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べ、べつにお前のために婚約破棄するんじゃないからな! とそんな赤い顔で言われても困るのですが。

作者: ペンのひと.
掲載日:2026/03/20

 公爵令嬢ユスティーナには、幼馴染の金髪男子がいる。


 その人物とは何を隠そう、このポルヴァリ王国の時期君主、眉目秀麗な面差しをしたルーカス王太子殿下である。

 貴族学園もたがいに三年次へ突入したある日の昼下がり、裏庭の大きな木の下で王太子が彼女に言った。


「なあ、婚約破棄の練習相手をしてくれないか、――ユスティーナ?」


「婚約破棄の……練習?」


 黒髪茶瞳のユスティーナがいぶかしい心持ちでぱちくりと一重まぶたを瞬くと、どういうわけか相手はそれを了承の意と解したらしい。

 背高の身を乗り出して、はっしと彼女の両手を取りながら礼を言った。


「いや助かる! こんなこと……他の誰にも頼めはしないからな」


 端正だがやや中性的なその彫りの深い美貌で王太子にズイと迫られて、対照的に地味な顔立ちのユスティーナは思わずたじろぎ背後の植木の幹に後頭部をしたたか打った。

 衝撃で視界に星が飛ぶ。


「☆!? ……あの、お待ちください、殿下。私はまだ何も」


「大丈夫か、怪我は? ああ、良かった。……お前に万が一のことがあったら、俺の世界はきっと灰色も同然だ……」


「……なんとおっしゃいました、殿下? 灰がなんですって?」


「ゴホン、なっ、なんでもない! そんなことより、さっそく詳細の打ち合わせを頼む。――婚約破棄の本番当日まで、あまり時間に余裕はないんだ」


 幼馴染の王太子ルーカスが語った、果たすべき婚約破棄を巡る裏事情。

 それをすべて聞き終える頃には、ユスティーナの視界からすっかり星は消え去ってしまうのだった。





 ***





 ポルヴァリ王国の王太子ルーカスには、親の決めた婚約者がいた。


 その婚約者とは何を隠そう、南西に国境を接するベントソン王国の至宝、ミリアム第七王女である。

 ルーカスより四歳下で、第七王女がまだよちよち歩きだった時分から二人は年に数回は両国を行き来して顔を合わせるのが通例であった。


「……ユスティーナ。お前も知っての通り、ミリアム第七王女は――、ミリーはとてもいい子だよ。兄弟のいない俺にとっては、本当に可愛い妹も同然さ」 


「……ええ、たしかにこの上なく可愛らしいお方ですわね、ミリー王女殿下は」


 ルーカスの幼馴染であるユスティーナもまた、王家に近しいサーラスティ公爵家の娘として王宮へ招かれることは少なくなかった。

 大人たちが難しい政治の話やゴシップをネタに茶を酌み交わしている間、ルーカスと共に小さなミリアム第七王女の遊び相手を務めるのはユスティーナのささやかな楽しみでもあったのだ。


「ルー兄ちゃま、ご本を読んで。ユチーナ姉ちゃま、抱っこ、だっこよ」


 舌足らずだった第七王女。

 ゆるく波打つピンクブロンド、お人形のようなくりくりした瞳とほやほやの手で、抱いて抱いてをする愛くるしいミリアム王女殿下。

 せがまれるままに彼女を抱き上げて、ユスティーナとルーカスは何度目を見合わせて笑いあったことだろう。


「でも、ミリーももう十四歳だ。あの子の将来のためにも、俺が動くべき時だと思う。次の夜会にミリーを招いて、あの子との婚約を破棄しようと決めたよ」

 

