閉幕
『あなたは覚えてないだろうか?』
それが一ヶ月前、始業式前日から今日の本番に至るまでの、俺達が奮闘した軌跡。
苦しかったし、特に合宿の期間は翻弄されて、毎日戦っていた。
でも、逃げずに向き合い続けて良かった。だからこそ今、この本番のステージで何の迷いも無く純粋な芝居を、舞と続けていられるのだから。
『おーい、少年。まだかー』
俺が立つ上手の舞台袖から《おっさん》の叫ぶ声が上がる。
『おや、どうやらここまでのようだね。楽しかったよ』
翻すように歩くあでやかな姿は、細いラインの体と相まって画として映える。
囁くような声も合わせて観客を引きつけつつも、その期待を裏切って弄ぶように《駅の主》は舞台袖へ消え去ろうとする。
『ちょっ、ちょっと待って』
『縁があったら、また会いましょう』
観客の代弁者でもある《少年》の声を気にもせず《駅の主》は去っていく。
俺は《駅の主》の姿を最後まで見届けてからも、彼方を見つめていた。そのまま 十分な間を取った後、上手へと振り返る。
それと同時に緞帳がステージの左右から伸びていく。これで公演前半が終わりとなる。
幕が中央で締め切られた後、天井の手前にある二つのサスペンションライトが点く。
「ここで演劇部公演の前半は終了です。十分の途中休憩を挟んで、後半の開始となります」
観客席へ休憩をお知らせする放送が流れる。劇中でナレーションだった綾のアナウンスだ。
「はいよーっ、まずは前半よくやった。最高の出来だ、素晴らしい! みんな愛してる!」
おそらく喜んでいるのだろうけど謎の雄叫びを上げて、衣装である付け髭をそのままにトモさんは部員一人一人の肩を叩いて労っていく。
衣装である駅員の制服を着た水無瀬先輩、勇、と回ってから最後に俺と舞のところにやってくる。
俺の右肩と舞の左肩を掴んでから揺らし、じっくりと主役二人の顔を交互に眺めてくる。
高校生とは思えないほど渋い表情を湛えている。今までにないくらい満足そうに。
「やってくれたな、二人とも期待を裏切らないじゃないか、ん? ん?」
「トモ先輩、本当に今までお世話おかけして、申し訳ありませんでした。今はあの通りなんでもうダメ出しは必要ないですよ。あれがお望みの演技だったのでしょう?」
合宿の時は良い評価をくれなかったせいか、皮肉混じりでトモさんに絡んでいく。
だから今は舞ではなく、間違いなく姉さんだ。
前半の《駅の主》は全て舞が演じていたけど、終わったあとに入れ変わったのだろう。
今までより消耗しない様子だけど、いきなり人並みに動けるとは限らない。だから休憩時間中に姉さんに変わって舞は休んでおくに越したことはない。
「これも昨日の夜の特訓を許可してくれたトモさんのおかげさ」
トモさんはそれを謙虚に否定しつつも、途中で何か思いついたようにニヤけてから、俺の胸を二度ノックし姉さんの方をちらりと一瞥する。
「生徒会室で、女を助けるため、と宣言したお前自身の力だよ」
「えー、なんですか、それ。潤くん何それ、ボク聞きたいな~」
トモさんからのサインを察して、姉さんは俺の肩の辺りに頭を乗せながらも、肘で俺の脇腹の辺りをぐいぐい押してくる。
野川澄香としては他人事だからか、甘えながらも煽ってくるという上級テクニックの前に俺はなす術もない。
「本当に、お二人はレベル高いですね。わたしと鐘ヶ江君が一年生の頃からやってきた演劇部公演の中で、一番の完成度かもしれませんよ」
「天ノ川コンビのお二人のお芝居は圧倒的でした。前半の自分の出番終わってからは、ずっと見惚れてましたよ」
水無瀬先輩の落ち着いた賞賛と、勇の輝く目に俺は救われる。
「勇くんの演技も今までで一番でしたよ、より自然な感じで仕上がってました」
「いえいえ、自分なんて皆さんに比べて……」
先輩の上品で癒されるような柔らかい笑顔を向けられ、勇は一瞬で骨抜けになる。
