一握りの銀の為に
ラストゲイトの簡素な門を背に、フィンは再びあの闇の森と対峙していた。フィンは肌が泡立つ感覚を押し殺しながら、自らの意思で、暗い森へと踏み込んでいく。
森の中には一本、不自然なほどに真っ直ぐ石畳の道が続いている。
苔むし、ひび割れ、所々が木の根に持ち上げられてはいるが、それが人の手で造られたものである事は疑いようもない。もはや、この道が誰によって造られたのかなど、フィンにとってはどうでもいいことだった。今はただ、生き抜くこと。それだけを考えていた。
鬱蒼と茂る木々の天蓋が太陽を遮り、森は昼でもなお薄暗い。湿った土の匂いに、嗅ぎ慣れない甘い花の香りが混じる。鳥のさえずりや、風に揺れる葉のざわめきも聞こえてくる。それらが心安らぐ音色に聞こえるのは、背後にまだ人里の気配を感じられる、この入り口付近だけだろう。
一歩奥へ踏み込めば、この偽りの平穏は鳴りを潜め、森は本当の顔を見せる。
しばらく道なりに進んだところで、フィンの耳が微かな水の音を捉えた。
小川か。
依頼書の『薬草採取』の欄には、目的の薬草が湿った川辺を好むと書かれていた。石畳を歩いているだけでは、銀貨は手に入らない。フィンは一瞬躊躇い、そして意を決して、古の道から脇の茂みへと逸れた。
数分も歩くと視界が開け、陽光に照らされてきらきらと光る小さな川が姿を現す。
ここなら、安全そうだ。
フィンはすぐさま周囲へ目を凝らし、森の地面を一つの畑として読み解き始めた。
彼の目は、まず土の色を捉える。乾いて白んだ土は駄目だ、植物の根は浅い。狙うは、大樹の根が水を求めて広がる、黒ずんだ湿り土。
ふと、獣の小さな蹄痕が目に入った。水辺を目指す獣たちの通り道。彼らが歩く場所には、その糞尿を目当てに、栄養豊富な草が群れるはずだ。
蹄痕を辿り、岩陰へと回り込む。
あった。
葉の形が酷似した毒草の隣で、目当ての薬草だけが、より力強い生命力のある緑色をしていた。フィンは慎重に毒草を避け、その一本を丁寧に摘み取る。
革袋が、ずしりと重い。中には、目的の薬草が溢れんばかりに詰まっていた。
獣道を抜け、再び古の石畳へと足を踏み入れた瞬間、張り詰めていたフィンの全身から、ふっと力が抜けた。道幅のある石畳は、獣道とは比べ物にならないほど歩きやすい。これならば、街まではもう目と鼻の先だ。
冒険者としての一歩。
それは剣の腕ではなく、土と草の知識によって成し遂げられた。だが、それがどうしたというのだ。フィンは、胸の奥から込み上げてくる熱いものに、思わず口元を緩めた。
鬱蒼とした木々が途切れ、空が大きく開けた瞬間、フィンは安堵の息を深く吐いた。
日差しは暖かく、まるで初仕事の成功を祝福してくれているようだった。ラストゲイトの無骨な木杭と門は、もうすぐそこだ。
これなら、やれる。この仕事で糧を得て、少しずつ、もっと強い────。
────その時だった。悲鳴が聞こえてきたのは。
馬のいななきのような、鳥の叫び声のような、異様な音。それに混じる、間違いなく人の断末魔。フィンが目を凝らすと、遠く、街道の少し脇で土煙が上がり、何かが争っているのが見えた。
逃げろ。街へ。
全身の細胞が警鐘を鳴らす。
だが、耳にこびりついた断末魔が、不意に、遠い日の記憶の蓋をこじ開けた。
故郷で病に苦しむ老婆が、咳き込みながら役人に懇願していた。冷たい目で一瞥し、役人は無言で背を向けた。その光景をただ見ていることしかできなかった、母さんの、どうしようもなく悲しそうな顔。
物語の英雄なら、どうする?
違う。
母さんなら、今の俺を見て、何て言う?
気が付けばフィンは駆け出していた。生存本能を、ほんの僅かに理想が上回った瞬間だった。
現場にたどり着いた時、すべては終わっていた。
巨大な爪で引き裂かれた冒険者の亡骸は、まだ微かに温かい。しかし、その指に触れた瞬間、ぞっとするほどの硬直が始まっていた。鎧は紙のように裂かれ、剣帯は無惨にちぎれている。
その傍らには、彼のものだったに違いない、一振りの剣が転がっていた。フィンの腰にあるのは、小振りのナイフ。これでは、脅威に立ち向かう事など出来ない。
死体から物を奪うのか?
強い罪悪感が胸を焼く。だがそれ以上に、この剣を握らなかったばかりに、次の亡骸が自分になるという確信が、彼を動かした。
「……すみません。必ず、あなたの無念も晴らしますから……」
誰に言うでもない誓いを口にしながら、フィンは震える手で、冷たくなった亡骸からずしりと重い剣を抜き取った。
捕食者は、どこへ行った?
不慣れな手つきで剣を構え、周囲を警戒する。森のような息苦しさはない。ただ、広大すぎる平野の静寂が、逆にフィンの神経をすり減らしていく。
地平線の向こうに現れたのは、猛禽を思わせる巨大な影だった
それは、フィンという獲物を見据え、一直線に、大地を蹴って疾走してくる。地響きのような足音。馬よりも速いその速度。逃げ場は、ない。
死そのものが形を得て、今まさにフィンを呑み込もうとしていた。