コクワガタ飼育記 ② 初めてのペットショップ
コクワガタの写真が貼り付けてあります。苦手な方はご注意下さい。
いつもより遅く会社に到着した。
遅いと言っても始業時間の30分前だ。一服する時間は十分にある。通勤渋滞を避けて家を出るいつもの私が早いだけだ。
コクワガタメスの入ったコップを持って愛車を降りる。すると事務所の入り口で技術部長と鉢合わせた。
「おはようございます。朝田部長」
「ああ、おはよう」
朝田技術部長は50代後半の神経質そうな痩せ型。いつも目下の者に塩対応だ。この人は強い者に弱く、弱い者に強い。典型的なゴマすり人間であり、社長の腰巾着だと陰口を言われている。
「斎藤君、例のテスト品だがね」
「はい」
「今週中に頼むよ」
「はぁ、今週中ですか」
「出来るだろう」
「はい、まあ。今日中に鍍金をして、明日中に研磨してもらえれば、何事もなければ大丈夫です」
「お客さんには週末の納品を約束している。今回のテスト品に満足してもらえば大口の契約が決まるんだ。やり直しなどないように」
「はい、分かりました」
朝田部長はそれだけ言うと、自身の研究室(と、言う名のプライベートルーム)へ消えた。
私はテスト品をどのタイミングで鍍金するか、今日の作業スケジュールを組み直しながら更衣室へ入る。
「あ、斎藤係長、おはようございます! 今日は遅いですね」
「おはよう日野君。今日も元気ハツラツだね」
部下の日野君が作業服に着替えている最中だった。
彼は絵に描いた様な好青年であり、趣味はロードバイクというスポーツマンだ。通勤にママチャリを使い日々体を鍛えている。ムキムキの太腿と脹脛が少しだけキモい。
いつもなら私の方が早く、更衣室で会う事はない。珍しい事態に日野君が理由を知りたがる。私は朝の出来事を簡単に説明して、コップに入ったコクワガタメスを見せてみた。
「ちっさ! 何の虫ですか? これ、凄く小さいですね!」
日野君にはこれがコクワガタメスだと分からないらしい。小さい虫を不思議がり、しきりに「小さい」を連呼する。
「これはコクワガタのメスだよ。子供の頃に捕らなかったのかい?」
「いや、獲らないですね。カブトムシとかクワガタムシは買うものなので」
聞けば日野君の世代にとって、虫は捕るものではなく買うものであったそうだ。夏になると、ホームセンターやペットショップに国産のカブクワはもちろんの事、外国産のカブクワも普通に売っているとの事。けれどその中にコクワガタはいなかったらしい。
私がいつも行く超大型ホームセンターにも敷地内にペットショップが別に併設されていて、動物を飼わない私は行ったことがなく、夏にカブクワが売られているなど知らなかった。
「そうか。ペットショップか。こいつを飼うなら飼育用品が必要だったな。帰りに寄ってみるか」
虫籠に床材に餌がいる。
空き瓶に入れて、砂糖水を与えても飼えるだろうが、それでは味気ない。せっかくペットとして飼うのなら、それなりの見栄えにしたい。
「さっき朝田部長から例のテスト品の話をされたんだ」
「そうですか! 了解です!」
「今日は定時で帰りたい、失敗しない様に頑張ろう」
「定時、了解です!」
それから私と、私が任されているチームは定時帰りのために頑張った。鍍金というものは、金属素地表面にサビや汚れがあると、その部分に鍍金が乗らない。そして小さな穴程度の鍍金不良でも製品として許されない。わずかな不良でもあれば、全ての鍍金を剥がして一からやり直しする事になる。その分時間を消費して、一度の失敗が残業に繋がるわけだ。