「えっと……なぜですか、殿下? ミリー様とあなたなら似合いのカップルに違いないと思いますが」


 当然とも思えるユスティーナの問いかけに、王太子はしばし薄い唇を噛んだ。それから答える。


「違うんだ、ユスティーナ。あの子には、俺の婚約者ミリアム第七王女殿下には、恋い慕う者が他にいる」





 ***





 ベントソン王国の至宝、愛らしき第七王女ミリアムには、恋い慕う者がいた。


 その想い人とは誰あろう、腹心の近衛騎士ケヴィン・ノルデンである。

 寡黙にして忠心高きその騎士は、ミリアムが物心つくと同時にあたかも煉獄から召喚された番犬のようにいつも彼女の傍にいた。

 

 褐色の肌に針山のように固い銀の髪、片目には眼帯が嵌まり、ミリアムの一番古い記憶でさえ彼はすでにひとまわり以上は年上の騎士であった。


「どういえばいいのかチら」


 幼きより独り言の多い第七王女は、私室の窓辺で夜空を見上げながらよく月に語りかけたものだ。


「婚約者のルー兄ちゃまがキツネさんなら、ケヴィンはオオカミさんか、それかクマさんなのよね。ねえ、おわかり?」


 まあるい月は何も答えなかったが、その代わりミリアム第七王女はすくすくと育ってついに今年で十四歳となった。

 いくつもの夜を越え、日が昇り、そして今はそのあたたかな真昼の窓辺にいる。

 自分が誰に恋をしているのか。

 女がそれを悟るには十分すぎる年齢。


「わたくしの婚約者は、あの大好きな、お優しく素敵なルーカスお兄様。でもわたくしが本当に恋する人は、近衛のケヴィン……」


 いずれも、どんなに隠そうとしてもかき消そうとしても叶わぬ事実であり、思いである。

 ほの白い真昼の月が、まだこの空から消えはしないように。


 多すぎる兄弟姉妹同士はいずれも王位継承権を巡る派閥争いに巻き込まれており、婚約者ルーカスと出会わなければミリアムが兄のぬくもりを知ることはなかった。

 時につっかえながら彼が朗読してくれた絵本を、その愛のこもった言霊をミリアムは片時も忘れたことはない。


 ただ一方で。

 孤狼のごとき冷血の剣で、(もう)(ゆう)のごとき肉体の盾で、目に見えぬあらゆる脅威から自分を守り続けてくれた近衛のケヴィンに、ミリアムは齢十四にしてもうすっかり恋をしてしまっていた。

 だから彼女はつぶやく。


「婚約とは、結婚とは、まるであの真昼の月のようなもの……」


 さて、しかし今、まさに青天の霹靂のごとき密告が、音もなく駆け寄り跪く近衛騎士から第七王女にもたらされる。


「――ミリアム第七王女殿下、お知らせいたします。よもやとは存じますが、あなた様の婚約者、かのポルヴァリ王国が王太子ルーカス殿に、婚約破棄策謀の嫌疑がかかっております」