「おー、褒められちゃってー、良かったじゃん」
放送室から戻ってきた綾は、そんな同級生に対して早速ちゃちゃを入れるけど、
「綾ちゃんだってお手柄よ。主役のお二人の次に大変なのは、綾ちゃんだもの。良い子だね、よしよし」
「あっ……えへへへ、うふふふ」
美女の先輩に頭を撫でられ、すぐにミイラ取りがミイラになる。但し、恥ずかしがる勇とは違い、だらしないニヤけ顔で喜んでいる綾はかなり不純だ。
「あのー、トモ先輩。ちょっと潤くんと二人だけで打ち合わせしたいので、いいですか?」
「構わないぞ。休憩時間はまだあるけど、開始五分前には戻ってきてくれ」
あいあいさー、と直立ではないなよやかな姿勢で適当な敬礼をする。
その後、姉さんは自分の台本を手に取って、長い後ろ髪を揺らしつつ奥にある階段を上っていく。仕方なくその自由な後ろ姿を追う。
階段を上った先には、さっきまで出演者達を演出していた大型スポットライトがあり、その後ろに隠れるように姉さんが待っていた。
「はよはよ、こっち」
俺も同じ要領で身を屈めた。
真っ暗だったフロアには明りが点き、大勢の全校生徒達の喧騒が秩序なくざわめいている。
「舞は大丈夫なの?」
「その話だけど……前よりはずっと安定してるよ。倒れるってことはないと思う。ただやっぱし苦しいことに変わりなさそうなの。ただ後半が始まっても、すぐに《駅の主》の出番があるわけじゃないから、舞ちゃんが神経を休ませる時間はたっぷりある」
台本を捲り、後半にあたる部分のうち《駅の主》の出番があるページとないページ、同じくらいの厚さを摘んで姉さんはそう示した。
「ただ出番の時の様子次第でダメそうなら、あたしが芝居をすることになるかもしれない」
創平さんにも危険だと釘を刺されているから仕方ない。
昨日は互いの本音をぶつけ合えたし、前半では共演できたし、これ以上を望むのは――
「大丈夫よ、最悪でも途中まであたしが演技するだけ。本筋の締め括りは、きちんと舞ちゃんにやらせるからさ、安心しなさいって」
勝手に妥協しようとする俺を励ますように、姉さんは頼りがいのある百万ドルの笑顔で俺の肩に手を置いた。
「ありがとう」
「お礼を言うのは、まだ早過ぎじゃない?」
姉さんが面白そうにくすりと微笑むから、俺もそれにつられてつい笑ってしまう。
「それにしても、合宿のときから舞と芝居をやり通したことなかったから、改めて思うけど、やっぱし《駅の主》は舞のあの演じ方がしっくりくるよ。トモさんと同じ意見だけど、姉さんの演技は熱が入り過ぎてて、透明感があんまり無くてさ」
ただこの意見は姉さんにとっては不服だろう。
その証拠に唇を尖らせ態度に表わすけど、すぐにしゅんと収まって落ち着く。
「ん~、複雑ね。あたしの演じ方が正解なのに……まあ、客観的な判断じゃ舞ちゃんのやり方の方が評価高そうだから、認めるけどさ。ぐすん」
「正解って……普通は役者が良くしていくもので、最初から正解なんて無いでしょ」
「うんや、ある、確かにある。揺るがない!」
「やけに自信あるじゃん。別に責めるわけじゃないけど、その根拠は?」
「だって、この脚本書いたの……あたし、だもん」
語尾をぼそぼそとさせて恥ずかしそうに話す姉さんの言葉に「ふえっ?」間の抜けたとても情けない声を出してしまった。
「この脚本の筆者で『諏訪乃鏡』って書いてあるじゃない?」
姉さんは台本の表紙を俺に向け、タイトルの下にあるその名前を指し示す。さらに裏表紙を捲ったところにある『筆者:同演劇部 諏訪乃 鏡』と書かれた部分も見せられる。
「『諏訪乃鏡』を読み仮名にして、並び替えると『野川澄香』になるのよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
