表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

生かされている

 最初に感じたのは、全身を包む陽だまりのような暖かさだった。次いで、ふわりと甘い匂いが鼻腔を擽る。

 フィンは、ゆっくりと瞼を開く。


 痛く、ない……?


 あれほど全身を苛んでいた激痛が、嘘のように消え失せていた。恐る恐る腕に力を込める。動く。おびただしい出血があったはずのそこには、服越しにでも分かるほど滑らかな感触しかない。

 慌てて上着をめくると、そこにあったのは、ずっと昔からそこにあったかのような薄い傷跡だけだった。


 「……何が起きたんだ?」


 混乱するフィンの問いへの答えは、部屋の隅から、静かにもたらされた。


 いつからそこにいたのか。修道女のような簡素なローブを纏った一人の女が、窓の外を静かに見つめていた。振り返ったその顔はまだ幼さを残しているが、その蒼の瞳には、深い哀しみと疲労の色が滲んでいた。


 女はフィンの視線に気づくと、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。その足音は、ほとんど聞こえなかった。彼女はフィンの額にそっと手を当て、熱がないことを確かめて頷く。その手は、ひどく冷たかった。


 「……良かった。また一つ、命が繋がりました」


 それはフィン個人に向けられた言葉というより、まるで自らの使命を確認するかのような、静かで、そしてどこか祈りにも似た呟きだった。

 彼女が浮かべた微かな笑みは、安堵の色に近い。


 「君が助けてくれたのか……?」


 フィンがようやく絞り出した声に、女は静かに首を横に振った。


 「いいえ。私は、ほんの少し手助けをしただけです。あなた自身の生きようとする力が、その命を繋ぎ止めた」


 その声は、傷ついた心を優しく包むような、不思議な響きを持っていた。


 「ブレンナ、と申します」


 「ブレンナ……」


 フィンがその名を繰り返しかけた、その時だった。

 不意に、部屋の扉が開かれる。そこに立っていたのは、ギルド受付の女だった。そのグレーの瞳は死んだ魚のように濁っており、何の光も映してはいなかった。


 「お疲れ様です、ブレンナさん。またここにいらしたのですね。職務に忠実なのは結構ですが、貴方が倒れては元も子もありません」


 その声には気遣いと同時に、貴重な戦力が損耗することへの苛立ちが混じる。対するブレンナは、表情を一切変えない。


 「……これが、私の役割ですから。エミリー支部長」


 彼女はフィンに一度だけ微笑を向けて頷き、エミリーの横をすり抜けて音もなく部屋を去っていった。その背中は聖女というよりは、次の任務へ向かう兵士のそれだった。


 部屋には、フィンとエミリー、そして気まずい沈黙だけが残される。

 やがて、エミリーは誰に聞かせるでもなく、絞り出すような声で呟いた。


 「……また、あんな顔をさせてしまった」


 無表情の仮面が剥がれ、その顔には深い自責の念が浮かんでいる。フィンが何も言えずにいると、彼女はハッと我に返り、いつもの無表情な支部長の顔に戻った。


 「失礼しました。……それより、依頼の報告を。薬草採取、ご苦労様でした。これが報酬の銀貨一枚です」


 エミリーは自らの財布から銀貨を一枚だけ取り出すと、こつん、と乾いた音を立てて、フィンのベッド脇のテーブルに置いた。その声には、もう何の感情も乗っていなかった。


 「貴方が助けようとした冒険者……彼の亡骸は、お仲間のルシアンさんが引き取っています」


 「そうですか……」


 「フィンさん」


 エミリーは、その濁った瞳で、まっすぐにフィンの目を見据えた。


 「貴方も動けるようになったら、この街を出ていきなさい。ここは……貴方のような新人が、夢を見ていられる場所では、もう、ありません」


 それは突き放すような言葉ではなく、滅びゆく街に残ると決めた者が若者に送る、悲壮感に満ちた決意のように見えた。


 「……なぜですか?」


 「彼女──ブレンナさんが、なぜここにいると思いますか?」


 エミリーは、自嘲するように、ふっと息を漏らす。


 「彼女は、リヒトフェルデン聖王国から貸し与えられた“希望”。そして……『切り札』です。……犠牲者を、一人でも減らすための」


 「……切り札?」


 フィンの問い返しに、エミリーは無表情を崩さずに頷く。

 

 「言葉通りの意味です。……申し訳ございません、貴方には関係のない話でしたね」


 エミリーはそれだけを言うと、「暫くは安静に」とだけ付け加え、すぐに部屋を出ていった。

 後に残されたのはテーブルに置かれた一枚の銀貨と、フィンの頭の中に渦巻く、言葉達だけだった。


 しばらく呆然としていたが、フィンはゆっくりと身を起こし、ギルドホールへと向かう。

 エミリーの言葉を裏付けるように、ホール全体が重い沈黙に支配されていた。誰もが、次の襲撃に怯えている。ラストゲイトは、ゆっくりと、しかし確実に死に向かっているように思えた。


 「……君が新人か」


 不意に低い声が掛けられる。振り返ると、そこにいたのは、先日ギルドホールで見かけた白髪の男だった。

 かつてはどこかの騎士団で使われていたのであろう、金属鎧からは本来の輝きは失われ、肩や胸当てにはおびただしい数の傷が刻まれている。特に損傷の激しい箇所は、あり合わせの金属板や、黒光りする何かの魔物の鱗で、不格好に補修されていた。憂いを帯びた眼差しが真っ直ぐフィンに注ぎ込まれている。


 「私はルシアン。……礼を言う。お前が、あいつ……カールの剣を握っていたと聞いた」


 「オオカムロの腹に収まる前に、あいつを葬ることができた。感謝する」


 ルシアンは一振りの剣をフィンに差し出す。あの恐ろしい巨鳥の攻撃を受けたというのに、その刀身には刃こぼれ一つ無かった。


 「持って行け。あの剣を土に埋めるだけでは、あいつの死が無駄になる」


 それは、予期せぬ言葉だった。ただの農夫の息子であった自分に託される、信頼の証。

 フィンは震える手で、そのずしりと重い剣を受け取った。たった一度だけ振るい、命を繋ぎ止めた剣。その柄は、不思議な程に手の平に馴染んだ。

 

 震える指先で剣の柄をなぞる。

 巨鳥オオカムロの凶悪な嘴と、灰色の羽毛が脳裏をよぎった。

 逃げ出せば、生き延びる道はあるだろう。だが、それで残るものは何だ?

 あの女――ラゲルタが示した、圧倒的な力。

 ブレンナが繋いでくれた、奇跡のような命。

 エミリーの瞳の奥に見た、街の悲痛な叫び。

 そして、ルシアンがこの手に託してくれた、友の信頼。

 すべてを捨てて背を向けて、その先に何があるというのか。

 ここに踏みとどまらねば、自分にはもう居場所などないというのに。


 「違う……」 


 誰に聞かせるでもない小さな声。

 しかし、そのひと言と共に胸の靄は晴れ、握る手は震えていなかった。

 フィンは掲示板の前に立ち、まっすぐに手を伸ばす。


 『オオカムロの群れ討伐』


 ――この街に、自分は生かされている。

 恥を忍んで村に戻っても、それはただ呼吸を繰り返すだけの屍に等しい。

 ならば、生きねばならない。自分の手で、足で。


 若き冒険者の瞳に灯った火種は、なお小さくとも、確かな灯火へと育ち始めていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