自分の机に置いたコクワガタメスを気にしながらの仕事。
休憩時間のたびに生存確認して、元気な姿をみるたびに安堵する。
そうして無駄なトラブルもなく、無事に仕事を終えた夕方である。次の工程は研磨、鍍金担当の私は晴れてお役御免だ。後は高給取りの研磨担当に任せよう。
そそくさと帰り支度をする。部下や同僚に「お疲れ様でした!」と挨拶をして、いの一番にタイムカードを押して愛車に飛び乗った。きっと、今日の私は周りからおかしな目で見られていた事だろう。
◇◇◇◇◇
会社から20分程度愛車を走らせると、超大型ホームセンターに到着する。日用品の買い出しはいつもここを利用するわけだが、同じ敷地内に大型のペットショップもある。こちらに関して、存在は知っていても今まで入った事はなかった。何故なら我が家は動物を飼育していないからだ。
娘の瑠璃は小学校の一時期猫を飼いたがり、ゴネて親を困らせたがいかんせん。自宅マンションが犬猫禁止であり、小動物の代表であるハムスター(ネズミ類)は妻が苦手。鳥は鳴き声がうるさく、抜けた羽根が喘息の原因物質になる。熱帯魚などの魚類にも興味がなく、その様な理由で我が家はペットショップと無縁の生活をして来た。今日までは。
私はコクワガタメスの入ったコップを手に持って、最初の一歩を踏み出した。自動ドアが開く。まず目に飛び込んだのは、商品棚に所狭しと陳列された犬猫用のペットフード。衝撃的なほど種類と数が多い。
(店内の大部分はペットフードじゃないか。今の犬猫は贅沢だな)
そんな感想を抱いて辺りを見回すと、店内には犬を連れた客が多い。誰も彼も、裕福そうなオラオラ系(偏見)か年配者だ。カートに犬を乗せて店内を練り歩いている。奇妙な事に猫連れはいない。
私は異世界に迷い込んだ気持ちになりながら、昆虫コーナーを探して脚を進める。
入り口からしばらくは犬猫コーナー。次は熱帯魚コーナー。更に奥に小動物コーナーと爬虫類両生類コーナー。そして最奥に、私の求める昆虫と蜘蛛、蠍などの奇蟲コーナーがあった。
6月の中頃という事もあり、カブクワ専用スペースが設置されていた。見れば沢山の用品と生きたカブクワが売られている。童心に帰って胸を高鳴らせながら、大型プリンカップに入った虫を手に持って眺めてみた。
(アトラスオオカブト。デカい。角が3本あって恐竜みたいだ。外国にはこんな虫がいるのか)
(アルキデスオオヒラタ。これもデカいぞ! ヒラタクワガタと言えば子供の頃は超レア種だった。捕まえたらヒーローになれたものだが、日本のヒラタクワガタとは比較にならないデカさだ。正直カッコいい)
(虹色クワガタ? これは玉虫とは違うのか? キラキラ七色に輝いている。綺麗だ)
(国産オオクワガタだと!? 累代CB産地なし? なんの事だ? 値段は? なっ! 五千円以下なのか! 昔は黒いダイヤと呼ばれて、テレビで野生の国産オオクワガタ80ミリ300万円と報道されていたはずだが、いつの間に値下がりしたんだ)
虫の世界は私の想像を遥かに超えていた。少々圧倒されながらも気を取り直して、本来の目的である飼育用品に目を向ける。虫籠を買うなど小学生以来だ。昔は決まった種類しかなかったが、今は蓋の形状の違いで何種類かあるらしい。
なになに、コバエを防ぐ蓋? コバエとはなんぞ?
