コクワガタ飼育記 ④ 君の名前は
家族揃っての夕食を終える。妻の作るカレーは中辛。私の舌に良く馴染み、いつもと変わらず美味かった。ご馳走様でした。
満腹になり、食後のひと時。明日の仕事に備えてしばしの休息タイムだ。
私はソファーに深く座ってスマホをいじっていた。
トリカワ君から教えられたカブクワ系YouTubeチャンネルを観るためだ。検索ワードを入力して検索ボタン。すると出るわ出るわ、想像以上にカブクワのチャンネルが多い。1つのYouTubeチャンネルが複数の動画をアップしている。これは今夜中では見きれない。
「何を見ているんです?」
妻がコーヒーカップを2つ持って私の隣に腰掛けた。
私専用のカップを受け取ると、中身は淹れ立てのドリップコーヒー。
夜だというのに外はまだ暑い。けれどエアコンの効いた室内は涼しいのだ。熱いコーヒーから湯気と共に芳醇な香りが立ち上がり、子供の頃は許容出来なかった苦味を舌の上で楽しむ。
「仕事帰りにペットショップに寄ったんだ。そこで親切にしてくれた若い店員がいてね、カブクワ飼育を学べるYouTubeチャンネルを教えてもらった」
「若い店員……。女の子?」
妻の小さな嫉妬に心の中で「まさか」と返す。茶髪で軽薄そうな虫好きのトリカワ君が女の子のはずがない。
しかしこの歳になって、今だにヤキモチを焼いてくれる妻を愛しく思う。付き合い出してから数えて20年連れ添った妻に体を寄せて、変わらない愛情で「違う。男だよ」と囁いた。
「そうですか。それで、虫のYouTubeは楽しい?」
「いや、これから見るところ」
スマホに視線を戻す。
わた◯わ。TOP◯UN。く◯ねこ。LOWち◯ん。クワガタ自己◯足ラボ。たえ◯そ。その他諸々。
トリカワ君オススメは複数あって、どれを観たらいいのか迷う。取りあえず、検索をコクワガタに限定。
「おや、コクワガタの動画は思ったより少ないな」
そうなのだ。動画の大半は国産オオクワガタ。それから外国のクワガタムシ。カブトムシではヘラクレスオオカブトの動画が多く、コクワガタは少数派であった。
ともかくコクワガタ産卵セットと銘打たれた動画を開いて観る。
『産卵適温は25〜28度です。コクワガタはとても強い虫なので30度を超えても大丈夫ですが、涼しいに越したことはありません』
なんだと? カブクワと言えば夏だろう。
昨今、夏と言えばどこもかしこも30度超えは当たり前。当然虫達もその環境で生きているはずだ。なのに涼しい方が良いのか? そんな場所、都会の野外にはないだろう。
『コクワガタは卵を産むと特徴的な産卵マークを産卵木に付けます。これです、漫画の目みたいな形ですね』
動画の中ではYouTuberが産卵木の一点を強調していた。そこには確かに、小さな「こ」形の傷の中心に点が1つ。漫画の目の様だ。
『卵は2週間〜3週間で孵化します。これは温度にも左右されるので長い目で待って下さい。コクワガタの初令幼虫はとても小さいので見落とさないよう気をつけて』
ふむ。15〜20日で孵化するのか。鶏の卵と変わらんな。虫だからもっと早いと思っていた。これは意外だ。
『次回の動画は割り出しの予定です。それでは、チャンネル登録高評価お願いしま〜す!』
10数分の動画を見終える。コーヒーはすっかり冷めていた。隣の妻は早々に興味をなくして、今はテレビを見ている。
(温度など考えていなかった。我が家の室温は何度だろうか)
リビングを外の暑さから守っているエアコンの設定温度を見ると25度であった。では玄関はどうだろう? リビングと玄関は扉で隔てられている。当然冷気が流れる事もなく、きっと高温になるはずだ。
(体感的に30度は超えていないと思うが、明日温度計を買ってこなければ)
それに産卵マーク。何のためにマークなど付けるのか? 「こ」の中心に卵を産むのだろうか? 分からない事が多すぎる。
それから幾つかの動画を観てわかった事。
コクワガタは日本で最も普通なクワガタだと言う。
北海道から沖縄。更に離島にまで亜種がいると言う。
山や森はもちろんの事、都会にわずかに残された林や公園でも棲息しているそうだ。実際、私も子供の頃にはよく見かけていた。
体長はオスで18〜54ミリ。メスで20〜33ミリ。幼虫飼育個体の最大はオス58.1ミリ。
正直、大きさは昆虫そのものの知識が足りないので何とも言い難い。取りあえず、うちのメスが大きさ下位なのはわかった。
それと寿命は飼育下で2〜5年らしい。そんなに生きるならハムスターと変わらない立派なペットだ。
「そうだ美代子」
「ふぁ? なんですか?」
突然だが思い立って、テレビに集中していた妻に声をかける。微妙に迷惑そうだが構うものか。
「生き物を飼うなら名前をつけないと。そうだろう?」
「虫に名前ですか?」
「そうだよ。ペットなんだから、そうすべきだろう」
「ペット? 虫が? そうですか。そう思うならそうなんでしょう。お父さんの中では。……お父さんの虫ですから、お好きな名前をつけて下さい」
妻の話し方は投げやりであった。微塩を感じるのは、私が卑屈だからだろうか。まあそれは、今は保留して、とにかく名前を考えよう。
「コクワガタ。小さい。黒い。丸みがある。何処にでもいる。長生き。後は……」
「気持ち悪い」
「それだ!」
妻の一言に閃いた。クワガタは上や横から見るとカッコいいが、裏返して見ると気持ち悪い。ならば名前は。
「チョキはどうだろうか」
「チョキですか? なぜ?」
「ちょっと気持ち悪い。それと、大顎がチョキチョキだ」
「はぁ、」
我ながら良いネーミングセンスだと自画自賛。妻は何とも言えない顔をしていたが、私がそう決めたのだ。
そうして我が家のコクワガタメスは、この時からチョキとなった。