混乱気味の思考回路を落ち着かせつつ、その通りに語句を組み替える。
スワノカガミ
ノガワスミカ
確かに言う通りだ。
「つまり作者はあたし。だから、あたしが意図していた演技が正解に決まってるわけ。これが根拠よ、どう?」
「いやもう……いや、だって、そんな演技がどうのこうのなんてこの際どうでもいいよ」
姉さんは両手を腰に当てて満足そうに勝ち誇るけど、そんな些細なことはすでに思考の彼方に吹き飛んでいる。
「これはあたしが高校時代に書いたものなの。これでも国語の教員免許持ってるぐらいだからね、文学的センスは低くはないわ」
化かされた気分とは、まさにこのことだ。
「まあそれはさて置き、どう巡り巡ってこうなったかは想像も付かない。あなた達が中学時代にやろうとしてた舞台がこのストレンジホームだって知ったのは、舞ちゃんと体を共有するようになってからよ。正直複雑な因果みたいなものを感じずにはいられなかったわ」
「ど、どうしてもっと早く言ってくれなかったのさ」
「この体のこととか、今までの生活のこととか、話さなきゃいけないことが沢山あったから言い出せなかったのよ。この本番のこともあったしね。あと《駅の主》って死んだ双子の姉妹のことに悩む役を演じられたのもそれが理由。自分が考えたキャラクターだから怖くなかった」
ぐうの音も出ない、全くどこまでも型破りな人だ。破天荒過ぎて、清々しい。
「さてさて、もう戻ろうか。舞ちゃんとの約束は守らなきゃ」
「うん……そうだね。姉さん、最後まで舞のことはよろしく頼むよ」
「最後じゃなくて、これからも、でしょ?」
間違えるなと、注意するよう人差し指を向けて姉さんに念を押される。
その通りだ。俺達の時間はこれからが始まるのだから。
でも今は目先の目標を叶えることが大事、だから休まっていた神経を再び引き締める。
「遅いぞ。五分前つったろ」
思ったより話し込んでしまったようで、俺も姉さんも申し訳なさそうに頭を抑え、ステージ中央に集まっているみんなの輪の中に合流する。
次の事務室内のパートに入れるように、すでにソファや机が設置されていた。
「前半の仕上がりの見る限り、今までで最高の芝居だ。このままの調子でいけば大丈夫。あとはここにいる団体行動がとれない主役二人が、決めてくれるそうだ」
数分前の姉さんと同じ皮肉混じりの冗談をみんなの前でされる。
だけどそれはおふざけだけでない。稽古中は見たことがない俺達への淀みない信頼が、口元に浮かぶ不敵な微笑みとなって佇んでいるようだった。
「みんな、頼んだぞ」
部員全員に対して部長の託す一声に、反応はそれぞれ。勇は素直に頷き、水無瀬先輩は身振りだけで返事をして、綾はトモさんと同じ捻くれた笑みを浮かべる。
団結と一言で表現するのは陳腐。その期待に応えようと、部員全員が今まで以上に繋がっていた。でも、一人だけかっこよく終わらせやしない。
「トモさんもね、頼むよ」
「はっ、ぬかせ」
俺も同じ言葉を返してやると、その強くて分厚い表情を少しだけ崩すことができた。
「よし……行くか!」
綾は階段の上にある放送室に向かい、最初は出番の無い姉さんは下手の舞台袖、二人を除いた四人が所定の位置に着く。
ソファに座るトモさんが俺の頭上にある放送室を見上げ、スタッフに対してサインを送る。するとしばらくして、ゆっくりとしたテンポのBGMが流れ出し、緞帳が中央から再び左右へ開いていく。
後半の始まりだ。
『この閉鎖されたホームを形成した《駅の主》と、そこに集ったのは道に迷いしはぐれ者達。彼らはこうして一夜を共にすることとなります。日常では決してありえない邂逅の果てに、彼ら彼女らは何を見出すのでしょうか?』
後半最初のナレーションが終わって、放送室から駆け足で飛び出してきた綾がステージ上に戻り《おっさん》とは対面にあるソファに座る。
