心の火種
泥のような眠りから目覚める。窓から差し込む朝日が瞼を照らし、フィンの意識を現実へと引き戻した。
麦藁の寝床から身を起こし、懐の依頼書を強く握りしめる。それは母の銅貨に代わる、ここで得た最初の糧だった。
フィンは一つ息を深く息を吸い込み、朝の街へと踏み出す。
朝の空気には煤と埃が入り混じり、喉の奥をざらつかせた。踏み固められた土の街路はあちこちで抉れ、車輪か蹄に削られた跡が残る。不揃いに積み上げられた石と木の壁には、黒ずんだ染みが広がり、家々の屋根はひしゃげたまま傾いて通りに陰を落としていた。
簡素な街門に目をやれば、顔を包帯で覆った衛兵が槍に体を預け、怒声を上げる男たちが柵や土塁の補強に追われている。
仄かに漂う獣脂の焦げる匂いに、腹が不意に鳴った。街門ではなく広場へと足が向く。
腹が減った。ここ数日、まともな食事を口にしていない。
中央広場には朝早くから露店が並び、湯気と煙が立ち上っていた。フィンはその一つに駆け込み、獣肉の串焼きを掴むや否や、貪るように口へ運ぶ。焦げ目の付いた肉を噛みしめると、熱い肉汁が舌に広がり、滋味が全身に染み渡る。
これで名実ともに一文無し。あとはただ、依頼を成功させるより他はなかった。
男たちの怒声も槌音も、ここでは遠い。広場の隅、古い大樹の根元に寄り添うようにして、その小さな木造の祠は息を潜めていた。フィンは、何かに導かれるように、その軋む扉へと手を伸ばす。
中へ入ると、冷たい空気と、古い木と香油の匂いがフィンを迎えた。外の喧騒が嘘のように遠ざかり、耳に届くのは自身の呼吸と、心臓の音だけだった。祠の左右の壁には、八枚の分厚い板が掲げられ、そこに八大神の聖印が力強く彫り込まれていた。
そこには、大地と豊穣の女神フィマを象徴する猪の彫刻。その隣には、神王ドーンを示すワタリガラスの印が並ぶ。
農夫の息子ならば、本来それらに手を合わせるべきだった。だが、フィンの足は迷わずその前を通り過ぎる。
彼が膝をついたのは、その一番端。立ち昇る炎と熊を象った、火の神ブロクの聖印の前だった。
聖印の下の小さな台座に、誰かが捧げたのだろう、一本の使い古された剣の柄だけが、静かに置かれていた。その無骨な塊を見つめていると、遠い日の記憶が蘇る。退屈で過酷なだけの日常で、唯一の彩りだった、あの日の記憶が。
数年に一度村を訪れる、煤けたマントの吟遊詩人。彼が弾くリュートの乾いた音色と、焚き火の煙の匂い。
「――英雄ロイドはブロクの炎をその剣に宿し、たった一人で闇の軍勢に立ち向かった……」
あの日の物語の、その一節が今も耳に残っている。煌びやかな英雄と自分を重ね合わせ、畑を耕す鍬を聖剣に、汗を流す自分を厳しい修行に励む勇者に見立てる。そんな空想だけが、フィンの心の支えだったのだ。
そうだ、だからここに来たんだ。物語の主人公になるために。
フィンは、あの物語の英雄に自分を重ねるように、静かに祈りの言葉を紡ぐ。
「偉大なるブロク様……。物語の英雄たちは、皆あなたの御名と共にありました。あなたの炎は、彼らの剣に宿り、その心を照らしたと聞きます」
彼は、震える自分の両手を見つめる。
「どうか……。どうか、この心に彼らのような勇気を。ほんの欠片ほどの勇気を。明日を生きる為の、小さな火種を……お与えください」
祈りを終え、フィンはゆっくりと立ち上がる。心の中の嵐が、少しだけ凪いだような気がした。祠の外では相変わらず露店の呼び込む声や怒号が響いている。何も変わらない。だが、彼の瞳には、小さな炎が確かに灯っていた。




