚してやってくるのだ。

「進むべき未来が見つからないなら、死なないようにその場で足踏みするしかない」

 見えないけれど、綾の憐れむような視線を背中で感じる。

 だから逃げるように下駄箱へ行き、素早く下足に履き替えて……走り出した。

 久しぶりに去来した泥水みたいな汚く重苦しい感触を忘れるために、自分の体へ鞭を打つ。胸にぽっかりと空いた虚ろな穴、それが心を喰い尽すようで怖い。

 校舎を出て、夕日が沈みかけて闇に落ちつつある通学路を逃げるように駆ける。

 でも運動不足ですぐ動悸は激しくなり、膝に手をついて止まった。見下ろせば三車線ある大きい十字路、それを跨ぐ歩道橋の上だった。

 情けない、肩で息をしながら自己嫌悪。たった一言で取り乱す、発作みたいだ。

 幼い頃、夕時の道に迷い途方にくれて立ち尽くした時のような不安が唐突に過る。それは足元を過ぎゆく車の走行音のおかげで徐々に薄れていく。

 走ったせいか、両腕にあるクリーム色のリストバンドが少しズレていて位置を直す。

 右側には沈もうとする眩い太陽。

 オレンジの強い光を遮ろうと手を翳そうとしたその先、一つの人影が見えた。

 反対側の歩道橋に佇む女性らしき輪郭の影に引かれて、視線を泳がせる。

 ドクン、と自分の心臓が大きく震えたのがわかった。

――これから疲れるのは俺じゃなくて、お前かもしれないけどな

 綾のことじゃない。

「やっほー。潤くん、久しぶりだね」

 動揺する俺とは逆に、両手を口に添えて大声で叫んでくる。但し、その声色は昔と同じように艶があり、肩から背中を撫で下されている感触がする。

 何か言い返さなければ。

 でも慌てて思うように声が出せない。

「四月に入ったっていうのに、まだ寒いねー。ボクはまだ厚着を止められないよ」

 そんなことを聞きたいんじゃない。

 ボク、という女性としては珍しい一人称を使い、ダウンジャケットの襟を持ち上げてアピールしてくる。その呑気さに反発したくて、固まった喉を絞ってなんとか動かす。

「お、お前今まで……こんなとこで何やってんだよ!」

「買い物ついでの散歩ー、今日はカレーを煮込みまくる予定なのさー」

 中身が詰まったビニール袋を片手で上げてアピールしてくる。

 ただなぜか、その左の頬には包帯で固定されたガーゼがあった。

「もしかしたらー、成長して男らしくなったかもって心配したけどー、キミは相変わらず綺麗で安心したよー。それに男の子にしては、髪だって長いままだしねー」

 動揺する俺に気遣いなどしないマイペースな話し方は、昔よく聞いたものと同じだった。

 夕闇の空中を挟んだ歩道橋のこっちとあっち。

 それは、過去と現在の隔たりを示唆しているように思えた。

「それじゃ、またねー」

「おっ、おい」

 ゆらゆらと振る片手とは裏腹に、あいつは逃げるように走り去っていく。

 哀愁と懐古に揺れていた心を振り切って、俺はすぐに追い掛ける。

 その姿を見失わないように数段飛ばしで階段を下りるも、赤信号に足止めされる。苛立ちながら車の勢いが止んだ後に走ってもすでに遅し。

 かなり遠くで膨れたビニール袋と、リボンで結った長い後ろ髪を左右に揺らしながら、横道へと逸れていくあいつの姿が見えた。

 雰囲気や立ち居振る舞いは昔と同じ。

 ただ、あの腰下まで伸びた長い髪には年月の経過を嫌でも感じる。

 同時にそれは、自分自身が全く前進していないことの証明にも思えた。

 それは、三年振りの邂逅だった。


DAY:4/2 7:30

From:野川 澄香

Sub:おはよう!