 ***





「ユスティーナ。俺はあの子との――、ミリー第七王女殿下との婚約を破棄しようと思う。だから、婚約破棄の練習相手をしてくれないか」


 幼馴染のルーカス王太子殿下から、そんな奇妙な依頼を受けて早数日。


 ユスティーナは今、自家サーラスティ公爵家のタウンハウスへ訪れたその依頼主を前に、ついなりゆきで身を構えていた。

 まさか貴族学園敷地で婚約破棄の大稽古というわけにもいかず、たがいに勝手知ったるバラの庭園に場を移したのだ。

 なんだかんだ、断れない性格のユスティーナである。


「……では殿下、どうぞ」


「う、うむ……よし。スゥーッ」


 今まさに深呼吸の息を溜め切り婚約破棄を宣言しようとするルーカス。

 その高貴なる啖呵を正面から浴びるべく、ユスティーナは特注の仮面を自分の顔にすかさず当てた。

 細工師に作ってもらった、ミリアム第七王女殿下の童顔そっくりのお面である。


「ミッ、ミミッ、ミリー王女! ぉお、オッ、お前との、コッ、こ婚約を、ハッキ、キ、破棄っす――ああっ、ダメだ!!」


「やはりそうなりますか、……ルーカス殿下」


 そう、こうなることは、幼馴染二人にはわかりきっていた。

 何を隠そう、この美貌のルーカス王太子殿下は、昔からいざという場面で吃音の気を発揮するのである。

 つまり、緊張すると言葉がつっかえる。


 それは文武両道を地で行くこの秀才にしてポルヴァリ王国次期君主の、唯一の弱点であった。


「……まったく、できるお方なのに残念すぎますね」


「うっ、うるさいぞ、ユスティーナ。ちょっとその仮面、取ってみてくれ!」


 王太子に乞われ、試しに仮面を外してみるユスティーナ。

 するとすかさず、今度はビシッと彼が言い放った。


「ミリアム第七王女よ、俺ルーカスは、お前との婚約を破棄する! ――ほら、ちゃんと言えるぞ。ユスティーナ、お前相手なら全然問題なし!」


「……まあ、それはそうでしょうね」


 そう、こうなることも幼馴染コンビはたがいにわかりきっている。

 ユスティーナと二人きりで普通にやりとりするだけなら、ルーカス王太子が吃音の気を発揮することは昔からまずない。

 それに、かの第七王女が小さな頃には絵本の読み聞かせすらそれなりにやってのけた彼である。まあ、ああいう場面ではいつもユスティーナがミリー王女を抱っこして傍にいたわけだが。


 しかしたとえば何かの式典での生徒代表挨拶とか、誕生日パーティーでの本人スピーチとか、そういう場面になるともう間違いなくルーカス王太子は盛大につっかえる。


 要はシチュエーションの問題なのだろうか。


 などと悠長に考察している暇は、あいにくない。


 なにしろこのルーカス王太子はこれから、かのミリアム第七王女相手に公の場で婚約破棄を宣言しようと目論んでいるのだ。

 そしてその理由は――。


「あの子には――、俺の婚約者ミリアム第七王女殿下には、恋い慕う者が他にいる。目を見ればわかるさ、本物の恋だ。妹のように思うあのミリーの初恋だ。応援してやりたいんだ」


「見上げた心意気です、殿下。……ですが何事も、練習が大事ですね」


「なっ、なんだ上から偉そうに! べ、べつにお前のために婚約破棄するんじゃないからな、ユスティーナ! ――はっ!? しまった。いや、そうじゃなく」 


 支離滅裂に赤くなったり青くなったりと何やら落ち着きのない王太子。

 よほど今回の婚約破棄宣言にプレッシャーを感じているのだろう。

 つっかえたらどうしようと。


 ゆえに第七王女の仮面を再びユスティーナは顔に当て、幼馴染の王太子を叱咤激励するのである。


 一度乗りかけた船だ、沈んでもらっては困る。


「さあ、来てごらんなさい」


「お、おう! ミッ、ミミッ、ミリー王女! ぉお、オッ、お前との、コッ、こ婚約を、ハッキ、キ、ええい、ははっは破棄っしゅしゅっ――しゅああっ、ダメだ!! うぉぉぉぉぉぉ」


 幼馴染二人による婚約破棄の大練習は、こうして日夜苛烈を極めることとなったのである。





 ***





 心を鬼にした仮面の公爵令嬢ユスティーナを相手に、美貌の王太子ルーカスが言葉につっかえ舌を噛み倒してさらに数日。

 血反吐を吐くような苛烈極まる婚約破棄の練習は、しかしこの日予期せぬ刺客の到来によって打ち止めとなる。


 なんと、かのベントソン王国からミリアム第七王女が突然姿を見せたのだ。

 眼帯褐色の近衛騎士ケヴィンを従えて。


「これは一体どういうことですの、ポルヴァリ王国が王太子ルーカス殿下、サーラスティ公爵令嬢ユスティーナ様?」


 婚約破棄の練習会場となっていた公爵家タウンハウスのバラ庭園は、そんな第七王女の問いかけにシンと静寂を打ったのである――。


 


