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くろがねの風

 死が、形となって猛然と駆けてくる。


 大地を砕く足音とともに、灰色の羽毛が陽光を散らすように揺れた。鉄を打ち割ったように尖った嘴が、まっすぐフィンを狙っている。

 赤く濁った双眸が、獲物から一瞬たりとも逸れなかった。

 もはや声すら出ない。恐怖が極限に達し、逆に頭から血の気が引いた。かつて高熱にうなされた時のような、奇妙な静けさが思考を支配する。世界から色が消え、ただ、自分と、目の前の死の輪郭だけが、焼き付いたように浮かび上がっていた。


 どうすれば、生き延びられるか。

 その一点に、思考の全てが注ぎ込まれる。


 世界の動きが、鈍化する。見えているのは、巨鳥の筋肉の収縮だけではなかった。鉤爪が抉る土の色、踏みしめられて圧縮される草の根。

 牛が重心を移すとき、畑の土が沈み込むのを幾度となく見てきた。今も同じだ。大地が沈む方へ、巨体は傾く。そこから嘴の軌道が読めた。

 だが、頭で描いた完璧な回避軌道と、現実に動く肉体との間には、絶望的なほどの時間差がある。かろうじて真横に身を投げ出すのが精一杯だった。


 直後、風圧が頬を打つ。先ほどまでフィンが立っていた地面を、突進の勢いのままに鳥の鉤爪が深く抉り、土と石片を宙に撒き散らした。


「はっ……はっ……!」


 呼吸は浅く、心臓が肋骨を内側から叩きつける。全身が燃えるように熱いのに、思考だけが奇妙に冴え渡っていた。

 奴は一度走り出すと、簡単には止まれない。あの巨体では尚更だ。

 巨鳥が大きく弧を描いて方向転換し、再びこちらへ向き直る。フィンは拾った剣を両手で握り締め、その切っ先を敵に向けた。


 落ち着け。集中しろ。よく見ろ。


 再び、地響きが迫る。今度は巨大な嘴が、鶴嘴のように振り下ろされた。

 咄嗟に剣を盾のように掲げる。


「ぐぁッ……!」


 両腕が砕けるかのような衝撃が、全身を貫いた。

 世界が、反転した。

 自分が宙を舞っているのか、地面が迫ってくるのかも分からない。一度、地面に背を叩きつけられ、肺から空気が押し出される。二度、転がって肩を強打し、視界に火花が散る。三度、背中から突き出た岩に激突し、ようやく忌まわしい反動が止まった。


 痛みはない。

 ただ、両腕の感覚が消え、脚が体を支えるという当然の役割を、完全に放棄していた。どくどくと、肩から命が流れ出ていく。


 ああ、結局、ここまでか。

 諦めと同時に、喉の奥から獣じみた喘ぎが漏れた。爪先が痙攣するように地を蹴り、痺れる腕でなお剣を探す。意思ではなく、身の奥に巣くう原始的な生存本能が、なお命を掴もうとあがいていた。


 しかし無情にも、怒りに満ちた巨鳥が、とどめを刺さんと再び嘴を天へ向ける。


 ────轟音。

 

 雷鳴ではない。一陣の風に大気が断裂する、耳を劈く破砕音。

 何が起きたのか、理解できなかった。ただ天を仰ぐ巨大な首が、胴体から離れて宙を舞う。

 巨鳥の首なき胴体から、熱い血が噴水のように噴き上がった。それは赤黒い雨となり、動けないフィンの全身に降り注いだ。


 視界が、赤に染まる。


 生温かい鉄の匂いが、思考を、視界を塗り潰していく。地響きを立てて巨体が倒れ込み、大地が揺れる。


 血の雨が止んだ時、フィンは見た。噴き出す血の間欠泉の向かいに立つ、一人の女を。


 これほどの返り血を浴びる距離。だというのに、彼女の身には、一滴の返り血すら付着していなかった。

 その手にある巨剣だけが犠牲者の血に濡れていたが、瞬く間に刃は昏い赤を脈打たせ、その血を生きているかのように飲み干していく。

 血の痕跡は跡形もなく消え、刃は元の鈍色の輝きへと戻った。


 あまりの光景に、フィンは声も出せずにいた。ただ、血まみれの視界の中で、その女の姿だけが、現実離れした輪郭で浮かび上がっていた。

 丸く、鮮やかな翠の瞳は自ら発光しているかのように鮮烈な輝きを帯びる。くすんだ金髪は肩に掛かる程度。元は白かったであろう、赤く日に焼けた肌。そして、手には身の丈を超すほどの分厚い両手剣。

 女の視線が、まるで珍しい生き物でも見るかのように、フィンへと注がれる。その口元が、にぃ、と大きく開かれ、猫科の肉食獣のものを思わせる鋭い犬歯が覗いた。


「いやぁ~間に合って良かったっす! さっきの人は助けられなかったっすけど、アンタだけでも生き残れたのは御の字っすね!」


 場違いに明るい声が、凄惨な現場に響いた。痛みと疲労に現実感が薄くなる。

 その声は甲高く、酷く掠れていたが、一つ一つの言葉は、まるで矢のようにフィンの鼓膜へ突き刺さる。


「私はラゲルタ! 今はラストゲイトの街でお世話になってるっす! アンタは?」


 まるで安全な酒場で挨拶を交わすかのような気安さ。


「おれ、は……フィン……」


 口にした瞬間、言葉も気力も尽き果てた。


 それが、彼の限界だった。

 遠ざかっていくラゲルタの声を聴きながら、まるでぬかるんだ泥の中にゆっくりと沈んでいくように。フィンの意識は、そこで途絶えた。

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