潤、今日から学校じゃん。

どうせ昨日までリズム乱れた生活送ってたんだろうから、今日からしっかりしなさい。

半一人暮らしとはいえ料理ができるから栄養面は心配ないけど、気をつけなさいね。

あと、今日から綾ちゃんが登校するんだよね? 先輩として恥じないようにしっかり~

あたしも昨日から仕事始まったからね、気合入れていくわ。


 昨日は大して眠れなかった。

 気掛かりを残したせいで深夜になっても眠れず、体調はかなりダウナーだ。

 こんなことなら昨日あの後、鐘ヶ江兄妹に電話で聞いておくべきだった。

 その傍らである兄の方は現在、生徒会長らしく体育館のステージ上で忙しそうにしている。

 今日は新入生を迎える入学式。

 壁には紅白の垂れ幕、床には緑色の分厚いシートが敷かれている。

 しかし在校生の大多数にとっては、いつもの面倒な全校集会と大差はない。校長やその他のありがた迷惑なお言葉など、真面目に咀嚼する希少種が存在するなら紹介して欲しい。

 少しすると、聴き慣れていても名前は知らない曲と共に、新入生が入ってきた。

 体育館後部の左に並ぶ二年と、右に並ぶ三年の間を通っていく。

 今年、俺のクラス番号は二年最後の七組だから、ここからは一歳下の後輩さん達が通過していく光景がよく見える。この中に、綾もいるのだろう。

 しかし綾は昨日、一足先にフライングし、制服を着て校内に侵入している。そんな不届き者は祝われるべきじゃない。在校生側と同じく一人椅子無しで突っ立っていればいいのだ、などと考えつつ、時間が過ぎゆくのをふらつく意識の中で待ち続けた。

 やがて新入生退場の号令がして、入場の時と同じ曲が再び流れた。

 これで無価値な時間から解放される。腐っていた意識が少しずつ解れて楽な気分になれた。

 するとノロノロと歩いていく新入生達の中で見知った姿があった。

 低過ぎる背丈ゆえに一際目立つ女生徒、綾だった。

 綾の方も俺に気づくと何か閃いたように両目を見開いて、右手の親指で後ろを示し、何かがあるようなサインを送ってくる。

 なんだろうか。

 示す先、流れる新入生達の列を眺めて数秒後――それは確信に変わった。

「なっ」

 俺から顔を背けるように不自然な方を向いているせいで、昨日走り去るときに見えた紅紫色の紐リボンが背中で揺れているのがよく見える。

 その片頬には昨日、ガーゼがあったが今は大きめの絆創膏に変わっている。

 明らかに俺に気づいていて、避けようとしている。

 そして横目になって視界ギリギリで俺を捉えようと、ゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいなぎこちない挙動で恐る恐る首を傾けてくる。互いの距離はわずか一メートル足らず。

 しかしすぐ俺と目が合いその瞬間、空気が凍りつく。

 新入生全員の足音が止まり、体育館の大型時計の秒針も止まったかのような錯覚に陥る。

「やばっ」

 しくじった、と言わんばかりのあからさまな表情。

 突然、行進のリズムを一人乱してあいつは走り出した。前を歩く他の新入生達を抜き去って二、三年生の後ろにある保護者席を横切っていく。

 昨日のことも含め、舐められているような気がして妙にムカついた。

 行かせるもんか。

 睡眠時間が極端に少ないせいか、頭のタガが外れていたのかもしれない。周囲からの視線や体裁など全く気にせず、逃げるあいつの背中を目指して走る。

 すると向こうも気づいてペースを上げ、伸びた後ろ髪を靡かせながら階段を駆け上がる。

「てめえ、待てよ!」

 負けじと、こちらも全力疾走で追う。

 徐々に差を縮め、手を伸ばせば髪の毛に指が届きそうな頃には、屋上がすぐそこだった。

 これで詰み。あいつは勢い良く扉を撥ね退けて外に出る。錆びたヒンジが鈍い音をあげる扉を押し退けて、俺も屋上へと続く。

 いくつかの雲が浮かぶ快晴の下であいつ、天野舞は息を切らせていた。

「綾ちゃんの裏切り者め」

 昨日の俺と同じように膝に手を付き、肩で息をしている。

「新入生……しかも女の子を、こんなふうに追い詰めて、楽しい?」

「そっちこそ、逃げてばっかで楽しいのかよ?」

「ボクは楽しいよ。潤くんみたいな美男子と追いかけっこ、しかも入学式の最中になんて素敵じゃない?」

 うるせえよ、と俺は一言であしらう。小手先の会話には付き合わない。

 昨日のように会話の主導権を握られないために、心を固めて勇気を振り絞る。

「舞、今までどうしてたんだよ。俺は……ずっと待ってたんだ」

 今度こそ核心を突く言葉を出す。

「三年前にあんなことになって、一緒にやるはずだった舞台は中止になった」

 主演として毎日二人で稽古したのに、本番を迎えることは無かった。

「舞が寝たきりになって意識が戻らないかもしれないって聞かされても、俺は毎週病院に行った。もし目覚めたとき、いつでも迎えられるように」

 一緒に目指した夢が潰えるのは嫌で、無意味にはしたくなかった。

「お前の転院が決まった時に『これ以上縛られるのは良くないからキミは歩き出せ』って創平さんには言われたよ。それで転院先を教えてもられなくて、お前とは離れ離れになった」

