常連
アルバイト中のコンビニで、優生はふと品出しの手を止めた。かすかに空気の流れが変わったのを感じたからだ。
(これは、アレか)
見回したが、店内に客はいない。夜九時二十八分。もう一人の同僚はバックに入っている。
「……いらっしゃいませー」
優生は独り言のようにつぶやくと、作業に戻った。
元々、人より少し敏感だった優生がさらに感じるようになったのは、ある後輩の影響が大きい。
一年前に入ってきた、優生より五歳下の女子。
母子家庭なので、自分でお金を貯めながら大学の通信制で勉強しているのだという彼女は、若いわりには気がきいてよく働く子だった。
シフトが重なったときに何度か話しているうちに、名前が同じであることが分かって驚いたのをきっかけにして、急速に仲良くなった。しかも、父親の名前も同じというオマケつきである。
仕事中は「本条さん」と呼んでくるが、仕事以外の場では「優生さん」と変えて甘えてくる人懐っこさ。同じ末っ子だが甘えるのが苦手な優生には新鮮で、妹のように可愛がっている。
ある日、昼のシフトで二人重なったことがあった。
後ろを誰かがすり抜けていく気配を感じ、優生は品出しの手を止めて体を棚に寄せ、通路を広げた。
「失礼しましたーいらっしゃいませー」
声を出しながら誰かが進んでいったはずの方向を見ると、そこには驚いた後輩の顔があったのだ。
「ゆう、あ、本条さん、今どうしたんですか!?」
「え? あー、今通ったの、ジローだった?」
しまった、さん付けを忘れた。次郎丸(じろうまる)という珍しい名字で、長いのでジローさんだ。返事をするのが若くてかわいい女の子なので、知らない客などはえっ、という顔をするのが面白い。
「いえ、あたしはレジ打ってたので……誰も通ってませんよ?」
「あー、アレか……ごめんごめん、誰か通った気がして避けたんだけどさ、気のせいだわ」
「本条さん、今の感じたんですか?」
優生はぎょっとしてジローの顔を見た。
「え……何を?」
「今、ここ、すり抜けましたよね?」
ジローが手を振って、優生の背中と棚の間を示す。よくよく考えれば、人がぶつからずに通れるような通路幅はない。
「あー、抜けてったね……!? ジロー、さん、見えるの?」
優生は慌てて店内を見回す。客がいたら不審がられる会話だ。
「お客様いませんよ、あ、あと見えてはないです、感じるだけで」
ジローも少し小声になる。あのコンビニは出る、なんて噂になったら大変なことだ。二人は顔を見合わせ数秒、沈黙した。ピンポーン、と入り口のセンサーチャイムが鳴る。
「いらっしゃいませー!」
二人は声を揃え、それぞれの持ち場に戻った。優生は棚の横から顔を半分出して、今入ってきたであろう客を確認した。いつも立ち読みしに来る常連客で、ちゃんと実体のある人間だった。
さて今夜の相棒は、霊は存在しない・年長者は無条件に敬え・男は女より偉い、の三点セットの60代男性だ。オーナーの中学時代の先輩の友人だとかで、退職後の再就職というやつだ。オーナーは初対面から傲慢だった男性を採用したくはなかったそうだが、先輩に頭を下げられては断れなかったらしい。
一度ミーティングの後に霊の話題になったときなど(真夜中も営業している業種ではありふれた話題なのだが)ひどかった。「何バカなこと言ってんだ、あんなもん臆病者の妄想だ」から始まり、止めようとした教育係にも「口答えするな若造!」、さらに「女はすぐキャーキャー言って泣きやがる」と言いたい放題罵りまくったのである。
マネージャーが強引に場を解散させたから終わったが、化石並みの古い頭に皆呆れて苦笑したのは言うまでもない。優生の父親より年上だが、それにしても今どき珍しい「クッソジジイ」である。
元課長だかなんだか知らないが、ここでは新人だし、まともな接客もできないくせに偉そうに。そんなだから課長止まりで、六十歳で役職外れて異動になって辞めたって、みんな知ってるんだよ……優生は笑顔で流しながら、心の中で思う存分悪態をつく。
とにかく、自分はあと三十分で交代だ。あとはカップラーメンの棚だけだし、品出しは順調に終わりそうだ。そろそろ配送のトラックも着く頃かな。ジローは幼なじみと飲むとか言ってたな……空のダンボールを持ってバックに下がろうとした、その時。
ガラガラガッシャーーーン!!!
