コクワガタ飼育記 ⑭ 最終話 終わりは始まり。廻る累代飼育
「呑みたまへ斎藤君」
「はぁ、どうも、朝田部長」
少しお高い料亭。2月のある夜、私は会社の朝田技術部長の誘いを受けた。彼は普段の利己的な塩態度が嘘のように、ビールを注ぎ高い料理を勧めてくる。
「遠慮はいらない。今夜は私に奢らせてくれ」
「はぁ、そうですか、朝田部長」
「私はね、前々から斎藤君を高く評価していたんだ」
「はぁ、ありがとうございます」
「新卒入社してから今日まで、誰よりも真面目で優秀。高卒の低学歴共をよくまとめて会社に貢献する姿は社長も大いに認める所だよ」
「はぁ、はぁ〜(高卒を低学歴呼ばわりとか、マジウザい)」
こうなったのには理由がある。遡ること一週間前だ。会社でちょっとした事件があった。
それは朝礼の時だった。普段は本社にいる社長が私の勤める工場にやって来た。そして集まった社員の前でこう言った。
「先日の私の誕生日に、皆様から心の籠もった贈り物を頂き真にありがとう。調べてみた所、50万円もするワインだとか。近年で最高の誕生日プレゼントです」
頭のハゲた社長は笑顔であった。けれど従業員は全員「?」である。ただ一人、朝田技術部長を除いて。
会社には社員親睦会のための積立金制度がある。
社員全員から毎月1000円を給料から天引きして積み立て、親睦会等の費用に充てるのだ。
コロナ禍以前は年に一度はイベントを開催していた。
コロナ禍中は自粛となった。
でも積立金は続いたのだ。
使われなかったお金はかなりの額となり、その管理は社長の太鼓持ちである朝田技術部長が行っていた。ぶっちゃけ、親睦会のイベントも彼が取り仕切っていた。社長がやりたい事、行きたい場所を優先していたのだ。
話を戻そう。朝田部長は社長の誕生日に50万円のワインをプレゼントした。名目は従業員一同より。金の出処は積立金だ。彼は会社の誰にも告げず、完全な独断で一連の全てをおこなった。
少々問題がある。いや。かなり問題がある。
誰もが眉をひそめるが、声を上げる者はいなかった。
それはそうだろう。相手は部長だ。そして社長への誕生日プレゼントを買ったのだ。やり方と金額に問題はあっても、駄目と言える行為ではないのだ。
しかしその中で、朝田部長に噛み付く人物が一人いた。同期でライバルでもある庄司工場長だ。
二人は大学こそ違うが同じ歳で入社も同じ。
どちらも大学で冶金学を学んでいる。
庄司工場長は現場第一主義の職人気質。
朝田技術部長はデスクワークが大好きな胡麻すり男。
二人が犬猿の仲になるのに多くの時間は必要なかった。
「おい、朝田くん。独断で50万はやり過ぎだろう。半額を自腹で返金しろよ」
「私は社長への誕生日プレゼントを買っただけです。その他一切、やましいお金の使い方はしていません。従業員として、大恩ある社長の誕生日を祝うのは当然ではありませんか庄司さん」
「朝田くんのお金じゃないんだよ。たとえ使い道が正しかろうと、勝手に使う事は許されない」
「事後報告なのは認めますが、ネットオークションで落札期限が迫っていたので」
この対立は社長が仲裁に入る事で一応収束した。
……かのように思われた。
朝田部長はその後、自分の味方を増やそうとして会社の中間管理職に胡麻を擦りまくっている。従業員数が200人に満たない中小企業で必死に居場所を守ろうと足掻いているのだ。
「小さな会社だからね、大卒の管理職は貴重だよ。君さえ良ければ社長との会食をセッティングしよう」
社長との会食など「面倒くせぇ」だけだ。私はスマホを取り出すと、大量に撮った写真を見せてやる。
「朝田部長、見て下さい、コクワガタ♀です」
「コクワガタ♀。……あ、ああ?」
「これは幼虫です。可愛いでしょ?」
「芋虫かね。これはなんと言うか、芋虫だね」
「クワカブショップの商品なんですが、スツラリスオオクワガタにメタリフェルホソアカクワガタにメンガタクワガタにグラントシロカブトです」