 ガゼボに移った後で、ユスティーナは対座のミリアム第七王女に今回のいきさつをどう説明したものか迷っていた。


 ルーカス王太子は近衛騎士ケヴィンと連れ立ってついさっき生垣の向こうへ消えてしまったため、今は女同士二人きりである。


「……あの、ミリー、ミリアム第七王女殿下」


「ふんだっ、知りませんわ! 何よルーカスお兄様ったら、わたくしに断りもなく婚約破棄の練習だなんて。ぱくっ、あら、ポルヴァリの焼き菓子ってどうしていつ来てもこんなに美味しいのかしら。プンプンッ」


 ミリー第七王女はたいそうご立腹のようである。

 仕方なく、ユスティーナは三段のケーキスタンドから次のムースケーキを皿によそって王女に献上した。


「ありがとうっ! だいたいユスティーナお姉様もお姉様ですわよ。はむっ、ああ、ほっぺが落ちそう。二人だけで、あんなに楽しそうに」


「……いえ、そういうわけでは」


 長い付き合いだ。一度へそを曲げた第七王女をなだめすかすには、こうしてひとしきり甘い物を食べさせながら懐柔するにかぎるとユスティーナはいちおう知っている。

 たいていはこれでうまくいくはずなのだが。


「ルーカス殿下にもお考えがあるようです。なんでも、ミリー様、あなたの恋を兄として叶えて差し上げたいと」


 そうユスティーナが口にすると、第七王女のナイフとフォークがピクリと止まった。


「ミリー様、もしそれが本当なら、私もルーカス殿下と同じ思いです」


 だが今日は、これで第七王女の腹の虫はおさまらなかった。

 今度は硬いミルフィーユにナイフの刃を立てようとして、それができずに銀の得物をテーブルにすべて放り出した。

 カチャンという音がして、空になった両手で第七王女がその小顔を覆う。


 それから彼女は吹き出すように一瞬笑って、それからしくしくと泣き出してしまった。


「ずるいわ、お兄様もお姉様も……。ひっく、わたくしだって、わたくしだって!」


「ミリー様……」


 テーブルをまわって第七王女の傍へユスティーナが近付くと、それを待ちきれなかったかのようにガバと抱き着いてくるミリアム。

 幼女から少女へ、そして今淑女への階段をたしかに駆け上りつつあるその子のことを、その泣き虫な第七王女殿下をユスティーナは心から愛しいと思った。


「素直になって、ミリー。あなたは自分の幸せを選んでいいのよ。だってこんなに素敵な王女様になれたんだもの。私たちの自慢の妹、可愛いミリー様」


 抱き寄せるユスティーナの力より何倍も強く、するとミリーが姉を抱きしめ返して涙声のまま言った。


「好きよ、大大大好きよユスティーナお姉様。ありがとう、ありがとう……」





 ***





 バラの庭園の拓けた草地に、二人の男が剣を構えて対峙していた。


 ポルヴァリ王国が王太子ルーカス。

 ベントソン王国一の近衛騎士、ケヴィン・ノルデン。


「いざ」「参る」


 恋の鞘当てに、それ以上の言葉は不要。


 すでに三本勝負の二本を取り、眼帯褐色のケヴィンが一気に間合いを詰め勝負を決めにかかる。


 無骨な長剣による無駄のない一突き。


 だがそれをかいくぐるように火花を散らせ、金髪王太子のドレスソードが優雅に閃いた。

 相手の喉元にその切っ先を容赦なくあてがって。

 それから一瞬の間を置き、ルーカスが脱力してドサッと地面に仰向いて倒れた。


「やった、い……、今のはこっちだろう?」


「お見事です、ルーカス王太子殿下」

 

