逃避ではなかったと
がさり、と乾いた音を立てる麦藁の寝床に、フィンは体を投げ出した。薄いシーツ越しに、ごわごわとした藁の感触と、埃っぽい独特の匂いが伝わってくる。別の寝床からは、フィンと同じように身を横たえた男が大いびきをかいて眠りこけていた。
隣の酒場からは、酔っぱらいの怒声が聞こえてくる。
「……俺達は騙されたんだ!こんな所に来るべきじゃなかった!」
女の引きつった笑い声に搔き消された悲痛な叫びを、疲れ切った頭は咀嚼する事を拒否していた。決して静かではなく、快適でもない夜。
だが、それでも良かった。雨風を凌げる屋根があり、獣に怯えなくても良い壁がある。それだけで涙が出てくるほどだった。フィンはゆっくりと瞼を伏せる。安堵と眠気が全身に広がると共に、あの日の光景がぼんやりと蘇ってきた。
村の入り口。痩せた骨ばった手で、母さんがなけなしの銅貨が入った革袋を握らせてくれた。
「フィン……ちゃんと食べるんだよ。あんたは働きすぎるから」
しわがれた声。涙で濡れた頬。反対を叫ぶ父の背中。あの時の母の温もりと革袋のずしりとした重みが、今も手の中に残っているかのようだ。あれが、自分が稼いで返さなければならない最初の借金だった。働けど働けど豊かにはならず、更には数年前から続く冷害が、故郷での生活を切迫させていた。
次男坊だったフィンに残された道は二つ。あのまま村に残り、食うにも困る中で一生を労働に費やすか。僅かな可能性に賭けて最果ての地を目指すか。
この選択は、逃避ではない筈だ。いや、逃避ではなかったと証明しなければ────。
隣室から壁を揺らす程の物音が響き、フィンは弾かれたように身を起こした。心臓が激しく脈打ち、肌にじっとりと冷たい汗が滲む。意識よりも早く、右手は腰のナイフの柄を掴んでいた。
……違う。ここはラストゲイトだ。森の中じゃない。自分に言い聞かせ、荒い息を整える。闇の森が刻み込んだ恐怖は、これほどまで深く体に染みついている。
闇の森。そこは、人が生きる場所ではなかった。昼でもなお暗い鬱蒼と茂った木々、湿った腐葉土の匂い。常にどこかから、獣の低い唸り声や、枝の折れる音が聞こえていた。食料は三日で尽き、木の実と湧き水だけで命を繋いだ。夜は木の下に身を潜め、震えながら朝を待つ。一度だけ見てしまった、森の奥を歩く異形の影。あの時、茂みに隠れて息を殺していなければ、今頃自分は────。
フィンは懐から一枚の羊皮紙を取り出す。冒険者ギルドで受け取った、『薬草採取依頼』の依頼書だ。報酬は銀貨一枚。母がくれた路銀を思えば、あまりに情けない額だった。
しかし、この依頼書は、確かにこのラストゲイトで手に入れた最初の“仕事”だった。闇の森を抜けた末に、ようやく見えた一筋の光が、これだった。
夜が明けたら、再びあの森へ向かう。今度は逃げる為ではなく、生きる為に。
その決意だけを胸に、フィンは泥のように深い眠りへと、自ら意識を手放した。