「へ? 何だって?」
「去年の年末に福島の温泉宿に行きました。これは熊肉です」
「おお、福島か。私は茨城北部の出身でね、福島の県境が近いんだ。野生の熊を見たこともあるぞ」
「そうなんですね。朝田部長もやりませんか?」
「なにを?」
「クワカブブリード」
「……………………」
少し前なら朝田部長の思惑に心惑わされていたかもしれないが、私はひたすら自分の話を繰り返した。正直、あの頃なら社長とのコネクションに魅力を感じただろう。
でも今はどうでもいい。新しい趣味と新しい人間関係。その2つが『会社の呪縛』から私を解き放ってくれたからだ。
「仕事は自分自身を養うための義務」後藤さんの言葉が忘れられない。私は元々文系の人間なのだ。鍍金会社に就職したのも特に意味はない。学歴と待遇と通勤時間と、諸々考えて身の丈にあった場所で妥協しただけ。
今以上に出世しても面倒が増えるだけだ。目の前の朝田部長がその生き証人だろう。小さな会社の立場を守るために右往左往して、人生の貴重な時間を浪費している。
そんなのはまっぴらごめん。
それなりの地位、それなりの給料でいい。それよりも自由な立場で趣味を楽しみたい。家族と過ごす時間を大切にしたい。その方がよほど良い人生だ。
「ご馳走様でした部長」
「あ、うん。……また飲もう」
「はい。機会があれば是非」
私は朝田部長の相手をしなかった。その後も彼は中間管理職達に胡麻を擦りまくったが、成果は芳しくなかったらしい。結局、本質を見抜かれて嫌われていたのだ。私はそう思う。
◇◇◇◇◇
4月初旬。私が暮らす地域は春の装いを見せ始める。日中の気温が20度を超えて、みっちゃん店長からコクワガタ幼虫をレンタルスペースから出すようにと指示された。
「春を感じさせると蛹室を作るからな。家に持って帰って観察するといい」
「はい。楽しみです」
「レンタルスペースはどうするね。斎藤さんはコクワガタだけだから回収したら何もなくなっちゃうよ。一旦解約するか、そのままにするか、別の虫も飼ってみるか?」
伽藍堂の空間に月3000円。払ってもいいが、勿体なくもある。
「せっかくなのでコクワガタともう一種類飼ってみます。次に来るまでに種類を決めるので、レンタルスペースはそのままでお願いします」
「はいよ。毎度あり」
コクワガタだけでは棚も寂しかった所だ、この機会に手を広げてみよう。ロワジールには珍しいクワカブが沢山売られているし、ネット通販でも購入できる。
とにかく今はコクワガタだ。チョキの子供達を無事成虫にするのだ。
◇◇◇◇◇
話は少し遡る。3月中旬の事だ。
福島のエレナちゃんが大学の春休みを利用してこっちに遊びにやって来た。娘の瑠璃はあれ以来頻繁にLINEでやり取りしているそうで、聞けばトリカワ君のアパートに宿泊していると言う。
なるほど。親公認の幼馴染みカップル。なんだかんだと言って、つまりはそういう事。私は前回の返礼の意味も込めてトリカワ君とエレナちゃんに夕食を御馳走したいと考えた。妻と娘は大賛成。早速トリカワ君にLINEをして我が家に招待。奮発したA5和牛ですき焼きパーティーを開催した。
「おじさん、おばさん、とっても美味しいです」
「ふふ、嬉しいわ。格好つけて魯山人風すき焼きにしたから、お口に合うか不安だったの」
「大丈夫。大好きです。北大路魯山人」
エレナちゃんの言葉が本心かお世辞かは分からない。
妻は漫画『美味〇んぼ』の大ファンなのだ。だからちょくちょく手の込んだ料理を作る。
昭和の狂気に満ちたあの作風。昭和なら普通でも、令和ではイカれてるとしか言いようのないトミーの暴れっぷり。同じ中間管理職として良い反面教師だ。
「瑠璃ちゃん。明日は予定空いてる?」
「空いてますよ」
「なら一緒にららぽ行こうよ。そんでスター〇ックス奢ってあげる」
「本当! 行きます! 良いよねママ」
「エレナちゃんと一緒なら安心ね。楽しんでらっしゃい」
「まこちゃん」