コバエは知っているが、それがカブクワと結びつかない。次は床材を見る。
クヌギマット、一次発酵マット、カブト幼虫専用マット、クワガタ幼虫専用マット、コバエが沸かない針葉樹マット、虫に優しい広葉樹チップ。種類が多くて分からん。ならばと餌を見る。
よく食べる昆虫ゼリー、プロテインゼリー、匂いを抑えるゼリー、普通サイズゼリー、広口ゼリー、大型ゼリー。こちらも種類が多い。何を買えば良いのか分からない。
呆然と商品を眺めていた。43歳のおっさんが、片手にコクワガタメスを持ちながら、どうしたらいいのか分からず、カブクワコーナーで立ち尽くしていたのだ。はたから見たらさぞ怪しいだろう。
いつまでもこうしているわけにもいかない。とにかく適当に買って帰ろう。そう決めた時だった。おっさんの衰退した視野の外から忍び寄る謎の存在。完全なる意識外から突然の声掛け。私は不意を突かれて不覚をとったのだ。
「いらっしゃいませ。何かお探しっすか?」
「うぉっ!」
恥ずかしながら声が出た。客がそれなりにいる店内で「うぉっ!」は本気ダサい。羞恥心と、恥をかかされた怒りと。私は襲撃者である若い男の店員を逆恨みしながら、表面上だけ冷静に向き合った。
「それ、手に持ってるのコクワガタのメスっすか? もしかしてお客さん、それを飼うつもりっすか?」
二十代前半であろう。薄い茶髪の軽薄そうな店員は「すっす」族だった。奴らは語尾に必ず「っす」を付ける。会社の若い者の中にも数人いて、かく言う私も高校生の一時期「すっす」族であった。
「ああ、今朝偶然拾ってね。見ていたら可愛く思えて、飼ってみたくなったんだよ」
こんなおっさんが。と、不審がられるかもだが、ここは正直に告白してみた。どうせ43歳の人生の中で、恥は幾つもかいているのだ。今更クワガタ程度、かいて捨ててやる。
「はぁ〜、なるほど。分かったっす。いま時期多いんすよそういうお客さん。それで、飼い方は知ってるっすか?」
話し方に多少のイラつく部分はあるものの、「すっす」店員。胸のネームプレートにトリカワと書かれた彼は、意外にも丁寧に対応してくれた。
「ケースはこれがオススメっす。蓋の空気穴に工夫があって、コバエをシャットしてくれるッす」
「コバエをね。所で、何故にコバエをシャットする必要があるんだ?」
「それは餌ゼリーの匂いに惹かれてコバエが来るからっす。それと、発酵マットからコバエが沸く事も良くあるっす」
「む。それは困るな。コバエが沸いたら家族に怒られる。良し、コバエシャットをもらおう」
「コクワガタならSサイズで十分っすけど、そいつはWDっすよね。幼虫は取るっすか? 産卵セットを組むならMサイズがオススメっす」
「WD? 産卵セット? それは何かな?」
「WDは野生個体、野外採集個体って意味っす。産卵セットは、メスに卵を産ませる環境を人工的に用意して、幼虫を取る事っす」
「何だって? クワガタに卵を産ませて、幼虫を取って、それでどうするんだ」
「幼虫を育てるんすよ。カブトムシやクワガタムシなんかは成虫になったらそれ以上大きくならないっす。幼虫の大きさが、成虫の大きさに直結してるんす。だから幼虫を大きく育てて、大きな成虫を自分の手で産み出す。それがカブクワ飼育の醍醐味っす」
トリカワ君は熱く、丁寧に、衝撃的な内容を説明してくれた。
無知な私はそれまで、カブクワ成虫に餌を沢山食べさせれば、どんどん成長して大きくなるんだと考えていた。
それは全て間違いらしい。虫には大別して、脱皮型と完全変態型があり、脱皮型はバッタ類など。完全変態型は蝶類や甲虫類であり、成虫になると大きさが変わらないのが常識なのだとか。
そしてカブクワは幼虫の飼い方、幼虫の餌の良し悪しで大きさの変化が激しい虫であり、見た目のカッコ良さと相まって、累代繁殖を楽しむのが一般的だと言う。
「コクワガタメスちゃんはまず間違いなく交尾済みっすから、いま時期産卵セットを組めば、常温飼育で産卵するっすよ」
ペットショップ店員であるトリカワ君には必須の知識なのだろう。何度も同じ説明をして来たのだろう。スラスラと語ってくれる。
しかし私には未知の内容ばかりであった。そして歳を重ねる毎に、胸の奥底に押し込めて眠らせていた少年の好奇心が、勢い良く目を覚ますのを心臓の高鳴りで実感していた。