 再会は永遠にできないかもしれないと、そんな覚悟さえしていた。

「それがどうだよ。昨日いきなり何の前触れもなく現れてしかもこの高校の新入生だ? 今はさっきみたいに走れるぐらい元気でさ、三年もへこんでた自分が馬鹿みたいだ」

 舞は悲しみとも憐れみとも違う、明るくはない複雑そうな表情で俺の言葉を聞いていた。

「何があったんだよ?」

 瞬きした瞬間、幻のように消え去りそうな細い両肩を強く掴む。

 すると、俺には読めない感情に揺れていた瞳を閉じて、ゆっくりと左右に首を振る。

「一言では、とても伝えられないよ」

 舞はどこか諭すように話し出す。

「今はまだ話すわけにはいかない。でもね、これだけは聞いて欲しい」

 自分の肩を掴む俺の力んだ両腕に、ふわりと優しく両手を置く。けれどそんな穏やかな感触とは裏腹に、前髪の向こうから覗く瞳には揺らぐことのない強い意志があった。

「演劇部に来て」

 なんだそりゃ。

「トモさん達と何やってるか知らないけど、意味わかんねえよ」

「お願い。だって『約束』は、果たさないとね」

 舞は肩を掴む俺の両手をすらりと払い、踊るように歩いて古びた扉を開ける。

「そろそろ行かなきゃ。さっき抜け出した言い訳、どうしようかな。これじゃ入学早々、問題児になっちゃう。でももう遅いかな?」

「俺がこんなんで納得できると思うか?」

「いずれ全部わかるよ。今度は、普通の楽しいお話をしたいな」

 打ち切るように屈託の無い自由な笑顔を押し付けられ、舞は屋上から去っていた。

 どうもやりにくい。結局、何もわからなかった。

 こっちは昨日からただ一方的に翻弄されているだけ、理不尽だ。

「ずっと寝てたくせに」

 さっきの様子だと喋る気がなさそうだから、舞本人から事情を聞くのは難しい。

 でも手詰まりじゃない。まだ問い詰めるべき人間は二人もいるのだから。



「おいおい、また無敵技こすってくるのかよ。運に頼り過ぎだ」

「兄貴みたいに綺麗な読み合いする相手にこれは有効よ」

 片や身長百八十センチ越えの長身、片や身長百五十センチ以下の小人。

 但し、格闘ゲームには実際の身長差など全く関係がない。

「いいや、そんな戦い方じゃ安定しない。丁寧にいかねえと、いつか伸び悩むぞ」

「枠にとらわれ過ぎ、それにあたしのキャラは多少ぶっぱをしろって性能だし」

「そういうゲームじゃねえからこれ」

 掌小の球にポールが刺さったスティックを、左手でワイングラスを持つ要領で操る二人。

 今時珍しいブラウン管テレビの中で、二人のキャラクターが鬩ぎ合っている。

「あのさ、二人とも――」

「「潤、邪魔すんな」」

 全くズレが無く、同時に文句を言ってくる同じ青い瞳を持った兄妹。

 窓の横には天井に届きそうな高さの本棚があり、難解そうなタイトルの新書から卑猥なロゴのエロ本までと、ジャンルは幅広い。その隣にはアンプとエレキギター。壁には端が草臥れて年季を感じる、八十年代映画のポスターが貼ってある。

 ここは鐘ヶ江兄妹の家、その三階にあたるトモさんの部屋だ。

 約十分後、妹が「ちくしょう」と苛立ちながら八つあるボタンへ拳を振り下ろした。

「ふっ、甘いな。勝負所で飛ぶ癖が抜けていない。しかも台バンとは下品な」

 悔しそうに悪態をつく妹を、兄は平然と見下している。

 この二人とは小学校からの付き合いになる。けれど凡庸な俺とは違って、二人は昔から注目される存在だった。

 北欧系のハーフである父親譲りの青い瞳を持ち、兄は長身で妹は極端な小柄。さらに二人とも幼い頃からリーダー役を多く経験していて、兄に至っては中高共に生徒会長ですらある。