「ん?」
「買いたいもの沢山あるから荷物持ちよろしく」
「えっ! 聞いてないよ」
「今言った。まこちゃんに拒否権はない」
「そ、そんな〜」
トリカワ君は早速尻に敷かれているようで何よりだ。
夫婦なんてものは、家庭では妻が強く、外では夫が強い。その方が上手くいく。と、私の持論。
食事を終えて。妻とエレナちゃんと娘はキッチンで食器を洗っている。とても会話が盛り上がって騒がしい。私とトリカワ君はソファーに座り、食後のコーヒーを飲んでまったりとしていた。
「トリカワ君さ」
「はいっす」
「いつ福島に行くの?」
「それはっすね。まずみっちゃんのロワジールを手伝ってくれる人に引き継ぎしてからになります。だから早くても来年になるっす」
「そう。一年なんてすぐだね。ロワジールの人材にあてはあるのかい?」
「一応あるっす。常連さんの奥さんが虫の世話以外、ネット関係だけならやってもいいと」
「そうか。なら決まりだね。トリカワ君と離れるのは寂しいよ」
「自分も地元を離れるのは寂しいっす。でも今の時代、何処にいてもインターネットでやり取りできます」
「そうだね。情報だけはゼロ距離だ」
「自分、福島に行ったら毎日Xで日常を報告するっす。斎藤さんもフォローして下さい」
「Xか。イーロン・マスクと面識はないが、アカウントを作ってみるか」
「はいっす」
エレナちゃんの帰る日。私達家族は駅まで見送りお土産の目録を渡した。なぜ目録かと言えば、お酒など重い物を宅配便で先に送ったからだ。
「エレナちゃん、気をつけて帰って」
「おじさん、お土産ありがとうございます!」
「大した物ではないけど、作蔵さんとご両親によろしく」
「はい」
「エレナちゃん、ご家族によろしくね。今年のお盆休みにも温泉宿にお邪魔する予定だから、その時もよろしくね」
「はい。宿のおじさんとおばさんに伝えます。私達もお待ちしてます!」
「エレナさん、LINEしてね」
「ほぼ毎日してるじゃん。瑠璃っちは甘えん坊だね〜」
「そんなんじゃないよ! エレナさんと話すのが楽しいだけ」
「嬉しい事をいってくれて〜、ういやつ、ういやつ」
「あぁ〜髪の毛ワシャワシャしないで〜」
娘はエレナちゃんを姉のように慕っている。トリカワ君を兄のように慕っている。その姿はとても微笑ましい。二人も面倒見がとても良く、一人っ子の瑠璃には最高の出会いだ。運命と言っても良いかもしれない。
「じゃ、電車来たから行くね。まこちゃん」
「うん、気をつけて」
「まこちゃん。んっ!」
「ん? なに?」
「お別れのキス。ん!」
「はぁ! 人前では駄目だよ!」
「なんでよ!」
「何でもだよ! 公共の場でハレンチは駄目!」
「良い子ぶっちゃてさ〜。昨夜はあんなに……」
「わ〜! わ〜なの。ね、わ〜なの。分かるでしょ!」
なるほど。若い二人は旺盛で大変よろしい。
だが娘には見せられん! トリカワ君よ、後で話し合おう。
◇◇◇◇◇
4月中旬。
玄関に置いたコクワガタ幼虫21匹のうち、メスが蛹室を作り始めた。これは蛹になる準備。蛹室が完成すると幼虫は前蛹になり、約20日後に蛹になる。そこから更に約20日後、成虫として羽化するのだ。
「やったぞ。遂にここまで来た。チョキよ、お前の子供達は順調に育っているぞ」
コバエシャットミニに入ったビッグマザーチョキは冬眠から目覚めてゼリーを食べ始めていた。こちらも元気だ。嬉しい。
5月。ゴルデンウィーク。
メス幼虫は全て無事に蛹へと変化した。オス幼虫も遅れて前蛹となった。
オス・メスで羽化時期に差が出るのは正常な事である。メスが早くオスが遅い。小型種だとこの差も少ないが、大型種だとかなり開きが出ると言う。ヘラクレスオオカブトなどは幼虫を同時スタートすると、メスが寿命で死ぬ頃にオスが羽化するのだとか。
一例として、ヘラクレスブリーダーは時間差をつけて大量の幼虫を育てる。そうしないとオス・メスの羽化時期のズレでブリードが途切れてしまうからだ。
