娘の背中
都心のギャラリーだったが、平日昼間の来場者数などたかがしれている。隣のスペースは趣味の絵画サークルによるグループ展で、そちらは老人や主婦と思しき方々がよく出入りしていた。その行き帰りにこちらを申し訳のようにのぞいていく人もいるが、大半がとくに関心した様子も無く出て行ってしまう。まあ、今回の展示内容だとそんなものだろう。パーティションの裏で惰眠をむさぼっていたら、
「こら、寝るな」と頭をはたかれた。
目を開けると中学の制服姿の麻衣子がいた。
「パパ、久しぶりー」
「あ、おう」六週間ぶりの再会で嬉しいのだが、今は何時だろう、もう放課後なのか。
「寂しかったから、学校さぼって会いにきちゃった」
うえ、あ、と返事が声にならない。寝ぼけた頭では何にどう反応していいかわからない。
「嘘だけどね」
急に下がった声のトーンは、にやけるな、と言いたいみたいだった。
「学校はさぼってません。なぜならばー、……わかんない? 娘の学校のスケジュールなんてもう忘れちゃった? あ、マジでわかってないんだ! 正解は、『今日は期末試験の最終日だから』です。これから、友達みんなでカラオケ行くとこなんだ」
「……あ、そうか」
いつものことなのだが、回転が速すぎてついていけない。
「来てくれてうれしいよ。先月の面会日、お流れになっちまったからな」
「そーよ。でね、クッキー買ってきた。お茶菓子あったほうがいいでしょ」
「ああ、助かるよ。コーヒー飲んでいかないか。それくらいの時間はあるんだろ」
念願だったアトリエを街はずれに買って六年目、麻衣子が四年生のときに妻と別れた。麻衣子は妻にひきとられて市内で暮らすようになって、月に一度の面会日以外、こちらからは会いに行けないことになった。
「また、背のびたな」
「や、そんなには変わってないと思う」
「やっぱり、だんだんママに似てくるなあ」
「やーめーて」
冗談めかした言い方だったが、目つきにはっとするほど冷たいものがあって、思わず口をつぐんだ。私の驚きに気づいているのかどうか、
「ママの新しい彼氏と、三人で食事したんだけどね」
突然なんでもないことのように、別な話を切り出した。
「私のこと姫とか呼ぶのよ。ママが女王さまってわけよね。もう、歯が浮くようなことばっかり言っててさ、笑いこらえるのに必死だったわよ。なんか社長さんって変な人多いよね。執事気取りなのかもしれないけど、あれじゃ召使か下男って感じ。そういうのが好きならSM……あ、えと、とにかく、あんなモミアゲした男はありえないと思ったわけよ。ママも妥協してる感じだけど、男の趣味がだんだん悪くなってる気がする」
どうにかしてほしいわよ、まったく、と言うと、音をたててコーヒーをすすった。
私に、どうにかしてほしいのだろうか。いや、それは考えすぎか。
「ママにも困ったもんだな」
あたりさわりのない返事を返すと、見透かしたような一瞥を受けた。
本当なら、私が気持ち悪いと言われているはずの年頃だった。なついたままでいるのは離婚があったからこそだ。そう思えば悪いことばかりではないが、麻衣子にとってはどうだろう。
「麻衣子のほうは、どうなんだ」
「ん」自分で買ってきたクッキーをぼりぼりかじりながらこちらを見る。
「クラスの子達と、どんなタイプが好きとか、そんな話するだろ。先輩の誰さんがかっこいいとか」
「そうねー」
コーヒーカップを掴んだまま左手で頬杖をついて考え込む。
「なかなかうまくはいかないよね。この世に二人っきり、てわけじゃないから。いいな、って思う人にはだいたい相手がいるし、そうじゃなくても、どうしてもドロドロしちゃうのよね。まわりの人間関係とか、そういうの」
思っていたよりも数段大人びた答えが返ってきて、私は深刻になってしまった。
「そうだな、人を好きになるって、楽しいことばかりじゃないよな」うまく答えられるだろうか。考えがまとめられないまま、私は陳腐な話をはじめた。