缶とペットボトルとダンボールが入り混じった音が響き、優生は慌ててバックに飛び込んだ。腰より高く積まないルールなので生き埋めにはならないだろうが、とにかく重い。いくら気にくわないジジイでも、怪我をしては気の毒だし、労働災害は一大事だ。
真っ先に崩れた在庫に目をやる。思ったより少ししか崩れておらず、人が埋まっている様子はない。一瞬ほっとしたが、視線の逆側から男性のうめき声が聞こえるのに気づく。まさか、脳か心臓が? 救急車か!? AED(自動体外式除細動器)はレジ……どっと冷や汗が出る。
おそるおそる視線を声のほうに振ると、男性は子供のように丸くなって震えていた。
「でっ出たあっアレアレ、あの壁のところに箱の上に立っててスーッと消えて」
優生の姿を見た途端、男性はぶんぶん手を振りながらまくし立てる。
「アレ?」
「だからアレだよ、幽霊!!」
脳や心臓の心配はしなくてよさそうだ。優生は男性が指差す方へ、一応顔を向けた。見えないし、気配も感じない。
「誰もいないじゃないですか」
「今はいないけど、さっきはいたんだ! 俺の言うことが信じられないって言うのか!! 小娘が生意気な!!」
ブチッ。
「えーだっていつも『霊なんかいるわけないだろ』っておっしゃってるじゃないですかー」
できうる限り無邪気な口調で、優生は反撃を始める。
「『そんなもん妄想だ! お前らみたいなガキが騒ぐから面白がられるんだバカが』とかおっしゃいましたよね?」
「い、いや、そんなこと言ったかな……」
「本当にご覧になったんですかー? 妄想じゃないんですかあー?」
優生は小脇にダンボールを抱えたまま、男性を見下ろしている。どうやら腰が抜けて立てないらしい。当然、手を貸す気などない。
「お疲れなんじゃないですかー? 今夜帰ったらすぐ寝たほうがいいですよー」
ピンポーン。入り口のチャイムだ。
「あ、私出ますからいいですよー。交代来ますから、ここ片付けといてくださいねー」
「ちょ、ちょっと待て! 俺が出る!」
「えー大丈夫ですかー? どこか打ってるなら無理しなくても」
「いや、大丈夫だ! ……いらっしゃいませー!」
男性はつんのめるようにして店内に転げ出て行った。
そして翌日から来なかった。
「優生さん、キッツー!」
ジローが笑い転げている。昨夜は仕事が終わってすぐにLINEで報告したら、速攻で電話がかかってきた。一通りしゃべったのだがやはり直接聞きたいとのことで、今夜はファミレスに来ている。
「まあ、マネージャーは頭抱えてたけどね。人足りねえ! って」
「いいんです、いいんです! あんなクッソジジイ、いたってストレスになるだけですもん。辞めてくれるんなら、喜んで残業するってもんですよ!」
現実には、急に一人抜けるのは厳しい。だが、そのキツさを上回る解放感があるのも、また事実だ。
「でもさ、あそこのコンビニは出る、とか触れ回んないかね? あのジジイ」
「うーん……大丈夫じゃないっすかね?」
届いたサラダをつつきながらジローは言う。
「そんなこと言ったら、俺は幽霊が怖くて辞めたんだー、って宣伝するようなもんでしょう? プライド許さないと思いますよ」
言われてみれば、たしかにそうだ。ジローは読みが深いというか、なかなか頭が切れる。優生はいつも感心する。
「それに気づかないくらいバカだったら、そりゃ分かりませんけど。結局、自分がいちばん臆病者だったんですよ、あのジジイ」
吐く毒もキレがいい。ドリアが届く。ジローはカレードリア、優生はミートドリアをふうふう冷ましながら食べた。
「アレ、守護霊だったんじゃないですかね」
さらに三日後、組み直されたシフトが重なった夜、ジローが唐突につぶやいた。
「え? アレ?」
「アレですよ、ジジイバスター」
優生は一拍おいて吹き出した。ホットスナックの補充を終えて扉を閉めた後で、本当によかった。
「ジジイバスター……!! ナイス命名……!!」
「あ、ウケました?」
ウケたどころか、久しぶりに笑いのツボに入った。あの晩のジジイの怯えっぷりが目に浮かび、ますます笑いがこみ上げる。店内であまり声をあげるわけにもいかず、優生は数分間、前かがみで震える羽目になった。
「ジロー、最高っ……はあ、で、守護霊?」
「そうですよ、たぶんいっつも来る人ですよ! きっとこの店の守護霊で、変な従業員を追い出してくれたんですよ!」
そういえばあの夜、直前に来た人がいたのを優生は思い出す。本当にそうかもしれない。突拍子もない話だが、それなら納得できる気がする。
「じゃあ、今度来たら聞いてみてお礼言わないとなー」
「来たら教えてくださいね! あたしもお礼言いたいです」
変な会話だよねえ、誰か聞いてたら怖がるかな、と盛り上がりつつ、備品の補充や掃除をする。こんな「楽しい」夜シフトは、二人とも久しぶりだった。
「見えないし聞こえないんだけど、不思議と同じ人か違う人か分かりますよねー」
ジローが以前言っていたが、優生も全くもって同感だ。
そんなわけで、この店には現在、三人の常連さんがいる。今夜のご来店は先日、後ろをすり抜けていった人だ。
優生とジローは顔を見合わせる。店内に他の客がいないことを確かめ、それから元気よく声を揃えた。
「いらっしゃいませー!」