 最後の一本は、ルーカスが取った。

 息一つ切らさず立っている慎ましい猛者に、王太子はぜえぜえ喘ぎながらもかまをかける。


「手を……抜いたな、ケヴィン?」


「いえ、三本目はあなたの気迫が勝った、それだけです」


「そうか、信じよう。……俺も貴殿を、可愛い妹の伴侶に認める」


「それは……」


「ややこしいのは抜きだ。建前はいらん、後は任せろ。こう見えても俺は一国の次期君主だ」


「……承知。ではこれをお持ちください。ミリアム王女殿下から、あなた様への御手紙です」


 王太子は草地から半身を起こし、その手紙を受け取った。


「なんだ? せっかく来たんだ、ミリーも直接言えばいいだろうに」


「いえ、それはできれば来るべき婚約破棄の当日に、もしもの時にお読みくださいますよう、との第七王女殿下の仰せです」


 妹の成長と愛情を持てあます兄のような眼差しで、ルーカスはしばらくそのベントソン王家の封蝋を眺めていた。

 それから、柔らかくため息をついて言った。


「わかった、そうしよう」





 ***





 練習があるからには、本番がある。


 ポルヴァリ王国の宮廷へ、王太子の婚約者たる隣国ベントソンの第七王女を招いての夜会。

 両国から大広間に来場した、多くの紳士淑女を前にして。


 今まさにその婚約の破棄を宣言しようと意気込むルーカス王太子殿下の背中を、公爵令嬢ユスティーナは片隅から見守っていた。


 ――がんばれ王太子、負けるな王太子、つっかえるな幼馴染、とそこまではさすがに小声にもつぶやけないが。


 絢爛に輝くシャンデリアの下。

 いよいよ婚約者へ最後の言葉を告げるべく、ポルヴァリの王太子がベントソンの第七王女を指さして口を開く。


 さあ、はじまりだ。


「ミッ、ミミミミリー王女! オッ、オオ、お前とのここっこ婚約を、はハッキはっき破棄しゅっシュっ!?」


 ――撤収して! 王太子、とにかくいったん撤収して!!


 幼馴染ユスティーナの緊急避難指示は、あいにく後頭部に目でも付いていないかぎり王太子には届かない。


 不審げにどよめく聴衆の視線が注がれ、ルーカス王太子が顔面蒼白になっているであろうことが後ろ姿からすらうかがえた。


 もはや、万事休すか?


 と、そのとき、王太子が思い出したように胸元から何かを取り出す。





 ***





 婚約破棄の宣言を盛大につっかえ噛み倒したルーカス王太子は、すかさず胸元から一枚の手紙を取り出した。


 四つ折りにしていたそれを広げ、綴られた文字に目を走らせる。

 何が書かれているかは知らない。

 今この瞬間に初めて見る、第七王女からのメッセージは――。


『どんな御言葉でもけっこうです。だからお兄様、あなたの真実の愛を聞かせて』





「………………は、ははっ、そうか。――うん、そうだよな……」


 紙片を胸に当て頷き独りごちる王太子を、夜会に集まった聴衆が依然としていぶかしげに取り囲む中。

 

 何か吹っ切れたように深呼吸して顔を上げ、それから金髪美貌のルーカス王太子が声を張った。


「これは失礼した。どうか――両国の皆々様、どうかいま一度、この俺、いや、私、ポルヴァリ王国が王太子ルーカスの声に耳を傾けてはくださらないか。ほかでもない、これから私が口にするのは、そう、ここにある真実の愛のすべてだ」


 ルーカス王太子はまず、隣国ベントソンから招いた第七王女に恭しく一礼して彼女の存在をあらためて皆に示した。


「なんと愛らしく、いじらしいほどに可憐な第七王女であろうか。ベントソンが至宝、ミリアム殿下よ。あなたが婚約者であったことが、これほどまでに誇らしいとは。私は今日あなたとの婚約を破棄するが、それはこの真実の愛の終わりを意味しない。僭越ながら隣国に住まう兄として、あなたのますますの成長をどこまでも見届けよう。そうさせてくれ。時々なら、ご本を読んでやってもいい」