 すでに外は真っ暗。今日は午前で学校は終わっていたけど、トモさんは生徒会で忙しく綾もずっと学校にいたようで、二人と会うのはこんな時間になった。

「おお、悪い悪い、待たせたな」

 風船よりも軽そうな心ない謝罪をしながら、トモさんは二台の仰々しいコントローラを隅に寄せた。綾の方は負けた鬱憤を晴らすように、わざと音を立ててベッドへ腰掛ける。

「それじゃ、事前の賭け通りだ。綾、お前がメインで説明しな」

「えー、嫌だよ。兄貴、部長なんだから責任持ってやりなさいよ」

「敗者に拒否権などあると思っているのかね?」

 メガネのレンズを光らせてトモさんが一言漏らすと、綾は諦めたように頷く。

 さっきのゲームはどっちが説明するか決める勝負。改めてふざけた兄妹だと納得する。

「天野先輩のこと、話していいのよね?」

 俺は声を出さずに、首を縦に振って答える。

「この家に天野先輩が訪ねてきたのは二月の終わり頃だったかな……あー、けどその前にあれを見せた方が話早いか」

 綾はベッドを立ち、机にある本棚に手を伸ばす。

 トモさんは何か察してか「おい、待て」と止めようとするけど、綾は持ち前の小柄な体を活かしてしなやかに擦り抜ける。

 そして、取り出した一冊の薄い本を俺に向けた。

 何だろうと橙色の表紙に目を向けた途端、自分の眼が反射的に大きく見開く。

 その表紙には、中央に「ストレンジホーム」と大きく印字されていた。

――演劇部に来て

 今日、学校で舞に言われたあの一言。その意味が頭の中で繋がる。

「なんだよ……これ」

 それは三年前に何度も見返したタイトル、そして叶わなかった夢。

「ふざけんな、どんな冗談だ!」

 頭の奥が急激に熱くなり湧き上がる激情のまま、なりふり構わず二人に怒鳴りつける。

「ちょっと考えればわかるんじゃない?」

 綾は薄情者を決め込むように、トモさんの机の上に台本を投げ捨てる。

「おいおい綾、いきなりはねえだろ。潤も落ちつけよ。昨日は、俺と綾と天野くんで待ち伏せみたいなことして悪かったよ」

 トモさんは俺の肩を押さえてこの場を静めようとする。

「天野先輩さ、またこの脚本、ストレンジホームで舞台をやりたいって兄貴に頼んできたのよ。しかも、昔と同じ役を潤と一緒に主演同士で。ずっと意識が戻らなくて入院していたっていうのに、急に現れて事情は聞いても一切話さないし、ひたすらお願いされたの」

「そんな大事なこと、どうして俺に知らせてくれなかった?」

「あたし達だってそこが一番気に食わなかった。天野先輩にはね、入学式まで自分のことを潤には秘密にしてくれ、とも言われたよ」

 あいつは何を考えているのだろう、過剰なまでに俺を避け続ける理由は何なのか。

「ただ、そんなお願いされてもすぐに了解できるわけがない。いくらなんでも急過ぎる頼みだからな。それに次の公演は三年の水無瀬君の脚本で決まってたから、部長としても到底聞き入れられなかった。それにお前と天野君の……関係を考えると、さらに複雑だしな」

 トモさんが言葉を選び喋りつつ、綾から台本を奪い取って机の上に放り投げた。

「でもな……天野君、全然引かないんだよ。断っても断っても、別の日に何度も同じことを頼みに来た。全く、根性あるよ。宙にふわふわ浮いた昔の印象からは想像できなかった」

