生かされている
最初に感じたのは、全身を包む陽だまりのような暖かさだった。次いで、ふわりと甘い匂いが鼻腔を擽る。
フィンは、ゆっくりと瞼を開く。
痛く、ない……?
あれほど全身を苛んでいた激痛が、嘘のように消え失せていた。恐る恐る腕に力を込める。動く。おびただしい出血があったはずのそこには、服越しにでも分かるほど滑らかな感触しかない。
慌てて上着をめくると、そこにあったのは、ずっと昔からそこにあったかのような薄い傷跡だけだった。
「……何が起きたんだ?」
混乱するフィンの問いへの答えは、部屋の隅から、静かにもたらされた。
いつからそこにいたのか。修道女のような簡素なローブを纏った一人の女が、窓の外を静かに見つめていた。振り返ったその顔はまだ幼さを残しているが、その蒼の瞳には、深い哀しみと疲労の色が滲んでいた。
女はフィンの視線に気づくと、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。その足音は、ほとんど聞こえなかった。彼女はフィンの額にそっと手を当て、熱がないことを確かめて頷く。その手は、ひどく冷たかった。
「……良かった。また一つ、命が繋がりました」
それはフィン個人に向けられた言葉というより、まるで自らの使命を確認するかのような、静かで、そしてどこか祈りにも似た呟きだった。
彼女が浮かべた微かな笑みは、安堵の色に近い。
「君が助けてくれたのか……?」
フィンがようやく絞り出した声に、女は静かに首を横に振った。
「いいえ。私は、ほんの少し手助けをしただけです。あなた自身の生きようとする力が、その命を繋ぎ止めた」
その声は、傷ついた心を優しく包むような、不思議な響きを持っていた。
「ブレンナ、と申します」
「ブレンナ……」
フィンがその名を繰り返しかけた、その時だった。
不意に、部屋の扉が開かれる。そこに立っていたのは、ギルド受付の女だった。そのグレーの瞳は死んだ魚のように濁っており、何の光も映してはいなかった。
「お疲れ様です、ブレンナさん。またここにいらしたのですね。職務に忠実なのは結構ですが、貴方が倒れては元も子もありません」
その声には気遣いと同時に、貴重な戦力が損耗することへの苛立ちが混じる。対するブレンナは、表情を一切変えない。
「……これが、私の役割ですから。エミリー支部長」
彼女はフィンに一度だけ微笑を向けて頷き、エミリーの横をすり抜けて音もなく部屋を去っていった。その背中は聖女というよりは、次の任務へ向かう兵士のそれだった。
部屋には、フィンとエミリー、そして気まずい沈黙だけが残される。
やがて、エミリーは誰に聞かせるでもなく、絞り出すような声で呟いた。
「……また、あんな顔をさせてしまった」
無表情の仮面が剥がれ、その顔には深い自責の念が浮かんでいる。フィンが何も言えずにいると、彼女はハッと我に返り、いつもの無表情な支部長の顔に戻った。
「失礼しました。……それより、依頼の報告を。薬草採取、ご苦労様でした。これが報酬の銀貨一枚です」
エミリーは自らの財布から銀貨を一枚だけ取り出すと、こつん、と乾いた音を立てて、フィンのベッド脇のテーブルに置いた。その声には、もう何の感情も乗っていなかった。
「貴方が助けようとした冒険者……彼の亡骸は、お仲間のルシアンさんが引き取っています」
「そうですか……」
「フィンさん」
エミリーは、その濁った瞳で、まっすぐにフィンの目を見据えた。
「貴方も動けるようになったら、この街を出ていきなさい。ここは……貴方のような新人が、夢を見ていられる場所では、もう、ありません」
それは突き放すような言葉ではなく、滅びゆく街に残ると決めた者が若者に送る、悲壮感に満ちた決意のように見えた。
「……なぜですか?」
「彼女──ブレンナさんが、なぜここにいると思いますか?」
エミリーは、自嘲するように、ふっと息を漏らす。
「彼女は、リヒトフェルデン聖王国から貸し与えられた“希望”。そして……『切り札』です。……犠牲者を、一人でも減らすための」
「……切り札?」
フィンの問い返しに、エミリーは無表情を崩さずに頷く。
「言葉通りの意味です。……申し訳ございません、貴方には関係のない話でしたね」
エミリーはそれだけを言うと、「暫くは安静に」とだけ付け加え、すぐに部屋を出ていった。
後に残されたのはテーブルに置かれた一枚の銀貨と、フィンの頭の中に渦巻く、言葉達だけだった。
しばらく呆然としていたが、フィンはゆっくりと身を起こし、ギルドホールへと向かう。
エミリーの言葉を裏付けるように、ホール全体が重い沈黙に支配されていた。誰もが、次の襲撃に怯えている。ラストゲイトは、ゆっくりと、しかし確実に死に向かっているように思えた。
「……君が新人か」
不意に低い声が掛けられる。振り返ると、そこにいたのは、先日ギルドホールで見かけた白髪の男だった。
かつてはどこかの騎士団で使われていたのであろう、金属鎧からは本来の輝きは失われ、肩や胸当てにはおびただしい数の傷が刻まれている。特に損傷の激しい箇所は、あり合わせの金属板や、黒光りする何かの魔物の鱗で、不格好に補修されていた。憂いを帯びた眼差しが真っ直ぐフィンに注ぎ込まれている。
「私はルシアン。……礼を言う。お前が、あいつ……カールの剣を握っていたと聞いた」
「オオカムロの腹に収まる前に、あいつを葬ることができた。感謝する」
ルシアンは一振りの剣をフィンに差し出す。あの恐ろしい巨鳥の攻撃を受けたというのに、その刀身には刃こぼれ一つ無かった。
「持って行け。あの剣を土に埋めるだけでは、あいつの死が無駄になる」
それは、予期せぬ言葉だった。ただの農夫の息子であった自分に託される、信頼の証。
フィンは震える手で、そのずしりと重い剣を受け取った。たった一度だけ振るい、命を繋ぎ止めた剣。その柄は、不思議な程に手の平に馴染んだ。
震える指先で剣の柄をなぞる。
巨鳥オオカムロの凶悪な嘴と、灰色の羽毛が脳裏をよぎった。
逃げ出せば、生き延びる道はあるだろう。だが、それで残るものは何だ?
あの女――ラゲルタが示した、圧倒的な力。
ブレンナが繋いでくれた、奇跡のような命。
エミリーの瞳の奥に見た、街の悲痛な叫び。
そして、ルシアンがこの手に託してくれた、友の信頼。
すべてを捨てて背を向けて、その先に何があるというのか。
ここに踏みとどまらねば、自分にはもう居場所などないというのに。
「違う……」
誰に聞かせるでもない小さな声。
しかし、そのひと言と共に胸の靄は晴れ、握る手は震えていなかった。
フィンは掲示板の前に立ち、まっすぐに手を伸ばす。
『オオカムロの群れ討伐』
――この街に、自分は生かされている。
恥を忍んで村に戻っても、それはただ呼吸を繰り返すだけの屍に等しい。
ならば、生きねばならない。自分の手で、足で。
若き冒険者の瞳に灯った火種は、なお小さくとも、確かな灯火へと育ち始めていた。