 その王太子の言葉に、せつなミリアム第七王女は眉をしかめ、それからこらえきれなかった涙を払って笑う。

 そして答える。


「バカね……お兄様」


 ルーカス王太子はさらに続ける。

 愛する妹への眼差しを、そのやや背後に控える近衛騎士に移して。


「ケヴィン・ノルデン。これまで忠実なる近衛として、よくぞ我が妹を守ってくれた。だがけしてぬかるなよ。この私の推薦と両国王陛下の承認とにより、今日この時から二国間名誉騎士爵の重責をそなたに課す。王族に連なる、武人として史上最高位の立場に恥じぬ働きをせよ。それから――」


 シャンという金属音と共に腰から抜いたドレスソードを、王太子が名誉騎士に放り投げた。

 鍛え抜かれた褐色の剛腕がそれを掴み取ると、王太子は彼に告げる。


「それを餞別代わりに、第七王女を――、我が妹をこれまで以上に強く守り抜け。ただし今日からは、ミリーの愛する夫として、な」


 王太子のウインクに、寡黙な名誉騎士は膝をついて「御意」と臣下の礼を執った。

 ポルヴァリ王国が王太子ルーカスは、そして会場に向け宣言する。


「御覧の通りだ。お集まりの皆々様、願わくば、愛する我が妹夫婦のために祝杯を!」


 むろん、そこには沈黙が降る。

 だがその静けさを、一つ、二つと広がっていく拍手の波がやがて呑み込む。

 シャンデリアの下で、かち合わされるグラスの音があちこちにきらきらと輝く。


 そして奇跡の夜を締めくくるために。

 ポルヴァリの王太子は後ろを振り返った。





 ***





 ずっと背中を向けていた王太子が振り返り、こちらへ歩いてくる。

 公爵令嬢ユスティーナのもとへ。 


 ユスティーナはもう泣いていた。

 

 妹の、可愛いかわいい第七王女ミリーの旅立ちが誇らしかった。

 寂しくて、でも胸が張り裂けるように嬉しかった。


 ――ルーカス、あなたも立派よ。よく頑張ったわ。


 でも幼馴染だ。

 そんなこと、絶対に言ってやらない。


 彼が近付いてきて、ユスティーナの手を取って笑いかける。


「泣くなよ、ユスティーナ。あとちょっとなんだから。だからほら、最後まで聞いてくれ」


 ――?

 婚約破棄の宣言なら、たった今もう完璧に終わったはずだ。

 泣き濡れたユスティーナの瞳を、ルーカス王太子が覗き込んでくる。

 目が合って。


「いいかい、ユスティーナ。一度しか言わないからな――」


 彼の言葉、その真実。


「ユスティーナ、愛してる。だから俺と、けっ、ケケッ、けっ――結婚しぺ!」


 ――二人なら。

 幼馴染二人きりなら、あなたはきっとつっかえはしないはずだったのだ。


 でも多くの、本当にたくさんの人たちの、光あふれる世界の真ん中で、あなたはちゃんと私を求めてくれた。

 その真実の愛にくちづけたくて、だからユスティーナも微笑んで答える。


「いいわ。ルーカス、私もあなたが好き、大好きよ。愛してる――」





 ***





 貴族学園をそろって無事卒業し、晴れて結ばれたポルヴァリ王国のルーカス王太子と、その妻ユスティーナ王太子妃。

 ベントソン王国の至宝と謳われるミリアム第七王女と、その夫ケヴィン二国間名誉騎士爵。


 この二組の新郎新婦を盛大に祝福すべく、満を持し両国挙げての合同結婚式が執り行われたのはそれからややあってのことである。


 人々の熱い要望にこたえる形で、その喜ばしい挙式は各国王都で一度ずつの計二回の日程で催された。


 ポルヴァリ大聖堂においては、ルーカス王太子がミリアム第七王女への祝辞に代えて読み上げた絵本が大いに来賓の話題を呼んだようである。

 