「つらい思いをするのが自分だけなら、まあいいかと思えるけど、そうもいかないからな。後悔もするよ。でも、好きにならなきゃよかったとは思わない。おたがい愛し合って結婚した。何があろうと、そのときの気持ちは嘘じゃない。それにな、麻衣子が生まれてきてくれたから、それだけで充分な幸せをもらった。そう思ってる」
だから、親を恨んでくれてかまわないから、人を愛することを怖れないで欲しい。
そう言いたかったのだが、どんな言葉にしたところで、私の口から出たのでは重みがない。
麻衣子はもうぬるくなっているはずのカップを抱えたまま、しばらくうつむいていた。
怒りをこらえているのかもしれないし、笑いをかみ殺しているのかもしれない。調子のいい事ばかり言うなと唾を吐きかけられたら、黙って受けるしかない。
「私ね、ママとパパが別れてくれて良かったな、って思うことがあるんだ」
あまり感情を感じさせない静かな声で、麻衣子はやがて言った。
「小さいころのことを思い出すと、やさしい気持ちになれる。現実にもどったときに、ギャップで落ち込んだりもするけれどね。最近の出来事で上書きされてない、きれいなままの記憶って、タカラモノだなって思うんだ。そういうのが汚されたり、ねじまがったりしないできれいなままで輝いてるのは、遠い場所にあるから。ずっと三人で暮らしていたら、そういうのみんな、ごちゃごちゃに混ざり合って、壊れちゃってたような気がする。生まれてきてからのこと全部、否定したくなってたと思う。だからね、パパ、これでよかったんだよ。私はそう思ってる。誰も悪くないよ。これでよかったんだよ」
麻衣子自身確かめながらのような、ゆっくりとした一言一言が、胸に迫った。慰めるつもりで肩に手を置いたのに、いつのまにか涙ぐんでいたのは私のほうだった。
「大丈夫、私はちゃんと、わかってるから」
麻衣子はそっと私の手をどけると、トレイにカップをのせて給湯室に持っていった。麻衣子が洗い物をしているあいだに、私はどうにか涙を止めることができた。
「東京、どうだったの」
見計らったかのように、麻衣子が呼びかけてきた。
「レントゲンヴェルケだっけ? すごい有名な画廊なんでしょ」
「ああ、すごかったよ。なにせ、来る人来る人、みんな本気だからな。切り刻まれてズタボロにされたよ」
「ふーん、でも、そのわりには元気そうじゃない」
「まだ先があるってわかったからな。こんな田舎のぬるま湯で、小さな付き合いの輪のなかでおとなしくしてれば仕事を回してもらえて、それで一応食べてはいけるけれど、物足りないような気もしてたんだ。でも、あっち行ったら、若いのにすげえ考えてる奴もいるし、俺より年上なのに、ずっとアグレッシブな人もたくさんいた。自分の居場所つくって満足してる奴なんか、一人もいなかった。負けてられないなって……どうした」
戻ってきた麻衣子は、私を見て口元をおさえている。
「なんでもないよ。ゼンゼンワラッテナイヨ」
「笑ってるんじゃないか」
「笑ってないって。いつまでも子供みたい、とか全然思ってないし」
「思ってるんじゃないか」
どうして子供みたいと言われるのかよくわからない。ということは、私は本当に子供なのだろう。
「芸術家なんかと結婚するなよ」
照れ隠しにそう言ったら、
「大丈夫。お父さんみたいな人とは結婚しないよ」
とまじめに返された。
「麻衣ちゃーん。あれえ、どこお」
ギャラリーの入り口で、女の子の声がした。
「時間か」
「うん」
「うわあ、麻衣ちゃん、そんなとこで何してんの」
「ちょっとね、先生にお話伺ってたの」
「知ってる人なの?」
父親だ、などとはもちろん言わない。
麻衣子は首を振った。
「でも、こんなに素敵な絵を描く人だから」
「ふーん」
友達はいぶかしげに壁の作品を見回すばかりだ。
「じゃ、先生、またこちらで個展を開かれる際には、ぜひ……」
「はい、こちらこそ、よろしくおねがいします」
まるで他人のような挨拶をして、私たちは別れた。遠ざかっていく背中は、見る見るうちに見知らぬ大人にかわってしまいそうで、私はずっと、目が離せなかった。