徐々に舞台幕が中央から開いていき、隔たれていたステージとフロアが再び一つに通じる。
ここから芝居が始まりだ。
後半最初のパートは、駅員室にいる五人が《駅の主》の噂を打ち明けつつ、それぞれの考えを語り合っていく。やがて朝が近づくとホームを隔離していた壁が解かれていき、はぐれ者達は一人ずつ駅から去っていく。
『あんたには襲い掛かって悪かったよ。でもあの女の方がよっぽど腕っ節強いぜ』
《不良》は前半の冒頭で《少年》を襲うけど、その後に他のはぐれ者達に諭されて態度を改めていき、最終的には《少年》に謝ることになる。
そんな役の演じ方を、勇は何度も試行錯誤していた。最初は荒々しいけど《不良》が丸くなっていく変化を表現する余裕が無さそうだった。けど、今はその差を演じ分けられている。
『何も望まないなら、駅の主だってこんな状況作らないでしょ。姉妹の件をはっきりさせたいに決まってるわ。あたし達が放浪しているのと同じようにね』
ナレーターの役割があるのにも関わらず、綾の演技は最初から完成度が高かった。
役者本人の性格が《家出娘》と近いこともあったけど、地の自分とは違う細かな仕草を意識して取り入れていたようにも見えたし。もしゼロから他の脚本で芝居することになれば、俺や舞なんかより芝居が上手いかもしれない。
『今年もか。ヘリオトロープ……この花はね、一年に一度のこの夜、あの子がいつもホームの端に添えるんだ。花言葉は『献身』になる。あの子は何を思ってこの花を持ってくるんだろうね。もっとも、そんな花言葉など、あの子が知っているかはわからないがな』
水無瀬先輩の芝居はある意味、最も強烈だった。
最初は全くのデタラメで《駅員》のイメージには似ても似つかなかった。多分、脚本に書かれた台詞から想定できなかったのだろう。これは先輩本人の性格とかなり違っているせいもある。でも今は役柄に合った、近寄り難く尖った雰囲気を醸し出せている。
『兄を支えられなかったわたしが言うのもなんだがね……兄が成し、弟が支えるのが自然だ。今日話にあった駅の主とやらは、もしかしたらお姉さんの方なんじゃないかな?』
トモさんに関しては、わざわざ語るのがおこがましいくらいだ。
合宿のときも思ったけど、他の五人の出演者とは経験が違い過ぎる。この中じゃ圧倒的だ。その演技を見る度に、役作りを抽象的でなく具体的に考えて「作り上げている」と思い知らされる。
それに芝居とは関係ないけど、トモさんにはいくら感謝しても足りないくらい助けられた。
だからこの恩に必ず報いてみせる。
『一人一人また一人と、迷い人達は去っていった。残るは己のことを一切語らぬ少年と、この異界を統べる少女。夜明け前の刹那的な一刻の中で、二人は何を話し合うのでしょうか?』
綾のナレーションという追い風を全身で受けた後、上手の舞台袖から入っていく。
余計な小道具が何一つないステージに一人、スポットライトの直光を浴びて佇む《駅の主》。その周囲は、凡庸たる人間が踏み入ってはならない聖域のようだ。
そして、演じるのがどちらか、静止する姿だけでわかる。
『また会ったね、こんばんは』
『巻き込んでしまって悪かったね。でも解放されたはずだよ、君も含めて全員さ』
滑らかに傾く首と一切濁りない声を聞いて、前半と同じく舞だと確信する。
大丈夫だろうか……いや、今に至ってそんな気遣いは邪魔なだけだ。
舞の決意を踏みにじることになるし、お互いに演技が鈍る。だから信じよう。
『僕は幼い頃の君を知ってる……いや、君達と言った方がいいか。さっきまでいた人達の話を聞かなきゃ、君が昔遊んだあの姉妹だって、多分気づけなかったけどね』
『昔……そんな、だって……それは、何年ぐらい前のことだい?』
自らの過去を知る者から記憶を紐解かれる。