 過去を思い返すような遠い目をして話される。

「それで最後はこっちが折れたってわけだ。それに俺としても、ストレンジホームは中学時代にやり残した舞台だしな。あとは、潤だって最終的には了承すると思ってな」

 中学時代、俺も舞もトモさんが部長を務める演劇部に所属していた。

 ストレンジホームは、その頃に行う予定だった舞台劇のタイトル。

 主演は、俺と舞。

 但し、実際に本番を迎えることは無かった。あれは俺の中でトラウマになっている。

「何もかも秘密をして、潤を騙すような真似は受け入れたくなかった。あたしも兄貴もね」

「だからとはいえ、天野君の顔を殴るのはやり過ぎだったな。女優の顔だぞ? 潤にも謝れ」

「なんで潤に……すいませんでした、反省してますよ。天野先輩には今度、謝罪します」

「ああ、舞のあの怪我ってそういうことだったの」

 昨日の歩道橋の上では包帯、今日の学校では絆創膏を、舞は顔に付けていた。

気に食わなくて、綾が拳を一発ぶちかましたというわけか。

「まあ、綾の気持ちはわからんでもない。だから俺も条件を出したんだ。入学式まで潤にこの件は話さないけど、隠すような工作もしないってな。あと俺から潤への演劇部勧誘は変わらず続けるとも話した。これは元々俺がやり続けてたことだし、邪魔される筋合いはない」

「このくらいしかあたし達も知らない。とにかく天野先輩は、この脚本を潤と主演でもう一度やりたくて、入学式前日の昨日までは自分の存在を潤から隠していたってこと。それだけ」

「あいつ、うちの高校に入ったみたいだけど、そのへんのことは聞いてるの?」

「高校検定ってやつを取ったらしい。中学二年の途中から入院してて、学校へ行ってないから高校受験するために、天野君の場合そういうのを取得する必要があったみたいだ」

 その検定を取る期間を含めると、かなり前から体の方は回復していたのだろう。

 いきなりのことで一気に疲れて、フローリングの堅い床に腰を落とす。

 舞が考えていることは今もわからないけど、不明瞭な事が少しでも消えたのは良かった。

「そんなわけで今、演劇部はストレンジホームでの公演を予定している」

「でも新入部員抜きだと部員は二人だし、そんなの予定だなんて言えるの?」

「どんな脚本だろうが、元々潤を口説き落とす予定だったから、三人だよ」

「口説き落とすなんて……」

 綾は両手で口を覆い隠しつつ瞳を爛々と輝かせ、なぜか俺とトモさんを交互に見る。

「兄貴って、時々ゲイなんじゃないかって思う。しかも仲の良い親友といえば中性的でかわいい系の外見した潤だしさ。アッーーーってやつじゃ、痛っ」

 楽しそうに語る綾の脳天へ、トモさんは慣れた動作で垂直に肘打ちを下した。

「白状すれば、部員が少なくて苦しかったのは確かだ。そこでストレンジホームなら、俺と、潤、天野君の経験者三人が前と同じ役をやるとなればかなり楽だ。本番まで時間が少ないから長い練習期間を設けるのは無理だし、演劇部としても悪くない話ではあったさ」

 口元に皺を寄せ、小さく溜息を漏らすトモさんの渋さは高校生離れしている。

「ただ、大問題が一つだけあった。さっきも言ったが元々脚本は決まっててな……俺と同じ三年部員の水無瀬君が書いた脚本でいく予定だったのを、取り下げなきゃいけなかった」

「えっ、そうだったの? それは許しがたいことね。譲先輩の書いた脚本を踏み躙るなんて」

 肘打ちに悶えていた綾はすぐに立ち直り、橙色の表紙を不満そうに睨む。

「実際、許されるぐらいには絞られてきたつもりさ。普段はお上品な雰囲気なのに、烈火の如く怒り狂う形相は本当に恐ろしかった。かの武則天や西太后も顔負けさ」

 昭和のヤンキーみたいに「あ?」と片眉を吊り上げ威嚇する妹を、口笛を吹き涼しげにかわす兄。

「水無瀬君の脚本なら、少ない部員数でも成り立つ内容でな。彼女と俺と綾だけでもなんとかなったが……役者が少ないと個人が強調されちまう。毎年恒例のゴールデンウィーク明けにやる公演は、新入生への勧誘も兼ねてる。だから個人じゃなく部としてのアピールになる舞台劇の方が理想だ。そういう意味じゃ、役者が六人のストレンジホームのが好ましい」