ヘラクレス幼虫の体重はメスでも80gを超える。オスでは100gを超えるのが当たり前。その分飼育容器は大型になり、大量に飼育すれば幼虫に家が占拠されてしまう。考えたら恐ろしい。ヘラクレスオオカブトに手を出すのは止めておこう。
5月中旬。
出勤前にコクワガタ幼虫を確認すると、数匹のメスが羽化していた。
「これが羽化! 写真、写真〜!」
慌てながらスマホで撮影。
おそらく深夜に羽化したのだろう。内羽根は飛び出したまま、色も薄い茶色。蛹室の中で弱々しく体を動かしている。神秘的な姿だ。
「可愛いなぁ〜、可愛いなぁ〜。トリカワ君とみっちゃん店長にLINEしよう」
まずはメスだけ。けれど初めてのブリード成功。嬉しくてたまらない。その日は上機嫌で小躍りしていた。
6月中旬。世界は熱に支配されている。暑い。
「あっ! オスも羽化した! 遂に来たか!」
メスに遅れること約1カ月。遂にオスも羽化した。
外から見ると大きく見える。いや、実際大きいに違いない。羽化したのなら、暑い場所に置いておく理由もない。早くロワジールのレンタルスペースに移さなけばならない。週末、私は歓び勇んでロワジールへお邪魔した。
「やったっすね斎藤さん!」
「ありがとうトリカワ君」
「初ブリードお疲れ様。斎藤さん」
「ありがとうございますみっちゃん店長」
仲間達は素直に喜びを共有してくれた。コクワガタなど、その辺に普通にいる種である。知識のある者なら簡単に採集できる日本でもっともありふれたクワガタ。
それを育てて喜ぶ40オヤジに対して、偏見の目を向ける人はここにはいない。有り難い事だと思う。これこそが好きを共有する事だと実感する。楽しい。クワガタの事を考えていると毎日が楽しい。
「掘り出しは2週間以上待った方がいい」
「はい、みっちゃん店長。体が固まるまでですね」
「そう。後食開始までに1〜2カ月。それから繁殖可能な性成熟まで更に1〜2カ月。この子達の累代飼育は今年は無理だね」
クワカブは、羽化したての頃は内臓が完成していない。外見は成虫でも中身は赤ちゃんである。
後食とは、内臓が完成して餌を食べ始めること。そこでようやく子供。それから繁殖可能な大人になるまでの成熟期間があり、コクワガタを例にとれば卵から親になるまで約1年半の時間が必要となる。
そうなると今年はやる事がない? いやいや。とんでもない。私に抜かりはない。時間は有限。1日だって無駄には出来ないのだ。
「斎藤さん、今日はこのまま、新しい産卵セットの割り出しするっすか?」
「もちろんだ、トリカワ君。メタリフェルホソアカクワガタ。どんな虫か試させてもらおうか。みっちゃん店長、今年もご指導よろしくお願いします」
「おう、毎度あり」
たった一匹の小さな小さなコクワガタ♀から始まった物語。
人を繋ぎ、自然を繋ぎ、世界を繋ぐ。
小さな虫は教えてくれた。人間1人など、世界の前では取るに足らない小さな存在であると。
小さな虫は教えてくれた。全ての生命は息吹、繋がりを持って世界を形作っていると。
小さな虫は教えてくれた。1人で生きるより、喜びを共有できる仲間と生きる方が、世界はずっと楽しい事を。
私はこれからもクワカブブリードを続けて行くだろう。
そして出会いを繰り返し、たまに別れて、また出会う。
小さなコクワガタ♀が導いてくれた。ニッチで広大な趣味の物語を、これから紡いで行こうではないか。
私はそう思う。
これにてコクワガタ飼育記完結です。
最後までお読み頂きありがとうございました。
本作はクワカブ飼育における実体験も混ざっています。
クワカブとは私が思いますに小宇宙。
全ての生命は脳のニューロンネットワークの様に繋がって広がっています。そして、繋がりなしでは生きていけないのです。
と、言うのは作者の持論。皆様ももしよろしけば夏の夜に街灯の下を、或いはクヌギの樹液場を調べてみて下さい。
いるかもしれません。小さな小さな小宇宙が。