そのせいで《駅の主》は終始落ち着いていた前半とは違い、後半に入ると《少年》との対話で狼狽するような素振りを見せる。
そんな変化を、舞は世界の果てを見つめるような面持ちながら、時折見せる悲鳴に近い発声の差で表現する。
謎めいていて浮世離れした《駅の主》の世界観を崩さず、人間的な揺らぎが共存している。
共演中だというのに、見事だと率直に思えた。
『もう確かめる術はない。小さい頃でさえ、どちらが姉で妹なのか両親ですら判別が付かなかった。世話係だった女性が唯一わたし達の差がわかったらしいが、かなりの高齢だったみたいで随分前に亡くなったらしい』
でもこっちだって負けていられない。
BGMも流れ続けたジムノペディから、G線上のアリアへと切り変わっていく。
どちらも静けさを連想させながらも、後者の方が起伏のある曲調だ。そしてそれは、物語を終局へと導いて行く。
ここからが《少年》という役を演じる上での、醍醐味にあたる場面だ。
『確かに僕も、二人が瓜二つで結構混乱したよ。それを利用して、君達には大分いたずらを仕掛けられたもんだ。どっちが姉でどっちが妹なのか、何度もクイズを出された覚えがある』
《少年》の役割は、悲劇的な《駅の主》の過去を解明するだけじゃない。その他者を寄せ付けない心の扉を開いて行くこともある。
『君達の家はお金持ちのせいか、よく近所の悪ガキにちょっかいだされていたよね。だから、お姉さんの方は妹さんを守るために腕っ節が強かったよ……君のように。今思えば口よりも先に手が出るタイプだったのかな。一方で、そんな気性が荒い姉を、妹さんが静めていたのを覚えている。いつもお姉さんに守られている印象があったけど、無鉄砲な姉をしっかり気遣っている妹さんだった。僕は兄弟がいないからわからないけど、やはり弟や妹というのは兄や姉を多かれ少なかれ、支えていく立場になることが多いんじゃないかな』
大事なのは、淡々とした論理ではなく、救いの道標であること。
探偵みたいな説明口調とは真逆の、思い出話のように優しく語り掛ける。
孤独に過去と向き合い続けて疲れ果てているはずのその心を、労わるように。
すると《少年》の長台詞の最中、微かだけど一瞬だけ舞の眉がピクリと上がり、笑みを抑え込むように口元が綻んで、すぐに《駅の主》を演じる役者の自分に戻った。
もし舞も俺の演技に対して何か所感を抱いてくれたなら、してやったりな気分だ。
主演として、お互いが同格に渡り合えたことの証明だから。
気づけば、指先まで余すところなく全身に熱が伝わり、頭から芝居以外のことが排除されて透き通るように思考がクリアになっていた。
未だかつて感じたことのない圧倒的な興奮に、心臓の音が高鳴り時間の経過が遅く感じられて、体も神経も心も冷めることなく昂り続ける。
まるで自分の体に飲み込まれそうなくらいで、気持ちいいなんてもんじゃない。
『だから君は、お姉さんの方だよ』
すると舞の演技が、今までとは少し違って見えた。落ち着いた雰囲気を纏う《駅の主》が、なんだか……楽しそうだった、今の俺と同じように。
『だとしても、わたしが姉の方だったとわかったところで何も変わらない。もうどちらが姉で妹だったのか、そんなことはどうでもいいだよ』
『いや、それは嘘だ。君は毎年一年に一度この駅を閉鎖してきた、だれにも邪魔されずあの花をホームに置く為にね。どうでもいいなどと思っていては毎年なんて続くわけない』
ラストパートが始まってから、観客はこれまでよりもずっと静かな気がする。
単純に《少年》と《駅の主》の対話が延々と続く変化に乏しい場面だからかもしれない。
でも根拠は無いけど直感がある。
今繋がっているのはステージ上にいる主演二人だけじゃなく、フロアを埋め尽くしている観客達もまた同じ高揚感に包まれているのではないか。
それに出番を終えた役者や裏方の人達を含め、みんなが通じ合っているような感触。