「えっ、六人って今の部員って、トモさんとその水無瀬先輩って人の二人なんだよね? 舞と綾、それに俺が加わるとしても五人にしかならないじゃん」

「あと一人ぐらいは新入部員引っ張ってきてみせる。目星は付いてるしな……おっと潤、自分を頭数に入れるってことは入部を決心してくれたのか?」

 おちょくってくるトモさんを「仮に、の話だよ」と一言であしらう。

「トモさんは俺が入部しないことはもう考えてないんでしょ? いいよ、入部する」

 逃げても事態は進展しないだろう。

 どんな意図があるのか知らないけれど、この件に乗らないと舞に近付けそうにない。

「思ったよりあっさりだな。ま、お前なら遅かれ早かれOKしてくれると思ったよ」

 目の前で並んでニャニヤと気持ち悪く笑う鐘ヶ江兄妹を見ると、前言撤回したくなる。

「天ノ川コンビをまた拝めるとは、感極まるね」

「それ聞くの久し振り。なんか……浮わつくね」

「むっ、何よそれ、兄貴と潤だけで通じ合っちゃって」

 そういえば綾はこの通り名を知らなかったか。

「天野舞と野川潤、主役の二人の名字を合わせて、天ノ川。ちと飾りっ気に掛けるが、力強いネーミングだと思わないか?」

「まあね。シンプルイズベストだとは思うよ」

 それは俺と舞に付いた二つ名。当時はそんな冷やかしに困ったけど今となっては懐かしく、主演二人で切磋琢磨した記憶が久し振りに脳裏を過る。

「良し、これで目先の戦力確保はどうにかなると。あとは――」

「――合宿をどうするか、だね」

 思考が共有でもされているかのように、妹は兄の言葉を自然に繋ぐ。

「合宿って?」

「本番まで残り約一ヶ月。水無瀬君も綾も演技に関して未経験だし、これから引き入れる予定の最後の一人もそうなんだ。全員が台詞を覚える期間を省けば、残り時間は一ヶ月以下と考えるべきだ。だから短期的に集中する特訓、つまり合宿が必要だ」

「水無瀬先輩って人は、ずっと演劇部だったんでしょ? なら、問題ないんじゃ」

「彼女は去年までずっと脚本担当でな、舞台に立ったことは一度も無いんだ。演技に関しちゃ正真正銘の素人、ただな……本当にただ素人なだけであることを、俺は祈ってるよ」

「どういうことよ?」

「まっ、そのときになりゃわかるさ」

 不満そうに綾の問いに、トモさんは難しそうな顔で遠い目をするだけだった。

「合宿だが、五月初めの五連休を泊まり込みでやる。具体的には連休前の金曜日の夜から学校に入って毎日朝から晩までぶっ通し。それで大丈夫か?」

「潤はどうせ暇人だから聞かなくても問題ないっしょ」

「その通りだが、うっせえよ」

 綾は「かかってこい」と、くいくいと人差し指を振って挑発してくる。

「綾、ちゃちゃを入れるな。合宿当日までにクリアしなきゃいけない課題は二つ。俺が新人をキープすること、あとその新人君と綾と水無瀬君に台詞を完全に覚えてもらうこと」

 最低限、出演者を確保して全員が台詞さえ覚えれば、舞台劇は成り立つだろう。

「その間、お前と天野君は昔の感を取り戻すことに専念してほしい」

 トモさんは机に置かれた橙色の台本を手に取る。

「部室を使っても良い。あの脚本最大の見せ場はお前と天野君のシーン。出演者は六人でもこの舞台の完成度はお前達主役二人の演技力に依存する部分がある。でも、俺の知るあの頃の潤と天野君二人の演技なら大丈夫。いや、観客の度肝だって抜けるはずだ。だから――」