『絵本の朗読であんなに感動したのは初めてだわ』


『いや、王太子の活舌が悪すぎて中身が全く頭に入ってこなかったぞ。まあ、感動したけど』


 など、漏れ聞こえてくる紳士淑女の声だけでも当日の盛況ぶりが伺える。

 ちなみに絵本の選定はユスティーナ新王太子妃によるものとのこと。

 

 続くベントソン大宮殿礼拝堂では、ミリアム第七王女の発案で二組の新郎新婦が動物の被り物で登場し話題をさらった。


 ミリアム第七王女はリス。

 ケヴィン名誉騎士爵はクマ。

 ルーカス王太子はキツネ。

 そしてユスティーナ王太子妃はシカ。


 四者がこの日纏っていた美しいどの衣裳よりも、実はこれらの被り物こそが最も贅と意匠の凝らされたものであることを見抜けたかどうかで、その後の社交界における貴族の立ち位置が微妙に異なったとかそうでもなかったとか大変な噂である。


 なお、ポルヴァリ、ベントソン両王家の家紋にこの四大聖獣の守りが加えられて以降、民の幸福は脅かされることがない。





 ***





 ――結婚から一年後……。


 幼馴染の間柄であるルーカス王太子とユスティーナの関係に、一見してそれほど大きな変化はないようにも思える。

 少なくとも、王太子妃ユスティーナ自身にとっては。


 ここ、王太子夫妻専用の新邸宅で迎える朝は今日も穏やかである。

 むろん多くの使用人がいるが、根がまめなユスティーナは公爵令嬢のときからあまり彼らのような立場の人々にあれこれしてもらうのはかえって億劫で、銀のプレートに載せたモーニングセットくらいは自分でサンルームまで運ぶ方が気楽でいいという考えを結婚後も実践していた。


 ただ最近になって、その点をルーカスにたしなめられることが増えてきている。


「ダメじゃないか、ユスティーナ。大事な体だ、無理しないで」


「……ああ、そうでしたわね、殿下。ついうっかり」


「さあ、そんなの俺がやるからお前は楽にしていて」


 夫のエスコートで、クッションのたっぷり敷かれた籐のソファに腰掛けると、ユスティーナは無意識に自分の大きくなったお腹をさすった。

 たしかにもう、自分一人の体とは言い難い。


「待ちきれないよ、ユスティーナ」


「でも、せっかちなのはよくありませんわ。ハーブのお茶には銘柄によって最適な蒸らせ具合というのがございますもの。たとえば今朝のローズヒップ系のこれですと――」


「君のわからずやの母上を、ちょっとばかり懲らしめてやるぞ」


 ルーカスがそう言って、ユスティーナのお腹とそれから唇とに優しくキスをした。


 はたから見ればたわいもないこんなやりとりを、静かに心地いいと感じられるのは。

 それはきっと、この結婚が幸せなものであるからなのだろう。


「ところで、この国の次期国王陛下はまたご本を読んでいらしたの?」


「当然さ、ユスティーナ。生まれてくる我が子に読み聞かせをする大役を果たすには、それ相応の努力があってしかるべきだからな。今のところ、本番でも絶対につっかえない自信があるぞ」


 忙しい公務のため登城するまでのわずかな時間、ルーカスは朝一番の朗読練習をかかさないのだった。

 だからそんな夫を、妻としてユスティーナはたたえてみる。


「それは結構。――何事も練習が大事ですものね」

 

「なんかバカにされてる気がするのは、俺の考えすぎ?」


「ええ、たぶん――」 


 たぶん――、あなたが思っているより何百倍も、私はあなたが好き。

 愛してる。

 生まれてくるこの子も、きっとあなたを好きになる。

 だってあなたはいつも、真実の愛だけを叫んでいるから。

 

 ユスティーナには、それがわかっている。

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