三年前から望んでいた舞台に、こんな最高の形で立てていることを幸せに思う。
『もう夜明け間近か……すまなかったね。こんな面倒な昔話に付き合ってもらって』
『面倒なわけがない。僕は、もしかしたら君に会えるかもしれないと思って、このホームに来たのだから』
しかし残りの台詞は僅かで、閉幕が近付いてきた。
惜しい気分だけど、限られた時間だからこそ、体験できた至福の一刻だったはず。
『ありがとう、今日は君に出会えて良かった。道標が少しは切り開けたかもしれない』
『それは僕も同じさ。この駅に来て噂を聞いたときから、ずっと気になってたから……また会いに来てもいいかい?』
ならば、これをもって最高の幕引きとしよう。
「また……か、わたしは毎日会いに来て欲しい」
「そうしたいのは山々だけど、さすがにここは遠過ぎる」
脚本というレールから外れたのは舞が先、続いて俺も脚本に記されていない台詞を放つ。
それでもお互いの役柄を維持した上で芝居を続けていく。
「なら、繋ぎ止めてくれないか?」
「一体何をだい?」
舞の問い掛けを返したところで、脚本通りではない進行のせいで、舞台袖が騒々しくなる。
当然だろう。でもだからといって終わる寸前の芝居を中断なんて簡単には出来ないと、俺達はとっくの昔から想定している。そう、三年前から。
舞の肩の向こう側でパイプ椅子から立ち上がったトモさんと、一瞬だけ目が合う。
前半でもこんな対面があった。けど、あのときは満足そうに微笑んでいた表情が、今は異常事態に翻弄されて余裕が無さそうに取り乱してる。
だから「ごめんね」と、軽いけど最大限の誠意として、内心で一言謝罪を入れておく。
「決まっている、わたしの心をさ」
「照れるね。僕なんかで良いのかい?」
「君以外に本心を曝け出すことなんて、しばらくできそうにないよ」
最後の台詞を言い終えると、舞はポケットの中から掌に収まるくらいの金属を取り出す。
なんだろうか、これは俺も事前には聞いていない。
舞が金属を素早く捻り返すと、根元のピンを中心に変形し、鋭利な形状の何かが飛び出た。
スポットライトの光を受けて照り返すそれは、バタフライナイフの刀身だった。
思ってもいなかった意外過ぎる小道具の登場で、嫌な不安が胸の片隅からやや滲み出てくる。
しかしそんな心配は思い過ごしに終わった。
譲は自らの長く伸びた後ろ髪を、紅紫色のリボンごと左手で掻き集める。
そして肩の辺りまで持ち上げたそれを、右手で握ったナイフで一気に切り裂いた。
舞い散るようにフロアへゆったりと流れていく髪の毛が、照明によって銀色に光り輝いて見える。譲はナイフを折り畳んで、放り投げるように捨てた。
そうか、確かに必要なことかもしれない。
切り揃ってない雑な髪型だけど、これで長さは昔と同じ。三年前に叶わなかった本番の前日に見た、あの頃と同じ姿だ。
そんな予定にない派手なパフォーマンスをしたせいか、さすがの主演女優も照れくさそうに頬を緩ませていた。
しかし気を引き締めるように再び《駅の主》の表情に直る。
そうだ、まだこの舞台は終わっていない。
肝心要の締め括り、今こそ『約束』を果たそう。
ナイフで髪毛を切るという、あまりの演出に大勢の観客達はざわついている。
その目の前で、俺と舞は互いを引き寄せるように抱き締め合う。
満足いくまでお互いの温もりを全身で確かめる。
そして吐息が掛かるぐらいの距離を取る、意味のある位置だ。
すると主演二人に対してフロアから歓声が湧き上がり始めていた。
そんな騒がしい観客達を前に、俺達は『約束』を果たした。
これで物語は完結です。
最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。
もしよろしければ、少しでもいいので感想を頂けるととても助かります。