 そして隙や雑念のない真剣な表情で、俺へ台本を差し出した。

「――頼むぞ」

 しかしそれをいざ受け取ろうとすると、手が一瞬強張る。

「お、俺は……」

 怖くないと言ったら嘘になる。

 苦しくて、一時期は酷く落ち込んでいた。あれを思い出させるこの台本を手に取ると、胸の奥に潜む重たい感触が再び襲ってくる気がする。

「天野先輩とは、本番を成功させるって、約束したんでしょ? なら迷う余地ないよ」

 察するに綾はその言葉の本当の意味をわかってはいない。けど懐かしい言葉だった。

「『約束』……か」

 でもこれ以上何もせず、毎日腐って足踏みするのはもうウンザリだ。

 舞の真意がわらなくても構わない。叶わなかったあの舞台に再び挑めるのなら、凍りついていた時間が動き出すのなら――

「任せてくれ」

一抹の躊躇の後、俺はトモさんが渡してきた台本を受け取った。

「よろしくな《少年》」

「ご指導ご鞭撻、お願いしますね。野川先輩っ」

 久しぶりに役名で俺を呼ぶトモさん。

 指で作った架空の拳銃を俺に向けて撃つ綾。

 楽しそうにふざける青い瞳の兄妹がちょっぴり頼もしく思えた。



 話も終えて帰ろうとしたところ、綾と途中まで夜道を歩くことになった。

 綾はドロップハンドルのロードバイクを押していて、変速ギアはもちろん速度計やドリンクホルダー等がフル装備のものだった。小柄だがシャープな本人の体型も相まって、その姿はかなり似合っている。

 ふと胸ポケットの中で携帯電話が震える。メールの受信があり開くと、見慣れた文面がそこにはあった。


DAY 4/2 22:21

From 野川 澄香

Sub ギャアアアアア

携帯落としたら画面の端っこが黒い~、液晶漏れだ~、清浄なる世界が侵食される~


 綾にメールの文面を見せると、やや嬉しそうに笑みを漏らした。

「おー、この騒ぎっぷりは紛ごうこと無き澄香ねえだ」

 確かにその特徴が健在なことがメールの文面からでも窺える。

 綾もトモさんも小さい頃からの付き合いだから、姉さんとも面識がある。

「しっかし相変わらずだね、澄香ねえはさ」

「ああ、子供の頃から派手な人だよ」

 メールの送り主は野川澄香、俺の姉さんだ。

 昔から騒がしく落ち着かない性格で、周囲を賑やかにすることに掛けては天才……いや天然とも言える素質を持っている人だ。トモさん曰く、華やか過ぎるから良くも悪くも太陽のような存在、だそうだ。弟目線から見てもその表現は外れていないと思う。

「久々に会いたいな。なんかパワーが出るんだよね、澄香ねえに頭を撫でられるとさ」

 背丈同様に頭も小さいため、姉さんは好んで綾の頭に触っていたのを覚えている。

 綾は他の人間にされるのは嫌がっても、姉さんにだけは許していた。

「今年から社会人だから、今は余裕ないかもしれない」

 残念そうに俯いて「そっかー」と呟き、綾は少しだけ寂しそうな横顔を覗かせる。

「しょぼくれんなよ、らしくない」

 代わりにその小振りな頭を撫でてみると、やっぱり俺では鬱陶しく振り払われてしまう。

「この件が落ち着いたら、今度会いに行ってみようかな」

「あれ、会ってないんだ?」

「メールのやり取りは頻繁にしてるけど、もう一年は会ってないよ。なんか忙しそうでさ」

「そうだったんだ」と綾は短く呟き、顎に指を当てて何か思い出したかのように続けた。

「うろ覚えだけど、兄貴から聞いた話。本番の日って土曜日だから、OBとか家族の外来客を招待できるみたいなの。もちろんさ、澄香ねえの予定が合えばの話だけど――」

「本番当日に姉さんを呼ぶ、ってことか?」

「そうそう。もし澄香ねえが来てくれるなら、モチベ上がるじゃん?」

「悪くないかも」

 実際に観に来てくれるのなら、俺も鐘ヶ江兄妹もうれしい。

 それに姉さんに観られるとなると、無様な演技はできないから稽古に集中しやすくなる。

「じゃあ、ひとまずは澄香ねえを招待できるか、兄貴に聞いておくね」

 綾はバイクに跨り俺とは道を逆に曲がる。

「ああ、よろしく頼むよ」

 片手に持った台本を掲げて軽く振ってから背を向けると、

「潤!」

 夜中に差し掛かったこの時間、静まり返った住宅地に甲高い声が響き渡る。

「あたし、負けないからねー、あんたにも、天野先輩にも!」

 綾はそう叫んでから、遠くへ見えるコンビニへと走っていった。

 そんなやり取りの後になって、不思議なことに気づく。

 普段は冷めていて起伏が小さい心が、珍しく鼓動していることに。昨日と今日ですごく疲れている筈なのに、胸のあたりが熱く少しだけ感情が昂っている。

 俺は両手のリストバンドの位置を直し、初春のまだ冷え気味の夜道を歩き出した。

次回、7/21(火)PM10時頃に更新です。

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